第7巻 ノアール所長の探偵日誌 エピソード1
【第七話】ノアール所長の探偵日誌
エピソード ①
三月、桜の季節が今年もやってきた。尚樹が初めて千葉に来たのは十二歳の時、それまで暮らしていた北海道では三月には咲いていない桜が、関東にある千葉県では見頃だった。毎年、桜の季節が来るたびに北海道の暮らしや、紗栄子に連れられて千葉に移り住んだ時の事を想い出していた。大学を卒業し探偵事務所を起業してからは、三月は感傷に浸る暇がない…猫の探偵社・黒猫のノアールは三月が決算月だ。
そんな三月の晴れ渡ったある日の午後《猫の探偵社・黒猫のノアール》の事務所内。
尚樹と尚子は決算処理業務に追われていた。一匹と二人だけの小さいとはいえ会社だ、決算期は税務処理やらなんやらと事務作業が多くなる。この時期の捜索依頼は緊急性のある案件を除き、お断りしたり日程を調整したりしている。
探偵社の所長ノアールは…事務仕事は苦手だ…というか出来ない…。尚樹と尚子が机に向かいパソコンを相手に格闘する中、一人、いや…一匹だけ暇な時間を過ごす事になる。
ノアール『にゃ~~』
一歳の誕生日を迎え成猫になったノアールが、二人に声をかけて事務所を出ていった。成猫とはいえ生後一年のノアール、普通なら一人歩きは心配だが、彼女は信号が赤なら止まり、青になると歩きだす。車にも十分注意し人間の善悪の判断もつく。ある意味、尚子よりもしっかりとしている。ノアールが一人で出かける事は、成長と共に増えていった。
ノアールの散歩コースは幾つかあった。探偵事務所は市川駅の南口から、西に向かって徒歩八分のマンションの三階だ。今日の散歩コースは近くの保育園の監視からだった。人の大人の足で普通の道を歩いても、一分も掛からない所に保育園があった。ノアールは家と家の間の狭い空間を抜けて行くので、もっと早く目的の保育園に着く事が出来る。保育園の網状のフェンスの上に乗り、中で遊ぶ子供達の様子を見守っている。周辺に不審者がいないか確認するのが、この散歩コースの必須項目になっていた。
十分程、幼児の様子や周辺を監視するとフェンスから降り、さらに西に向かって歩き出した。しばらく進むと江戸川が見えてきた。川岸の雑草の中に身を潜め、周辺にいる人々の様子を窺っている。川に来る人達にはそれぞれの人生模様がある。ノアールは感覚を研ぎ澄まし、観察する人々の人生模様を感じ取る鍛錬をしていた。常に修練を怠らない、探偵社の優秀な所長だけの事はある。
一人の少女が悲しげな表情で、川面をみつめている。高校生くらいの女の子、彼女からはずっしりと重い、負の感情が溢れている。ノアールの感覚に少女の感情が流れ込んできた。ノアールは少女の感情の分析を始めた。過去にノアールが感じた類の感情と、そうでない感情を振り分け、少女に何が起こったかを推測する。尚樹や尚子には出来ない、ノアールだけの特異能力だ。
感情には表情がある。悲しい感情もいろいろな悲しみがあり、それぞれ感情の表情が異なる。ノアールはその微妙な違いを感じ取ることが出来た。少女から流れてきた悲しい感情の表情は、紗栄子の会社の志保が彼に騙されていた事を知った時に似ていた。ただし怒りの色は見えなかった。彼と別れたか、単に告白して振られたか…。大人であればそれ程でもない事なのだろうが、高校生の少女には人生最大の悲しみの様だ。ずっしりと重い負の感情を感じた。
ノアールが雑草の中から出て、少女に向かって近づいていった。悲し気に川面をみつめる少女の足元まで行くと、顔を上げ『ミャ』と語り掛けた。ノアールの声に驚き下を見た少女の足元に、ちょこんと座る黒猫の姿があった。少女の顔に笑みが戻り、しゃがみ込んでノアールをみつめている。
少女『可愛いニャンコちゃんね。首輪をしているから飼い猫ね。どうしてここにいるの?』
ノアール『ミャ~、にゃ~』
ノアールは優しい感情をこめて語り掛けた。『何があったのか話してごらん』と語り掛けていた。勿論、猫の言葉など少女にわかるはずもないが、ノアールの感情は伝わっていた。少女はノアールをみつめたまま話し出した。
