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敵国の辺境伯が、私を返さない

作者: 百鬼清風

 国境では隣国との紛争が続いているというのに、この国では貴族達のきらびやかな社交での付き合いが続いている。

 侯爵家の娘ならば、そこに参加するのが当たり前。

 私は、それにうまく順応出来なかった。

 美しく着飾り言葉巧みに溶け込む姉達と違い、引っ込み思案の私は家の者から役立たずと見られていた。


 名前を呼ばれる回数が少ないことに、疑問を抱かなくなったのはいつからだっただろうかと、馬車に揺られながら考えていたが、答えが出る前に思考が途切れるのはいつものことで、考える必要がないことほど早く手放す癖が、知らないうちに身についていたのだと気づいてしまい、胸の奥に重たいものが沈んだまま動かなくなった。


「アーデルハイト、荷の確認は済んでいるか」


 父の声は、確認ではなく指示に近い響きを帯びており、問いに答える余地があるように見せながら、すでに結論が決まっている種類のものだと理解しているから、私がうなずく以外の選択肢は最初から存在していなかった。


「はい、済んでおります」


 短く答えた声が、思ったよりも掠れていなかったことに、わずかな安堵を覚えたが、それを誰かに気づかれることもなく、父はそれ以上こちらを見ることなく、次の指示を従者へ飛ばしていた。


 侯爵家の三女として生まれたが、その肩書きを実感したことはほとんどなく、応接間では姉たちの背後に立ち、視線の高さを合わせる必要もなく、ただ呼ばれるまで待つ位置が自然に決まっていたのだと、今になって振り返ることができる。


「お前は、紛争相手の国への使節団に同行する」


 そう告げられたとき、驚きがなかった理由を説明できるほど、心は整理されていなかったが、選ばれたのではなく余ったからだと理解するのに時間はかからず、その理解が当たり前すぎて、胸が痛むという感覚すら起きなかった。

 これは、やっかい払いだ。


「心得ております」


 そう答えた自分の声は、役割を受け取ることに慣れきった響きをしていたのだろうと、後になってから思うが、その場では正解を言えたという感覚だけが残り、それ以上の感情を抱く余地がなかった。



 出立の朝、屋敷の廊下はいつも通りで、特別な見送りの準備があるわけでもなく、姉たちの部屋から笑い声が漏れてくることもなく、ただ普段と同じ音がしているだけなのに、今日が違う日だという事実だけが、胸の内側で不釣り合いに大きく膨らんでいた。


「向こうでは、余計なことをするな」


 母の言葉は注意というより念押しで、期待されていない者に向けられる典型的なそれだったが、役に立たないよりは、役に立たないままでいるほうが安全だと理解していたから、反論も戸惑いも浮かばなかった。


「ご心配には及びません」


 そう答えた瞬間、胸の奥で小さな声が囁いたが、その声を拾い上げることはせず、拾い上げたところで何も変わらないと知っている自分が、そこに確かに存在していた。


 馬車に乗り込む直前、屋敷を振り返ることはなかったが、振り返らなかった理由が未練なのか、それとも確認する必要がないからなのか、自分でも分からないまま、扉は閉じられた。



 国境へ向かう道中、同行する使節団の者たちは、必要な言葉だけを交わし、それ以上踏み込むことはなく、名前を呼ばれることもなければ、役割を与えられることもなく、その距離感が妙に懐かしく感じられた。


「何かあれば、指示を待て」


 そう言われたとき、胸の奥が少しだけ軽くなったのは、待つことだけは上手くなったという自覚があったからで、何もしなければ叱られず、何も期待されなければ失望もされないという理屈を、感情としてではなく生存の知恵として身につけてきた結果だった。


 国境を越えた瞬間、空気が変わったことは、誰に説明されなくても分かったが、その変化が歓迎によるものではないことも、視線の温度で即座に理解できてしまうあたり、ここまでの人生が無駄ではなかったと、皮肉にも思えてしまった。


