第2巻 副所長 本条尚子参上!
猫 の 探 偵 社
第 二 巻 副所長 本条尚子
猫の探偵社...野上尚樹の元に一本の電話が掛かってきた。女性の怯えた声の電話が、次の事件へと尚樹を誘っていく。そして...この事件の後、探偵社の副所長になる本条尚子が本編から登場する。
第二話 ニャンコ連絡網・犯人を追え 策士・ミー
探偵社・猫の手の評判は上々だ。捜索依頼は頻繁に舞い込んでくる。依頼を受ける範囲は近隣の一都三県+茨城県の五都県に限定しているが、月に百件ほどの依頼が舞い込むようになった。全てに対応する事は難しいが、極力多くの依頼に応えたい...可愛い猫の幸せの為にも。
価格体系を日当から時間に変更した。私の場合は依頼先にいってから、一時間以内に解決する事が大半だ。実態に合うように三時間以内五千円、成功報酬二万円に変更した。捜索依頼の案件で近隣二件を一日でこなす事も多くなってきた。妹、真希が推奨する霊的案件対応可の文字は、ホームページに決して載せることはない。
久し振りに依頼の無い土曜日。叔母と二人でゆったりと珈琲を飲みながら過ごしていた。私も二十四歳、叔母は五十四歳になった。
紗栄子『開業してもう二年ね。結構、忙しいそうじゃない。一人ではそろそろ無理なのじゃない。』
尚樹『うん、確かに依頼が多くなったからね。誰か雇えればいいんだろうけど...無理だしね』
紗栄子『そうだね。尚樹の能力で持っている会社だからね。ねえ、いい人はいないの?いつまでも一人じゃダメよ。』
尚樹『お母さんこそいないのかい?人の心配している歳じゃないだろう』
紗栄子『ほお~。生意気な言葉を言うようになったじゃない。』
私も妹も叔母の事を『お母さん』と自然と呼ぶようになっていた。叔母は本当の母の様だった。そんな時に仕事用の携帯が鳴った。電話に出ると必死な感じの女性の声が響いてきた。何かひどく焦った感じで支離滅裂だが、飼い猫がいなくなったと言っている。襲われて警察が...という事は理解できた。事の重大さは伝わる感情で理解が出来た。
紗栄子『どうしたの?襲われたとかって言ってなかった?』
尚樹『うん、とにかく行ってみるよ。小岩だから近いし。』
紗栄子『女性からでしょう?心配ね。私も一緒に行くわ。』
叔母と一緒にすぐに家を出て、電話で聞いた住所に向かった。新小岩の駅から五分位のマンションだった。マンションの前にはパトカーが数台停まっていた。連絡をしてきた女性の名は、進藤葵という女性だった。エントランスでインターフォンを押し、三階の葵の部屋に向かった。部屋の呼び鈴を鳴らすと、葵が出てきた。部屋の中には数人の警察の人が作業をしていた。
尚樹『探偵社・猫の手の野上です。何かあったんですか?』
葵 『朝方、窓から男が入ってきて...襲われそうになったんです。三階だから大丈夫と思って、少し窓を開けて寝てたのがいけなかった...です。』
紗栄子『大丈夫?』
叔母は部屋の中に入り震える葵を抱きしめていた。
葵 『はい大丈夫です。うちの子達が騒いでくれて、それで男は逃げたんです。でもミーちゃんが男を追いかけて行って、そのまま帰って来ないんです。ミーちゃんを探してください。』
警察『失礼ですが部外者の立ち入りは困りますよ。探偵?ここは私達がいるから、進藤さん大丈夫ですよ。』
葵 『警察はうちのミーちゃんの捜索はしてくれないでしょう!野上さん、宜しくお願いします。写真とミーちゃんのタオルです。』
葵の部屋にはカゴの中に白文鳥も一羽いた。猫と白文鳥が騒ぎ男は逃げていったようだ。文鳥が私に焦燥の感情を伝えてくる。私はすぐに捜索に乗り出した。ミーちゃんの存命は意識の中で確認できている。生死の問題はないはずだ。葵にその事だけを伝えて、叔母を残しマンションを出た。
駅の反対側、線路を挟んだ向こう側に、ミーちゃんの気を微かに感じる。線路の高架の下を抜けると目の前に公園が広がっている。この公園の中にミーちゃんはいるはずだ。
