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猫の探偵社  作者: 久住岳
6/8

第6巻 黒猫のノアール…不思議な能力

第六話 紗栄子の憂鬱・ ノアール所長の能力


 めぐみ『紗栄子さん。ちょっといいですか。』


 叔母、紗栄子の会社には、十一人の従業員がいる。その中でも起業時から、二十年以上連れ添ってきたのが、常務の渡辺めぐみだ。紗栄子が入社した会社に、四年後に入ってきた。新入社員だっためぐみの、教育係を務めて以来の付き合いだった。二十一年前、紗栄子が独立起業した三十二歳の時、めぐみも会社を退社し紗栄子と行動を共にした。叔母の心底、心の許せる親友でもある。お昼になる少し前に紗栄子のデスクに、何やら相談事があるような感じでやってきた。


 紗栄子『めぐみちゃん、どうしたの?』

 

 めぐみ『もう五十歳に手が届きそうなのに、ちゃん付けは止めましょうよ。なんか気恥ずかしいわ。』

 

 紗栄子『幾つになってもめぐみちゃんはめぐみちゃんよ。何か相談事?』

 

 めぐみ『実は志保ちゃんの事なんですけどね。何日かお休みしたいって言ってきて。でも、いま受けている案件のキッチン周りや、リビング周辺の小物のデザインは志保ちゃんが担当ですし...彼女しか出来ませんからね。困ったわ。』


 紗栄子の会社は役職名で呼ばない様にしている。基本は下の名前で呼ぶ事が多い。十一人の社員のうち女性が九名、男性は二名。紗栄子を慕ってくるインテリアデザイナーは女性が多かった。新倉志保は今年二十七歳になるデザイナーで、入社四年になる女性社員だ。主に生活雑貨や小物類のデザインを手掛けている。紗栄子的には会社の新しい柱を育てる思惑があり、若い志保を入社させた。会社で一番若い社員だった。


 紗栄子『志保ちゃんに理由は聞いたの?』

 

 めぐみ『ええ。自分で紗栄子さんに話すって言ってるから聞いてあげてください。出来れば...休まない様に説得してくださいね。』

 

 紗栄子『説得するの~、志保ちゃんがそんな事を言うなんて、相当の事でしょう!説得は無理かな~。とにかく聞いてみるわ。志保ちゃん、ちょっといい。』

 

 志保『はい、紗栄子さん。今行きます。』


 志保が紗栄子とめぐみの所にやってきた。紗栄子のデスクの前のテーブルに座らせ、めぐみと二人で志保に事情を聞いてみた。志保は少し申し訳なさげな感じで、紗栄子の顔を見て話し始めた。


 志保『すみません、実は...』


 志保の話によると飼っている猫のモモが昨日、家に帰ったらいなくなっていたそうだ。一人暮らしの為、出かける時はエサもトイレもちゃんとして、鍵も閉めて出かけている。どこから部屋を出たのかもわからないと言っている。部屋の隅々を探したがモモはいなかったようだ。今日の夜から探しに行きたいと思っているので、暫くの間、休みが欲しいそうだ。


 志保『帰った時もドアの鍵は締まっていたし、窓の施錠もしてあったし...。どこから出たのか...心配なんです。昨日の夜は彼にも相談して、手分けして探したんですが見つからなくて。』

 

 紗栄子『鍵も締まっているのに猫だけいなくなるなんて変じゃない?』

 

 めぐみ『誰か留守の間に入ったのかもしれないよ。空き巣とかさ。警察には相談したの?』

 

 志保『部屋も荒らされた様子はないし。彼も警察に届けても相手にしてくれないって言うので、まだ届けていません。』

 

 めぐみ『なんか変よ。警察に相談した方がいい様な気がするわ。』

 

 志保『そんな事よりモモの事が。沢口さんに相談したら猫探しの探偵を教えてくれたんですけど、暫くは留守みたいなんです。』


 沢口というのは会社に二人いる男子社員の一人で、沢口正弘という三十八歳の課長だ。妻と十歳になる女の子の三人暮らしで、二匹の猫を飼っている猫好きの社員だ。面倒見がよく女子社員からの評価は高い。顔は...さほどイケメンではないが...。


 紗栄子『事情は分かったわ。...確か...今日、帰ってくるはずだったかしら。ちょっと待ってて。』


 紗栄子は尚子のスマホに電話を掛けた。尚樹と尚子は十一時にフィンランドから成田空港に到着し、入国審査がやっと終わって到着ロビーに出たところだった。こういった案件を尚樹に言うと嫌がるが、尚子は喜んで飛びつく事を紗栄子は良く知っている。尚子のスマホに紗栄子から着電した。


 尚子『紗栄子叔母様、今、成田空港の到着ロビーを出たところですよ。どこかで隠れて見ているんですか(笑)』

 

 紗栄子『ふふ、尚ちゃんは相変わらずね、尚ちゃん。ちょっと厄介ごとの相談があるのよ。尚樹と一緒に私の会社に来れないかしら。』

 

 尚子『ご依頼ですね。私に電話をしたという事は...面白そうな事件ですね。了解しました。』

 

 尚樹『お母さんから?』

 

 尚子『会社に来て欲しいそうです。えっと、叔母様の会社は何処でしたっけ?』

 

 尚樹『水天宮のそばだよ。何で僕に電話しないで、尚ちゃん何だろう?荷物も多いから一度帰ってからにしようよ。』

 

 尚子『じゃあ、一度戻って荷物だけ置いて、ノアール嬢を連れて行きましょう。今からなら一時前には着きますね。』


 尚子は旅の疲れを物ともせずに、張り切り出してノアールの待つ自宅に向かった。幼い時から海外への渡航が多かった為か、飛行機や新幹線の移動は苦にならない感じだ。尚樹は尚子に引きずられる様に電車に乗り、一度、帰宅してから紗栄子の会社に向かった。人形町の駅で降り徒歩で叔母の会社に向かい、一時十分前に会社に到着した。叔母の会社は水天宮に近い雑居ビルの三階にある。小さなビルで一階には喫茶店があり、二階から五階が賃貸オフィスだ。各階一つずつ企業が入居していた。エレベーターを降りると、目の前に受付用に電話が置いてあった。尚子が電話で訪問の要件を伝えると、すぐに社員が出てきて紗栄子のところに案内された。