「……あちらへ」


 案内の言葉は短く、名前を呼ばれることはなく、視線も合わされないまま進む道は、屋敷の廊下とよく似ていて、違うのは足元が石畳に変わっただけだと感じた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。



 会議の場と呼ばれる部屋に通されたとき、座る位置が端であることに違和感はなく、むしろ納得が先に立ったが、話が進むにつれて、視線が一箇所に集まっていく流れだけは、見覚えがありすぎて、無意識に指先が強張った。


「その点については、同行している令嬢の責任と聞いております」


 誰かの言葉が落ちた瞬間、周囲の視線が一斉にこちらへ向けられ、その集まり方が偶然ではないと理解するのに、時間は必要なかった。


「説明を」


 求められているのは説明ではなく、納得できる誰かの犠牲であることが分かっていたから、反論の言葉を探すことはしなかったし、探したところで、それが届かないことも知っていた。


「……そう聞いております」


 声が出なかったのではなく、出す意味を見失っていただけで、その感覚があまりにも自然で、胸の奥に小さな諦めが積み重なっていくのを止める術がなかった。


 ここでも同じ立場なのだと理解した瞬間、出立の朝まで捨てきれなかった期待が、ようやく形を失い、その代わりに残ったのは、期待していた自分への苦い感情だけだった。



「その流れは、おかしい。責任を取るなら、派兵している侯爵家の御子息だろう」


 割って入った声は低く、強いが荒れてはいなくて、その場の空気を一変させる力を持っていたが、こちらへ向けられたものではないことが、声の向きで分かった。


「責任の所在が歪んでいる。停戦中の貴国の攻撃が、侯爵令嬢の指示だとでも?」


 国境の紛争地帯で指揮を執る敵国の辺境伯と紹介された男は、私を見ていなかったし、見ようともしていなかったが、その視線が向いていないことが、なぜか救いのように感じられた。


「この件を、その位置にいる者へ押し付ける理由が見当たらない」


「責任につきましては、我が国で調べが済んでおります。確かに、この者が当主の知らない間に兵に指示を」


「馬鹿を言うな。国境に侯爵家の令嬢がいたはずがなかろう」


 淡々とした指摘が重ねられるたび、こちらへ向けられていた視線が散っていき、責められる役割が消えていく感覚だけが、現実として残った。


 助けられたという実感は湧かなかったが、助けられなかったという結末を回避した事実だけが、胸の奥で不思議な重みを持っていた。



 会議の後、辺境伯の領地で預かると告げられたとき、混乱が先に立ち、理解が追いつかなかったが、役に立たなければ捨てられるという恐怖だけは、遅れて確実に追いかけてきた。


「何も心配はいらない」


 そう辺境伯に言われても、その言葉が何を指しているのか分からず、分からないままうなずいた自分が、ここまで生きてきたやり方そのものだった。


 馬車が動き出し、城の輪郭が遠ざかっていく中で、戻る場所があるのかどうかよりも、ここに置かれた理由が分からないことのほうが、ずっと怖かった。



 辺境伯の領地へ向かう馬車の中で、何度も同じ考えが巡っては消えていき、そのたびに胸の奥がざわついたまま落ち着かず、理由の分からない扱いを受け取ることに慣れていない自分が、こんなにも不安定になるのだと知ってしまった。


「疲れているなら、横になって構わない」


 向かいに座るオズヴァルト辺境伯は、淡々とそう告げただけで、それ以上の説明を加えようとはせず、その距離感が優しさなのか放置なのか判断できないまま、うなずくしかなかった。


「いえ、大丈夫です」


 そう答えた声が少しだけ強張っていたことを、自分では気づいていたが、それを訂正する言葉を探す必要があるのか分からず、結局はそのまま視線を落とした。


 疲れていないわけではなかったが、横になる理由を見つけられないまま時間が過ぎていく感覚は、侯爵家で過ごしてきた日々とよく似ていて、役割を与えられない状態に置かれることが、これほど落ち着かないものだとは、ここへ来て初めて思い知らされた。