公園の中を気を追って探すと、サツキの脇で倒れているミーちゃんを見つけた。私に気づいてみているが、どうやら怪我をしているようだ。
尚樹『ミーちゃん』
近くまで行き抱きかかえ話しかけると、ミーちゃんから無念の感情が伝わってきた。彼女を抱き上げてすぐに葵に連絡をした。怪我は命にかかわるものではないが、病院での治療は必要だ。葵は警察の事情聴取で部屋を離れる事が出来ないので行きつけの病院を聞き、葵にも病院に連絡するように伝えた。
病院に連れて入るとミーちゃんは家に帰りたがった、葵が心配だと言っている。葵に電話をかけミーちゃんに葵の声を聞かせると、少し安心した表情になった。
ミーちゃんの怪我は挫創だった。医者の話では猫が単体でこういった怪我はしない。人に蹴られて地面でぶつけた怪我だといっていた。上腕部に打撲の跡もあった。
獣医『お薬を出しておきます。一週間はあまり運動をさせない様に、進藤さんに伝えてください。爪の中に血痕がありました。犯人のものかもしれません。警察に伝えた方がいいですよ』
獣医からミーちゃんのクスリを預かった。動物病院を出てミーちゃんを抱えて、葵の待つマンションに向かった。ミーちゃんはずっと私に語り掛けている。男の匂いや猫の視界範囲で捉えた男の姿、腰から下の画像や聞こえた声等、私に必死に伝えてきていた。
部屋に戻ると警察の鑑識班が帰る所だった。事情を説明すると慌てて爪の血痕と皮膚片を採取し、犯人が負っているかもしれない猫のひっかき傷と照合する為、皮膚片の残ったミーちゃんの爪も写真に撮り型を取って帰った。
部屋の中には刑事二人と葵、叔母と私の五人になった。一人の刑事が葵に再聴取している。もう一人は私が気になっている感じだ。刑事の話では半年ほどの間に、小岩~亀戸の間で同じような事件が三件発生しているそうだ。届けていない被害者もいる可能性があると言っていた。
ミーちゃんから聞いた情報を警察に伝えても、信じてもらえるはずもない。葵も暗い部屋の中で、犯人の顔は見ていない。刑事が帰った後、葵がお茶を出してくれた。
葵 『有難うございました。』
紗栄子『大変だったね。怖かったでしょう。でも、何にもなくって良かったわね。』
葵 『まだ、思い出すと震えが来ます。ミーちゃんとピーちゃんのお陰です。ミーちゃんの怪我も大した事がなくて、本当に良かった。野上さんのお陰です。お二人で探偵社をやっていたんですね。』
紗栄子『違うわ、私はこの子の叔母よ。電話の感じが尋常じゃなかったから、着いてきたのよ。文鳥とニャンコって...大丈夫なの?』
葵 『とっても仲良しですよ。出してみましょうか』
葵が白文鳥をカゴから出して部屋の中に放った。文鳥は真っすぐに猫に向かっていき、ミーちゃんの鼻先で心配そうにくちばしで突いていた。仲の良い姉弟のようだ。
ミーちゃんは三歳の女の子、ピーちゃんはまだ一歳の男の子だった。友達が飼っているつがいの文鳥が生んだ有精卵を貰って孵化させた。殻を破って出てきた時から、ずっとミーちゃんが見守っていたそうだ。目が見えだす孵化二週間後には、ピーちゃんもミーちゃんを認識し、それ以来ずっと仲良しになっている。最初に見たものを、親だと認識するという話を、よく耳にするが、この二匹の関係は違うように思われた。寄り添う二匹に葵が顔を寄せ『ありがとうね、守ってくれて』と囁いていた。
葵 『有難うございました。病院にまで付き添っていただいて、料金は上乗せしてください。おいくらになりますか。』
尚樹『三時間以内ですから、日当五千円と成功報酬二万です。』
葵 『それでは申し訳ないです。五万円、お支払いします。』
尚樹『規定ですから。大丈夫ですか?ここに一人は不安でしょう。あの子達がいても人間には敵いませんし。』
葵 『怖いですけど...戸締りを厳重にします。』
紗栄子『これも何かの縁だね。暫くうちにおいで。落ち着くまでさ。よし、着替えとか纏めなさい。尚樹、この子達は貴方が抱いて連れておいで。』
葵 『でも、』
紗栄子『早く支度して。』
