酒場の主
カラン。
出入り口につけた安っぽい鐘が鳴った。
朝、宿泊客が捌けて昼食時にはまだ早い時間。
入ってきた二人以外に客はいない。
一人は外套を着ているだけだが、もう一人は顔を隠すようにフードを目深に被り、左目に眼帯をつけていた。
「もうやっているか?」
顔を顕にしている方が店主に訊ねた。
「あぁ。久しぶり……でもないか」
客の内の一人に目をやった店主はそう声を掛ける。
客商売をしている以上顔を覚えるのは得意だろうが、一度しか会ったことがないのにしっかり覚えていることに客は内心で驚く。
平凡な顔立ちで初見では中々覚えて貰えないのと、前回来た際とは服装もガラリと変えているからだ。
客の動揺など気づいていない店主は、カウンターの内側で朝ご飯に使用した食器類を洗っていた手を止めて二人に確認する。
「悪いな、この時間は酒は出していないんだ。ホットミルクでもいいか?」
二人組は黙って頷く。
洗い立ての小鍋でミルクを温めながら、店主は客の一人に話しかける。
「明るい時間に来るとは思わなかったな。それも王子サマ連れで」
ギョッとしたのは、フードを被っていない方の男――グウェンだ。反対に顔を隠している方の男――レオナルドは動じることなくニヤリと笑った。
「気付いていたのか。……わざわざ顔を隠さなくても良かったな」
自分が覚えられているだけではなく正体までもわかっていたのか、と慌てるグウェンを横目に見ながらレオナルドはフードを脱ぎ、眼帯を外す。
その仕草一つとっても庶民には真似が出来ない優雅さがある。店主は露わになったレオナルドの顔を見ると、ミルクが入ったコップを置きながらヒューと口笛を鳴らした。
「噂には聞いていたが、こりゃー男前だな。ルナウスの化身と呼ばれるだけある」
「ありがとう。見た目だけだとしても賛辞は嬉しいものだ」
「顔を隠して来て正解だ。こんな男前がこの辺を歩いていたら、無事に帰れるとは限らない。なんせここの人間は男に飢えている」
「買いかぶりすぎだ。俺よりも身分を持った人間が出入りしているんだ。狙うならそちらだろう」
サラリと店主をいなしたレオナルドは目の前に置かれたミルクを啜る。
「レオナルド様!」
「大丈夫だ。味見などしなくてもこの者は俺に害を及ぼさないさ」
毒見も終わっていないのに、と怒気を強めるグウェンを軽くあしらうと、レオナルドは店主に「な?」と問いかける。
笑みで答えた店主は、ダンヒルと名乗った。
「聞きたいのはリックのことだろう?」
事前にグウェンから下町ではセドリックは「リック」と呼ばれていると聞いていたレオナルドは頷いた。
「ダンヒル、面倒なやり取りは無しだ。単刀直入に聞こう。エレナはリックの妹か?」
「そうだ」
間を置くことなく肯定するダンヒルにレオナルドは頭を押さえる。
「推測通りだな」
レオナルドは心の中ではこの予想が外れることを願っていたのだ。
でないと。
「アンタ、エレナといい仲なんだろ?リックがよろしくと言っていたぞ」
追い打ちをかけるようなダンヒルの言葉に、レオナルドは深々とため息をついた。
このままエレナを口説き落とせたとしたら、レオナルドはめでたくセドリックと義兄弟ということになる。
「国としては願ってもいないことですけどね」
ポツリと呟いたグウェンを睨みつけるレオナルド。
確かに同盟を結んだばかりのアタナス帝国の王子とルトニア国の皇女が結婚すれば関係が強固になる。
それ以前にもレオナルドを月神――ルナウスの化身だといい、神話をなぞるように聖女エレナと結ばれることを願っている信仰の深いルトニア人は大勢いるのだ。
エレナが聖女というだけでなく、皇女だと知ったら間違いなくレオナルドとくっつけようとするだろう。
誰にも話していないが、レオナルドは正妻を娶る気はない。
望んでいなくとも、自分に子が生まれたら跡目争いの火種になりかねないからだ。
アタナス帝国では、庶民出の妻を娶ることはできるが、正妻につくことは出来ないし、子どもも私生児扱いになる。
最初は彼女の能力狙いであったし――今でこそ気持ちが傾いているのは本音であるが――庶民だと安心してアタックしていたフシもある。
エレナが皇女であると、すこぶる都合が悪いのだ。
そこまで考えたレオナルドは、一旦先のことは忘れることにした。
エレナのことは気になるが、レオナルドがわざわざここに足を運んだ理由は今後の策略に必要な情報なのだ。
肌感覚でわかる。ルトニア国が新しく生まれ変わるか、それとも前王の亡霊に支配されてしまうのかの最終局面を向かえている。
ルトニアの今後の方針によってアタナス帝国も国策を練らなければならないのだ。
セドリックを推しているレオナルドとて一つたりとも打つ手は間違えられない。
レオナルドはため息と共に、エレナに関する懸念材料は全て吐き出すと、顔を上げた。
それだけで一気に空気が変わる。
「ダンヒル、知っていることを話してもらおうか」
アタナス帝国第二王子の顔になったレオナルドは、柔らかいが有無を言わせぬ口調でダンヒルに命じたのだった。