第12巻 猫の守る館・慈愛 ルシアの一族 後編
猫 の 探 偵 社
第 12 巻
【第九話】猫の守る館・慈愛 ルシアの一族 後編
翌日から猫の探偵社は二手に分かれて調査を続行した。久能響子と本条尚子が最初に訪れたのは土砂崩れの現場だった。災害から一年が経過した現場は、撤去作業も終わり更地の状態になっていた。もうこの場所に家を建てる事はないだろう。災害当時の写真と見比べながら、二人は自然災害の恐ろしさを痛感していた。去年の今頃、被災した人たちは凍える様な寒さの中、避難所に身を寄せていたはずだ。
現場を後にして近所の家を訪ね、被害に遭った住民の事を聞いて周った。土砂で流されたのは集落の二軒だけだった。幸いにも押し流された家の家族は、土砂に流されずに残った部屋に居たため、土に埋もれる事なく全員が救助されていた。二軒の家族は少し離れた場所に家を建て引っ越していた為、響子と尚子は引っ越した先の二軒も訪ねた。
一軒は老夫婦の二人暮らしで、打撲と擦り傷程度で済んだそうだ。すぐに近所の人達が救出してくれたお陰で、辛い思いもしないで済んだと話していた。年の瀬に家が無くなったのは辛かったが、納屋に使っていた古い家があり、今はそこを改築して住んでいた。もう一軒は五人暮らしの一家だった。四十代の長男夫婦と二人の中学生、長男の母親が住んでいた。中学生は学校に行っており、家にはお婆さんと奥さんがいたそうだ。裏山から聞こえた物騒な音に気付き奥さんがお姑さんを連れて、逃げようとして居間から出た時に土砂が家を襲ったらしい。居間は流されたが誰もケガする事はなかった。
尚子『ここは関係なさそうね。女の子も住んでいないし…』
響子『そうね。次に行こうか。交通事故の現場に行って聞いてみよう。』
一方のノアールと尚樹だが…一人と一匹は帯広のばんえい競馬場の中にいた。ばんえい競馬の馬はばん馬と呼ばれる、身体が大きく筋骨が発達した馬だ。サラブレッドとは全く違う感じで、血から強く橇を引く姿は見惚れるほどだった。ノアールはばん馬の意識に気になるものを感じていた。ノアールはまだ一歳半、馬券を買うのは二十歳からなので…競馬をやるには年齢が足らない。それでも入りたがるノアールを連れて、ばんえい競馬場の中に入っていった。尚樹もばん馬を見るのは初めてだった。サラブレッドとは違う太い脚、立派な筋肉の身体…これが本来の馬なのだろう。競馬場内では馬場を歩くばん馬を近くで視る事が出来た。ノアールがばん馬たちに化け猫屋敷の噂の話を聞いていた。ここからは猫と馬の会話を日本語にして進める。
ばん馬『ネコの嬢ちゃん、レース場の坂になっている所があるだろう。あの坂を橇を曳いて登るのがきつくてな…そんな事はいいか…あの坂の向こうにある屋敷の事だろう。』
ノアール『あ~、あれかしら。立派な感じのお屋敷ね』
ばん馬『あの家ではネコを飼って暮らしていてな。その猫達はたまにこの中にも入ってきたんだよ。ふさふさの毛の猫だったな、あまり見た事の無い種類だったよ。どのくらい前かは憶えていないが、あの家は明かりが消えたみたいになったんだ。ネコも馬場に遊びに来なくなったよ。僕らが知っているのはそのくらいだよ。』
ノアール『ありがとう。』
ノアールはばん馬が視た猫の姿を心に留めた。ノアールから受け取った画像は、威厳のあるグレーと白の混ざった毛の猫だった。首の周りがたてがみの様になっている。日本の猫ではないだろう。大きな猫のようだ。競馬場から屋敷を見ると確かに明かりが消えたような、生気のないぼんやりした感じに見えた。尚樹とノアールは競馬場を出て屋敷の方に歩いて向かった。
競馬場を横切る県道を歩き競馬場を過ぎてから左に入った。程なくして一軒家が左右に並ぶ住宅街に辿り着いた。古くからの街並みといった住宅街、住んでいる人達も古くから住んでいそうな感じだ。正面の通りの先には川があり突き当りになっていた。ひっそりとした感じの通りだ。ばん馬から聞いた屋敷は突き当たりに手前にあった。通りを歩き始めると奥の屋敷から視線を感じた。誰かがノアールと尚樹を視ているようだ。敵意を感じるような視線だった。
