1話
「じゃあ美南、またね~」
「はいはい」
お迎えに来た彼氏と腕を組んで睦まじげに去ってゆく一香を、倦怠感満載で見送ったわたしは、吐息をグラスに残ったアルコールと共に流し込んだ。
全く、1ヶ月ぶりに会った友人をほんの30分で置き去りにするんだから、恋の力は偉大というか、女の友情は軽いというか。
「あっさりしたもんだな」
待ち合わせから終了まで、一部始終を眺めていたマスターがカウンターの中で苦笑交じりに呟く。
見上げれば長めの前髪から覗いた瞳が面白そうに歪んで、わたしの答えをじっと待っていた。
店に入った時から思ってたけど、なんか雰囲気のある男よね。30半ばくらいかしら。イケメンって訳じゃないけれど、目をひくって言うか色気があるって言うか。
おかげでわたしみたいに経験の浅い女じゃ相手にもならないだろうって本能でわかるから、警戒心もなく話ができていいけれど。
「…ま、男は次に会う時変わってるでしょうから。長い友情に比べて短い恋だからと、納得することにします」
嘘はつけないので、正直に答えておいた。ちらりと一香の名誉って言葉が脳裏を掠めたけど、次に来るかどうかもわからない店のマスターにそこまで気を回す必要も無いだろう。
どうせ、もう帰るし。
「ふぅん、長い友情に、短い恋、ねぇ」
だけど、腰を浮かしかけたわたしを、その笑いを含んだ声が引き止める。
なんていうか、神経に障ったのよ。…バカにされたみたいに、ね。
少し強い視線で見やると、タバコを銜えた彼はこっちなんか気にした風でもなく、マッチを擦ってフウッと紫煙を吹き上げた。
「短くない恋だって、あるだろ」
宙空に視線を据えたまま、でもマスターの声はどこか挑発的にわたしを煽る。
「ないんじゃない?」
投げ槍に答えながら、なんとなく今帰っちゃ負ける気がして、お尻はもう一度スツールへ。
「そりゃ、実体験?」
「知らないわ」
「知らないって…まさか、片思いの経験しかないのか?」
あっちを向いてた顔がゆっくりわたしに戻ってきた。眇めた瞳が、じっと言葉の真意を探ってる。
昏く、深い、漆黒の目が、嘘は吐かせないって見つめてる。
それが居心地悪くて、わたしはつっと横を向くと、ばつの悪い告白をするみたいに小さく首を振った。
「…誰かを好きになったことなんて、ない。恋なんて、しない」
「なんで」
「なんでもっ」
間髪入れない問いについむきになって返事をして、すぐに子供みたいだなって気付いて頬が熱くなった。
適当に受け流したらよかったのに、いつもそうできていたのに。
適度に入ったアルコールのせいか、ままならない自分の感情を持て余して唇を噛む、そんなわたしに気付いているのかどうか、考え込む仕草でタバコを深く吸い込んだマスターはぽつりと呟いた。
「…あんた、いくつ?」
どんな脈絡があるのか。
訳はわからなかったけど、変わった話題にほっとして流されるように答えていた。
「はたち」
「ふーん…まぁ、いいか」
一瞬髪に隠れたマスターの眉根が寄って、直ぐにひょいっと跳ね上がる。
それを見逃さなかったわたしはきっとあんまり愉快じゃない理由なんだろうと予想して、身構えた。
何、言う気なんだろうって。どうも今日は調子が狂うというか、お酒の回りが早いというか、この人の前でバカなことやっちゃう確率高そうだから、気をつけなきゃならない。
そう、思ってたはずなのに。
「オレに恋しろ」
「はぁ?!」
明日は晴れだ、みたいな軽いノリで命じられて、思わず素っ頓狂な声が出る。
「何、言ってるの」
で、悔しいことにわたしは、そんなバカな言葉に何故か動揺して、鋭い切り返しもできず通り一遍の反論をして。
目の端でその姿を捉えたらしいマスターは、にやりと人の悪い笑みで口元を染めると、ずいっとカウンターに乗り出してわたしに顔を近づけた。
仄かに香る、ミントの正体はなんなのか。
「大丈夫、ちゃんと相手にしてやる。ガキだろってあしらったりしないから安心しな」
明らかな揶揄に、反射的に繰り出した平手は、あっさり男に捕らえられ。
「っ!!」
噛み付くみたいに奪われた唇は強引で、舌からは痺れるようなタバコの味と、微かにミントの香りがした。