葵は困った感じだったが、叔母がこうなるともう無理だ。あたふたと準備を始め、五分後にはマンションを出ていた。タクシーを拾って市川まで、三人と一匹と一羽で帰路についた。家につくと真希が帰ってきていて、葵の話を聞いて憤慨していた。
真希『全く許せない。葵さん、酷い目にあったね。』
葵 『うん、でも、あの子たちが守ってくれたから。』
真希『いい子達だわ。ねえ、お兄ちゃん!許せないよ。いつまで犯人を野放しにしておくつもり!』
尚樹『おい、真希。僕にそんな事を言われても...』
真希『いい、お兄ちゃん。明日から犯人捜しだよ。』
真希はすぐに熱くなるところが、彼女の欠点でもあり魅力でもある。犯人捜しを求めているのは、真希だけではない。ミーちゃんとピーちゃんも期待の感情を私に向けてきている。とはいえ...刑事事件は警察の仕事だ。確かに探偵も関わる事は、あるかもしれないが...私は猫専門だ。
管轄の警察署に葵の家に来た二人の刑事が戻った。警察署の入口には三人の被害者の家族が立っていた。全く捜査が進まない事に苛立ち、捜査の状況を聞きに来ていた。三人の家族は刑事に詰め寄って、早く逮捕するように訴えていた。
『また、被害者が出たそうじゃないか。警察は何をしているんだ』
被害者の家族達は所轄の警察官に詰め寄っていた。詰め寄られた警察官は刑事の姿をみつけ、被害者家族だと刑事に伝えてきた。被害者家族が刑事に詰め寄った。
刑事『今回の事件では飼い猫が引っ掻いた爪から、犯人の血痕が検出されました。捜査の重要な手掛かりになります』
詰め寄られた圧力のせいか、被害者家族への道場のせいかは不明だが、刑事は捜査情報を漏らしてしまった。そして猫をすぐに探し出した探偵の話も教えてしまっていた。
被害者の姉『聞いたことがあるわ。不思議な能力の猫の探偵の話。写真を見ただけで、すぐに探し出すらしいよ。犯人の捜索とかも出来るよ。お父さん、頼んでみようよ』
他の被害者家族達も『頼むなら一緒に依頼しましょう。藁でも猫でも掴みたいで。』といって同調していた。
その日の夜、被害者家族の姉から連絡があった。無理だと何度も断ったが、引き下がってくれない。後ろからはミーちゃんとピーちゃんもプレッシャーをかけてくる。電話を切る事も出来ずに困っていると、妹の真希が私の携帯を取りあげた。
麻貴『わかりました、お受け致します。状況が進み次第報告しますね。』
被害者家族からの依頼を引き受けてしまった。
尚樹『真希、どうするんだよ。絶対に無理だよ。』
真希『知らないよ、後はお兄ちゃんがなんとかしてよ。』
尚樹『見つけても捕まえられないよ。僕は喧嘩もした事ないんだから。』
ミーちゃんが私のところに来て脇に座った。ミーちゃんの頭の上にはピーちゃんちゃんが乗っている。一匹と一羽は口惜しさと期待を投げかけてきている。ミーちゃんが私の膝の上に乗り、犯人の映像や感覚をもう一度、伝えようとしていた。犯人の感触はよくわかった。私の関知できる範囲内に姿を現せば、見つける事は可能だろう。しかし半径三百メートル、頑張っても四百メートルが限界だ。人がその範囲内に入る可能性はかなり低いだろう。話し込んでいるうちに夜も更けた。明日になってから考えよう。翌朝、起きてリビングに行くと葵と叔母が何か話していた。
葵 『いや...これ以上、御迷惑はかけられません。外で会ってきますから。』
紗栄子『いいよ、ここに呼びなさい。心配して来てくれるんでしょ。』
葵 『すみません、じゃあ、お言葉に甘えさせて戴きます。』
尚樹『どうしたの?何か問題でもあったの。』
葵 『いえ。高校の時からの親友が話を聞いて、今日、会いに来るっていっているんです。』
尚樹『いい友達だね。』
葵 『ええ親友なんですが...ちょっと乱暴な子で...かなり怒っていたからな~。』
私は自分の部屋でミーちゃん、ピーちゃんと向き合って、捜索の仕方を模索していた。探偵として尾行や調査等した事も無い。ミーちゃんが膝に乗って、何かを伝えようとしている。表に行きたいような感じだ。何処にいきたいのだろう?