ノアール『ミャ~』
尚樹『何かが視ているね。歓迎されていない感じだ。どうしよう?ノアール嬢と僕じゃ襲ってきたら敵わないよ。』
ノアール『ミャ~~~』
まだ昼を回った時間だが敵意の視線を向ける者がいる…そんな敵意を向ける場所に行くには、尚樹とノアールでは心もとないと尚樹は腰が引けた。ノアールは行く気だったが尚樹が怖気づいて、通りを後退し始めて元居た場所まで戻ってしまった。通りを出ると視線は感じなくなった。尚樹はほっとした表情になりノアールを抱く手の力をやっと緩めた。根性無しの探偵社の野上副所長…」ノアールにしがみついていた感じだ。
尚樹『ふう、もう大丈夫だね。敵意丸出しだったね…やっぱり尚ちゃんじゃないと無理だよ。』
尚樹は自分の臆病さを棚に上げて、一人で納得したようにノアールに話しかけていた。ノアールは…呆れてものをいう気力も無い感じで、尚樹の顔を見上げていた。このまま帰るわけにはいかないと流石に思ったのか、尚樹が辺りを歩きながら近隣の住人に聞き込みをして回った。何軒かの家を訪ね何人かに話を聞いて、屋敷の事でわかった事は幾つかあった。
住民『若奥さんが猫の好きな人でね、大きなネコを数匹飼っていたよ。女の子が産まれた時はさ、猫達が自分の子供みたいに面倒をみてたね。五年前くらいにお爺さんが亡くなって、お婆さんの方も三年前に亡くなって。それからは付き合いもなくってね。うちはお婆さんと親しくしていたからね。』
化け猫の噂の家は古いお屋敷で、昔は使用人を雇うほどの名家だったそうだ。先代夫婦は中々子供が出来ずに、年を取ってから待望の後継ぎが産まれた。妻は四十歳を超えていて、夫は五十歳になっていた。長男はすくすくと育ち二十八歳で結婚し、この屋敷で同居を始めたそうだ。結婚して二年後の六年前に女の子が誕生した。祖父母たちは孫を可愛がり幸せに暮らしていたらしい。
住民『半年くらい前から奥さんを見かけなくなってね…離婚したのかね?その後は御主人と娘さんが二人で暮らしてたんだけど…どのくらい前だろう?四カ月くらいかしらね。旦那さんも娘さんも見なくなったのさ。特に挨拶も無かったけど、どうやら引っ越したみたいだよ。お屋敷は売りに出されているんじゃないかい。』
尚樹『何か変な噂はありませんか?』
住民『ああ、化け猫の話だね。鳴き声が夜中に聞こえたりするよ。薄気味悪いね。』
近所の住民も化け猫の噂は聞いている人が多かった。屋敷の中から猫の鳴き声が、夜中に聞こえる事も多いらしい。新聞の配達人が早朝、隣家に届けている時に、屋敷の庭から睨む数匹の猫を目撃したそうだ。以前はそんな事は無かったらしく、噂が出始めたのは数カ月前だった。住民の女性は怖いものでも見るように、屋敷の方向をぼんやりとみていた。尚樹はノアールを抱いたまま、通りの先にある屋敷を眺めてから立ち去っていった。
住宅地を出て競馬場に戻る県道の橋の上から、振り返って屋敷を見下ろして眺めた。やはり屋敷の周囲が霞んで見える感じがする…化け猫騒動と何か関係があるのかもしれない。尚樹とノアールが屋敷近隣の聞き込みを終え、ホテルに戻ったのは夕方の四時過ぎだった。他にもわかった事は幾つかあった。屋敷の持ち主は川村修一という名前の人で、聞いた話からすると三十六歳になるだろう。奥さんの名前は瑠偉、娘さんは真由という名だった。
ノアール『ミャ…ミャ』
尚樹『早く帰ってき過ぎた?だってあれ以上は…屋敷は危ないし…とにかくさ尚ちゃん達が帰ってくるのを待ちましょう。』
尚子と響子はまだホテルに戻っていなかった。ノアール嬢はあの屋敷の調査を尚樹に止められた事が、非常に不愉快だったようでふくれっ面をしていた。あの屋敷に…屋敷の猫達に危険はない…ノアールにはそれがわかっていたようで、屋敷の猫と話す機会を奪われた事が不満なのだろう。しかし…尚樹の臆病にも困ったものだ…一応…探偵社の副所長なのだが…。
