第8巻 ノアール所長の探偵日誌 エピソード2
エピソード ② 困ったボス猫達
ノアール『ミャ~』
尚子『また出かけるの?』
二人に挨拶をしてノアールは事務所を後にした。今日の散歩コースは駅の反対側だ。ノアールが歩く猫道には沢山の猫達が待っている。周辺の猫達はノアールに情報を持ってくるだけではなく、地域の問題解決も委ねていた。特に猫同士の縄張り争いや諍いなどの調停が多かった。《猫の探偵社・黒猫のノアール》…ノアール所長の仕事は、尚樹や尚子の知らない事も多いようだ。ここから先は猫語を日本語に翻訳して話を進める。
ノアール『それで何が原因なの。』
今日の相談事はボス猫同士の諍いだった。一匹はオス猫トラ、その名の通り茶トラの筋肉質の精悍な猫だ。もう一匹はギン、ロシアンブルーの均整の取れたイケメン猫。二匹とも身体が大きく喧嘩も強い、隣接するそれぞれの縄張り内で勢力を保っている。トラは四歳、ギンは五歳になる。ボスになったのは一年以上前だが、今までは争うような事はなかった。お互いの力量を認め合い、一定の距離を保っていた感じだ。
今年の五月くらいから二匹の関係性が崩れ出した。原因は両猫の縄張りが交差する場所に、新築の一軒家が建った事だった。引っ越してきたのは四十歳くらいの両親と、中学生の女子だった。そしてもう一人…二歳になるメス猫のミルクの四人家族だ。ミルクは雑種のサバトラ系のメス猫で、おしとやかで上品な佇まい、眼には愁いを帯びスタイルもいい美人だ。活動的ではなく家の中にいるか、庭に出て遊ぶかぐらいで、自宅敷地外に出る事は殆どない。
先にミルクを見初めたのはギンだった。縄張りをパトロール中に、部屋の中から外を眺めるミルクを発見した。一目で恋に落ちたらしい…それからはパトロールもそこそこに、ミルクの家の傍のフェンスから覗くようになった。ある日、フェンスに登り覗こうとした時、視界の中にトラの姿をみかけた。トラはギンとは逆側の塀の上から、ミルクの様子を窺っていた。ギンがトラの存在に気づいたのはそれから四日後だった。その日以来、顔を合わせると喧嘩が始まり、縄張り内の猫達も巻き込まれる事が多くなった。今日、ノアールに相談に来たのはギンとトラの仲間の猫の依頼を受けた猫達だ。
依頼猫『仲間の猫たちもかなり困っているようです。姫神様に御助力をと伝えて欲しいと。』
彼等の縄張りはノアールの散歩道からは五キロ以上離れている。これほどの距離を歩いて相談に来るのは無理だ。野良猫の行動範囲は三百メートル程度と言われている。ギンとトラの仲間の猫は、噂に聞いていた黒き姫神に助けを求めた。縄張り外の知合いの猫に伝えて、聞いた猫が更に別の猫に伝え…ノアールに相談を持ってきた猫までに十八匹を経由していた。
相談に来た猫の思念を受け取り、ミルクの所在地や容姿、性格は把握できた。ギンとトラには会った事はないが、彼らの噂は聞いていたし、猫連絡網を通して手助けした事もあった。ギンとトラもノアールの事は知っており、黒き姫に敬服の念を持っている。仲間の猫達はノアールなら仲裁が出来るのでは?と期待しているという話だった。
ノアール『困った猫ね。男の猫ってどうして喧嘩をするのかしら。』
依頼猫『なんとかなりませんか。このままだとボスも傷だけじゃすまなくなりそうですし、喧嘩ばかりで…周りに住む人間達からも苦情が出始めているみたいで。』
ノアール『周りの家の人達も迷惑よね。大きな声で唸り合ってたり、取っ組み合いの喧嘩をしていたら…。う~ん、どうしましょうか』
依頼猫『お願いします。姫神様』