 紗栄子『お帰り。うまく行ったみたいで良かったわね。フィンランドはどうだった?』


 尚子『素敵な街並みでしたよ。ちょっと寒かったですけどね。冬だったらオーロラも観られるみたいで。叔母様、冬の北欧旅行、こんど行きましょうよ。』

 

 紗栄子『オーロラか、一度でいいから観てみたいわね。』

 

 尚樹『お母さん、わざわざ呼び出して、何の用なの?』

 

 紗栄子『あら冷たい態度。まあ、いいわ。中に入って。志保ちゃん、ちょっといい。』


 尚樹と尚子が応接に座ると、志保とめぐみも呼ばれてやってきた。尚樹は恵とは何度も会った事がある。紗栄子が私達に事情を説明し始めた。突然、紗栄子に呼ばれて甥っ子に説明を始めた叔母の姿に、めぐみも志保も訳が分からず呆気に取られていた。そんな二人が気になって紗栄子の話を、尚樹はあまりよく聞いていなかった。尚子とノアールは真剣に耳を傾けていた。会社の他の者たちも聞き耳を立てて聴いていた。特に猫が心配な沢口は仕事の手をとめ、応接室の会話を聞いていた。


 紗栄子『どう?引き受けてくれる。』

 

 ノアール『ミャ~。ミャミャミャ、ミャッ』

 

 尚子『勿論ですよ、叔母様の依頼を断るわけがないでしょ。ね、尚樹さん。でも、ちょっと変ですね、ただの行方不明とは思えませんね。早めに対応した方がいいと、ノアール所長も言っていますし...すぐに志保さんの部屋に行きましょう。さあ、志保さん、行きますよ。』

 

 志保『え?今すぐですか、あの...』

 

 尚子はノアールを抱き尚樹を急き立てて、志保の手を取り飛ぶように出ていった。

 

 めぐみ『紗栄子さん、尚樹君に頼むの?』

 

 紗栄子『めぐみちゃんには言ってなかったっけ?尚樹、猫の探偵社をやっているのよ。』

 

 沢口『紗栄子さんの甥が猫の探偵ですか。最近多いみたいですよ。なんて会社ですか。』

 

 紗栄子『社名をこの間、変更したみたいね。確か...猫の探偵社・黒猫のノアールだったかしら』

 

 沢口『え~!あの探偵社ですか!』

 

 めぐみ『沢口君、知っているの?』

 

 沢口『超有名な探偵ですよ。僕等猫好きには神的存在ですよ。そうだったんだ。志保ちゃんに黒猫のノアールを教えたんですけど、暫くは休業だったみたいで。』

 

 紗栄子『フィンランドに仕事の結末の為に行っていたからね。まあ、尚樹はともかく...尚ちゃんがいるから大概の事は大丈夫よ。』


 志保のマンションは水天宮からほど近い門前仲町にあった。七階建てのマンションの三階、一LDKに住んでいる。エントランスはオートロック、防犯対策もしっかりしている感じだ。エレベーターは使わずに階段を使って、志保の部屋まで行くように尚子が指示した。何か違和感を覚えているらしい。エントランスを抜けたところから、話さないようにも指示があった。

 尚子は部屋の前に着くと、鍵穴を覗き込んでみている。ハンカチで埃を払い、暫く覗いた後メモ用紙を取り出し、ボールペンで文字を書いて私達にみせた。

 『ピッキングの痕跡がある』

 

 メモにはそう書かれてあった。尚子は口の前で人差し指を立て、話さないように、声を出さないように指示した。志保から鍵を受け取ると静かに回し、ドアをそっと開けた。

 忍び足で部屋の中に入っていく尚子の腕の中からノアールが飛び降り、テレビの裏のコンセントをみて振り返った。尚子がテレビ台の裏のコンセントを抜き、蓋を外して確認した後、私達にみせて紙にかいた。

 

 『盗聴器です。モモちゃんの持ち物があったら、尚樹さんに渡してください』

 

 と書いてあった。志保は驚き戸惑っていた。尚子が志保の背中をさすり、耳元で大丈夫よ、と声をかけていた。盗聴器を付けたままプラグをコンセントに戻した。

 ノアールが部屋の中を歩き回っている。彼女は空間の中の記憶の痕跡を嗅ぎまわっていた。ノアールには記憶の痕跡を感じ取る能力があった。部屋の中にモモ以外の違和感を、ノアールの小さな身体は感じていた。ノアールが尚子に表に連れて行けと言っている。尚子の胸に抱かれてエントランスを出ると、少し離れた駐車場に向かわせた。駐車場に着くと一番奥のレーンに行き、尚子を振り返ってみている。


 尚子『どうやら車でモモちゃんを連れて行ったのね。あそこに車が停まっていたみたいですよ。』


 志保『なんでモモを...』

 

 尚子『監視カメラがあるわね。見せて貰えないかしら。』

 

 尚樹『プライバシーの問題があるからね。警察を通さないと難しいよ。』

 

 志保『ここの駐車場の持ち主のおじさん、猫好きでネコ友なんです。お願いしてみます。』


 志保に連れられて駐車場の奥の民家のインターフォンを鳴らした。中から初老の男性が出てきた。


 男性『新倉さんか、どうしたんだい。おやおや、可愛い黒猫だね。』

 

 志保『おじさん、腿がいなくなっちゃって...お願いがあってきました。』


 私が黒猫のノアールの者だと名乗ると、オーナーの男性は驚いた顔で『お~あの探偵さんでしたか。いや~会えるなんてね。』と驚いていた。我が探偵社の名は、猫好きの人達には高名だ。尚子が事情を説明した。探偵社・黒猫のノアールの所長が、あの駐車場からモモちゃんが連れ去られたと言っていると告げ、監視カメラの映像をみれないかお願いした。


 男性『本来はダメなんだけど...モモちゃんが心配だし...有名な探偵さんが言うんだから、本当なんでしょう。いいよ。カメラの映像は家の中だよ。映像は一週間残してあるから、昨日なら残っているはずだよ。』