一方、響子と尚子の組は災害現場から移動し、事故現場にちょうど着いたところだった。現場は帯広駅から二キロほど離れた国道三十八号線で、交通量の多い片側二車線の道路だった。広めの歩道もあり商店が立ち並ぶ繁華街だ。歩行者と車が走る路帯が分離されている事もあり、車道を走る車はかなりのスピードで走っている。こんな街中で発生した事故であれば、周辺の商店の人が目撃しているだろう。
店員『凄い音がしてね。びっくりしたよ。二台目が一番ひどくてね、小さな女の子も乗っていてさ。』
事故の発生した現場の近くの店を幾つか訪ねて、事故当時の状況などの話を聞いた。どの店の人も事故の事は憶えていて、辛そうな表情で話してくれた。事故の状況はこうだった。駅方面に向かって走る車が運転操作を誤り、中央分離帯を乗り越えて突っ込んできたそうだ。片側二車線の中央分離帯側を走っていた車の後方部分にぶつかり、そのまま歩道側の車線を走っていた車に正面から突っ込んだ。正面からにぶつかった後、その後ろの車の右側部にぶつかり停まった。
突っ込んできた乗用車の運転手と、ぶつけられた三台の車に乗っていた人が救急車で運ばれた。三台の車には五人が乗っており、正面からぶつかり一番破損の激しかった二台目の車に乗っていたのが、父親と少女だったようだ。救急車で運ばれていく様子を見ていたそうだが、怪我の様子などはわからないという話だった。
尚子『どの病院に搬送されたのかしら?』
店員『この近くの救急病院は線路の向こうの厚生病院だから、多分あの病院に運ばれたと思うわよ。わかるかしら…競馬場の向こうだよ。』
その後も現場近くの他の店で聞き込みを行ったが、事故に遭った人達の素性を知る人はいなかった。二人は教えられた厚生病院を訪ねてみた。窓口で用件を伝えると事務の女性が出てきた。患者のプライバシーに関わる事は、お答え出来ないの一点張りだった。事故の事も搬送された人の事も全く教えてもらえない。病院の対応は尚子と響子の予想通りだった。そう簡単に教えてくれるわけがない。
尚子『まあ、突然来ても無理よね。』
響子『どうする?』
女性『あの…』
院内の廊下を歩いていると、女性が話しかけてきた。杖を突いた七十歳くらいの女性だ。尚子達が病院の職員と話していたのを聞いていたらしい。女性は股関節を痛めこの病院で手術して、経過観測で通院しているという。一年前に手術し一カ月の入院生活を送った。その後は三カ月に一度、整形外科に通院しているそうだ。
女性の話では四カ月前、交通事故で搬送されたのは五人だったようだ。救急車が何台も到着し病院にいた患者も大騒ぎに驚いて見に行った。意識もあり救急隊と話す者もいたが、呼吸マスクをされ、慌てて手術室に運び込まれた人もいた。話してくれた女性は検診待ちで待っていて、救急の入口まで数人で見に行ったそうだ。
女性『救急車が何台も入ってきてさ、五人だったかね…病院内に搬送されて行ったんだよ。二人は大したケガではなく処置の後に帰ったそうだよ。三人は緊急手術になってね、私の担当のお医者さんが手術に行っちゃってさ、私の検診は後日になっちゃったのよ。』
尚子『三人はその後、どうなったんですか。女の子はいませんでした?』
女性『女の子?ああ、いたわね。父親の方は左手の骨折で済んだけど、娘さんは大怪我だったようだったね。意識が戻らなくてね。もうこの病院にはいないはずだよ。』
響子『亡くなったんですか!』
響子は女性の言葉に一瞬言葉を失った。この病院にはもういない…この言葉の意味する事が少女が亡くなったと思った。あまりにも響子の声が大きく院内の看護師や、他の患者たちが一斉に響子の方をみていた。女性は慌てたように手を振りながら、響子に向かって言葉を続けた。
女性『亡くなっていないわよ!大きな声を出すからビックリしたわ。そういった患者をみてくれる他の病院に転院したそうよ。』
尚子『良かった…響子さん大丈夫みたいよ。転院先ってわかりますか?』
女性『ああ、知ってるよ。父親が転院する前にお見舞いに来てて、たまたま売店の前で話したんだよ。帯広西の駅のそばの療養病院って聞いたよ。確か川村さんって名前だったと思うわ。』