ノアールは周辺の猫達に姫神様と呼ばれ敬られている。他の案件で猫達の協力が必要な事もある…協力を得る為にはこういった問題解決は重要だった。ノアールは依頼に来た猫達に『なんとかするわ』と言って依頼を受けた。さて問題はどうやって行くかだ。問題の起こっている地区はここからは少し遠い。ノアールが一匹で動ける距離ではなかった。
ノアール『多分、もう疲れ切っているわよね…連れ出したら喜ぶわね。』
ノアールが探偵事務所に戻ってきた。尚樹と尚子にただいまの挨拶をして二人の様子を眺めた。尚樹は相変わらず書類と格闘している。尚子はすでに事務作業には飽きて、今にも眠りに落ちそうな感じだ。ノアールの予想通り…尚子は事務作業に飽きていた…尚子を連れ出すか…ノアールはそう思った。
ノアール『ミャーッ』
尚子『どうしました?尚樹さん、所長が私に用事があるみたいなんだけど。』
ノアールが所長席について二人に語り掛けた。尚樹は事務作業に集中してノアールの思考を読み取れなかったが、尚子は野生の勘で意向をくみ取っていた。尚子とノアール…言葉は通じないが、なんとなく意思の疎通が出来る特殊な関係だ。
尚樹『そんな事を言ってさ、僕に全部押し付けて逃げ出すつもりでしょう。』
尚子『違います~。ねえ、所長、どうしたんですか?』
ノアールは尚子の机の上の座り、尚子に『連れて行け』と言っていた。尚樹にはノアールの意思がはっきりと見えていたし、尚子も野生の勘でわかっていた。尚子がノアールを抱き上げようとすると、彼女は事務所の隅に置いてある猫用のゲージ…電車などで移動する時はこれに入る…にはいっていった。
尚子『遠出?みたいですね。尚樹さんも行きましょうよ。』
尚樹『う~ん、所長は尚ちゃんだけでいいってさ。いいよ、行ってきなよ。どうせ事務処理はしないんだから。』
尚子『は!ノアール所長行きましょ~』
尚子はゲージを持って駅に向かった。市川駅の改札に入るとノアールは快速のホームの方を見て鳴いた。ノアールの指示に従い快速ホームに行き、千葉行の下り電車に乗りこんだ。電車が一つ目の停車駅の船橋駅に着くと、ノアールが尚子に降りるように急かした。尚子はノアールの意思を確認しながら電車を降りて、JRの改札口を向かって階段を降りていった。
尚子「所長、こっちでいいの?」
改札を出ると左側に向かうようにノアールが指示し、東武線の改札がある方向に歩き始めた。そのまま電車に乗り下車したのは二つ目の駅、塚田という名の駅だった。小さな駅だが建て直されたらしく、駅舎自体は綺麗な駅だった。尚子も東武線に乗るのは初めてで、知らない路線の小旅行に浮き浮きした感じだ。改札を出ると船橋啓明高校の方に歩き出した。高校の手前を左に曲がり、坂を登った所がミルクの一家が住む住宅だ。
尚子『ずいぶん遠くまで来たわよ。』
ノアール『ミャ~、ミャッ』
ノアールは塚田の駅の改札を出てからは、ゲージから出て尚子の胸に抱かれていた。坂を登り切ってミルクの家が見えた時、猫の争う鳴き声が聞こえてきた。小走りに向かうと一軒の庭の中に、十数匹の猫が睨み合い唸っている場面に遭遇した。先頭にはロシアンブルーのギンと、茶トラのトラが臨戦態勢で対峙している。家に中からそれを見ているミルクと一家三人の姿も見えた。
今にも飛びつきそうになった時、ノアールが尚子から飛び降り、ギンとトラの間に入った。ノアールは二匹の猫を交互に見た。家の中で困った顔で見ていた一家三人も、突然あらわれた黒い猫に驚いていた。ミルクは立ち上がりノアールを見ていた。
ここから先は猫語を日本語に翻訳して話を進める。