 オーナーの男性の家にお邪魔し、昨日、志保が家を出てから帰宅するまでの、監視カメラの映像を三人で十倍速にして確認を始めた。九時過ぎから十九時まで十時間の映像だったが十倍速なら一時間で済む。奥のレーンに車が停まったのは十時過ぎに一台、この車は三十分で出ていった。次の車は十二時前に停まった。降りてきた男の顔をみて、志保が『ストップ』と大きな声を出した。知っている顔の様だ。


 尚子『知っている人なの?』

 

 志保『はい、彼です。付き合って三カ月です。』

 

 尚子『彼なら志保さんの所に来ても不思議ではないわね。いると思って来たとか...』

 

 志保『彼には住所は教えたけど、部屋に連れて来た事はありません。付き合っていると言っても、告白されて嫌じゃなかったから、取り敢えず付き合ったって言う感じですし。まだ、何もありませんから。』

 

 尚樹『怪しいね。先を見てみよう。戻ってきた時の映像をさ』


 監視カメラの画像を再びスタートさせた。今度は三倍速で動画をまわした。二十分後、小走りに車に戻る男の姿が映った。脇に抱えられたモモの姿も確認できた。間違いない、この男が志保の部屋に侵入し、盗聴器をつけモモをさらった犯人だ。


 尚子『志保さん。彼とは三カ月前からって言ってましたね。』

 

 志保『ええ...彼と出会ったのは五カ月前なの。付き合いだして住所とか連絡先を教えたのが三カ月くらい前よ。私も忙しいし部屋には上げた事はないわ。』

 

 尚子『彼の家に行った事は?車で連れて行くとしたら、自分の家じゃないかしら。』

 

 志保『行った事が一度あるわ。大島のあたりです。住所はここよ。』

 

 尚樹『タクシーで移動しよう。途中でモモちゃんを、捨てた可能性もあるからね。移動している時にモモちゃんの気配を感じる事が、出来るかもしれないし。』


 モモをさらった犯人は佐藤という男だった。門前仲町の前からタクシーに乗り、東大島にある佐藤の家に向かった。車で二十分程の距離だ。森下で右折し新大橋通を東に進み、西大島を通り過ぎてもモモの気は感じられなかった。

 大島の駅前を過ぎ右折し、佐藤の住むマンションの手前に差し掛かった時、モモちゃんの気を感じた。私達は車を停めタクシーを降りた。気持ちを整え集中すると、はっきりとモモちゃんの感覚が伝わってくる。彼女はどこか狭い所にいて、ケガもしているようだ。私はモモちゃんの気がある方向に歩き出した。

 周辺には民家やマンションの他に、商店や工場的な家屋も多い。モモの気を追い路地に入った時、正面にある倒産した工場の敷地内にモモを感じた。随分前に倒産したようで、錆びたシャッターが閉まり人気のない建物だ。ノアールが尚子の元を離れた。一直線に廃工場の裏手に回り、小さな鉄の扉を引っ掻き始めた。振り返って尚子に大きな声で鳴いた。


 尚樹『この中にいるはずだ。扉に南京錠が掛かっていて開きそうもない...』


 尚子『この位なら大丈夫よ。』


 尚子が近くに落ちていた鉄の棒を手に持ち、南京錠めがけて振り下ろした、何度か振り下ろすと南京錠は壊れ、ドアから外れて地面に落ちた。扉を開けると狭い空間の中にか細く泣くモモの姿があった。志保が手を伸ばしモモを抱き上げた。モモは怪我をしているのと、昨日の昼からここに閉じ込められ、脱水気味になっていた。志保が持っていたペットボトルで、水分を与えて泣きながら抱きしめた。


 志保『モモ、良かった。でも、なんで?』

 

 尚樹『志保さん、とにかく病院に。弱っていますよ。かかりつけの病院はありますか?』

 

 志保『家の近くです。』

 

 尚子『タクシー拾ったわ。早く乗って。』


 病院に着くと志保は飛び込むように院内に入っていった。泣きじゃくりながら受付で、モモを看護師にみせていた。医者も顔を出しすぐにモモの治療を始めてくれた。数カ所の裂傷と打撲、脱水症状による消耗であと一日、発見が遅れれば危なかったと言っていた。怪我の治療をして脱水の為、内臓を痛めている可能性もあり、内服薬を処方して貰った。


 医者『新倉さん。この怪我は故意に付けられたものですよ。猫同士でも他の動物にでもなく、人間につけられた傷です。酷い事をする人がいるね。』

 

 志保『先生、有難うございました。』


 病院でモモが診察を受けているあいだ、この後どうしたらいいか、尚子とノアールと相談した。志保の部屋には盗聴器がある。尚子の直感では仕掛けたのは、志保の彼氏、佐藤だ。ピッキングも佐藤の仕業だとすると、ただのサラリーマンとは思えない。盗みに入るのなら、他の知らない家に入ればいい。知り合って付き合い始めた志保の部屋に、ピッキングまでして入った意味がわからなかった。

 優秀な探偵・尚子は、別の視点からもこの事件を考察しているようだ。もっと佐藤の事を志保に聞いて、調査する必要があると感じていた。病室から出てきた志保を、紗栄子の会社に連れて行き、報告を兼ね対策を考える事になった。志保もピッキングや盗聴器があった事でショックを受けており、部屋に戻るのを怖がっていた。病院を出て会社に向かい三時過ぎに到着した。


 志保『紗栄子さん、めぐみさん。モモ見つかりました。ありがとうございます。』

 

 沢口『流石は探偵社・黒猫のノアールですね。噂以上だよ。』

 

 めぐみ『こんなに簡単に...紗栄子さんの甥っこって凄いんですね。』

 

 紗栄子『尚樹はこれだけは凄いのよ。他はちょっと...だけどね』

 

 尚子『叔母様、場所をお借りしていいですか。志保さんの部屋には盗聴器が仕掛けられていて、ドアにはピッキングの痕跡もありました。モモちゃんの失踪も人為的に感じます。志保さんに詳しく話が聞きたいんです。』

 

 めぐみ『え!誰かが侵入してたって事?警察に連絡しないと。』

 

