回想
エレナはレオナルドが帰っていった診察室で脱力するように床に座り込んでいた。
彼が去った直後、どこからか現れた見張りの者。
「楔は打ったか?」
問いかけに、エレナは初めて嘘の報告を上げた。
「ええ。……どうか王にお伝え下さい」
満足そうに笑ったか思うと、見張りの者の気配が瞬く間に消える。
それを確認するなり、エレナはへたへたと床に崩れ落ちたのだった。
ユーク医師には伝えなかった。
レオナルドの身体を調べる際に、細胞がエラーを起こすように聖女の力を注ぎ込む。
それがエレナに託された任務であることを。
聖女の力を癒やしではなく、殺しに使う。
隠語で「楔」と呼んでいた。
とは言っても、実際に楔ができる聖女がいるのかどうかは半分眉唾のようなもの。
全ての聖女が使えるわけではないし、長いルトニアの歴史書の中で記載があるのも数行だけだ。
そのため、王族でもその存在が現実にいるかどうかは把握していなかった。
今まで大教会の上層部が今まで徹底的に秘匿してきたからだ。
エレナが楔を打てるのをセドリックが知られたのは偶然に偶然が重なってのこと。
その時のことをエレナは思い出していた。
※
エレナが十五歳になろうとしている頃だった。
その日は、雪が降るつもる寒い日であった。
一年前、楔を打った者が体調を崩したと情報を得て大司教と共に町の小さな診療所を訪れた時だった。
中年――四十歳半ばの患者は感謝していた。
教会のトップの大司教と聖女の中でトップの力を持つエレナ自ら見舞いに来たのだ。
患者としては感涙ものだろう。
実際、その患者は涙を流しながら礼を述べた。
「ありがとうございます。聖女様に治療していただいただけでも奇跡的なのに、大司教様、聖女様御自ら見舞いに来ていただけるなんて」
もう寝たきりだと聞いていたのに、患者はベッドの上で無理に体を起こそうとする。
大司教はそれを押し留め、詫びを口にする。
「こちらこそ申し訳ありません。聖女が治療したのにも関わらず……」
「いえ、医師に聞きました。エレナ様に治療していただいた肺病は完治しているんです。今度は肝の臓が病むなんてついていない」
困ったように頭をかく患者を前にエレナは顔を上げられない。
「気にしないでください、聖女様。あなたのお力は一度しか使えないと事前に聞いていましたし。……それに本来なら一年前に落としていた命です。逆にいうと一年永らえただけで俺は幸せです」
笑う患者の顔に耐えきれず、エレナは病室から飛び出した。
懺悔室がここにあれば。
エレナは人通りがいない診療所の裏に座り込む。とめどなく涙がこぼれ落ちる。
一年前、治療した時に肝臓に楔を打ち込んだのはエレナ自身。
本来なら助かっていた患者を殺したのはエレナだ。
今までも大司教の命で何人かの人間に楔を打ち込んできたが、それはもういつ命を落としてもおかしくない老人だった。
それに、見舞いにも行ったことがない。だから実感がなかったのだ。自分のした行為に。
だけど、今は。
「こんな力なんかっ!」
自分の手を診療所の壁に打ちつける。何度も何度も、罰を与えるように。
「止めなさい」
いつの間にか後ろに立っていた大司教に、エレナは初めて口答えした。
「大司教様っ! もう私はこの力を使いたくありません! 人を救うのならいざ知らず、楔で人の命を奪うなんて!」
「黙りなさい」
静かだが威圧した声にエレナは言葉が出ない。
「エレナの力は大教会のものだ。使う使わないは、大教会……いや、私が決める。拒否権はない」
「……でもっ」
怖い。そう思いながらもエレナは食い下がるが次の大司教のセリフに何も言えなくなる。
「戦争孤児の君を今まで育てたのは誰だ?」
黙りこくったエレナに大司教は追い討ちをかける。
「聖女の肩書は私のさじ加減でいつでも変えられる。君は沢山の命を救っているのは事実だ。なぁに、今日の患者とて本来なら一年前に亡くなっていた。実際患者も感謝していただろう」
「……私はこの力を、人を救うことのみに使いたいのです。楔を打つのではなく……」