リビングが騒がしくなっている。葵の友達が来たようだ。リビングを覗くと真希も話に交じって、大騒ぎしている感じだ。真希と葵の友達は意気投合して、後姿が怒りに燃えていた。雑誌を丸めてテーブルを軽く叩きながら、話をしている二人を叔母は笑ってみていた。
尚樹『いらっしゃい。』
葵 『あ、野上さん。紹介します。えっと、本条尚子さんです。高校の時からの親友...悪友だよね。』
尚子『悪友?ちょっと酷いんじゃない(笑)。野上さんですね、お噂はかねがね聞いています。猫の探偵さんなんでしょう。凄いですよね。』
真希『尚子さん、それだけじゃないよ。被害者家族から犯人の捜索依頼を受けてるんだよ。』
尚子『え!凄~い。そっか...私も捜査に着いて行っていいですか。犯人を見つけたらとっちめてやるんだから。』
尚子は高校の時に全国大会で、三位に入った事もある空手の達人だという。大学でも空手は続け、常に全国大会で好成績を収めているらしい。可愛らしい容姿のスレンダーな女性...見た目からは想像もできない。ハイボールのコマーシャルの女優に似た感じの美人だ。葵にミーちゃんと散歩に行くと告げると、尚子も行くと言って着いてきた。これが私と尚子の初デート?になった。葵と尚子は二十二歳、私の二つ年下だった。
ミーちゃんが連れて行きたかったのは、彼女を発見した公園だった。この公園は葵のマンションからは、四百メートル弱離れている。飼い猫の行動範囲は百五十メートル前後だ。この公園は飼い猫の行動範囲を超えている。私の感知範囲もギリギリだった為、彼女を探し出す時に微かな感覚に頼るしかなかった距離だ。葵は散歩にミーちゃんを連れて、この公園に来ていたそうだ。ミーちゃんにとって公園は、行動範囲内だったという事だろう。
尚樹『ミーちゃん、此処に来たかったの?』
公園に着き私がベンチに座ると、ミーちゃんは私の膝の上で大きな声で鳴きだした。周りをキョロキョロ見ながら鳴いている。尚子は不思議そうな顔で、その様子を眺めていた。暫くすると後ろの方や前の方から、数匹の猫が集まってきた。三匹、いや四匹になった。四匹の猫が私の足元に来ると、ミーちゃんは鳴きやんだ。
五匹の猫たちは額を寄せ合うように近づき、じっと見つめ合っていた。ミーちゃんは仲間に犯人を探させようとしているようだ...中々の策士だ。
ミーちゃんから情報と指示を受けた四匹の猫達は、四方に散らばり自分達の縄張りに戻っていった。縄張りに戻った猫達は他の猫に情報を伝えている。情報を受けた猫も自分の行動範囲内の、他の猫達に情報を伝えていった。こうして猫の連絡網で情報が拡散された地域は、一日後には半径十キロに及んでいた。
尚子『不思議な光景ね。ねえ、野上さん。猫ちゃん達は何をしているの?』
尚樹『情報交換をしているみたいだよ。犯人の感覚や姿を見たのはミーちゃんだけだからね。それを他の仲間達に伝えていたんだと思う。』
尚子『にゃんこって凄いのね。負けていられないわ。私達も捜索開始ですね。行きましょう。』
尚子に引きずられミーちゃんを抱っこして、犯行が行われた三か所付近を歩き回らせられた。尚子は犯人が同一犯で連続犯なら、犯罪のあった付近で目撃者がいるかもしれないと思っている。しかし警察がきっと近辺の聞き込みはしているだろう。
ミーちゃんは行く先々で出会う猫たちに、自分の観た情報を伝えている感じだった。予想通り警察が聞き込みに来たという情報以外、何の手掛かりもないまま初日は時間が過ぎていった。
尚子『まあ初日はこんなもんかしら。』
尚樹『本条さん、明日も来るつもりなの?』
二日目も特に情報もなく日が暮れていった。本条尚子は毎日、マンションにやってきた。葵は今年の三月に大学を卒業して就職していたが、尚子は留年してまだ学生だ。