 屋敷に到着したとき、出迎えの者たちは必要な礼を尽くしながらも、過剰な関心を向けてくることはなく、その距離の取り方が不思議と心に引っかかった。


「こちらが、しばらく使ってもらう部屋だ」


 案内された部屋は広く、過不足のない調度が整えられていて、客として扱われていることは明らかだったが、その事実が胸を軽くするどころか、逆に居心地の悪さを強めていた。


「何かあれば、使用人に伝えるといい」


 そう言われた瞬間、胸の奥で小さく何かが弾け、反射的に言葉が口をついて出た。


「私に、何か役目はありますか」


 問いかけた声は、思っていたよりも切実な響きを帯びていたらしく、言ってしまった後で、どうしてそんなことを聞いたのかと自分でも戸惑った。


「役目、とは」


 オズヴァルトは即座に否定も肯定もせず、その問いをそのまま返してきたが、その返し方が責めるものではなかったため、胸の奥に溜まっていた言葉が、止めどなく溢れそうになるのを必死で抑えた。


「何もせずにいると、ご迷惑になるのではと」


 口にした瞬間、それがどれほど自分本位な恐怖から来ているのか理解してしまい、視線を上げられなくなった。

 侯爵家では、無能と言われ、何かに役立ちたいといつも使用人の手伝いをしていた。

 そうしていなければ、いつも不安なのだ。


「迷惑にはならない」


 短い返答だったが、その断定の仕方には揺らぎがなく、こちらの様子を探るような間も含まれていなかった。


「ここでは、何もしなくていい」


 その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥がきつく締めつけられ、安堵ではなく別の感情が込み上げてくるのを、どう処理すればいいのか分からなくなった。

 ここでは、私は本当に何も出来ない者になってしまった。

 ただの籠の鳥、いや鳥の様に上手く鳴く事も出来ない。



 部屋に一人残された後、しばらくの間、動けずに立ち尽くしていたが、それは緊張からではなく、次に何をすればいいのか分からなかったからで、何もする必要がないと言われた状況に、どう振る舞えばいいのか教わった記憶が無いことを、改めて突きつけられた気がした。


 椅子に腰を下ろしても落ち着かず、窓の外を眺めても時間が進んでいる実感がなく、役割を失ったまま置かれている感覚が、じわじわと心を侵食していく。


「このままではいけない」


 そう思った理由は明確で、役に立たなければ不要になるという考えが、理屈ではなく身体の反応として染みついていることを、否定できなかったからだ。


 部屋を出ようと扉に手をかけたところで、使用人に止められた。


「必要なものがあれば、お持ちいたしますので」


 その言葉は丁寧で、こちらを軽んじている様子もなかったが、同時に、勝手に動くことを想定していないという事実が含まれていて、胸の奥がひどく落ち着かなくなった。


「仕事を探していただけなのです」


 そう告げると、使用人は一瞬だけ困った表情を浮かべた後、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。