 紗栄子『尚ちゃん、犯人に目星がついているのね。応接を使っていいわ。私も同席するね。』


 社内は騒然となった。会社の同僚の部屋に侵入する者がいて、盗聴器をつけるような輩がいる事に、社員全員が憤慨している。沢口は怒りよりも志保の身が心配だった。めぐみが社員達をなだめて、仕事に戻るように諭した。叔母の案内で応接室に四人と二匹で入った。尚子が志保に佐藤との出会いの事や、彼の仕事の事など知っている事を、全て話すように促した。

 佐藤とはスポーツジムで出会ったそうだ。志保がジムに通い始めたのは、もう二年も前からで、週に二回、火曜日と金曜日にジム通いをしていた。佐藤を初めて見たのは五カ月前、隣でトレーニングを始めた男が、いきなり話しかけて来た時だった。その後は志保がジムにいくと、毎回のように顔を合わせるようになったそうだ。一カ月が過ぎた頃、帰りに食事に誘われその後、暫くして付き合うようになった。

 名前は佐藤一郎、何処にでもありそうな名前だ。会社名は○○証券、東京本社営業部に勤めているらしい。年齢は二十九歳、住所もわかっている。尚子がスマホで○○証券を検索した。確かに会社は存在した。そのまま会社に電話をし、営業部の佐藤一郎を呼び出してみた。電話には女性がでた。


 尚子『もしもし、○○証券ですか?本条と申します、営業部の佐藤一郎さんをお願いしたんですが。』

 

 女性『申し訳ありませんが、弊社には佐藤一郎という社員はおりません。何かございましたか?』

 

 尚子『いえ、聞いた会社名を間違えたみたいです。すみませんでした。...ねえ、佐藤一郎って社員はいないって。』

 

 志保『え!』

 

 紗栄子『どういう事。』

 

 尚子『事実を重ね合わせて...推理してみますね。』

 

 尚子が語り出した。

 

 尚子『スポーツジムで五カ月前に出会った事。その後、行くたびに会うようになった事。これは偶然ではないわ。最初から志保さんが目的だったのよ。志保さんの事を調べて出会うきっかけに、スポーツジムを利用にしたに違いないわ。じゃあ、なぜ?なぜ志保さんを騙す必要があるのかしら。部屋には盗聴器が仕掛けられていて、ピッキングの技術も持っている男が盗みや盗聴の為だけに、そんな面倒な事までする必要はないわよね。他に何か理由が...目的があるはずよ。志保さんに近づいて、得たい何かがあったと思うわ。なんだろう?お金や身体目的ではないわね。情報?そうよ、何かの情報よ。盗聴器はその為に仕掛けたのよ。』

 

 志保『情報って言っても...私は特に何もないわ。』

 

 尚樹『佐藤一郎の事をもっと調べてみようか。僕は一度みて感じれば、三百メートル圏内なら認識できるから、気づかれずに尾行できるよ。』

 

 紗栄子『そうね。志保ちゃん、暫くうちに来なさい。そんな部屋じゃ怖いでしょ。尚ちゃん...本当に探偵みたいだわ。』

 

 志保『彼にはなんて言おう。怖くなっちゃった。』

 

 尚子『仕事が立て込んできて、社長の家に暫く泊まり込みになったって、ラインしたら。』

 

 志保『そうするわ。』

 

 紗栄子『大丈夫?彼なのにショックでしょう。』

 

 志保『ええ。でも、まだ付き合い始めで、恋愛感情も芽生えてない感じだし、エッチな関係もなかったから。』

 

 尚子『よし、それで決まりね。後は探偵社・黒猫のノアールに任せて。尚樹さん、モモちゃんからはどんな感じですか?』

 

 尚樹『凄く怒っているよ。彼女の意識が画像で流れてきたんだけど、ドアが開いて男が入ってきて、モモちゃんが男を爪で引っ掻いて、追い出そうとしたようだ。男がモモちゃんを振り投げて、モモちゃんがケガをしたようだよ。』

 

 尚子『それで連れ去ったのね。家の中にいたのに人為的なケガをしていたら、侵入したのがバレるもの。酷い奴だ、許せない。尚樹さん、さっきの男の住所のマンションで張り込みしますよ。そんな奴だと危なくなったら、すぐにいなくなりそうですもん。』


 志保を会社に残し一度帰宅した。ノアール所長を真希に託し、車に乗って佐藤のマンションに向かった。志保から聞いた佐藤の部屋を、近くの駐車場の車の中から監視した。

 午後五時前、佐藤らしき人物がマンションを出てきた。徒歩で駅に向かっているようだ。私達も車を降り尾行を始めた。探偵社と言っても猫の捜索が本業だ。こんな映画とかドラマに出てくるような探偵業ではない。しかし尾行は多分、世界で一番うまい探偵かもしれない。一度感じた気配は感じられる圏内であれば、姿が見えなくても見失う事はない。相手に姿を見せずに相手の姿を見ずに尾行が出来る。

 佐藤は地下鉄のホームに降りていった。東大島から都営新宿線で新宿三丁目まで乗っていった。新宿三丁目で降りると改札を出て地上に向かい、大きな画材専門店の前を通り過ぎスタバに入っていった。私と尚子もスタバに入り、佐藤の後を追った。

 佐藤は二人の男が座る席に着いた。五十代の人相の悪い男と四十代の男だ。五十代の男が四十代の男の部下の様だ。離れたところに座ったので、会話の内容は聞き取れないが、尚子が隠しカメラで写真を撮った。その後ミルクを取りに行く振りをして、三人が座る傍の椅子の下に尚子が盗聴器をつけて戻ってきた。尚子の耳にはイヤホンがつけられている。三人の会話は尚子の耳に届き録音もされていた。探偵学校でもこんな事は教えていなかったはずだ。どこで覚えたのだろう...恐ろしい...。

 会話を聞く尚子の顔が険しくなってきた。この表情は怒りが満ち満ちている表情だ。このままだと尚子は暴走しかねないと危惧した。私は尚子の額に濡れたハンカチをあて、頭に上った血を覚ますのに必死だった。ハンカチから湯気が上がっているように見えた。


 尚子『佐藤って偽名ですね。本当の名は河合っていう名前ですよ。』

 

 尚樹『偽名を使って志保さんに近づいたのか?結婚詐欺とかかな。』

 