ノアール『二人とも引きなさい。』
ギン『こ、これは姫神さまですか。』
トラ『姫神様、どうしてここに?』
ノアール『あなた達の仲間が困っていますよ。リーダー同士が揉めたら周りの猫達も、人間達も迷惑でしょう…全く男は…貴方達を諫めに来ました。』
ギン・トラ『お恥ずかしい所をお見せしました。』
ギンとトラは少し後ろに離れ、伏せのような形でノアールに敬意を示した。他の猫達も同様の姿勢を取り、毅然と立つ黒猫ノアールの周りに、十数匹の猫達がひれ伏すような感じになっている。家の中ではミルクも伏していた。驚いて視ているのは家の中にいる両親と娘の三人の人間だ。あれほど威嚇し合っていた猫達がひれ伏し、一言も鳴き声をあげずに黒猫をみている。
少女『あの黒猫はなんなの。あんなに唸り合っていたのに…大人しくなったわ。』
母親『…ミルクも同じポーズよ。一体…何が起こっているの…』
抗争の事情は依頼猫から聞いていたが、ノアールはギンとトラに直接、理由を確認した。ギンとトラは自分達の思いの丈をノアールに話した。二匹ともミルクにひとめぼれしたようだ。外に出て来ないミルクと仲良くなりたくて、何度も見に来ていたが同じことを考えているライバルの存在に気づいた。お互いの存在を認識して激高してしまったようだ。それ以来お互いに存在を感じると、反射的に喧嘩をするようになった。ノアールが間に立ち冷静になってみると、恥ずかしい行為だったと二匹とも反省の弁を口にした。
ノアール『二匹とも彼女と仲良くなりたかったのね。ギンもトラも決めるのはミルクよ。わかっているわね。』
ギン・トラ『はい、姫神様。わかっています。』
ノアール『宜しい、喧嘩は駄目よ。ミルクと話してみるわ。』
尚子は垣根の外からノアール達の様子をみていた。今は自分の出番ではない、必要になればノアールが、自分を呼ぶだろうと感じていた。ノアールが尚子に向かって鳴き声を掛けた時、やっとお呼びがかかったかという感じで、尚子が垣根の外から庭に入ってきた。
猫達は伏せの状態のままだ。ノアールが尚子の胸に飛び乗って、家の中で様子を窺うミルクと一家の方を見た。尚子はノアールの意思を察し、そのままベランダ越しに覗く一家のもとに行き声を掛けた。
尚子『こんにちは。突然すみません、お話しさせて戴いてもいいですか?』
父親『は、はい。今、開けます。』
一家は猫同士の諍いを鎮めた黒猫に驚き、更に黒猫が呼んだとしか思えない尚子に驚いていた。疑う事も警戒する事も無くベランダのガラス戸を開け、尚子とノアールを家の中に招き入れた。尚子が部屋に入るとベランダのガラス戸は閉められた。ノアールは部屋に入ると尚子の胸から降り、ミルクの傍に行って話を始めていた。ノアールの行動に釘付けになっている三人に尚子が語り掛けた。
尚子『突然すみません。ビックリしたでしょう。うちの所長に…この黒猫ですけど…ここに連れて行けって言われて。』
父親『え?この黒猫に連れて来られたんですか?』
尚子『ええ、そうです。申し遅れました。探偵社・黒猫のノアールの本条と申します。その黒猫が所長のノアールです。』
少女『ええ!黒猫のノアール!』
母親『あの黒猫のノアールですか。猫の探偵の噂は聞いた事があります。』
尚子がここに至るまでの事情を、ミルクの一家に説明した。一家は表にいる猫達の事を尚子に話した。引っ越して暫くして猫達が集まり出した。最初は垣根の外で争う鳴き声が聞こえていたが、やがて庭に入って争うようになったらしい。近所からも苦情が来るようになり困っていたところだった。