「その必要はないと、辺境伯様から言付かっております」


 その返答を聞いた瞬間、胸の内側で何かが軋む音がして、言葉にならない感情が喉元までせり上がってきた。



 夕食の席で再び顔を合わせたオズヴァルトに、我慢しきれず問いかけてしまったのは、自分でも予想外だった。


「私が、ここにいる理由を教えていただけますか」


 問いかけた声は震えていたが、取り繕う余裕はなく、答えを求めるというより、答えがないままでは耐えられないという感情が、そのまま形になっていた。


「理由が必要か」


 そう返された問いに、即答できなかった自分が、何を恐れているのかは分かっていた。


「必要です」


 そう言い切ったのは、役に立つ理由がなければ、ここにいられないと信じ込んでいる自分を、どうにかしたかったからだ。


「理由がなくても、置くと決めた」


 オズヴァルトの言葉は簡潔で、飾りも説明もなく、その断定が、かえって理解を拒むものだった。


「それでは、私は何者にもなれません」


 思わずこぼれた言葉は、弱音というより、長い間抱え続けてきた恐怖そのものだった。


「何者かになる必要はない」


 即座に返されたその言葉に、胸の奥が痛んだ。


 何者にもならなくていいという考え方を、受け取る準備が、まだ整っていなかった。



 その夜、部屋で一人になっても、心は落ち着かず、何度も部屋を出ようとしては止められ、そのたびに胸が締めつけられる感覚が強くなっていった。


 何もしなくていいと言われることが、こんなにも苦しいとは知らなかった。


 役割を探して彷徨う気持ちと、ここに置かれている事実との間で揺れ動きながら、眠れないまま夜が更けていく。


 それでも、追い出されていないという事実だけが、微かな支えとして残っていた。



 辺境伯領で迎えた朝は、時間の流れ方がこれまでと違って感じられ、目を覚ました瞬間に身体を起こす理由が見つからないまま、天蓋の内側を見上げている時間が長く続き、役割が無いという状態が、こんなにも自分の動きを奪うものなのかと、改めて思い知らされた。


「起きているか」


 扉越しに掛けられた声に、反射的に返事をしそうになり、その直前で言葉を選び直したのは、返事をすること自体が役目だと思い込んでいる自分に気づいてしまったからで、その気づきが胸の奥を小さく刺した。


「はい、起きております」


 そう答えると、扉が開き、オズヴァルトが顔を覗かせたが、その視線に探る色がないことが、どうにも落ち着かず、迎え入れるべきなのか、立ち上がるべきなのか判断できないまま、身体が固まった。


「今日は、客が来る」


 告げられた言葉に、胸の奥が即座に反応し、役目を探す感情が一気に浮かび上がった。


「何か、お手伝いできることはありますか」


 問いかけた声には、昨日よりも切迫した響きが混じっていたが、その変化を指摘されることはなく、オズヴァルトは短く首を振った。


「必要ない」


 その否定が即断であったことに、胸の内側がざわつき、役に立ちたいという思いと、立たせてもらえない現実がぶつかり合い、感情の置き場を失った。



 客として訪れたのは、祖国から派遣された使者だった。

 よく見知った、近くの領地を治める貴族だ。

 その事実を知った瞬間、心臓が大きく脈打ち、身体の内側で何かが跳ね上がる感覚が走ったが、それが期待なのか恐怖なのか判別できないまま、足元が頼りなく感じられた。


「アーデルハイト様、お久しゅうございます」


 名前を呼ばれたこと自体が久しぶりで、その響きに一瞬だけ意識を奪われたが、続く視線の温度が、懐かしさではなく確認であることを、すぐに理解してしまった。


「ご無事そうで、何よりです」


 その言葉の裏に含まれた意味を、説明されるまでもなく察してしまうあたり、自分はどこへ行っても同じ役目を与えられるのだと、胸の奥で冷たいものが広がった。


「こちらで、何か問題は起きておりませんか」


 問いかけは丁寧だったが、探っているのは私の状態ではなく、扱いやすさであることが分かり、無意識に背筋が伸びた。


「特には」


 そう答えた声が、思ったよりも平坦だったことに驚きつつ、それ以上を語る選択肢が自分にないことも、同時に理解していた。



 会話が進むにつれて、使者の言葉は次第に形を変え、直接的ではないが、はっきりとした方向を持ち始めた。


「長くお預けする形になっておりますが、そろそろお戻りいただく準備も」


 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥が一気に冷え、空気が薄くなったような感覚に襲われたが、表情を変えるわけにはいかず、うなずくことすらできないまま、言葉を待った。