少女『猫ちゃん、聞いてくれる?私ね…振られちゃったの。高校に入ってからずっと好きだった先輩に告白して。先輩には好きな人がいるって知っていたんだけど…ね。ごめん、他に好きな人がいるって、はっきりと言ってくれたわ。こうなるのはわかっていたのに、何で告白しちゃったのかな。彼と初めて出会ったのはね……』
少女はその先輩を初めてみた時の事や、好きになった時の事など、いろいろな場面を想い出しながら話し続けた。少女の表情は明るくなったり涙が滲んだり、その時々の場面で変わっていた。感情も思い出す場面の時の感情が蘇っているようだった。
ノアールは少女が思い浮かべる、告白した男性の姿を心の中で、具現化する試みを始めた。依頼者が見た光景を実写のように感じ取る能力を、開発しようとしているようだ。男性の姿が視えてきた。制服を着ている、同じ高校生なのだろうか。髪は短髪、日焼けした感じだ。スポーツクラブに入っているのかもしれない。顔は…ぼやけて不鮮明な映像にしかならなかった。『まだまだだわ。もっと訓練しないと』とノアールは思った。
一通り話を聞いた後、少女の膝の上に登り、前足を肩に置いて抱きしめるような姿勢になり耳元で『ミャ、ミャ』と鳴いた。『今は悲しいけど、もっと素敵な出会いがあるよ』と優しく抱きしめるように語り掛けた。勿論、言葉は伝わらない、が、ノアールの送り込む感情は少女にも伝わった。少女はノアールを抱き上げ,鼻に唇をよせてキスをしていた。
少女『ありがとう、慰めてくれたのね。そうよね、悲しんでいたって何も変わらないものね。有難う、可愛い黒猫君、まるでナイトみたい。』
私は女の子よ、と少し不満に思ったが…ノアールは少女の頬を舐めた後、彼女から離れ雑草の中に走っていった。残された少女の心からは、負の感情は立ち消えていた。土手を上がり来た道を事務所に向かって帰っていく。ノアールの顔は満足気な表情だった。彼女は訓練を兼ね何でもない日常で、傷ついたり悩んだりしている人の心を、癒し開放している。
尚子『所長~お帰りなさい…どこで遊んでいたの…いいな~』
その日の散歩は二時間ほどで切り上げて探偵事務所に戻った。事務所に戻ると尚子が不得手な事務作業で疲れ果ててぐったりしていた。颯爽と事務所に戻ったノアールを見て、抱き上げて羨ましそうに語りかけていた。ノアールは『遊んでないわよ』と尚子の顔を手で押さえている…今夜は尚子を癒さなければならなそうだ、と、ノアールは溜息をついた。
翌日も事務作業は続いていた。昼過ぎに『にゃ~~』と二人に声をかけ事務所を出ていった。今日はノアールの率いる探偵員達とのミーティングの日だった。ノアールには尚樹、尚子の他に十数匹のネコの部下がいる。美しい顔立ち、流れるようなフォルム…周辺のオス猫達はノアールを神猫のように慕っていた。メス猫達も知的で冷静沈着、頭脳明晰なノアールを慕っている。
事務所の周辺五百メートル圏内に住む飼い猫や野良猫が、事務所のあるマンションの傍の空き地に集まっていた。今日、集まったのは十一匹、猫達から周辺で起こった事や、住民の移動、店舗の閉鎖や不審者の情報等の報告を受ける。部下の猫が思い浮かべる情景を、ノアールはビデオのように感じ取る事が出来た。人相手ではまだ難しいが、同種族間では造作もない事の様だ。
十一匹の猫達は自分の行動範囲の情報だけではなく、他の地域から入ってくる猫達からも情報を受け取っていた。この手法は尚子に連れられて葵の家に遊びに行った時に、策士ミーから授かった手法だ。そのお陰で月に二回のミーティングの時に、周囲七キロ程の情報がノアールに集まってきていた。猫たちからの報告の中に気になる案件があった。ここから先は猫の言葉を日本語に訳して進める。
茶トラ『姫神様、遠方から来たキジトラからの情報です。』
猫たちはノアールの事を《姫神様》と呼ぶ…なぜそう呼ばれるようになったのかは…不明だ。一匹の茶トラの猫から悲しげな表情で縁側に座る、一人の老婆の報告があった。茶トラの猫に情報を持ってきた猫もまた聞きの情報で、何匹かの猫を経由した情報だった。
ノアール『何でしょう…何か…想いのこもった悲しみを感じるわ。』