なおも自分の気持ちを伝えるエレナに、大司教の顔が変わる。
今まで笑顔を崩さなかった大司教の顔が崩れ、醜悪に歪んだ。
「思い上がるなよ」
地の底を這うような声だ。エレナは初めて見る大司教の顔に震え上がる。
「お前は大教会のものだ。本来なら閉じ込めて楔だけ打ち続けてもいいのだ。それを私の配慮で治療の方を多くさせてやってるのだ」
「は……はい……申し訳ありません」
怯えながらもエレナは大司教に謝る。下げた頭の上から大司教の声が降ってくる。
「次に口答えしてみろ。もう二度と日の当たる場所を歩けると思うなよ」
ザッザッと雪を踏みしめる音がして大司教が去っていく。
後を追わねば、と思うのに足が凍りついたように動かない。
焦る。焦ったところで体は動かない。
ますます気が急くエレナの首にフワッとした布が掛けられる。
「落ち着け」
背中から声がかけられる。低いがどっしりした声。
何故かその声に安心したエレナから体の力が抜ける。と、張り付いていた足が動いた。
「あ、ありがとうございます」
振り向き礼を述べたエレナは、声の主が意外と若い男だったことに驚いた。
自分より少し上くらい。なのに既に貫禄を感じさせる声だ。
「えっ……と」
エレナは雰囲気に飲まれつつも、確認しないといけないことがある。
「聞いていましたか?」
「ああ、最初から全て」
意を決して訊ねたエレナに、男はあっさりと返答した。
青くなるエレナに男――セドリックは逆にエレナに質問した。
「いいのか?」
「え?」
「追いかけなくて」
「わっ……」
踵を返すエレナに、セドリックは告げる。
「明後日、ここにこれるか?」
指定されたのはこの診療所からさほど外れていない安宿だ。
一階は町のものが集まる食堂になっている。
今日の患者の見舞いに行くといえば来れなくはない。エレナは聖女として定期的に町の病院や診療所を慰問として訪れているからだ。
大教会から聖女の力を庶民に使うことは禁じられてはいるが、トップレベルの能力者であるエレナが患者の前に立つことで人々は安心するのだ。
たとえそれが基本的な医療の心得を持ったものと同等の治療しかできないとしても、人々は一度でも聖女エレナの癒やしを受けたいと望むのだ。
外出するのは問題がない。だけど。
「何故でしょうか?」
「感心しないな。誰が聞いているかわからないところで楔の話をするなど」
エレナに緊張が走る。やっぱり聞いていたのか、と。
それよりも、この男は楔のことを知っている。
限られた者しか知らないはずなのに。
大司教は先に行ってしまった。どう判断をすればいいのか。
エレナが逡巡していると、男はエレナの耳元で囁く。
自分はこの国の第二王子、セドリック・フィリベール・ルトニアである、と。
※
二日後、エレナは指定された宿を訪れていた。
いつも着ている聖堂服は、裏通りの安宿からは激しく浮いている。
女一人、それもまだ少女といっていい年齢のエレナには明らかに場違いな場所だが、聖堂服のおかげで危ない目に遭うことなく店まで難なくたどり着けた。
この国の民にとって聖女にだけ着ることを許された聖堂服は希望の証なのだ。
宿の前についたエレナは少しだけ躊躇しながら、扉を開けた。
中にいたのは三人。六つの瞳がエレナに注がれる。
ギロリとした何かを見定める目。
後退りしそうになったエレナに後ろから声がかかる。
「時間通りだ」
「あ……」
声の主は、待ち合わせしていたセドリックであった。
帰ることもできず、エレナはセドリックに促されるまま、カウンターの片隅に腰掛ける。
「すっぽかされるかと思っていたのだがな」
何も言わずに目の前に置かれた飲み物を口に運びながらセドリックは言った。
「嘘だったのですか?」
「いや……」
エレナの問いにセドリックは首を振る。エレナは湯気が立っているコップを両手で包み込む。
寒さで強張っていた指先がじんわりと緩んでいくのを感じながら口を開いた。
「最初は疑いました。あなたが……第二王子だということを」
誰が聞いているかわからないため、一瞬第二王子と発するのを躊躇ったエレナだが、そもそもこの店はセドリックが指名したことを思い出す。
