矛盾
※
エレナの目覚めは最悪だった。
(なぜ、今更……)
寝間着は汗でぐっしょり濡れている。
エレナは寝床を抜け出し、着替えを持って廊下を歩き始めた。
外はもうすぐ夜明けというところか。うっすら色づき始めた空を見ながら建物の奥にある浴場に向かった。
冷たい水を頭から浴びながら、先程の夢の残像を追い出す。
納得していたはずだ。夢になど今まで出てこなかったのに。
今になって初めて明確な殺意を持って楔を打った時のことを鮮明に思い出すとは。
(昨夜、レオに楔を打たなかったから……あんな夢を見たのかしら)
エレナは口元に皮肉な笑みを浮かべた。
前王の時は、打たない選択肢もあったのに楔を打ち、レオナルドの時は嘘をついてまで打てという命に逆らう。
矛盾している。
それでも、エレナはどうしてもレオナルドに楔を打てなかったのだ。
あれだけ殺したいと、ボーワを見殺しにした前王を許せないと思っていたのに、実際に前王が崩御したと知らせが来たときに襲ってきたのは後悔だったのだ。
エレナはその時の自分の感情を未だに明確に説明できない。
人体実験と称して多くの者に楔を打ってきた。彼らが亡くなったと知らせを受けてもそんな感情に苛まれなかったのに。
むしろ前王を憎んでいた。
不意なことで知ってしまった出生の秘密と、ボーワを見殺しにした恨みは、とてつもなく強いものであった。
ボーワを襲ったアタナス兵に対してもここまでの憎しみを抱いていないのに。
にも関わらず、心の奥底ではエレナは自分の意志で前王を殺めた事実に苦しんでもいた。
聖女として――数は限りなく少ないが――救えなかった命もある。
大司教の命で治療できる人間に楔を打って見殺しにしたこともある。
どちらも悲しかった。
前者は聖女としての至らなさを実感し、後者では授かった能力を恨みもした。
だが、苦しみはしなかった。
それは、エレナのせいではなかったから。
そのことに気づいたエレナはブルリと身震いする。
両手で肩を抱くが、身体の芯が冷えているのだろう、震えが止まらなくなった。
冷たい水を被っているからだけではない。
自分の利己的な考えに震えが止まらないのだ。
聖女と期待され自分の能力にある種の誇りと自信すら持っていたのに。
他責思考で人に言われるまま力を使っていたエレナは、憎いと思っていた前王や前王太子、大司教と同じ穴のムジナだ。
強大な力を持っているからこそ、自らを律しないといけないのに。
気の赴くまま、力を振るう。
(何が……聖女だ。前王と、前王太子と何が違う……!)
エレナは世間知らずだったのだ。
人生の半分以上の歳月、この国はずっと戦い続けていたから。
勝ちはしないけれど負けもしない。そう漠然と生きていたのだ。首都の大教会で、聖女として守られて。
それなりに嫌なことはあった。
高い能力を持っているからこそ受ける、妬み嫉み。
孤児だと侮られ、大司教の命で人体実験を打ったり。
この命がある限り、教会に、ルナウスに全てを捧げるつもりだった。
身寄りがないエレナには、それしか生きる道がなかったのだから。
だからセドリックが現れたとき、新しい道が開けたのだ。
漠然と思っていた国に対しての不安や不信が、彼により言語化され、それを正義だと勘違いした。
この国を変えたいと思った心に嘘はない。
長引く戦争を、増える戦死者を、怪我人を、孤児を無くしたいと願っていた。
裏切り者の汚名を着ても、自らも命の危険に晒される最前線に派遣されても、この国を救いたいと思っていた。