 尚子『違うみたい、静かにしててください。後で録音した音声を聞かせますから。』


 尚子はハンカチで冷やされて、すこし冷静さを取り戻したようだ...良かった...。三人の会話は十分ほど続いた。真剣な顔つきで話し合っている。観た感じでは河合が二人の男に、何かの報告をしている感じだった。


 河合『ちょっとまずい事になって。暫くは落ち着くまで様子を見ないとならなくなりました。それと彼女の仕事が立て込んでいるらしく、暫くは社長の家に泊るそうです。彼女の室内を物色したけど、それらしい資料や図面はなかったですし。』

 

 君島『仕事が立て込んでいるか...あの案件かもしれないな。大丈夫なのか?バレてないだろうね。』

 

 石井『河合さん、厄介なことになって、会社や君島社長にまで及ぶと困るからね。萩原って女性社長は仕事の資料の持ち出しを禁じているのかもしれませんね。』

 

 河合『石井部長、そこは大丈夫ですよ。私もプロですからね。彼女が家に戻ったら、次の事を考えますよ。』

 

 君島『早めに頼むよ。ブッシュデザインが考える設計や情報を事前に手に入れて、こっちが先にクライアントに提示できれば大儲けになる。あの会社は小さいが凄いものを創るからな。出来れば潰してしまって、うちの会社に何人か引き抜ければと思っているんだ。』

 

 河合『お任せください。あの女をこっち側に引き込んで、情報を流させるつもりですよ。』


 三人は喫茶店を出ていった。尚子が二人の後を追い、私は河合の後をつけた。二人がどこの会社の人間か突き止める事と、河合の素性ももっと調べる必要があった。

 

 尚子『尚樹さん、メチャクチャ喧嘩が弱いんだから。絶対に見つからないように尾行してくださいね』

 

 厳しく念を押された。まあ、私の能力は三百メートル圏内なら、姿を見ずとも後を追える。心配なのは尚子の方だ。怒りに任せて殴りかかったりしないか...ノアール所長も連れてくれば良かった。

 私が尾行した河合は新宿三丁目から電車に乗り、四谷三丁目で降りた。そして新宿通りから左の路地に入った、雑居ビルの中に入っていった。五階建てのビルだ。河合がエレベーターの乗ってドアが閉まるのを待ち、私はエレベーターの前で停まる階を確認した、四階でエレベーターは停まった。ビルの案内板で確認すると、四階には三つの会社があった。私はエレベーターで三階まであがり、階段を使って四階に向かった。探偵学校で習った事だ。

 四階のフロアで河合の気配のあるオフィスを確認すると、該当したのは窪寺オフィスという会社だった。なんの会社かはわからない。怪しい雰囲気の会社だ。一応、佐藤の正体が河合という男である事と、河合の所属する会社は確認できた。私の任務は達成できただろう。その場を離れ事務所に向かった。

 一方、尚子が追う二人の男は、都営新都心線に乗り、神宮前で下車した。電車を降りると青山通り方面に歩き左に曲がり、小綺麗な雑居ビルに入っていった。尚子もエレベーターに乗る二人をやり過ごした後、ビルの案内板を確認した。彼らが降りた三階には君島設計事務所という表記があった。社長の名は君島だ、この会社に間違いない。尚子もビルを後にして事務所に向かった。

 私が事務所に戻るとまだ尚子は帰っていなかった。十五分ほどして尚子が、ノアールを抱いて事務所に入ってきた。一度私の住む叔母のマンションに行って、真希からノアールを預かってから来たようだ。尚子はこちらに向かう途中、叔母、紗栄子と志保に連絡を入れていた。


 尚子『帰ってたんですね。ちゃんと追跡出来ました?』

 

 尚樹『ああ、バッチリだよ。この位、僕には造作もない事だからね。』

 

 尚子『はあ~、ちょっと出来ると自慢げにするその態度。お子様なんだから。私の方もあの二人の素性は掴みましたよ。録音した音声を聞いていてください、珈琲をいれますから。ああ、そうだ。叔母様と志保さんもすぐにこちらに来ますから、二人が来たら作戦会議です。』


 尚子がお茶を入れている間に、音声データを再生してノアールと二人で聞いた。酷い会話だった。叔母の会社の秘匿情報を得る為に、志保に近づき部屋に侵入したのだ。私は叔母の仕事は知っているが、業界での評判や評価については、全く関知していない。仕事をしている叔母を見る事も全くなかった。ライバル会社から、こんな事を仕掛かられるくらい、優秀な会社だという事に少しビックリした。

 キッチンの方からガチャガチャと乱暴に器を用意する音が聞こえる。尚子はかなり怒っているようだ。彼女は家事も好きな女性で、料理や珈琲を落とす時には繊細な動きをする。普段の粗暴な動きとは全く違う。今日は普段の粗暴な動き方だ。こちらから見える後姿から、怒りのオーラが溢れているように感じた。珈琲カップを持って尚子が戻ってきた。


 尚子『こっちはですね。窪寺オフィスという会社に入っていきました。小さな会社ですよ。ビルの大きさで考えると、三十平米あるか無いかの広さです。三、四人の会社って感じですね。』

 

 尚樹『なんの会社だろう。こういった事を受ける会社だから、裏稼業とかなのかな~。嫌だな~、怖いよ。』

 

 尚子『大丈夫ですよ。暴力団系ではないですよ。尚樹さんの方はどうだったんですか。』

 

 尚樹『君島設計事務所って会社だったよ。お母さんと同業だと思う。』

 

 尚子『なるほどね、そういう事ですか。会社名を叔母様に伝えれば、知っている会社かもしれませんね。窪寺オフィスは検索したら、以前は探偵社でした。ただ、今は違うみたいですね。都から認可を取り消されていました。探偵学校の校長に聞いてみましょうか?』

 

 尚樹『そうだね。尚ちゃん、校長とは親しかったよね。』

 