「本国では、役割を再度ご用意することも可能かと。実は、御当主の商売相手の他国の侯爵家へのご縁が」


 役割、という単語が耳に入った途端、身体が勝手に反応し、指先が震えそうになるのを必死で抑えた。


 戻れば、また役割がある。

 役割があれば、存在を許される。


 そう考えてしまう自分と、戻りたくないという感情が、激しく衝突し、どちらが本音なのか分からなくなった。



「返すつもりはない」


 その場に割って入ったオズヴァルトの声は、低く、揺らぎがなく、こちらを見ることなく発せられたが、その断定が場の流れを一気に変えた。


「預かっているのではない」


 続く言葉に、使者の表情がわずかに硬くなるのが見え、その変化を目にした瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


「こちらに置いている」


 その違いが意味するものを、理解するまでに少し時間がかかったが、理解した瞬間、息の仕方を忘れそうになった。


「しかし、それでは」


「理由も無く置いていき、必要になったら戻せと言われても応じる気は無い」


 オズヴァルトの言葉は短く、遮るようでもあり、確定させるようでもあり、その場で交渉が成立しないことを、誰の目にも分からせる力を持っていた。



 使者が引いた後、部屋に残された空気は重く、先ほどまでの会話が、現実だったのかどうか確かめる術もなく、胸の奥で感情が暴れているのを、どうにも抑えられなかった。


「戻らなくて、いいのですか」


 問いかけた声は、震えていたが、恐怖よりも確認の色が強く、答えを聞かなければ前に進めない状態に追い込まれていることを、自覚していた。


「戻す理由がない」


 返ってきた答えは変わらず簡潔で、その一貫性が、逆に理解を拒む。


「役に立っていないのに」


 思わず口をついた言葉は、長い間、自分を縛り続けてきた価値観そのもので、それを口に出した瞬間、喉の奥が熱くなった。


「役に立つかどうかは、判断基準ではない。そなたは、いるだけで責任をはたしている。戻っても、碌な扱いを受けないのは分かっている」


 その言葉を受け取るには、まだ時間が足りなかったが、否定されなかったことだけが、確かな事実として胸に残った。



 その夜、部屋に戻っても眠気は訪れず、役割を失う恐怖と、失わずに済んだ現実との間で揺れ続けながら、胸の奥に小さな違和感が芽生えていることに気づいた。


 選ばれなかった役目よりも、選ばれた場所のほうが、重く、動かしがたい事実として存在している。


 その事実を、まだ受け止めきれないまま、夜は更けていった。



 辺境伯の領地で過ごす日々は、時間の輪郭が曖昧で、朝が来たと分かっていても起き上がる理由を見つけられないまま、寝台の上で天井を見つめる癖がつき、それが楽だからではなく、次にすべき行動を判断できないからだと理解している分だけ、胸の奥がひどく重くなった。


「今日は、庭に出ても構わない。というか、何故部屋にばかりいる?案内はつけたはずだが」


 朝食の席で告げられたその言葉に、反射的に背筋が伸びたが、許可を与えられたという事実に安堵するより先に、庭に出て何をすればいいのか分からないという困惑が押し寄せ、返事が遅れたことを自覚した瞬間、慌てて言葉を探した。


「ありがとうございます」


 そう答えながら、感謝すべき内容なのかどうか判断できていない自分に気づき、礼を言うことだけが身体に染みついているのだと、改めて思い知らされる。


「無理に出る必要はないが、部屋にばかりいると体を壊す」


 オズヴァルトの言葉は変わらず簡潔で、こちらの様子を量るような間を含まず、その即断が、逆に心を追い詰めてくる。



 庭はよく手入れされており、花の名前を知らなくても美しさは分かるはずなのに、足を踏み入れた瞬間、胸の奥が落ち着かず、歩く速度をどうすればいいのかさえ迷ってしまい、立ち止まる理由を探して視線を彷徨わせた。