それが、天から能力を授かった自分の努めと、天命だと信じていた。
それが出来ると、自分なら出来ると思っていた。
ただの思い上がりにしか過ぎないのに。
現実はエレナの予想とは違いすぎた。
マルーンに来て人の生死を目の当たりにして。
不条理に命を失う兵士を、理不尽に故郷を捨てなければならない庶民を間近で見て。
少々力が強いからといって、できる事など他の者と大差ない。
自ら戦いに行くことも出来ず、ただ外傷を治すしかできない。
彼らが受けた心の傷は――いくらエレナやユークが心を砕いても――治しきれるものではなかった。
自分の限界を目の前に突きつけられたエレナがマルーンに留まった理由はただ一つしかない。
セドリックが、彼が王になりさえすれば全てが変わると思っていたから。
なのに。
(なぜ、セドリック様は……再び楔を……)
一度だけという約束だったのに。
再び楔を打てという非情な連絡すら、見張りの者を介してであった。
彼は、嘘はつかない。
皮肉な笑みを浮かべ、物事を――良く言えば俯瞰的に見ていた。
前の王や王太子にはない着眼点を持っているセドリックなら変えられると思っていた。
だからついてきたのだ。
その王が亡くなり、それと前後して王太子は突然血を吐いて斃れた。
彼が即位する道筋は、整った。
セドリックが作り上げる新しい国。
エレナは彼に語っていたのだ。
聖女の力を庶民に使いたい、と。
本来であれば上流階級が独占している聖女。
表向きには、大教会に申請し、承認されれば庶民にも聖なる力を受けられることにはなっているが。
庶民が聖女の癒やしを求めたとしても、人手不足を理由にまず許可されない。
そんなことはありえないのに。
聖女の数が少ないとはいえ、庶民への治療に手が回らないほど人手不足ではない。
現にエレナは戦時特例でマルーンに派遣されているのだから。
聖女の力を独占しておきたい上流貴族と大教会の思惑で、庶民からの治療の申請をほぼ承認していないのだ。
全く承認しないのは問題があるため、いくつかは許可しているが、全申請の数パーセントといったところだ。
その現状を、エレナは変えたかったのだ。
セドリックも理解していたはずだ。
「俺が王になった暁には、庶民へ聖女の力を開放しよう」
と言っていたではないか。
エレナも彼に誓ったのだ。
楔もう打たなくていいと、庶民への聖女の力の使用できる環境を整えてくれるなら、今後もセドリックのために力を振るうことを。
元々庶民だから、間近で見ることは出来ないだろうけれど、今まで通り影ながらセドリックを支える一人になりますと、忠誠を誓った。
だから、エレナが裏切り者の汚名を被り大教会から破門になった際も納得していたのだ。
大教会の考えとは相容れないものだとわかっていたから。
セドリックは知っているから。エレナが裏切らないことを。
(なのに……)
エレナはすっかりわからなくなっていた。
セドリックの考えが。
あれだけ意思疎通をして同じ方向性を向いていたのに。
――今の彼は、前王と変わらないのではないか。
頭によぎった不穏な考えに、鳥肌が立つ。
冷たい水を浴びているからだけではない。
今考えたことが、当たらずとも遠からずだと直感したからだ。
薄々は感じていたのだ。
王というものは、結局は自己中心的な考えを持っているものなのだと。
コマでしかない取り巻きをその気にさせて、自分の思うようにコントロールしていく。
同じ方向性を向いている時はいい。
だが、方向性がズレてきたら?
