湯気と秋刀魚と青いシャツ
湯気と秋刀魚と青いシャツ
胸のあたりが、ずっと頼りなく波打っている。
夕暮れの商店街に足を踏み入れたときから、胃の奥がきゅっと縮こまるような、恥ずかしくも心細い感覚が消えない。
十月も半ばを過ぎ、風は思いのほか冷たい。薄手の生成りのカーディガンでは、少し心許なかった。
総菜屋から流れる揚げ油の匂い。どこかの勝手口から漂う、煮魚の甘辛い醤油の香り。
誰もが帰るべき温かな台所を持っているように思える夕暮れだった。
私は冷えた指先を袖の中に隠し、商店街の奥へと歩いていく。
赤提灯に灯がともったばかりの店の前で、少しためらう。
それから、引き戸を開けた。
がらりという音とともに、出汁の香りが顔を包む。ぬる燗の甘い蒸気が混じった店内の空気に触れると、それだけで頬の強張りがほどけていく。
「いらっしゃい」
厨房から声がかかる。
小さく会釈をして、いつものカウンターの隅へ向かおうとした。
そのとき、二つ隣の席に見慣れた背中を見つけた。
胸の奥で、ことりと何かが鳴る。
深い藍色のシャツ。
少しくたびれた襟元。
背筋をすっきりと伸ばして座るセンセイの前には、半分ほど空になった徳利と、白磁の小さな盃がある。
節くれだった指は、爪の先まできれいに整えられていた。
その指が盃を持ち上げるのを見ているだけで、なぜか私まで酒が欲しくなる。
「ツキコさん」
センセイは振り向かずに言った。
「こんばんは、センセイ」
「冷えてきましたね、今夜は」
「ええ。急に寒くなって、びっくりしました」
「そんな薄着をしているからですよ。若いからといって、油断はいけません」
「若くなんかありませんよ。もう三十をいくつも過ぎているんですから」
「私から見れば、充分に青二才です」
センセイが目を細める。
目尻の皺に、裸電球の光が柔らかな影を落としていた。
その皺を見るたび、私はセンセイの知らない年月を思う。
私のいなかった時間。
私が決して入り込めない、長い長い時間。
羨ましいのか、切ないのか、自分でもよく分からない。
「ぬる燗で一本、お願いします」
店主に声をかけると、センセイが満足そうに頷いた。
「秋刀魚を焼きましょうか」
店主の言葉に、センセイが先に応じる。
「それがいい。ツキコさん、秋刀魚を焼きなさい。今夜のものは塩をきつめに当ててあるそうだ」
「じゃあ、私もそれを」
運ばれてきた徳利に手を添える。
陶器の温もりが、冷えた手のひらに染み込んでくる。
盃へ酒を注ぐと、とくとくと澄んだ音がした。
一口含む。
米の旨みが舌に広がり、熱が喉を滑り落ちる。
ようやく、自分の身体に戻ってきたような気がした。
「今日はお仕事でしたか」
「はい。月末の処理で、一日じゅう数字ばかり追いかけていました。目が痛くて」
「数字は嘘をつきませんからね。誠実ですが、付き合いすぎると疲れるものです」
「言葉のほうが、まだ逃げ道がある気がします」
「言葉も嘘をつきますよ」
センセイは盃を置いた。
「特に、心と言葉がすれ違うときは、随分と厄介な悪さをします」
私は返事ができなかった。
センセイの前では、胸の奥にしまい込んだものまで見透かされそうになる。
みっともない未練も、寂しさも。
この人の隣に座れるだけで嬉しいくせに、それだけでは足りないと思ってしまう自分の浅ましさも。
見透かされるのは怖い。
けれど、何も知らないままでいてほしいとも思う。
厨房から、脂の弾ける音が聞こえてきた。
やがて、細長い皿に乗った秋刀魚が運ばれてくる。
青黒い皮には香ばしい焼き色がつき、ところどころの割れ目から白い湯気が立っていた。
澄んだ脂が、身の表面で小さく光っている。
傍らには、すだちと大根おろし。
「見事な焼き加減だ」
センセイが感心したように言う。
「本当に。美味しそう」
すだちを絞ると、青い香りが湯気に混じった。
箸を入れる。
ぱり、と薄い皮が破れ、白い身が現れる。
大根おろしに醤油をひとたらしして、一緒に口へ運んだ。
香ばしい皮。
熱い脂の甘み。
すだちの酸味。
私は思わず目を閉じた。
「どうですか、ツキコさん」
「美味しいです。生き返るみたい」
「それは重畳だ」
センセイは嬉しそうに笑った。