 尚子『卒業後はうちに来ないかって誘われましたからね。じゃあ、電話して会いに行ってきます。叔母様と志保さんには、状況を報告しておいてください。』


 尚子はノアールを抱き事務所を出ていった。三十分程して叔母・紗栄子と志保が、モモを抱いて事務所にやってきた。志保は事務所の中を物珍しそうに、キョロキョロとみていた。二人が席に着き私は叔母と志保とモモに状況報告を始めた。私の報告に中に《君島》という名前が出た時、叔母はがっくりとした感じになった。志保は少し怒った感じに見えた。モモの身体からは怒りが満ちているように感じる。


 紗栄子『そう、君島さんのところがね。やっぱりそんな事をしているのね。』

 

 尚樹『知っている会社なんだね。』

 

 志保『業界では有名ですよ。もっとも悪名の方ですけどね。あの会社のせいで、仕事を取られたっていう話を何度も聞きましたよ。』

 

 紗栄子『悪い噂は聞いているけど、ここまで酷いとは思わなかったわ。私が知っているだけで、三社のデザイン事務所が怒鳴りこんだはずよ。でもね、証拠がなくてとぼけられたって泣いていたわ。志保ちゃん、ごめんね。』

 

 志保『いえ、私に油断があったのがいけなかったのです。私って基本、性善説なんですよ。でも、そんな人達もいる事を、頭に入れておかないと...会社にご迷惑をおかけしますよね。紗栄子さん、ごめんなさい。実はモモも変だったんです。彼と会ってから帰宅すると、私の頬に手を掛けて怒るんです。ヤキモチでも焼いているのかと思っていたんですよ。』

 

 紗栄子『まあ、志保ちゃんにも、大きな被害が無くて良かったわ。モモちゃんは可愛そうだったけどね。それで尚樹、この後はどうするつもりなの?』

 

 尚樹『尚ちゃんが佐藤...いや河合の会社の事を調べに行っているから、戻ってきたら対策会議をしよう。』

 

 紗栄子『そうね、尚樹だけじゃ心もとないし。尚ちゃんがいてくれて良かったわ。』

 

 志保『尚子さん...凄いですよね。鍵穴見ただけでピッキングの痕跡とか、盗聴器もすぐに見つけるし。』


 尚子が戻ってくるまで、叔母から君島の話を聞いた。君島真一という名で四十代半ばだそうだ。二十歳で業界に入り大手の事務所に入社したが、その事務所のデータを盗み、ライバル会社に転職したのが悪名の始まりだった。何度か同じ事を繰り返して資金を貯め、七年前に会社を設立し今に至る。

 悪い噂ばかりで他社の図面や情報を盗んでは、コンペで仕事を奪うという事が常態化した会社だった。幾つもの設計事務所が被害に遭い、設計事務所協会にも苦情が多くあり、協会から何度も聴取されてきた。しかし明確な証拠もなく、泣き寝入りの状態だそうだ。今は二十人程の規模の会社だ。社員の殆どは前の会社を裏切り、会社の情報や図面を流した人が入っていた。

 尚子の方は私も通った探偵学校を運営する、探偵社の応接室にいた。学校の校長でもある探偵社の社長と、ベテラン探偵で取締役をやっている男が前に座っていた。事前に電話で事情は説明してあり、探偵社でも資料を用意して、待っていてくれたそうだ。窪寺オフィスというのは、元は窪寺探偵所という会社だった。

 社長は窪寺徹という男で三十六歳になる。四年前に探偵事務所を立ち上げ、二名の部下と三人で探偵社を始めた。浮気調査や身辺調査が主な案件だったが、調査時に違法行為を重ねていた事や、調査結果を依頼者ではなく調査対象者を脅迫する事に使っていた。金銭を要求して調査結果を偽造したりしていたそうだ。警察に相談が相次ぎ捜査の結果、部下の二人と窪寺が執行猶予の刑を受けていた。窪寺の会社も探偵業の登録を抹消され、その後は何をしているのかわからない。と社長は話してくれた。


 社長『本条さん。登録を抹消されているから、まともな事はしていないだろう。金に執着が強い男で、金になる事なら何でする感じだったよ。探偵の悪評を巻き散らした男だ。何かあったら言ってください。協力するよ。』

 

 尚子『有難う御座います。その程度の人なら何とかなりますよ。何かあったら相談します。この問題が解決したら報告に参ります。』


 尚子が戻ってきた。窪寺オフィスの報告を私達三人にした。窪寺探偵所が登録抹消の処分を受けたのは二年前だった。刑が確定したのも二年前、調べたところ懲役一年、執行猶予三年の刑期だった。探偵所の名前が使えなくなり、窪寺オフィスという名前で仕事を始め、君島の会社の仕事を請け負っているようだ。


 紗栄子『類は友を呼ぶって事かしらね。どうしましょうかね。』

 

 尚子『この録音データだけでも証拠にはなりますけど、徹底的に潰してやりましょうよ。モモちゃんの仇も取りたいし。』

 

 尚樹『どうするの?』


 尚子が言うには録音データだけだと河合と君島の関係はわかるが、依頼しただけで何も受け取っていないし、違法行為をお願いした証拠にもならない。盗聴器やピッキングも、証拠がなければ警察は動かない。河合を現行犯で捕まえて、窪寺オフィスに家宅捜査が入れば、いろいろな証拠が出てくるだろう。尚子の提案を聞き叔母は子供のように目を爛々と輝かせていた。こういった事が好きだったようだ。

 河合への罠を仕掛ける前に、君島や窪寺の素行調査を三日間続けた。三日間で窪寺と河合は君島に二回会った。その写真も撮り会話も録音する事に成功した。会話の内容は不法侵入や盗聴器の事、叔母の会社の設計データを盗む事などにも言及していた。証拠はこれで充分なように思えたが、河合への罠は実行する様だ。尚子が志保に叔母へのラインを、間違って河合にするように指示した。ラインの内容は尚子が指示した。

 河合に『紗栄子さん。明後日は在宅で仕事をします。設計データの持ち出し許可を戴きましたので、明日、データを受け取る事にしました。』というラインを最初に送り、『佐藤さん、ごめんなさい。社長へのラインと間違えました。削除しま~す。』とすぐに送らせた。ラインが既読なると志保のスマホに、河合が電話をかけてきた。

 

 河合『志保ちゃん、ビックリしたよ。もう家に戻ったの?』

 

 志保『明日から戻ります。』

 