茶トラの情報によると老婆の家は三キロほど離れた、京成鬼越という駅の傍にあるらしい。老婆の家の庭には猫たちの為に餌が置いてあり、地域の猫達が数匹集まる家なのだそうだ。老婆は一人暮らしのようで他の人間を見た事は無いという話だった。ノアールは老婆の姿が気になった。何か…何かしなければいけない。ノアールの直感が叫んでいた。茶トラの報告を胸に置きながら、他の猫たちの情報を収集した。
猫ミーティングは一時間ほどで終わり、ノアールは事務所に急いで戻っていった。事務所内では事務作業が山場を越えていた。後は項目ごとに纏めてファイルするだけになっていた。尚樹は真剣な顔つきで取組み、尚子はいい加減な感じで作業を進めている。
ノアール『ミャ~、ミャ、ミャミャ』
尚子『うん?どうしました?尚樹さん、何かあったみたいですよ。』
尚樹『え~、もう少しで終わるから、ちょっと待ってよ。』
ノアール「ミャ~~」
尚樹『待てませんか…何ですか、所長』
ノアールは感情を映像化して尚樹に伝えた。ノアールと尚樹の間では言葉ではなく、映像でやり取りする事が多い。尚樹の頭の中にノアールに報告する茶トラの姿、家の縁側で佇む老婆の姿が映った。老婆の表情は悲し気で、尚樹も放置できない感じを受けた。ノアールの映像から老婆の家が京成鬼越近くにあり、駅からの道筋は判明していた。
尚樹『これは気になるね。』
尚子『二人で話していないで私にも教えてよ。』
机の上を片づけ二人と一匹は車で老婆の家に向かった。残念ながら尚子はまだノアールと話が出来ない。尚子の直感でノアールと医師の疎通は出来るし、簡単な指示は聞く事は出来る。しかし具体的な状況や画像を受け取るまでには至っていなかった。尚子に説明を求めたがノアールが急かす為、事務所を出ながら車の中で尚樹が説明した。大きなショッピングセンターが近くにあり、車をショッピングセンターの駐車場に停めた。車での移動中に尚樹から詳細を聞いた尚子は、首を傾げながらノアールを抱き上げていた。
尚子『そういう事か…所長…どこでそんな情報を仕入れてくるんだろう??』
ノアール『ミ、ミャ~』
小さな川を渡り千葉街道に向かって歩き、右に入ると老婆の住む一軒家があるはずだ。川を渡った所に一匹の三毛猫が座っていた。ノアールが尚子の胸から降りて、三毛猫に近づいて鼻をくっつけている。三毛猫は立ち上がりゆっくりと歩きだした。ノアールと尚樹、尚子も三毛猫の後に続いた。家並みの感じはショッピングモール付近とは異なり、昭和の時代にタイムスリップしたような家屋が並んでいる。その一軒の庭先に三毛猫は入っていった。
老婆『あら、ミケちゃん。来てくれたのかい。ちょっと待っていなさいね、ご飯持ってくるよ。うん?あなた方は何か用ですか。ちょっと待ってね、この子のご飯を持ってくるから。』
家の軒先には一人の老婆が立っていた。優しそうな眼をした老婦人…一見するだけで彼女が送ってきた人生がみえる感じがした。猫たちが慕うのは餌をくれるからではない、老婆の持つオーラに魅かれているのだろう。老婆は一度、家に中に入り器に猫の缶詰を盛って戻ってきた。ミケちゃん…三毛猫をミケちゃんとは安易な気もするが……に餌を与えながら尚樹たちに話しかけてきた。
尚樹『突然お伺いしてすみません。探偵社・黒猫のノアールの野上と申します。』
老婆『探偵さん?探偵さんが何の用ですか。』
尚子『信じて戴けるかわかりませんが…』
探偵という言葉に対する老婆の反応は、警戒する感じではなく何か期待感を持つ感じがした。老婆はノアール達を家に招き居間の中に通した。古い家だが綺麗に整理されていて、掃除も行き届いている感じだ。『お客さんが来るなんて何年振りかね』と笑いながらお茶を出してくれた。
座卓に老婆が座ると尚子が事情を説明した。こういう時の説明は尚子が一番うまい…尚樹は、、下手だ…尚子は猫の探偵社の仕事の事から始まり、ノアールが所長である事、所長が仕入れた情報でこの家を知った事などを話した。そして老婆の家に来る猫達が老婆の事を心配している事を告げた。三毛猫のミケちゃんも食べるのをやめて、老婆と尚子をじっとみている。
老婆『この子達がね~、そうかい、私の事をね~。』