楔を打ての命一つで、エレナの心の奥底にあった小さな懸念は、隠しきれないほど大きなものになった。
いや、きっかけはそれだけではない。
そもそも、セドリックがレオナルドを「殺せ」と命じた時からエレナは彼に不信感を持っていたのだ。
レオナルドを殺すことに大義はない。
同盟を結んだばかりのアタナス帝国の王子を殺害するなど、新たな火種を生むだけだ。
何重にも策略を張り巡らせているセドリックのことだ、何か意図があってのことだろうと誤魔化していた。
一度疑いを持ってしまったエレナは、セドリックを今までのように無条件に信じることができなくなっていた。
冷静になればおかしいことに気づけたはずだ。
セドリックは重要な命を下す際は人を介さず指示をする。
レオナルドに楔を打て、という指示をするなら、休戦宣言をしにマルーンに訪れた際に一緒に伝えるはずだ。
エレナは普段のセドリックらしからぬ指示になぜ、と疑問に思うことができなかった。
自分でも気づかないほどに心が疲弊していたのだ。
いくら奇跡の力を持った聖女と崇められても、エレナは若干十八歳の若者でしか過ぎないのだ。
一年半もマルーンに滞在し、第一線で戦いを見つめて来た。
ボーワ村が滅んだ時、幸いなことにエレナは難を逃れていて戦いの現場を知らない。
マルーンで初めて目の当たりにする理不尽な現状に、知らず知らずのうちに心が蝕まれていたのだ。
それでも戦争中は気を張っていて保っていた緊張の糸。
それが表向きは平和になり、ぷっつり切れていたのに。
セドリックから改めて下された人を殺める指令は、マルーンで必死に人の命を――それこそ敵味方関係なく――救ってきたエレナにとって、既に受け入れがたいものになっていたのだった。
心の内を誰かに――ユーク医師にでも――吐き出せていれば、また違ったのだろうが、聖女としての矜持が許さなかった。
あくまで聖女としての姿勢を崩さないエレナの心にスルリと入ってきたのが、レオナルドだったのだ。
かつてセドリックに言われた「聖女が欲しい」と同じ言葉を伝えてきたレオナルド。
まだセドリックと繋がっていた時は一笑に付せたのに。
アタナス帝国と休戦を結んだのに、新しく火種を燃やすセドリックに不信が募るのと比例してレオナルドの存在感は高まっていた。
通常なら無碍にあしらうことができるレオナルドの熱い想いを受け入れてしまうくらいには、心を許してしまっていた。
平常心ではあり得ないことだ。つい先日まで敵対していたのに、今は聖女の努めを投げ出して彼に縋りつきたいとすら思っているのだから。
ただただ冷たい水を浴びながらエレナは嗚咽するのだった。
※
エレナは知らなかった。
一度突き放したのも、エレナの心にレオナルドが入り込む余地を与えたのも全てセドリックの作戦のうちだと。
休戦協定を結びにマルーンに行った際に、セドリックは敢えてエレナにレオナルドにアピールしていることを口にした。
と、同時にレオナルドの好意が――表面上だとわかっていたが――エレナに向いていることを「都合がいい」と伝えることで、エレナに彼を受け入れることが正しいかのように操ったのだ。
その上で命じた。「レオナルドを殺せ」と。
エレナがレオナルドの好意を受け入れるのは、この王命を果たすための手段の一つだと思わせるように。
エレナの性格も把握した上でのセドリックの策略は、今のところ彼が思い描いていたように進んでいた。
エレナが王命と自分の感情に板挟みになって苦しむことも含めて、まだセドリックの予想の範囲内であるのだ。
一つの誤算以外は。
「俺は楔を打てとは言っていないはずだが」
報告に来た見張りの者は、セドリックに聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、くくっと笑う。
やけに癇に障る声にセドリックは顔をしかめた。
「任務を確実に遂行するためには必要だと思いましたので。それともエレナに楔を打たせたくなかったのですか?」
「約束したからな」
「約束!」
見張りの男は、今度は隠す様子もなく笑う。
「一国の王とただの庶民のエレナとの約束が成立するとでも?」
「……ああ」
「ありえませんな!」
肯定するセドリックの言葉を間髪入れず否定するこの者はどの立場から物を言っているのか。
流石に苛立ちを隠せなくなったセドリックに、見張りの者は一瞬で頭が冷える言葉を投げかける。
「エレナが王の血縁者であれば別ですが、そうではないでしょう?前王を亡き者にし、あなたを王座に就かせたのは我々は皆、率先して汚れ役を引き受ける覚悟です。エレナとて例外ではない。そうでしょう?」