 佐藤『仕事、頑張ってね。』


 尚子の仕掛けた罠はこれだけだった。河合はデータが志保の部屋にある事を知れば動き出すだろう。翌日、私と尚子とノアールは志保のマンションに向かった。午後二時にマンションの近くに着き、辺りを見回して河合がいない事を確認した。

 私が車で待機し尚子とノアールがエントランスの中に入っていった。志保から合鍵を受け取ってある。オートロックの扉を開け中に入り、部屋の前まで行きそっと鍵を開け、ノアールを中に入れて鍵を閉めた。後は志保が帰宅するだけだ。志保は三時には帰ってくる予定になっている。

 三時前にエレベーターで志保が上がってきた。打ち合わせ通りに一人で帰宅し部屋に入った。中ではノアールが静かに待っていた。志保はノアールが部屋にいる事を、盗聴器で知られないように一人でいる振りを装った。ノアールも声を出さずにじっとしている。

 盗聴器の受信範囲は五十メートルもないらしい。河合が盗聴器の音を聞いていたのは、恐らくあの駐車場だろう。マンションの傍に来なければ盗聴する事は出来ない。河合の車のナンバーと車種は確認済みだ。

 私と尚子はあの駐車場からは見えない場所に車を停め、ノアールからの連絡を待った。彼女の黒い毛を私は持たされている。この毛を通じてノアールは私に思念を伝える事が出来る。河合が現れればすぐに連絡が来るはずだ。夜十時過ぎ、河合の気配を感じた。近くに来ている、尚子が車を降り駐車場を覗くと、河合の車が停まっているのが確認できた。車の中で部屋から聞こえる音を聞いているのだろう。三十分ほどすると河合は去っていった。


 尚樹『帰ったのかな?』

 

 尚子『今日は確認でしょう。志保さんが戻っているのか、一人なのか。明日も来るはずですよ。警察の方はどうなりました?』

 

 尚樹『うん、葵ちゃんの事件の時の刑事に連絡したら、この地区の所轄に協力を要請してくれたよ、明日一日張り込みをしてくれるって。』

 

 尚子『じゃあ、明日は警察署で待ち合わせて、この車に乗せて来ましょうか。何台も車が停まっていたら、気づかれるかもしれません。』


 その日は帰宅した、ノアールからは『今日は大丈夫そう』という意識が私に飛んできていた。翌日、所轄の警察署に行き二人の刑事を乗せて、昨日の場所に車を停め待機した。河合の車が確認出来たら,罠を仕掛ける予定だ。十一時過ぎ河合の気配を感じた。駐車場に車が停まったのも確認した。尚子がスマホで志保に電話を掛けた。志保のスマホの着信音がなった。ここからは志保の一人芝居だ。


 志保『もしもし。あ、紗栄子さん、どうしました?はい、え、緊急ミーティングですか。ネットじゃダメなんですか、わかりました。会社から持ってきたデータも必要ですか?はい、持って行かなくていいですね。手ぶらでいいんですね。わかりました、すぐに出ます。十二時には着くと思います。』


 志保が身支度をする振りをして、マンションを出ていった。志保はマンションが見えなくなったところで引き返し、駐車場の河合に気づかれないように、私の車にやってきた。所轄の警察の刑事達は半信半疑と言った感じだが、葵の事件の事を聞き、万が一を考えて来てくれていた。尚子はすぐにマンションに走れるように態勢を整えている。ノアールからの思念が来た時、尚子と警察が踏み込む予定だ。

 河合が動いた。駐車場から動く気配を感じた、私が尚子と警察に伝えると、尚子は車を降り隠れてエントランスを監視した。河合がエントランスの前を過ぎ、裏に回って一階の廊下を乗り越えていった。そのまま階段で三階に上がっていった。警察と尚子もマンションに入り、オートロックを開け一階で待機した。部屋の鴨居の上にノアールが乗って、河合が来るのを待っている。ドアの鍵がカチャカチャと音がした後、開錠され河合が静かに入ってきた。ノアールからの思念を受け、尚子に電話をして突入の合図をした。

 警察と尚子は階段を昇り部屋の前に着きドアノブに手を掛けた。鍵は締まっていた、中に入った後、鍵をかけたのだろう。尚子が合鍵で静かに鍵を開け、そっとドアを開けて刑事と中に入っていった。部屋の中では机の上を、物色している河合の姿があった。刑事たちは本当に男が部屋の中にいた事に驚いたがすぐに対応した。


 尚子『何をしているのよ。』

 

 河合『え?』

 

 刑事『警察です。住居侵入罪で現行犯逮捕します。時間は...十一時二十五分。』

 

 尚子『刑事さん、お願いしますね。証拠の映像や録音データも提出しましたから、すぐにこいつの会社にも家宅捜索してください。あと、君島設計事務所の方もお願いします。』

 

 刑事『わかりました。提出して戴いた証拠は検証済みです。いま署に連絡して対処します。』


 マンションの前にパトカーが二台到着した。河合は連行され鑑識班が志保の部屋の確認をしている。志保と私もマンションに行き、ノアール所長は尚子の胸の中に抱かれていた。河合の所持品の中にピッキングに使う道具が見つかり、車の中には盗聴機器が確認された。その他、窪寺オフィスの書類や君島との打ち合わせのメモなど、多数の証拠も見つかった。

 連行された河合の取り調べはすぐに始まった。窪寺オフィスへの捜索令状と、窪寺への逮捕状も出され、家宅捜索と同時に窪寺も逮捕された。窪寺オフィスからは、様々な犯罪行為の証拠が出てきた。ほとんどが君島設計事務所に、関わった案件のものだった。

 翌日、君島設計事務所にも家宅捜索が入り、君島と石井の他、数人の社員も連行された。君島は秋に行われるさいたま市美術館の、コンペの際の設計データを叔母の会社から盗みたかったようだ。窪寺の逮捕により君島の今までの違法行為も明るみになった。新聞やテレビでも事件の事は報道された。

 窪寺と河合ともう一人の部下は執行猶予が取り消され収監された。そして今回の事件でも起訴され送検され裁判が始まる事になった。君島設計事務所は社長以下、幹部社員数名が逮捕され、協会からも除名処分が下る事になり実質上倒産となった。窪寺オフィスとの共同正犯だ。一連の捜査の為、叔母の会社にも聴取があり、一週間ほどは慌ただしい日々が続いた。落ち着いたのは十日が過ぎた頃だった。