「こちらへどうぞ」


 案内人に声を掛けられ、言われるまま歩いたが、その後に続く指示がないことに、再び身体の動きが止まりそうになり、何か役目を与えられるのを待つ癖が、こんなにも深く根付いているのだと痛感した。


「お茶をお持ちしましょうか」


 その申し出に、胸の奥が反応し、反射的に首を振りそうになったが、それではここにいる意味がなくなるような気がして、言葉を選び直す。


「……はい、お願いします」


 頼むという行為が、役割を得たような錯覚を与えてくれることに、わずかな安定を覚えた自分がいて、その事実が、同時に自分の弱さを突きつけてきた。



 午後になっても、特別な予定はなく、部屋に戻ることも、庭に留まることも自由だと言われ、その自由が選択肢ではなく空白として存在していることに、息苦しさを覚えた。


「何か、お手伝いできることは」


 気づけば、使用人に向かって同じ言葉を繰り返しており、そのたびに困ったような、しかし拒むこともできない表情を向けられるのが、胸に刺さる。


「辺境伯様から、その必要はないと。侯爵家の御令嬢にしていただくような事は、元よりありません。退屈ならば、どこへでもお連れいたします。必要なものがあれば、何でも用意せよと言付かっております」


 その言葉を聞くたび、胸の内側で何かが削れていく感覚があり、何もしなくていいと言われ続けることが、少しずつ自分を壊していくのを止められなかった。



 夕刻、オズヴァルトと顔を合わせた瞬間、堪えていた感情が、思いがけず言葉になって溢れた。


「このままでは、私が何もできない人間になってしまいます」


 告げた声は震えていたが、弱音を吐くつもりはなく、事実を伝えたつもりだった。


「すでに、何も出来る。好きなようにすごせばよい」


 返ってきた言葉は否定でも肯定でもなく、私の訴えと噛み合っていないようで、そのズレが、かえって苦しさを増した。


「役割がないと、ここにいる意味が分かりません」


 そう続けた瞬間、胸の奥で張りつめていたものが軋み、視線を上げることができなくなった。


「意味を持たせる必要はない。家にいるようにはいかないかもしれないが、貴族の令嬢として恥じない暮らしはさせるつもりだ」


 その答えは、これまで何度も聞かされてきたものと同じで、それが理解できない自分が悪いのだと思い始めた瞬間、喉の奥がひどく痛んだ。



 夜、部屋に戻ってからも落ち着かず、何度も扉に手を伸ばしては止められ、そのたびに胸が締めつけられる感覚が強くなり、ここに置かれている事実と、自分が役に立っていないという感覚の間で、心が引き裂かれそうになる。