尚子『多分、あの中の猫がノアールに仲裁を依頼したんでしょう。もう大丈夫ですよ。』
ノアールとミルクはにこやかな表情で話している。ここからは猫語を日本語に訳す事にする。
ノアール『ミルク、ギンとトラがね、貴女とお友達になりたいそうよ。ミルクはどう思っているの。』
ミルク『最初はギンの姿があって、その後にトラだったかしら。いつも一人ぼっちで寂しかったし、友達になれたらって思っていたの。でも…喧嘩を始めて怖くなって。』
ノアール『男子は血の気が多くて駄目ね。もう喧嘩はしないわ。付き合うとかは後で考えればいいと思う。友達になってくれる?』
ミルク『ええ、猫の友達がいなかったから、あんなに沢山の友達が出来たら嬉しい。』
ノアール『良かった。ギン、トラ、聞いていたでしょう。友達からですよ。』
ギン・トラ『はい、姫神様』
家族三人と尚子はリビングに座り、ノアール達の様子を見ていた。ミルクと鳴き声で会話し、ベランダの外の猫達に話しかけるノアール。ノアールの鳴き声に呼応するように応じた二匹のボス猫。娘には猫達の会話が聞こえてくるように思えた。ノアールがミルクから離れ尚子の膝の上に乗って『ミャ』と鳴いた。その後、庭の猫達に視線を移し、再び尚子を見て鳴いた。
尚子『所長、わかりました。ミルクちゃんと外の猫ちゃん達が友達になりたいようです。宜しいですか?』
母親『大丈夫でしょうか、乱暴そうな感じですけど。』
尚子『ええ、心配はいりません。ミルクちゃんもお友達が出来て、良かったと思いますよ。』
娘さんがガラス戸を開けるとノアールが先に庭に出てミルクを誘った。ミルクはゆっくりとベランダから庭に降りていった。ギンとトラを呼び三匹が寄り添うように話を始めた。他の猫達の安堵の感情が庭中に溢れていた。ノアールは満足そうな表情で、部屋の中に戻り尚子の膝に座った。
ノアール『ミャ~』
尚子『任務終了ですか、了解しました。皆さん、失礼致しました。』
娘 『え?もう帰っちゃうんですか?もう少しお話を聞かせてください。猫の探偵の噂は学校でも凄いんですよ。』
尚子『ごめんね、事務所で書類の整理が待っているのよ。もう大丈夫だと所長が申していますが、何かあったらご連絡ください。では、失礼します』
ノアールと尚子は庭を通り、垣根の外に出ていった。庭にいた猫達はノアールの後姿を、敬意をもって見送っていた。その後、猫達の争う声はなくなった。庭にはギンとトラが遊びに来るようになり、他の猫達は垣根の中には入って来なかった。近所の住民も煩かった猫の鳴き声がやみ、一家への苦情はなくなった。一家は近隣の住民とも仲良くなり、近隣に平和が訪れていた。
少女『ねえねえ、私さ…凄いの持ってるんだよ。』
友達達『なになに、見せてよ』
少女『ほら、これ。』
ミルクのいる家の少女の通う学校の教室で、少女の周りに友達が集まっていた。少女は尚子から貰った名刺を友達達にみせていた。『え~~』という歓声があがり他の生徒も集まってきた。少女は家で起きた出来事を友達に話していた。この中にいずれ探偵社に依頼する人が出てくるかもしれない。ノアール所長の活躍が探偵社の大きな広報活動になった。
猫の探偵社 第四巻 完
第五巻…予告
猫の探偵社・黒猫のノアールが四国の地に赴く。依頼してきたのは神社の守護猫ミケ…伝説の猫だった。怪猫ミケの依頼とは…
そしてフリージャーナリスト久能響子が登場する。彼女は猫の探偵社に取材を申し込んできた。
四国の地で巻き起こる大事件、警察も巻き込む想定外の事件が探偵社を待っていた。