「秋の魚は、少しの寂しさを連れてくるからいい。寒くなる前の、最後の賑やかさのような味がします」
「センセイは、何を食べても詩人みたいですね」
「ただの食いしん坊ですよ。年寄りの贅沢です」
センセイは器用に秋刀魚の骨を外していく。
箸先に迷いがない。
古い書物の頁を一枚ずつめくるような、静かな手つきだった。
私は自分の皿に目を落とす。
骨も皮も無造作に散らばっている。
少し恥ずかしくなって、センセイの真似をしながら箸を動かした。
「センセイ、そのシャツ、いい色ですね」
ふと口にした言葉だった。
藍色の綿のシャツは、この古い店の木の壁によく似合っている。
「これですか」
センセイは自分の胸元を見下ろした。
「もう十年も着ていますよ」
そして、何でもないことのように続ける。
「妻が生きていた頃に選んでくれたものです。生地がしっかりしているから、ちっとも破れない」
妻。
その一言で、胸の奥が冷えた。
センセイの奥様が亡くなって、もう何年もたつことは知っている。
それでも、センセイの日常には今も奥様がいる。
選んだシャツ。
使い慣れた食器。
きっと、家の中にも。
私の知らない場所に、奥様の選んだものがいくつも残っているのだろう。
十年たっても破れないシャツ。
十年たっても、そこにある人の気配。
私はセンセイの隣に座っている。
けれど、この青いシャツを選んだ人にはなれない。
そんな当たり前のことが、急に苦しくなった。
「丈夫なんですね」
ようやく、それだけ言った。
「ええ。昔のものは、よくできています」
センセイは穏やかに答え、また秋刀魚に箸を伸ばした。
私は皿の端に残っていた腹のワタをつまむ。
黒く柔らかな部分を口に入れると、強い苦みが舌に広がった。
磯の匂いが鼻に抜ける。
そのまま酒を流し込む。
苦みは消えず、かえって喉の奥に残った。
「ツキコさん、ワタがお好きですか」
センセイがこちらを見ていた。
「はい。苦いところが好きです」
「大人ですね。私は子どもの頃、あれがどうしても食べられなかった」
センセイは自分の皿を見下ろす。
「今は、その苦みこそが一番のご馳走だと分かりますがね」
「大人のふりをしているだけです」
思ったより尖った声が出た。
私は慌てて盃に目を落とす。
「ふりでも何でもいいのですよ」
センセイの声は変わらず穏やかだった。
「この世の美味いものも、美しいものも、大抵は少しの苦みを含んでいるものですから」
そんなふうに言われると、困る。
センセイは何も知らない。
私がなぜ秋刀魚の苦いところを食べたのか。
なぜ、急に酒を飲み干したのか。
なぜ、あの青いシャツを褒めたことを後悔しているのか。
何も知らずに、優しい言葉をくれる。
だから私は、ますますこの人を好きになってしまう。
外で自転車のベルが鳴った。
ちりん、という音が遠ざかる。
引き戸のガラスの向こうは、すっかり暗い。
店内には秋刀魚の脂の匂いが残り、厨房から新しい出汁の香りが漂ってくる。
センセイのシャツは、裸電球の下でいっそう深い藍色に見えた。
私はその色を見つめる。
奥様が選んだ色。
センセイが十年も着続けている色。
そして、今夜からは私にとっても、忘れられない色になるのだろう。
「センセイ」
「なんですか、ツキコさん」
「もう一本、お酒を頼んでもいいですか」
「ええ、もちろん。今夜は付き合いましょう」
センセイが盃を掲げる。
私も自分の盃を持ち上げた。
かちん、と陶器の触れ合う音がする。
小さな音だった。
けれど、今夜の私には、それだけで充分だった。
胸の波立ちは、いつの間にか静まっている。
寂しさが消えたわけではない。
青いシャツを選んだ人への嫉妬も、言えない恋心も、まだ胸の中にある。
それでも、センセイは今、私の隣にいる。
秋刀魚の苦みを知っていて、酒の温かさを知っていて、私がもう一本飲みたいと言えば、付き合ってくれる。
私は盃に口をつけた。
酒は少し冷めていた。
それでも、温かかった。
明日になれば、またいつもの日々が始まる。
センセイの青いシャツは、きっと明日も奥様の選んだシャツのままだ。
それでいい。
今夜はまだ、秋刀魚の匂いがする。
そして私は、この人の隣で、もう少しだけ酒を飲める。