響子すぐにスマホで検索して、女性から聞いた病院の所在を確認した。ホームページには長期療養入院を要する患者を受け入れ、看護や介護を二十四時間体制で行う病院の様だ。二人は女性にお礼を言って病院を後にした。病院を出た時にはすでに四時半を過ぎていた。帯広西の病院の面会時間は十四時から十七時…今から向かっても面会時間には間に合わないだろう。病院への訪問は明日いくことにして、そのまま厚生病院を出ていった。可能性のある交通事故の少女の事と、その父親の名前もわかった。もしまだ入院していれば会う事も出来るかもしれない。響子と尚子はホテルに戻っていった。
尚子『ただいま。早かったのね、化け猫騒動はけりがついたの?』
尚樹『いや、まだだよ。屋敷はわかったんだけど、敵意丸出しの感じで威嚇されて…危なそうだから尚ちゃんと行こうと思って、聞き込みだけして戻ってきた。』
響子『危なそうって…情けない…。』
猫の探偵社+久能響子が揃ったところで、それぞれの調査の報告会が始まった。最初に尚子、響子組から報告があり、響子が代表して報告を始めた。こういった報告は響子の方がうまく報告する。交通事故の被害者に気になる家族がいて転院先もわかった事。そして夫の名が川村である事を告げた。その名前を聞いた時、尚樹は驚いて化け猫屋敷の話をした。屋敷の主の名は川村修一だ、妻と娘の三人家族だった。交通事故の情報と化け猫屋敷の情報が一致した感じだ。アムールトラのゲローイの話しとも一致している。この川村という家族がゲローイの言う家族かもしれない。
響子『屋敷の話はよくわからないけど…アムールトラの情報の三人家族という点は一致するわね。この家族の可能性が高いわ。』
ノアール『ミャ~、ミャッミャ。』
尚樹『ノアール嬢は屋敷が凄く気になっているみたいだよ。明日はどうしようか?』
尚子『病院の面会時間は十四時からだから、まずは化け猫屋敷にいってみよっか。所長の直感は無視できないわ。敵意のある視線か…血が騒ぐわ。』
翌日、十時にホテルを出てレンタカーで屋敷に向かった。屋敷から少し離れた所で車を停め、路地を歩いて近づいていった。屋敷まで五十メートル位まで近づくと、複数の視線と敵意のある感情を感じた。尚樹は身体を固くし身構えながら歩いた。尚子も敵意を感じている。尚子は格闘家としての経験で近づく敵意には敏感だ。ノアールは視線の正体を探った、どうやら彼女にはわかったようだ。久能響子はカメラを手に後ろから着いていった。
屋敷の前まで来ると複数の視線が様々な方向から、尚樹や尚子達に浴びせられている。戦闘態勢に入った尚子のオーラに反応して、敵意は尚子に集中して向けられたようだ。尚子が先頭に立ち尚樹達を制して、屋敷の門扉に手を掛けた。その時…左右の塀の上や門扉の中に十数匹の猫が現れ、威嚇するように唸り声をあげた。尚子は猫達を睨みつけ構わず門扉を開けて庭に入っっていった。
尚子『化け猫じゃないみたいね…本物の生きた猫達だわ。貴女たち…ちょっと相手にするには小さいけど、向かってくるなら容赦はしないわよ。手加減はするけど痛い目に遭うわよ。』
身構えながら前に行く尚子に、猫達は唸り声を上げながらも後ずさりしていった。このまま尚子が押し切るかと思った瞬間、大きな鳴き声が後ろから響き猫達の後退が止った。一斉に飛び掛かろうと身構えた時、ノアールが強い気を発した。尚子や響子にもノアールの強い気は感じられた。十数匹の猫達はノアールの気に正気を取り戻したようだ。猫達から敵意は消え庭に伏してノアールを見上げていた。
尚子『大人しくなったわ。流石は所長ね。』
尚樹『尚ちゃん、まだだよ。』
尚樹の声に前を向くと大きな洋ネコが一匹、尚子の前に走ってくる。たてがみの様に首の周りの毛を逆立て、庭に伏した猫達の間を抜け襲いかかろうとしていた。最初の一撃は尚子の防護の前に無効化された。尚子が身構え洋ネコと対峙した時、屋敷の中からひときわ大きな鳴き声が響き、洋ネコの動きも止まった。ノアールが屋敷の声の主と思念を交わし、ここに来た要件を伝えた。大きな洋ネコはノアール達を案内するように、屋敷の玄関まで歩いていった。