尚子『犯人を見つけ出してとっちめてやらないと。卑劣な事をする奴は許せないわ。探して絶対に捕まえるわ』
親友を襲った犯人への怒りだけではなく、卑劣な犯行への嫌悪があるようだ。武道家の精神が許さないのか...尚子が何を考えているのかよくわからない。
捜査を開始して四日目、公園に行くとこの間ミーちゃんと話をしていた、オス猫が近くに寄ってきた。オス猫は私について来るように促した。
彼の後を着いていくと、その先にも猫が座って待っていた。オス猫からバトンを受けたのもオスの猫だった。その後も十匹以上に橋渡しされて、私と尚子は東向島の百花園の傍まで来ていた。距離にして五キロ弱、一時間以上の道のりだった。最後に私達を導いた猫が、マンションの前で止まって振り返った。
雄猫『ミャ~』
一声鳴いて立ち去っていった。ネコの行動範囲はそれ程広くはない。ミーちゃんから得た情報を伝達して、五キロ先の情報を探り当てたという事か。恐るべし...。そして彼らが連れて来たかった場所は、恐らくこのマンションなのだろう。
尚子『ねえ、ねえ、野上さん。ニャンコちゃんいなくなっちゃいましたよ。』
尚樹『ミーちゃんの見た犯人が、このマンションにいるという事なのかもしれない。』
尚子『そっか。いよいよ私の出番ね。』
尚樹『ダメだよ、何の証拠もないんだから。』
尚子『そいつが来たら教えてください。喧嘩になれば警察を呼べるでしょう?確か、血痕も採取してあるはずですよね。』
なるほど...葵が『ちょっと、乱暴な子で』といった意味が、今やっとわかった気がした。叔母とは少し違うがやると決めたたら、引かない所はよく似ていると思った。ちょっと悩んだがこれ以上、被害を増やすわけにもいかない。それにこのまま黙って帰ったら、ミーちゃんに怒られるだろう。策士、ミーの作戦でこの場所が見つかったのだ。私もミーちゃんから受け取った犯人の感覚を追ってみた。しかし近くに感じる人の気は無かった。
尚樹『おかしいな、何も感じないよ。』
尚子『絶対にそんな事ないです。野上さん、本当に探りました?私が襲い掛かるのを、止めさせようなんて考えていたら、後で酷い事になりますからね。』
尚樹『いや、本当です。』
この子は恐ろしい子かもしれない。あまり近づくことは止めようと思った。まさか、この先、長~い付き合いになるとは、この時は全く思っていなかった。
尚樹『出かけているのかもしれない。日を改めて来てみようか。』
尚子『ダメ!帰ってくるまで待ちましょう。犯行は土曜日の深夜に集中していたはずですよね。たぶん平日は働いていて、休日の深夜に犯行に及んでいるのよ。今は六時半だから会社員なら、そろそろ帰ってくる時間ですよ。もう少し待ちましょう。』
確かに尚子の言う通りかもしれない。ひょっとしたら彼女の方が、探偵に向いているような気がしてきた。七時が過ぎ、七時半が過ぎた。男の感覚は感知できていない。八時を過ぎた時、通りの向こうに男の感覚を感知した。程なく男が私達の見える範囲に姿を現した。間違いない、あの男が犯人だ。尚子も私の顔を見て悟った様だった。
尚子『喧嘩を売ってきます。警察に電話してください。』
私から離れると尚子はゆっくりと男のほうに歩いていった。ミディアムボブの黒髪、均整の取れたプロポーション、パンツ姿の綺麗な女性。そんな女性が男の正面に立った。
尚子『あんたさ、卑劣なんだよ。女の子を襲うなんて最低な人種だよ。』
男の眼の前で怒鳴るように言い放つと、膝蹴りが男の股間に炸裂していた。もんどりうって男は倒れ、その場で転がって呻いている。尚子は倒れている男にとどめの一撃を加えようとしている。
尚樹『本条さん、ストップ!これ以上やったら死んじゃうよ。』
必死になって後ろから抱き着いて、尚子の留めの一撃を止めた。男は気を失う寸前といった感じで、道路に蹲り股間を押さえていた。尚子が落ち着きを取り戻すのを待ち、私は警察に通報した。