「このままでは、捨てられる」


 そう思ってしまう自分を否定できず、否定できないからこそ、恐怖が現実味を帯びて迫ってくる。


 役に立たなければ不要になる。

 不要になれば、返される。


 その連なりが、頭の中で何度も繰り返され、呼吸が浅くなるのを止められなかった。



 深夜、扉を叩く音がして、反射的に身体が跳ねた。


「入る」


 短い声と共に、オズヴァルトが部屋に入ってきた。


「夜分に失礼する。人前では言いにくい悩みを抱えているのではと思ってない」


 それは問いではなく断定で、否定する理由も見つからず、うなずくしかなかった。


「何もしなくていいと言われることが、こんなにも苦しいとは思いませんでした」


 口にした瞬間、涙が滲みそうになり、慌てて視線を逸らしたが、それを隠す余裕もなくなっていた。


「役割がないと、自分がここにいていいのか分からなくなるのです」


 言葉にしてしまったことで、胸の奥に溜め込んでいた恐怖が、一気に表に出てきた。


「ここにいる」


 オズヴァルトの声は低く、揺らぎがなく、その断定が、感情ではなく事実として置かれた。


「それだけで、十分だ。少なくとも、私の役に立っている」


 その言葉を受け止めきれないまま、胸の奥で何かが崩れ、代わりに、今まで感じたことのない種類の疲労が、全身に広がっていく。


 理解できない。

 だが、否定もされていない。


 その二つが胸の中でぶつかり合い、どちらも崩れないまま残り続け、逃げ場のない場所に立たされているような感覚だけが、身体の内側を占めていった。


 役割がない。

 それでも、ここにいる。


 その矛盾を抱えたまま、どう振る舞えばいいのか分からず、問いを投げる先も見つからないまま、布団の中で指先を強く握りしめた。


 捨てられてはいない。

 だが、安心できる理由も与えられていない。


 その事実が、次に何が起きるのか分からない恐怖として、はっきりと形を持ち始めていた。



 知らせは、朝の途中で届いた。


「本国より、文が到着しております」


 その一言を聞いた瞬間、胸の奥が強く跳ね、立ち上がろうとした脚に力が入らず、椅子の縁を掴む形で身体を支えるしかなかった。


「……私宛、ですね」


 確認する声が、思っていた以上に硬く響き、平静を装う余裕が残っていないことを、言葉にする前から悟ってしまった。


「はい」


 短い肯定だったが、それだけで十分だった。

 戻れと言われるかもしれない。

 役割がある場所へ戻されるかもしれない。

 その可能性が現実として形を持った瞬間、胸の奥で別の感情が暴れ始めた。



 文面は淡々としていた。

 情はなく、配慮もなく、ただ事実として書かれている。


「当家の娘を長く留め置いている件について」


 留め置いている。

 一時的。

 預かりもの。


 ここにいる日々が、そう扱われていることに、喉の奥が詰まる感覚を覚えた。


「停戦中の攻撃の責任があるのは別の者と分かった。速やかな返還を求める」


 そこまで読んだところで、紙を持つ指に力が入らなくなり、文が揺れた。

 戻りたいと思っていない。

 それだけは、はっきりしている。

 それでも、戻される可能性が現れた瞬間、息が浅くなり、胸が締めつけられた。


 役に立つ場所へ戻される。

 役割を与えられる場所へ戻される。

 それが安全だと、身体が覚えてしまっている。



 文を差し出すと、オズヴァルトは内容を一読し、視線を上げることなく告げた。


「返さない」


 即断だった。

 迷いも、間も、含まれていない。


「……返還を、求められています」


 それでも確認してしまったのは、拒まれる覚悟ではなく、理由が必要だと思い込んでいる癖が、まだ抜けていなかったからだ。


「関係ない。また濡れ衣を着せられた者が送られてくるだけだ」


 短い返答だったが、その言葉で線が引かれたことだけは、はっきりと分かった。


「役に立っていないのに」


 その言葉が口をついた瞬間、胸の奥が痛んだ。

 戻りたいわけではない。

 ただ、役に立たなければ排除されるという感覚が、理屈ではなく反射として残っている。


「何度も言うが、それは問題にならない。私が必要だと言っている」


 否定でも説得でもなかった。

 判断だった。



「……怖いのです」


 それ以上、言葉を飾る必要はなかった。


「戻されることが、ではありません」


 続けた声は震えていたが、逃げるための言い訳ではなかった。


「役立たずと思われる事が」


 役割があるかどうか。

 役に立つかどうか。

 自分は何の存在価値も無いと思う事が怖かった。


「返還の話は終わりだ」


 オズヴァルトは、文を畳み、机に置いた。


「お前は一生、ここにいる。私の側にいるだけでよい」


 それだけを告げられた。


 理由は与えられない。

 条件も示されない。

 代わりに、撤回されない決定だけが残った。


 返されない。

 それが事実として確定した瞬間、胸の奥で張りつめていたものが大きく揺れ、支えにしていた考え方が崩れ始めた。



 役に立たなくても、返されない。

 理由がなくても、ここにいる。


 その状態に、どう向き合えばいいのか分からないまま、言葉を失った。


 逃げ場が消えたのではない。

 逃げる必要のない場所に、立たされただけだった。



 朝、目を覚ました瞬間、最初に浮かんだのは、ここがどこかという確認だったが、天井の模様と、窓から差し込む光の色を見た途端、それが不要な作業だと分かってしまい、胸の奥で小さく息を吐いた。