見張りの者の高説にセドリックはポーカーフェイスに戻り、呆れてうんざりする心を隠した。
(俺とエレナの関係を知っているぞ、と匂わせてどうなるというのか。弱みでも握ったつもりか)
セドリックの取り巻きの大半は、前王に引き立てられなかったはみ出しものの寄せ集めの集団だ。
純粋に前王に不満があって革命を起こしたいと願っていたものはほんの一部。
セドリックのほうが前王より御しやすいと思われているに過ぎない。
この者も含めて。
「お前はいつから王になった?」
ヒヤリとしたセドリックの言葉に見張りの者は言い過ぎていることに気付いたようだ。
「俺が命じていないことを指示するということは、お前のほうが立場が上だ、と。そういうことだな?」
言葉だけで人を殺せそうな冷たい声色に、慌てて見張りの者は平服する。
「い、いえ。……そういうつもりでは」
「なら、余計なことをするな。お前に命じているのは、エレナの見張り、逐次報告をすることだ他の人間の指示で動くのは勝手だが、その者の命を優先する。ということはそいつは王である俺よりも権力を持っているということだな?」
「し、失礼しますっ!」
セドリックに圧をかけられた見張りは、一目散にその場を逃げ出すかの如く退出していく。
彼の後ろについている人物の目星は既についている。
失脚したファン=マリオン卿が糸を引いている。
表向きにはデュモン公爵家が画策していると見せかけて。
デュモン公爵家は先代に引き立てられていたファン=マリオン家と対を成すほどの古い貴族だ。
しかし文官を多く排出している家柄のため、常時戦争をしているルトニア国の要職には長い間ついておらず、閑職に追いやられていた家でもある。
だから第二王子であるセドリックに擦り寄ってきていたのだ。
まだセドリックが王座につくまでは問題なかった。
所詮文官の家柄だ。腹では良からぬことを考えていたとしても、強引に物事を進める胆力はなかったのだから。
王座についたセドリックは功績を称え、デュモン公爵家にもそれなりの地位を与えたつもりだ。
だが、家柄が下のドゥシー伯爵家を重役に付かせたり、何の後ろ盾もないホレスを大司教の任につかせたのがよほど業腹だったようだ。
裏で敵対視していたマリオン家と手を結び、セドリックを殺害し、皇女であるエレナを傀儡の王に仕立て上げようとしているのだ。
だから中央から引き離し、迂闊に手を出せないレオナルドに預けたのだ。
彼を殺せ、と命じたのは大義名分が必要であったから。
性格的にエレナが彼を殺せるとは思えないし、よしんば殺害出来たとしたら、アタナス帝国の王子の実力はその程度だったと切り捨てるまで。
また戦争になるかもしれないが、その時はその時である。
今は、ルトニア国に巣食っている古狸たちのほうがよっぽど問題である。
(敵の敵は、味方か)
セドリックは皮肉な笑みを浮かべる。
結局は誰が王になろうとも、虎視眈々と権力を握ろうと躍起になる者は現れるのだ。
その者たちを上手く使い、また閑職に追いやった者たちの不満が募り、反乱を起こさないように御していく手腕がセドリックに求められている。
先のことを思うと頭が痛くなる。だが権力を握り、様々な思惑を持った者をコントロールすることは、想像していたよりもセドリックを愉しませてくれてもいた。
その一端を帝国の若き第二王子が担ってくれている。
知らない内にセドリックの口に笑みが浮かぶ。
予想通り、いや予想以上にセドリックの描いた道の上を走ってくれるレオナルドの存在。
最初は想定に入れてはいなかったが、今となっては彼がいなくてはセドリックの策略は成り立たなくなっていた。
ルトニア国の新王は誰もいなくなった王の間で、空に向かって呟いたのだった。
「さて、と……。そろそろレオナルドは気付くかな」
次の取る一手。それにはレオナルドの活躍が鍵になる。
数日後に予定している会談のため、レオナルドは首都ヒースに向かっているだろう。
自分と同じ立場であるレオナルドは、考え方も物事を俯瞰して見るときのポイントも非常に似通っていた。
明確に告げたわけではないのにセドリックの策略を予想し、同じような考えで動いてくれる。
唯一の違いは、セドリックが捨てた情を後生大事に持っている男だという点。
王座につくには非情にならないといけないと切り捨てたセドリックとは正反対だ。
その青臭い部分を羨ましいと思う感情は、今のセドリックには既にない。
セドリックがレオナルドに期待しているのは。
「早くエレナの出生の秘密に気付け。そして、ボーワに……」
その先の言葉は小さすぎて自分の耳にも呟いた声は届かなかった。