警察に電話で事情を話したが、交番の警官は疑った感じで戸惑っていた。葵を聴取した刑事の名前を伝え連絡させて、男と三人で所轄警察署に連行された。刑事は私の顔を見て驚いていた。
尚子『刑事さん、こいつが犯人です。葵を襲った卑劣な奴ですよ。DNA鑑定すればわかるでしょ。それに此処を見て。ひっかき傷があるじゃん。ミーちゃんが引っ掻いた傷のはずよ。』
刑事『...確かにひっかき傷だ。う~ん、しかし困ったな。取り敢えず三人を傷害罪で逮捕します。おい、この二人を取調室へ。この男の傷口から出ている血液を採取して鑑定に回してくれ。あと鑑識を呼んで。っかき傷も照合させよう。』
私と尚子は逮捕されてしまった。確たる証拠も無く殴り掛かったのだから、逮捕されても文句も言えない。私は暴力を振るってはいないが、一緒にいた管理者責任?があるだろう。
品行方正に生きてきた二十四年、まさかここで前科がついてしまうのか?探偵業の認可取り消しになったらどうしようか。不安が脳裏をよぎる中、調書を取られた。尚子の行動は百歩譲っても傷害罪に該当する。尚子は聴取中も反省の色はなく、犯人の取り調べをするように、刑事に詰め寄る感じだった。
私は犯人を特定した理由を取り調べで聞かれたが、答えようがなく曖昧な返答を繰り返した。暴力を振るっていない事は立証され、その場で釈放された。叔母に連絡を入れ事情を説明すると、すぐに葵を連れて警察署にやってきた。依頼主の被害者家族にも連絡した。続々と被害者家族が警察に詰め掛けてきた。
DNA鑑定には早くても、二、三日は日数を要する。鑑定が終わるまでは、証拠がない状態だ。尚子の事が心配だった。乱暴と言っても女の子だ。警察に逮捕されて聴取されるのは苦しいだろう。鑑定結果が出るまで尚子は拘留されるのか...。
しかし警察の聴取で男はあっさりと犯行を認めた。ひっかき傷の痕跡がミーの爪と一致した事、血痕のDNA鑑定の話を刑事がした時に観念したようだ。被害者家族は英雄、尚子の釈放を警察に詰め寄った。無能な警察の代わりに卑劣な犯人を捕まえたんだぞと。被害者家族は声高に訴えていた。
警察は、尚子が初犯である事、被害届が出ない事を理由に、微罪処分として処理してくれた。尚子に前科がつく事も無くなった。警察署の入口に釈放されて出てきた尚子の表情は、あっけらかんとした感じだった。余計な心配をして損をした気分だ。
紗栄子『尚ちゃん、英雄だね(笑)。』
叔母はこういった時は本当に呑気な感じになる。被害者家族は私達に最大限の感謝の意を示してくれた。犯人を叩きのめした尚子には、被害者の母親や姉が抱きついて感謝していた。長い一日がやっと終わろうとしていた。翌日、犯人が逮捕された事で心配のなくなった葵は、自分の部屋に帰っていった。
後日、被害者家族から依頼料の振り込みがあった。規定に基づき計算し、捜索期間四日間、一日九時間で三十六時間になる。三時間五千円×十二と成功報酬二万円で八万円の請求書を渡してあった。振り込まれた金額は三十万だ。電話で先方に話したが、三家族が十万ずつ出した、受け取って欲しいと言われて、了承する事にした。犯人逮捕に尽力した尚子に半額を渡すつもりだった。
尚子の連絡先は聞いていない。連絡先を聞こうと葵に電話をしようとした時、インターフォンがなった。画面には満面笑みの尚子の姿が写っていた。叔母と妹は喜んで尚子を部屋に招き入れた。この三人は気が合うらしい。いつの間にか仲良くなっていた。
紗栄子『尚ちゃん、前科者にならなくて良かったね。』
尚子『別に前科がついてもいいですよ。犯人をとっちめてスカッとしましたから。ね、尚樹さん』
真希『え~ファーストネームで呼び合っているの。いつの間に付き合い始めたのよ』
尚樹『つ、付き合っていないよ。』