尚樹『どうやらノアールの意思が伝わったみたいだ。受け入れてくれたようだね。あ~怖かったね。』
響子『ビックリした。猫が襲ってくるなんてさ。尚子ちゃんとノアールちゃん、行っちゃうよ。着いていかないと』
玄関には鍵がかかっていて、屋敷の中に入るには鍵が必要だ。ノアール達は家主に立入の許可も取っていない…現状では不法侵入という事になる。洋ネコは玄関の猫用の扉から入っていった。ノアールも入ろうとするが尚子が抱いて離さなかった。どんな危険が家の中にあるかわからない。大事なノアールを一匹で行かせるわけにはいかない。散々、尚子に向かって離すように説得したが聞きそうもなく、ノアールも諦めて家の外から鳴き声の主と話し始めた。
何か…遮断するような空間の歪みがあり、二匹の会話は途切れ途切れになる。十五分程の会話でノアールは家族の事と洋ネコの事、屋敷で起きている事を大雑把に把握する事が出来た。しかし空間に遮断するような障壁があり、中に入らなければ詳細を掴むのは無理だった。
ノアール『ミャ~~』
声の主『ミャ~』
再び訪れる事を屋敷の中の意識と約した後、ノアールは庭の外に出るように尚樹達を促した。十数匹の猫達のあいだを抜け、尚樹達は屋敷の敷地から外に出ていった。庭から玄関前まで行った時、尚樹も不思議な違和感を覚えていた。通常の空間にはない違和感…屋敷全体を何かが覆っているような感覚を覚えた。時刻は十一時なったばかり、面会の時間までには余裕がある。一行は一度ホテルに戻りノアールの話を聞く事になった。響子は川村修一の事を調べると言って尚樹達とは別行動をとった。
尚樹と尚子はホテルでノアールの話を聞いていた。あの屋敷は何か閉ざされたような空間の歪みがあり、途切れ途切れの会話になったそうだ。声の主の名はルシアと名乗った。ルシアは屋敷に人が立ち入らないように、二匹の家族の猫たちに守らせていると言っていた。二匹のうちの一匹が庭で尚子に挑んできた洋猫なのだろう。庭にいた他の猫はルシアが集めたようだ。母と娘の…という声が聞こえたが、遮断された空間のせいか内容は聞き取れなかった。
響子『すみません。また少し調べさせてください。』
響子は地元の新聞社に行き川村修一の事を調べてみた。川村という名前を調べてみると、帯広に戦前いた町議と市議の二人に辿り着いた。そしてその系譜を調べると、祖先の中に修一の名前があった。川村修一は駅から離れた所で牧場の経営をしていた。響子は牧場の住所を記録してホテルに戻っていった。響子がホテルに戻りノアールを報告を伝え、響子の報告を聞いているうちに、面会時間の十四時近くになっていた。
尚子『地元の政治家の家系なのか…いい所の坊ちゃんって感じなのかしらね。牧場って車で二十分くらいね。行ってみる?』
響子『病院に面会に行ったあと行ってみましょうか。』
尚樹『屋敷への立ち入りを許して貰わないといけないからね。牧場は病院から車でそんなに掛からないから、病院に行ってからいってみようか。』
ノアール達はホテルを出てまずは、事故で入院している少女の病院に向かった。一行が病院の駐車場に着いたのは一時五十分だった。ペットを連れて面会する事は出来ない病院は多いが、この病院は緩和ケ病棟にア近い病院だった為、ノアールが入る事も許して貰えた…ノアール嬢はペットではないが…。病院の中に入り窓口で面会の手続きをしていると、後ろから男性が声を掛けてきた。
修一『あの、失礼ですがどなたですか?妻と娘のお知合いですか?』
声を掛けてきたのは川村修一だった。彼も面会に来て病院に入ってきた時に、窓口で自分の妻と娘の名前が聞こえてきた。えっと思って受付に近づいていくと、面会しようとしているノアール達がいた。そして見ず知らずの尚樹達に声をかけた。振り返った響子が川村の顔をみた…新聞の記事に彼の顔写真も載っていて、響子はすぐに川村修一だと気づいた。