 戻されていない。


 その事実を、誰かに告げられたわけでもなく、紙に書かれているわけでもないのに、身体が先に理解してしまっている感覚があり、そのことに戸惑いながら、寝台から身を起こした。


「お目覚めでございますか」


 使用人の声が掛かり、反射的に背筋を伸ばしかけてから、その必要がないことを思い出し、動きが中途半端なまま止まった。


「はい」


 短く答えた声は、思っていたよりも落ち着いていて、その事実に自分が一番驚いていた。



 朝食の席で、いつもと同じように食器が並び、いつもと同じように料理が供される。

 特別な変化は何一つない。

 だが、昨日までとは、明らかに違う感覚があった。


「本日は、どうなさいますか」


 そう問われた瞬間、言葉が詰まり、何か答えなければならないという反射が身体を支配したが、次に何をすべきかを考える前に、考えなくていいという選択肢があることに気づき、戸惑いが胸に広がった。


「……特に、決まっておりません」


 そう答えると、使用人は困った様子を見せることもなく、ただ一礼して引いた。


 予定が無い。

 それでも、咎められない。


 その事実が、じわじわと身体に染み込んでくる。



「庭を歩いても構わない」


 オズヴァルトのその一言に、条件や付随する役目が続くのではないかと身構えたが、それ以上の言葉はなく、視線もこちらを探ることはなかった。


「ありがとうございます」


 礼を言う声に、以前のような切迫感が含まれていないことを、自分で理解してしまい、その変化をどう受け止めればいいのか分からず、足取りが少しだけ遅くなった。


 庭に出ても、何かを期待されるわけではない。

 眺めていようが、歩いていようが、戻ろうが、誰も記録しない。


 それが許されているのだと理解した瞬間、胸の奥で何かが緩んだ。



 昼過ぎ、部屋に戻る途中で、使用人とすれ違った。


「何か、ご用はございますか」


 その問いに、反射的に首を振りかけてから、用が無いことを、そのまま口にしていいのだと気づく。


「いえ、特には」


 そう答えても、表情は変わらず、視線も逸らされず、気まずさも生まれない。


 用がなくても、ここにいる。

 それを説明する必要がない。



 夕刻、オズヴァルトと顔を合わせたとき、昨日まで胸に引っかかっていた恐怖が、少し形を変えていることに気づいた。


「今日は、何もしていないのですが」


 それは確認でも抗議でもなく、事実を並べただけの言葉だった。


「私は、立場上、そなたにふさわしい立場を与える事は出来ない。だが、そばにいてほしいと思っている。どうしても嫌ならば去るがよい」


 返ってきたのは、それだけだった。


 責められない。

 評価もされない。

 だが、扱いは変わらない。


「いえ、家にいるより楽にすごせておりますので」


 私は、そう答えた。


「私にもっと力があればよいのだが、今はこれだけしか言えない。正式な結婚は出来ないが、私の妻として扱いたい。いつか必ず正式なものにする」


 オズヴァルト辺境伯は、そうはっきり言った。


「お断りする理由はございません」


 私は、生まれて初めて自分で選択した。

 ここにやってきて、初めて役目を与えられた。


 この人は、最初から何も変わらない。

 その均一さが、今まで知らなかった種類の安心として、胸に残る。



 夜、部屋に戻り、椅子に腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。


 役に立たなかった一日。

 何も成していない一日。


 それでも、扉を叩かれない。

 返される話も出ない。


 それが続いているという事実だけが、言葉にならない重みを持っていた。



「ここにいていいのだろうか」


 その問いが浮かんだ瞬間、すぐに別の考えが続いた。


 ここにいる、と私と彼が決めたのだ。



完。

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