尚子『真希ちゃんも野上じゃん。名字で呼んだらややこしいでしょ。でも楽しかったわ。探偵業って面白いし私には合っている気がしたわ。私、決めたの。内定辞退してきちゃった。』
尚子は卒業後、探偵社・猫の手に入社すると言う。私はダメだと何度も言ったが聞く耳を持たない。叔母も妹も一緒になって、尚子の肩を持って私を説得しようとしている。今の収支は平均で月に四十件の依頼。百万の売上だ。一人くらいは雇えそうだが、猫の捜索に人手はいらない。
尚子『こういう依頼も増えますよ。尚樹さん、喧嘩弱いし根性ないから、私がついていた方が安心ですよ。任せてください。』
結局、押し切られ卒業を待たずに、《猫専門探偵社・猫の手》の副所長に収まる事になった。副所長と言っても所長と副所長だけの会社だが。尚子の加入もあり、自営業から合同会社に変更した。尚子には私と同じ資格を取ってもらった。一つだけ約束させた。警察のお世話になるような行為は絶対にしない事。
尚子『わかってますよ~』
尚子は笑って答えていたが...心配だ。真希は『社名さ、《猫専探偵社・猫の手・ダブル尚》にしなよ』と嬉しそうに笑った。姉が出来たような気持ちなのかもしれない。
尚子の父は外資系の証券会社に勤めていた。母と七つ上の姉、四つ上の兄がいる。三人兄妹の末っ子として生まれ、幼い頃は父の仕事の関係で、アメリカや西欧で暮らしたこともあった。空手との出会いも日本ではなくアメリカだった。熊殺しの空手家の映画を見て、闘う事に目覚めたそうだ。父の仕事で日本と外国を三年単位で行ったり来たりしていたそうだが、中二の時に日本に戻りその後は日本で暮らしている。
両親は尚子が高校三年の時に、アメリカの本社に転勤になり、七つ上の姉と日本に残って暮らしていた。兄は両親と一緒にアメリカに渡り、そのまま向こうで就職している。姉も尚子が大学二年の時に、ドイツ人と結婚しドイツに移住した。その後は都会で一人暮らしを続けていた。
高校生の時、葵と知り合い親友になったそうだ。二人が通う高校は女子高で、尚子は入学早々に空手部を作り、葵を強引に引き込んだそうだ。葵以外にも三人が入部させられていた。
尚子『一人だと部にしてくれないって、学校が言うからさ。名前だけでいいから』
半ば強引に説得されたと葵は笑って話していた。一人空手部...それでも一年の時に都大会で優勝し、三年連続で全国大会に出ている。恐ろしい少女だ。尚子と二人で葵に探偵社の報告に行った。
葵 『野上さん、頑張ってくださいね』
気の毒そうな顔をして私を見ていた。尚子の性格をよく知っている、最初の被害者ならではの表情だ。ミーちゃんからは達成感が流れ込んできた。そうか、尚子の事も策士・ミーちゃんの思惑通りだったのか、とその時に悟った。
私が山に行く準備をしていると、尚子も行くと言い出した。『装備がないといけませんよ』と尚子に言って、一人で行こうと思っていた。翌日、ザックに登山靴、レインウェア等、一式揃えた尚子が我が家にやってきた。登山初体験の尚子を連れて行く事になり、比較的楽な山梨の百名山、大菩薩嶺に向かった。
下の登山口から登ると山頂まで三時間はかるが、登山道の途中で車の道路と交差する場所に駐車場がある。そこに車を停めて登り始めた。タンデムで山に登ったのは久しぶりだ。晴れ渡った青空、富士山が綺麗だった。眼下にはダム湖がみえている。山頂の手前の岩の上で、お湯を沸かし珈琲をいれ、カップヌードルを二人で食べた。
尚子『熊、いませんかね。本州だとツキノワグマだけだから...一度勝負したいんですよ。』
これが尚子との二度目のデート?だった。いろいろあったが山が浄化してくれる。さあ、明日からは猫の捜索に奔走しよう。
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