扉の向こう側。
「はぁ……やっと帰れる……勇太、お腹空かしているだろうなぁ……」
スマホの時計を見ると、時刻はすでに二十二時を回っていた。
「まぁ、これも勇太と結婚するためだし、仕方ないよね。歳上の私が頑張らないと……それにいい土地も見つけたし!」
ヨレたスーツに身を包み、化粧は落ちかけている。
片手にはスーパーの袋。
袋から飛び出ている長ネギの頭が、仕事脳から主婦脳へと切り替えてくれる。
彼氏の勇太と付き合って三年。
同棲を始めて、もう一年になる。
「早いなぁ……」
ぽつりと呟きながら、夜道を歩く。
街中の灯りが多いからか、夜空を見上げても星はほとんど見えない。
まるで今の自分の心情を物語っているようだ。
「部署が違うだけで、こんなに仕事量が変わるものかな……」
総務から、まさかの営業部への異動。
「花形とか言われるけど……実際はただの地獄よね。」
全く違う部署への異動に、慣れるまで時間がかかっていた。
資料が見にくいと怒られ、営業に失敗すれば怒られる。
そして――
『こんなおばさんより莉里香ちゃんのような可愛い子だったらよかったのにな。そしたら頑張れるのにさぁ~……』
と毎回顔を見てため息をつかれる始末。
「おばさんって、三十三歳なんだけどね。あんた達の方がよっぽどおじさんじゃない。ハゲてるし。」
職場での出来事を思い出しては、かき消すように頭を振った。
「やめやめ。あいつらの事考えるだけで損よね。」
マンションの前に着くと、カバンの中をガサガサと漁る。
築三十年の、オートロックすら付いていない四階建てのマンション。
四階建てのおかげか、エレベーターは付いていない。
「さっ、頑張って階段上りますか」
袋を持ち直し、今日あった嫌なことを踏みつけるように、一段一段登っていく。
正直、仕事帰りに階段を上るのは辛かった。
それでも、私には夢があったのだ。
「これも……庭付き一戸建てのため!!」
庭付きの広い一戸建てで、大型犬を飼うこと。
「あと少し……」
階段を上ると、つい独り言を言いたくなる。
きっと私だけじゃないはずだ。
乳酸のたまった足を持ち上げる。
そして、やっと私たちの住む三階にたどり着いた。
フラフラと家の前まで行き、手に持った鍵を差し込もうとした、その時――
『ねぇ……そろそろおばさん帰ってくるんじゃなぁぁぁい?大丈夫ぅぅ??』
私は思わず足を止めた。
(……今の声……)
聞き間違いじゃない。
それは会社で毎日のように聞いている女の声だった。
『あぁ、あいつのことだしどうせ遅くなるだろ?それよりも……二人の時間を楽しもうぜ!!』
『きゃっ……勇太ったらぁ……ふふふ……』
扉の向こうから聞こえてくる言葉を、私はすぐに理解することができないでいた。
「いや……一旦落ち着こう。夢でも見ているのかもしれないし……」
仕事で疲れた脳を必死に動かしながら、目の前から聞こえてくる断片的な言葉に耳を澄ます。
だが――
扉の向こうから聞こえてくる、布の擦れる音。
ベッドの軋む音。
二人の甘い声。
どう聞いても夢ではなかった。
「いつからだ……」
仕事で忙しかったとはいえ、自分のことで精一杯だった私は、二人の関係に気づいていなかった。
その事実が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいく。
「どうして……?」
「よりにもよってあの女と……?」
頭の中で同じ言葉だけが、ぐるぐると回り続ける。
中に入って、話を聞こうと頭ではわかっていても、
身体はまるで石にでもなったかのように動かなかった。
そして――
中に入ることもせず、呆然と空を眺めているうちに、三十分が過ぎていた。
情事を終えたのか、部屋の中の物音が止んだ。
その途端、やけに自分の息遣いだけが大きく聞こえた。
「このままじゃ……ダメよね。」
私は静かになった部屋の前で、深く息を吸った。
不思議と涙は出なかった。
代わりと言ってはなんだが、胸の奥が冷たくなっていくのを感じる。
そして、中の二人に気づかれないように、ゆっくりと取っ手を回した。
***
「ねぇ、勇太ぁ、あのおばさんとはいつ別れてくれるのぉ?」
「もう少し待ってくれ……そしたら大金が入る予定なんだよ。」
「えっ大金……?」
「あぁ……あいつ家が欲しいって言っててさ、相当な金額貯めてるんだよな。もうすぐ頭金も払えそうだって言ってたし、ローンの審査も通ったって喜んでたんだぜ。」
「えっ、何それぇ……おばさん結婚する前から家買うって言ってるのぉ~?まじキモいんですけどぉぉ~。」
「だろぉ?結婚したら俺のものになるし、だからすぐには別れられないんだよ。」
「えっ……!?もしかして勇太それ目当てなの?」
「それ以外何があるんだよ。あんなおばさん……顔も見たくねぇわ。」
部屋越しに聞こえてくる会話に、一瞬、頭の中が真っ白になった。
それでも二人の会話は止まることを知らない。
「あのおばさんがいなくなってくれて、総務の皆も喜んでたしね。まぁ、仕事片付けてくれる人いなくなったのは痛いけどぉ……」
「だろ?あんな陰鬱なおばさんいるだけで気が滅入るって。それに比べて莉里香は愛嬌あるし、柔らかいし最高だよ。」
(会社での急な異動……こいつらのせいだったのね……)
次から次へと出てくる私への愚痴に、ギュッと手を握りしめた。
二人の話を聞いているうちに、一周まわって頭の中は妙に冷静になっていくのがわかる。
「ここで怒ったら負けよね。」
二人に聞こえないように小さく呟くと、部屋の扉をゆっくりと開けた。
こんにちは。ゆずこしょうです!
新作開始しました。
初回は5話更新となります♪
明日以降は8:10,21:10更新予定です。
どうぞよろしくお願いいたします✨