 めぐみ『紗栄子さん、大変でしたね。』

 

 紗栄子『ほんと、こんな事になるなんてね。』

 

 めぐみ『でも、尚樹君のお陰で志保ちゃんも無事だったし...会社にも何もなかったから良かったですよ。』

 

 紗栄子『今回はノアールちゃんのお手柄みたいよ。彼女が最初に犯人を嗅ぎ分けたみたい。』

 

 めぐみ『あの黒猫ちゃんですか?』

 

 紗栄子『探偵社の所長なのよ。同業の業界でこんな事が起きるなんて憂鬱ね。』


 会社で紗栄子とめぐみはランチを取りながら、溜息をつきながら話していた。沢口は今回の事を受けて、会社のセキュリティの見直しの必要性を紗栄子に進言した。ネットワークやデータの管理、来客から机の上の資料が見えないように、オフィスの遮断性を高める為の工夫を施した。志保はあんな事があった部屋が嫌だったのだろう、すぐに部屋探しを始めて,紗栄子の近くに引っ越してきた。

 黒猫のノアール。彼女は空間に残る何らかの『跡』を感じる能力があるようだ。過去を見るのとは違う、そこで起きた事やそこに存在した者の『跡』だ。彼女の黒い毛が意識や念を伝える事はわかっていたが、他にもこんな能力があるとは驚いた。沢渡家に初めて入った時もノアールは何かを感じていた感じだった。彼女も生後十カ月になった。成長するにつれ能力が強くなっているのかもしれない。

 事件から二週間が過ぎた頃、警視庁から呼び出しがあった。刑事部刑事総務課の課長が面談を求めてきた。遠山という名の課長だ。刑事部長は猫を飼っていて、家族から《猫の探偵社・黒猫のノアール》の事は聞いていた。今回の事で警視庁の各所轄を調査し、葵の事件だけではなく武蔵境の件も報告を受け、私達が関わっている事を知ったようだ。刑事部長は総務課長に聞き取りを命じた。


 遠山『御足労戴き有難う御座います。刑事部総務課長の遠山といいます。今日は少しお話を伺おうと思って来て頂きました。貴方達の探偵社は、不明猫を捜索する探偵社と伺っていますが。』

 

 尚樹『はい、その通りです。猫専門の探偵社です。』

 

 遠山『今回は野上さんの叔母さんの会社が、絡んでいるから関わったんでしょうが、前回の武蔵境やその前の小岩の事件でも犯人逮捕に協力頂いていますね。どういった事情で関わったんでしょうか。』

 

 尚樹『猫の捜索依頼ですよ。捜索する中で事件に出くわした感じです。前回はこのノアールの捜索ですし、前々回は夜中に男が侵入した時に、いなくなったミーちゃんという猫の捜索です。』

 

 遠山『犯人の確保というか...犯人の特定というかですが...どうやって特定したんですか?』

 

 尚子『尚樹さんは喧嘩も弱いし、根性もないんですよ。でも、猫の言葉や心がわかるんです。今回もノアールが教えてくれたんですよ。』

 

 遠山『そんな事を言われてもね』

 

 尚子『信用するしないは警察の方で決めてください。私達は違法な事はしていませんし、これからもしませんよ。ご安心を!』

 

 遠山『困ったな、刑事部長に報告出来ないよ。所轄の連中も困っていたけど、そういう事だったんだな。警察庁の方からも報告するように言われてるし。う~ん、捜査協力をお願いする事もあるかもしれないので、宜しくお願いしますよ。何かあったら私に連絡してください。』


 警察は疲れる。特に悪い事はしていないが、圧迫感を感じてしまう。尚子はあっけらかんとしている。猫の捜索が何故か人間がらみの事件に繋がってしまう。これも尚子の野生の雄たけびが呼んでしまっているのかもしれない。尚子もノアールも事件が好きなようだ。家に帰ると叔母と妹と志保が、モモを連れて待っていた。モモを見るとノアールがモモに近づき、身体を摺り寄せていた。


 真希『お帰り。逮捕されたのかと思ったわ(笑)』

 

 尚樹『逮捕される事なんてしてないよ。』

 

 志保『有難う御座いました。モモも元気になったし、尚子さんのマンションに空き室があって良かったわ。』

 

 尚子『ペットが飼える物件って、中々ないものね。』

 

 紗栄子『有難う、助かったわ。これ、依頼料よ。』

 

 尚樹『いらないよ』

 

 紗栄子『馬鹿ね、仕事は仕事よ。帰国したばかりだったのに、尚ちゃんやノアールちゃんにも迷惑をかけたわね。』


 尚子『い~え。こういった案件なら、いつでも受けますよ。』

 

 尚樹『僕はこういうのは遠慮したいよ。明日から三日間お休みしますよ。』

 

 尚子『また一人で山に行こうとしているでしょ。私と...所長もいきますからね。所長も行ける場所にしてくださいよ。』


 翌日から東京近郊の奥多摩にある大岳山に登った。御岳のロープウェイに乗り一時間半で登れる山だ。尚子とノアールを連れてアルプスは無理だ。山頂までの登山道は比較的、緩やかで整備されている。山頂に向かう最後の登りだけ険しい感じになる。山頂ではお湯を沸かし、珈琲を飲みカップヌードルを食べた。秋の快晴の空の向こうに、富士山が綺麗に見えていた。

 下山後、禅道場に寄ってノアールを老師に会わせた。ノアールは普通の猫とは違う感じがする。あの時空の旅人ビャクヤに劣らぬ能力があるように思えた。老師はノアールを見るとニッコリと微笑み、下顎を撫でて話しかけていた。ノアールも嬉しそうに身を任せている。

 

 老師『この子は不思議な感じの子だね。尚樹君の助けになるだろう』

 

 猫の探偵社・黒猫のノアール...私の周りに集まった尚子、ノアール...何事も偶然は無い、全てが必然だという。この一匹と一人と出会ったのは必然だったのだろうか。猫の探偵社は、この先も不思議な事件に巻き込まれていく事になる。


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