老婆は庭先にいる三毛猫を優しい瞳でみながら話を聞いていた。こんな不可思議な話なのに老婆は疑う事もせずに受け入れている感じがした。尚子の話を信じているという感じではなく、人の話を疑って聞く事はしないという感じに見えた。尚子の話を聞き終わると静かに語り始めた。
老婆『面白い探偵さん達なんだね。』
老婆は米倉康子という名だった。昭和十四年、東北の青森県五所川原市で生まれたそうだ。十五歳の時、集団就職で東京に移住し知り合った三つ年上の青年と、二十五歳の時に結婚していた。結婚後は東京の夫の社員寮に住んでいたが、三十一歳になった時に夫の父親が病気で亡くなり、夫と二人の娘と家族四人でこの家に移ってきたそうだ。夫の母も三十三歳の時に亡くなっている。今はこの家で一人暮らしをしていた。
尚子『ねえ、康子さん。何か心配事があるんじゃない?私達は猫の捜索専門の探偵をしているから、猫が凄く人の感情に敏感な事は知っているの。こんなに猫ちゃん達が気にかけるって…。よかったら話してくれないかしら。』
康子『心配事は特にないけどね。気がかりは一つあってね。あそこに大きなショッピングセンターがあったでしょう。昔はね、工場があったのよ。』
康子の話によるとショッピングセンターは昔、日本毛織という会社の工場があった場所だそうだ。当時は中学を卒業した女学生達が、地方から集団就職で上京し寮に入り働いていた。女性達は近くの高校に入学し働きながら勉学に励んでいたという。工場は昭和五十七年まで創業していたが閉鎖となり、跡地にこのショッピングモールが造られた。工場にいた女学生たちのその後の事はわからないという。
康子『義母が亡くなった時に、今でいう甘味喫茶って言うのかね、よねや喫茶って店名でね。お汁粉とおでんとか甘太郎焼きとかの…家を改装して店にしたんだよ。夫は会社で働いて私が店をやってね。三十六歳の時に会社の業務中の事故で夫も亡くなって…途方にくれたんだけどさ…会社からも多少のお金は出たし、店もやってたから生活には困らなかったの。あの時は店を始めてて良かったと思ったわ。』
尚子『大変だったんですね。娘さん達もまだ小さかっただろうし。』
康子『大変だったよ。だけどさ、川向うを通学で歩く女学生が、通学の帰りに寄ってくれてね。よく話をしたんだよ、とてもいい子達だったわ…私も集団就職で来たから親近感があったんだろうね。小学四年生と小学一年生の二人の娘を育てながらだったけど、ニッケの女学生たちが娘達にも優しくしてくれて。工場が閉鎖されたのは私が四十三歳の時だったわ。上の娘が高校に進学して、下の子が中学に入る年だったの。』
尚樹『工場の女学生達と交流があったんですね。』
康子『ああ、あったね、いろんな事があったわ。』
甘味処を始めて十年の間に、店にきた女学生たちは数百人に及ぶそうだ。最初は朝十時から五時まで営業をしていたが、ニッケの女学生に合わせて昼から夜七時までの営業に変更した。女工員たちは楽しそうにおしゃべりをして、お汁粉を食べてくれたそうだ。幼かった姉妹も工員のお姉さん達が優しく接してくれて、とても素直ないい子に育ったと感謝していると言っていた。
工場が閉鎖になってから工場跡地は、暫くは廃墟のような感じで門も閉められていた。工事が始まりショッピングモールが完成したのは、工場が閉鎖してから六年後だった。康子の店は工場が閉鎖すると、主客の女学生達がいなくなり近所の人達や、近隣の会社の人達が来るくらいになった。それでも三人の生活に大きな影響を与える事はなかったそうだ。夫や親の資産があったのが良かったらしい。
店は康子が六十歳になるまで続けた。昭和六十三年にショッピングモールが開業し、モール内におしゃれなカフェが出来た。客足は少し減ったが地元に愛された康子の店は細々と続けられた。モールが開業した年、下の娘は北大の二年生で二年前から北海道で一人暮らし。上の娘は大学を卒業し横浜の商社に勤め、一人暮らしを始めた頃だった。康子は五十歳から一人暮らしを続けていた。
六十歳で店を閉めた時、上の娘は結婚して男の子が一人いた。下の娘は北海道で就職しそのまま結婚して女の子が一人いる。娘達からは一緒に住もうと言われたらしいが、この家を去る事が出来ずに断ったそうだ。娘たちは会うたびに一緒に暮らそうと言ってくれるらしい。しかし康子は頑なに家を離れようとはしなかった。