響子『いえ、知り合いではないのですが…えっと…あの川村修一さんですよね。』
修一『ええ、そうですが…』
響子『えっと、実は…尚子ちゃん、お願い』
響子には修一に説明する事が難しかった。アムールトラのゲローイに会った事も無かったし、何よりトラの依頼でやって来たとは言えなかった。実直なフリーのルポライター久能響子、事実に基づいて記事を書くライター…どう説明していいかわからなかったようだ。こんな時に最適な人物が副所長の本条尚子だ。尚子は不思議な話をまるで普通の話のように説明し、納得させる事が出来る副所長だ。しかし川村修一には必要なかったかもしれない。
尚子『川村さん。私達は探偵社・黒猫のノアールのものです。信じて戴けないかもしれませんが…二年前まで帯広の動物園にいた、アムールトラのゲローイの依頼で伺いました。』
修一『黒猫のノアール?聞いた事があります。動物と心を通わすとか…。虎の依頼?アムールトラって…ああ…真由が大好きだったトラですか?』
尚子『はい。私達は猫の探偵ですがゲローイと話す機会があり、彼が言うには三カ月くらい前から胸騒ぎが止まらないというのです。この帯広の動物園で仲良くした母娘が夢に出てくるんだそうです。ゲローイは食事も細くなるほど心配していました。』
修一『信じがたい話だけど…僕たち牧場関係者の中でも、黒猫のノアールは有名ですから…お話ししましょう。病室に行きましょうか。』
川村修一は乳牛の牧場を経営しておりホルスタインや、日本では頭数の少ないジャージー牛を多く飼育していた。牧場で働く人達は久能響子の書いた記事を読んでおり、黒猫のノアールの人気は女性従業員を中心に高いそうだ。修一は響子から渡された名刺をみて、驚いた表情でそんな話を聞かせてくれた。たわいもない話をしながら病室に向かったが、川村修一の笑顔には何か暗い影を感じた。
修一『この部屋です。三人部屋ですが妻と娘だけの病室になってますから。どうぞ。』
探偵社の一行は病室に案内された。日当たりのよい病室には二つのベッドが並んでいた。一つのベッドには母の瑠偉、もう一つには娘の由真が寝ていた。二人とも私達が部屋に入った事にも、気づく事も無く眠り続けていた。安らかな感じの眠りだ。
響子『奥様も入院されてたんですか?娘さんの事故の事は聞いていましたけど…。』
修一『ええ、事故の前、二カ月くらい前だったかな。』
川村家は帯広の名家だった。明治時代になり北海道の開拓が本格化して、政府の主導で本州から多くの開拓民が来道してきた。川村修一の先祖は岩手県の久慈港から船に乗り、新天地の北海道の函館を目指した。当時は函館が政府の機関もあり北海道の玄関口だった。函館には川村家が来る前から多くの開拓民が来ており、周辺の地域を貸与して貰う事が出来なかった。そして北海道の奥地を目指し帯広に辿り着いたらしい。
川村家は開拓民の中で中心的な役割を果たし、時の流れと共に地元の名家として栄える事になった。様々な事業を展開し地元の発展に寄与し、村政にも関わっていった。修一の曾祖父や祖父はまだ帯広が市になる前は町議もした。時代が経つにしたがって政治や事業からは手を引き、川村家の仕事は農業に集約していった。今は大きな牧場の経営をしている。
修一が妻と娘の事を語り始めた。修一の妻、瑠偉は七カ月前に自宅で眩暈を覚え、総合病院の脳神経外科の診察を受けた。脳のMRI検査の結果、一過性脳虚血発作と診断された。所謂、脳梗塞の前兆といわれる発作が襲ったという事だった。瑠偉の症状はすぐに回復したが通院後、脳梗塞の危険が高い事がわかった。入院し精密検査をする事になり、検査入院をする事になった。入院した翌日、瑠偉を脳梗塞が襲った。通常は前兆からこんな短期間での発症はないのだが…。幸い病室で医師が検診中だったためすぐに手術が行われた。手術は成功したがそのまま療養的な入院を余儀なくされた。