それでも恐る恐る口に出したワードをセドリックは咎めなかった。
エレナの予想通り、ここの人間は彼が何者か知っているようだ。
ならば、と多少肩の力が抜けたエレナはセドリックに促されるまま続きを話しだした。
「私は大教会……つまりは王族に仕える身です。ここに来なくてもあなたが王城に呼び出せば済むのです。なのに何故ここに呼び出したのだろうと考えました」
「ほう」
「一つは詐称している可能性。ですが、これはかなりリスクが高い行為です」
「リスク?」
面白そうにセドリックの眉が上がる。エレナは僅かに頷くと口を開いた。
「私は……自分で申し上げるのはおこがましいですが、高い能力を神から授かっています。ですので、治療のため王城に呼ばれることはあります。……今までは王と王太子にしかお会いしたことがありませんでしたが、第二王子のセドリック様にお目にかかる機会は――偶然必然問わず――あるでしょう。もし、あなたが私を聖女と知って声をかけてきたのであれば、詐称などすぐにバレる行為をする必要はあり得ないのです」
「敢えて危険を犯しているかもしれないぞ」
「お見受けしたところ、あなたは慎重にコトを運ぶお方です。そのような無謀なことはされないはず。ですので詐称の可能性は低いと考えました」
「ふむ」
セドリックは面白そうに笑みを浮かべたままだ。
否定しないところをみるのエレナの推測は当たっていたようだ。
ついでとばかりにエレナはもう一つの推論を彼にぶつけた。
「二つ目に考えたのは、なぜ私に接触したのかということです。楔のことを知りたければ大司教に直接申し上げればよいこと。あなたが仮に王族でしたら、直接大司教にお話した方が私の能力を無条件で使い放題ですし、逆に王に連なる者でないとしたら、楔のことは大教会としては何としてでも秘匿しておきたい内容です。それを元に大司教を強請ることもできるほどの秘密です。なのにあなたは敢えて一聖女でしかない私に近寄ってきた。何も権力を持たない私に」
「……」
「理由はわかりませんが、接触するのは大司教では駄目だった。と、すれば大司教と繋がりが強い現王や王太子の関係者ではない」
エレナは両手に持っていたコップの中身を一口すする。
適温になったミルクが喉の奥へ滑り落ちていく。
腹の奥から温められる感触を味わいながらエレナは再び口を開いた。
「先日のやり取りや本日お会いして実感いたしました。あなたは上に立つ側の人間で間違いはないでしょう。歩き方、喋り方、口にする言葉の端々。ちょっとした所作から私のような庶民とは違う。人に命ずることに慣れている人です。いえ、慣れているというよりも、息をするかのように当たり前の行為になっています。そのような自然と人に命を下せるのは、生まれた時から身分をお持ちの人間です。……そこまで考えましたら、あなたがセドリック王子ご本人であると信じるに値すると判断しました」
そこまで聞いたセドリックは指先でカウンターを一度叩く。
「……弱いな」
「え?」
エレナの上げた声を無視し、セドリックはつぶやく。
「俺を信じる理由だよ」
そんなことを言うとは、やっぱり第二王子の名を騙っているだけなのか。
エレナの迷いは顔に出ていたようだ。
セドリックはニヤリと狡猾そうに笑った。
確かまだ彼は二十歳そこそこの年齢だったはずなのに、やけに老獪な笑み。
「だが、存外頭の回転は悪くないようだ」
セドリックの言葉にゾクリとエレナの背筋に冷たいものが流れる。
(恐ろしい……けれど)
逃げ出すことも出来た。だがエレナは自分の意志でそこに留まった。
怖い中に、彼は何かを変えてくれる希望のようなものが見えたのだ。
後から考えてみるとそれは畏怖と呼ばれるものだった。
その時のエレナは気づくことはできなかった。ただ、セドリックの出すオーラに気圧され、彼の提案に黙って頷いたのだった。
「俺についてくるんだ。戦争を終わらせるために。……あんたと同じような人間をこれ以上増やしたくはないだろう?」