尚子『康子さん、この家に思い入れがあるの?離れがたい想いとか。』
康子『家には何も無いわよ。確かに夫と娘と暮らした想い出の家だけど…故郷でもないしね。』
尚樹『じゃあ、何故、娘さん達の誘いを受けないんですか?』
康子『そうだね…やっぱり気がかりでね。預かり物があるんだよ、きっと大事なものなんだろうと思うと、本人に返さないとって思ってね。私がこの家を離れてしまったら、その子が取りに来ても返せないでしょう。』
尚子『預かり物ってなんですか?』
康子『工場の女学生達に預かったものだよ。寮は共同生活だろう。今みたいにさ、一人一部屋じゃない時代だからね。隠しておきたい物もあるんだろうね。仲良くなった子から預かってね、その子が一人暮らしを始めたり、結婚したりで寮を離れる時に取りに来て返していたんだよ。』
尚子『そっか、時代が違うのね。まだ取りに来てない物があるんですね。』
康子『ええ、そう。一人だけなんだけどね。私と同じ青森出身の子でね。綺麗な子だったよ。工場が閉鎖になる一年前に入った子よ。昭和五十七年に閉鎖になった時に、取りに来ると思ってたんだけど来なくてね。他の子に聞いてもその子の異動先もわからなくて。預けに来た時にとても大事そうに持っていたの。何か…気がかりでね~。いつか取りに来るんじゃないかと思うと、ここを離れるわけにもいかないのよ。』
尚子『みせて戴けますか?』
康子『いいけど…新聞紙で包んであるから、中に何があるかはわからないわよ。』
康子が奥から新聞紙の包みを持ってきた。長方形の形の幅十センチ、長さ十五センチくらいのものだった。中には硬いスチール製の箱が入っているようだ。重さは軽いが触った感じは、缶の箱のように感じた。
尚子『新聞紙の中は缶の箱みたい…箱の中に何か入っているのかしら』
康子『そうだと思うわ。中身を見れば何かわかるかもしれないけど、本人の了解もなく見るのもね。私が死んだら娘達に確認させるつもりだけど。』
尚樹『中を見てプライバシーにかかわるものなら、その人に失礼ですよね。何か強い想いを感じますね。』
康子『そんな事がわかるのかい?凄いね。ねえ、探して貰えないかい?探偵なんだろう、お金は払うからさ。下の娘が北海道で一緒に暮らそうって煩くてね。私も歳だし上の娘も一人暮らしは無理だって言ってね。断り切れなくなっているのよ。』
尚樹『僕達は猫の捜索の探偵社ですから。人探しは…』
尚子『わかりました。お受けします、お任せください。』
尚樹『ちょっと、尚ちゃん』
尚子『乗り掛かった舟よ。それにノアール所長が持ってきた案件よ。おばあちゃん、頑張るね。』
結局、受ける事になってしまった。依頼主と尚子を会わせると、依頼を断った事はない…ノアールも受けるつもりでいたようだ。康子に預けた少女…。工場が閉鎖される一年前に入ったという事は、昭和五十六年にここに来たという事だ。工場の女学生達は寮から高校に通っていたらしい。昭和五十六年にその学生たちが通っていた高校に入学している可能性が高い。学校は康子が憶えていた。少女の苗字を康子は知らなかったが、名前は聡子という名だそうだ。写真を見ればわかると言っていた。
まずは康子から聞いた学校を訪ねる事にした。国府台駅から十分位の所に女子高がある、康子が教えてくれた高校だ。もう四十年近く前の話になる…果たして資料的な物が残っているのか…。学校に資料や写真が残っているかはわからない。それに探偵にどこまで情報を開示してくれるか…。とにかく学校に電話をかけ翌日、十時に訪問する旨を伝えた。その日は名刺を渡して康子の家を出て事務所に戻った。三十年以上前の話、私や尚子の生まれる前の事だ。勿論、ノアールも生まれていない。
尚子『ノアールちゃん…何とかしてあげたいわね』
ノアール『ミャ…』
事務所に戻ると探偵社の女子二名は、お菓子とチュールを舐め乍ら静かに語り合っていた…ように見えた。三十年以上も前の話になるとノアールのニャンコ捜査網で捜索する事は難しい。一つ一つ事実を確認しながら歴史を追っていくしかないだろう。明日は所長には留守番をして頂いて、尚子と尚樹が行く事になった。ノアールの黒い毛は持たされたが…
次の日、学校に向かった。事務所から徒歩圏内にある小中高一貫教育の女子学園だった。歴史は古く戦前からあった私立の学校だった。正門を抜けて職員のいる棟に行き、事務員に取次ぎをお願いした。出てきたのは四十代の男性だった。事務職の責任者らしかった。尚子から『探偵ですって言うんですよ。猫専門とか言っちゃダメですよ。今回は人探しなんだから』と行く前に念を押されていた。
尚樹『私達は探偵社の者です。』
尚樹が事務職の男性に名刺を渡した。尚子が後ろから圧力をかけてくる…威厳のある態度で臨むように尚樹にプレッシャーをかけている。胆力も根性も無い尚樹だが…頑張って威厳を保とうとしている…らしい。
男性『探偵?どういった要件ですか?生徒や教職員については、お答えできることは少ないですよ。』
尚樹『実は…』
事務職の男性に説明を始めた時、六十代の女性が通りかかり、立ち止まって話を聞いていた。男性は三十四年も前の話はわからないし、知っていても答えるわけにはいかないと、全く相手にしてくれない感じだった。個人情報の取扱いにはかなりナーバスな感じだった。何か糸口だけでも見つけないと、調査自体が此処で終わってしまう。その時、六十代の女性が話しかけてきた。
女性『どうしたの?』
男性『あ、理事長。大した事ではありません。お引き取り願いますので。』
尚子『理事長さんですか?ここで一番偉い人ですよね。ここの学生さんだったはずの人に、預かったものを返すまでは死ねないっていう、おばあさんがいるんです。』
理事長という女性を逃してはいけない…尚子の野生の勘が叫んでいた。尚子はこういった時に気を惹くような話し方をするのがうまい。話す相手の表情や佇まいをみて、一瞬で判断して言葉を続ける。責任感の強そうな印象の理事長と言われる女性に、責任を全うするまでは死ねない!という言葉を投げつけた…康子はそこまでは言っていなかったが…。
理事長『まあ、何か物騒は話なの?』
尚樹『いえ物騒な話ではありません。かなり前の話になりますが…ショッピングモールが出来る前にあった、日本毛織の工場で働いていた女学生の話です。その近くで甘味処を開いていた方からの依頼なんです。』
理事長『ああ、昔…あったわね。確か…よねや…だったかしら。』
尚子『そうです。そこのお祖母ちゃんが依頼者なんです。』
理事長『懐かしいわね。あのお店には私も子供の頃に何度か行った事があるわ。私が話を聞きましょう、ついてらっしゃい。』
校内を理事長の後に続き歩き、教務室の奥にある理事長室に招かれた。広い部屋だ。ドアを開けると一番奥に理事長の大きな机がどんと構え、机の後ろの壁にはこの学園の校訓が書かれた額縁が飾られてある。周囲の壁には代々の理事長の写真が飾られてあった。私立学園だからなのか、代々の理事長は世襲になっていた。応接セットのようなソファーとテーブルに座り、理事長に尚子が事情を説明した。
ノアールや猫の話はせずに…流石に猫から聞いたとは言えない…康子の店の事や康子から聞いた事実だけを、尚子は詳細に理事長に説明していった。そして女学生が通った可能性のある女子高に聞きに来た事を伝えた。理事長は真剣な面持ちで尚子の話を聞いていた。
尚子『あのお祖母さん…米倉康子さんですが、とってもいい人なんですよ。もうお歳だし娘さん達も心配されていて、一緒に住もうって言っているそうですが、預かったものを取りに来るんじゃないかって。取りに来た時にいなかったらって仰るんです。』
理事長『私も何度もあの店にはいったわ。米倉さんという方なのね…優しい方だったわね。そうか、それでよねやさんだったのね(笑)。偉いわね、そんな事までしてあげてらっしゃてたなんて。』
尚樹『工場の女性達は近くの高校に通っていたみたいなんです。康子さんがいうには本校に通われていたらしいという事なんですが。』
理事長『ええ、そうでしたね。集団就職で上京した女子工員を、本校が受け入れていましたよ。あの工場が無くなった後も通っていた工員の子はいましたね。工場の閉鎖に伴い異動した子もいたけど、退職して企業が就職を斡旋して残った子もいたのよ。』
尚子『康子さんが言うには、昭和五十六年に青森から上京したようなんです。その頃の名簿とかがあれば、連絡先がわかるかもしれないんですが。』
理事長は腕を組んで目を閉じて、下を向いて何かを考えている様子だ。名簿を見せる訳にはいかないだろう…理事長が顔をあげて尚子と尚樹をみた。
理事長『貴方達も探偵業なら個人情報については御承知のはずですね。教える事は出来ませんが…調べてみて在籍しているようであれば、ご本人に私が連絡をする事は出来るわね。』
尚子『わ~、とっても素敵なお答えです。是非、お願いします。』
理事長『ちょっと待っていてくださいね』
理事長は机に戻るとさっきの事務職の男性を呼び何かを指示していた。男性は尚樹と尚子を横目で見て理事長室を出ていった。理事長は理事長室の書架の中にある、学校の歴史書的なものを取り出した。応接テーブルの上に書物を置き、調べが済むまで読んでいるように言われた。尚樹も尚子も時間を潰すのにちょうど良かったし、尚樹はこういった歴史的な事には興味もあり、有難くお借りする事にした。尚子は…興味が無さそうな感じだ。
尚子『漫画とかないのかしら…歴代の理事長の写真が幾つもあるわね』
尚樹『…大人しくしててよ。』
歴代の理事長の写真が示すように、この女子高は古い歴史のある学校だった。百年ほど前に開校し設立当時は、五年制の女子高等学校だったようだ。戦後の学制改革で女子中学校を新設し、千九百六十年、昭和三十五年に小学校も創設、現在の小中高一貫教育の女子学園になっていた。時代時代で取り入れた教科も替わる事があったが、女性の教育の向上が設立当初から一貫した理念のようだ。
暫くすると事務の男性が数冊のアルバムのような物を抱えて入ってきた。理事長に渡し説明をして男性が部屋を出ると、理事長は机の上でアルバムを広げ、卒業生の中から『聡子』という名前を探していた。アルバムは三冊あった。聡子が卒業したとすれば昭和五十九年になる。アルバムは五十八年、五十九年、六十年の三冊だった。理事長は電話を誰かにかけた後、アルバムを置いて応接セットのテーブルにやってきた。
理事長『現存している卒業アルバムには聡子という名の卒業生は、昭和六十年に一人いるけど地元の子の様だわ。貴方達の話だと昭和五十九年卒業よね。聡子という名の子はいないわね。』
尚樹『そうですか…この学校に通ってなかったんですね。』
理事長『そうとも言えないのよ。入学はしても卒業してない子もいるの。工場が閉鎖になって転校したか、退学したかだとアルバムには載らないから。入学時の資料は残っていないの。同窓会名簿を持ってくるから、その年の卒業生の同窓会の代表に聞いてみるわ。』
尚樹『有難う御座います。』
男性事務員が数冊の薄い書類を持って入ってきた。理事長は応接セットから離れ、理事長席に着き男性から書類を受けとった。数ページめくってからおもむろに受話器を取り電話をかけ始めた。昭和五十九年の代表生にかけているようだ。数分間話した後、こちらに戻ってきた。
理事長『代表の生徒に聞いたけど、聡子という名で工場にいた子は知らないと言っていたわ。ただね、当時、工場から通っていて卒業した生徒さんと、今でも連絡を取り合っているらしいの。その人に聞いて連絡くれるって。貴方の名前と名刺の電話番号を伝えたから、直接、連絡が来ると思うわ。』
尚樹『ありがとうございます。そこまでして頂けるとは、思ってもみませんでした。』
尚子『ほんと!有難う御座います。』
理事長『私も同じ時代を生きてきましたからね。それに…あのお店のおばさんには優しくしてもらったのよ。少しは恩返しになったかしらね。』
理事長に感謝を伝え学院を後にした。ノアールの黒い毛からは満足感が漂っていた。理事長室でのやり取りをノアールも黒い毛を通じて聞いていた。尚樹と尚子はそのまま康子の元に向かった。康子も探偵が捜査する事に期待しているようだったし、ずっと気にかかっていた事の進捗は知りたいだろう。康子の家の庭先には三毛猫のミケと、周辺の猫たちが数匹集まっていた。
尚子『お祖母ちゃん、経過報告にきたわよ。』
尚子が康子に事の進捗を伝えた。聡子という名の該当する卒業生がいなかった事は、康子も予想していたようだ。卒業まで在籍していれば預けた物を取りに来ているはずだ。全く手を付ける事が出来なかった事が動き出した…康子はその事が嬉しかった。その翌日、理事長の話していた工場から通っていたという卒業生から連絡があった。その女性は青森出身で聡子という女性を知っているという。
同じ学校の子で集団就職で上京した仲間に、飯島聡子という子がいたそうだ。聡子は物静かで目立たない子だったが、真面目で聡明な女性だったと言っていた。工場の閉鎖後は一緒に来た仲間は、それぞれが様々な事情で離ればなれになった。聡子は青森に帰ったはずだと教えてくれた。『確か…関西の工場に異動する予定でいたんだけど身内に不幸があって急遽、青森に帰ったはずよ。』と言っていた。連絡は取っていないが、上京する前に住んでいた住所は教えてくれた。
尚子『そっか…そういう事なら預けた物を、撮りに来る時間がなかったのも納得ね。一歩進んだ感じね』
尚樹『でも三十七年前だから、そこに今でも住んでるのかな?それに青森は遠いよ。』
尚子『尚樹さんは悲観的すぎますね…ねえ所長、大丈夫でしょう?』
ノアール「ミャ!」
探偵事務所の女子二名は楽観主義者だ。ノアールと尚子が楽観的に語っていた。その日のうちに米倉康子に会いに行った。聡子の名前が飯島聡子である事、工場閉鎖後、急遽、青森に帰る事になった事などを伝えた。住所は上京する前に住んでいた場所で、現在そこに暮らしているかは不明という事も伝えた。聡子は慌ただしく市川の地を離れる事になり、康子に預けた物を取りに来る時間が無かったのだろう。康子は尚樹の話をノアールとミケの頭を撫でながら聞いていた。
康子『工場の閉鎖でバタバタしている時に、身内に不幸があったなんて…大変だったのね。』
尚子『お店に受け取りに来る時間も、無かったのかもしれないわね。康子さん、この後はどうしますか?住所の場所に荷物を送るとか?』
康子『住んでいるのかもわからないのに、大事なものを送れないでしょう。手紙を書いてみようかしら…青森まではいけないわね。貴方達に依頼したら行ってくれるの?』
尚樹『う~ん。』
尚子『住んでいるかどうかもわかりませんよ。無駄足になる可能性も高いし…』
そんな話をしている時に尚樹の携帯に着信があった。発信元は情報を提供してくれた、工場に勤めていた卒業生だった。尚樹との電話を切った後、当時の中学の同級生数人に連絡を取ったそうだ。その中の一人が聡子と仲の良かった同級生を知っており、その同級生に連絡を取ってくれた。仲の良かった同級生は聡子の消息を知っており、聡子に連絡しこの件を伝えてくれたそうだ。連絡をくれた卒業生は聡子の連絡先を教えてくれた。聡子からは連絡を待っているという事だった。
尚子『良かった!』
康子『本当だよ、ありがとう。この番号だね。ドキドキするね、少し落ち着いてから連絡してみるよ。』
尚樹達は康子に見送られ、彼女の家を出て事務所に戻った。ノアール所長の顔は満足に満ちた表情だった。尚樹たちが立ち去った後、康子はお茶を飲み気を整えて教えて貰った番号に電話を掛けた。電話を取った聡子は眼に涙を浮かべていた。二人は昔の頃に戻って語り続けた。康子の眼にも涙が光っている。
工場が閉鎖する一週間前に祖父が亡くなり、慌ただしく青森に戻った聡子は、祖父の葬式後も戻る事が出来なかった。聡子は幼い頃に父が漁に出て亡くなっていた。祖父と母、弟二人の五人家族で暮らしていた。祖父が亡くなり母と弟を残して、千葉に戻る事は出来なかったそうだ。そのまま青森で就職し家計を助けながら四人で暮らしていた。弟二人が高校を卒業し働き始めた頃、知り合った男性と結婚して岩手県八戸市に移り住んでいた。
子供も二人産まれて育児や家事で忙しく、康子に預けた物は気になってはいたが、連絡先もわからず取りに行く事も出来ずにいたそうだ。今は大学三年生の長男と高校三年生の長女と幸せに暮らしている。
配達員『こちらに印鑑をお願いします。』
聡子『はい。』
聡子の元に小包が届いた。康子に預けていた《あの新聞の包み》だ。配達員から受け取ると家族にも見せず一人寝室に籠もって、小包の封を解き始めた。四角い缶の箱の蓋を開けた。中には聡子の《想い出》が詰まっていた。