手術は成功し意識はすぐに戻ったが記憶障害が若干あり、身体にも若干の麻痺が残っていた。リハビリが必要という事になり、この療養医療病院に転院し入院生活になった。一週間が経過した頃から記憶も戻り、身体の麻痺以外は少しずつ回復しつつあった。修一は牧場に早朝、寝ている真由を連れて向かい、午前の仕事が終わると病院にいき、妻の病室を娘と毎日のように訪れた。娘の笑顔を見る度に妻、瑠偉の病状も良くなっていく感じがした。
四カ月前、牧場から病院の見舞いを済ませて、帰る途中で事故に巻き込まれた。中央分離帯を飛び越えてきた車が、修一の車の助手席を直撃した。とっさに左手で助手席の真由をかばい、その時に修一は左腕を骨折した。真由は修一がかばったにも関わらず頭部に損傷を負った。頭蓋骨にヒビが入る程の重傷だった。そのまま搬送され手術を受けたが、いまだに意識は回復していない。
母親の瑠偉には暫くは話さなかった…いや話せなかった。見舞いに来なくなった娘の事を気にする瑠偉に、修一は流行性の感冒だと偽っていた。真由の意識が戻らず瑠偉の入院する療養病院への転院が決まった時、瑠偉に事情を説明したそうだ。瑠偉は泣き叫び悲しみに沈んだ。真由が転院してきた時、ベッドに眠る我が子を抱きそのまま意識を失った。それ以来、二人は同じ病室で眠り続けている。
修一『真由の姿を見てショックを受けたのでしょう。すぐに目覚めると思ったんですが…四カ月間、この状態が続いているんです。担当の先生も瑠偉の容態は、全く要因が掴めないと話されていて…二人とも苦しむ用な様子はないのが幸いですが…』
瑠偉は動物好きで牧場の仕事も好きだったそうだ。真由が産まれるまでは牧場の手伝いもしていた。ホルスタインやジャージー牛の世話も喜んでして、牛たちとの仲も良くまるで家族のようだったそうだ。家では二匹の猫を飼っていた。ロシアのサイベリアンという種類の猫で、大きな身体の猫で体長は五十センチを超える。修一と結婚する前から瑠偉が飼っていた猫だそうだ。たてがみの様な毛が首の周りを覆い、風格のある威厳に満ちた猫だった。二匹は雄と雌、やがて三匹の子猫が誕生し二匹は里子に出し、一匹だけを手元に残していた。それが真由の産まれる一年前の事だった。瑠偉が真由を身籠った事がわかり、瑠偉は屋敷で義父母と三匹の猫に囲まれて幸せに過ごした。
真由が産まれると三匹の猫達がいつも真由に寄り添っていた。父猫は優しい瞳で遠くから見つめ、母猫は真由と自分の子供を一緒に育てるような感じだったそうだ。その様子は母の瑠偉が嫉妬するほどだった。義父が亡くなり義母が亡くなって、屋敷は三匹の猫と三人の家族だけになった。祖父母がいなくなった母子の寂しさは、大きなサイベリアンの母猫が癒していた。真由がアムールトラのゲローイを大好きになったのは、屋敷の猫達、サイベリアンの面影をみたのかもしれない。瑠偉が脳梗塞で倒れる少し前に、母猫が亡くなっている。ルシアという名前だった。
瑠偉が入院した後も二匹の猫達は真由を支えた。瑠偉は猫達に癒され守れている感じがしていて、亡くなったルシアも近くにいるように感じた。入院中も真由の事は安心出来ていたのも、家の中に真由を見守る猫の存在が大きかった。真由が事故に会ってからは、真由は屋敷には戻っていない。修一が屋敷に戻ると猫達は真由の姿を探し修一に纏わりついた。心配してうろうろしながら鳴く猫の様子に、何かを悟っているのだと思ったそうだ。真由が転院し瑠偉の意識が途絶えた頃から、帰宅しても猫が騒ぐ事も纏わりつく事も無くなった。
修一『あの猫達は瑠偉が可愛がっていた子達ですし、真由を家族のように思ってたから…。きっと何かを察したんだと…。』
尚子『家には帰ってないって聞きましたよ。』
修一『ええ、妻と娘の事もあるし、牧場の事もありますから。屋敷には戻る時間もなくて…ご飯と水は近くに住む牧場の子にお願いしてるんですよ。』
尚子『真由ちゃんの容態はどうなんですか?』
修一『……脳の損傷があって、術後の経過も良くないです。脳死に近い状態だそうです。転院した時は医者から覚悟だけはしておくように言われました。三カ月が経ちましたが安静な状態は続いています。』
ノアールは真由と瑠偉をみていた。じっと何かを探るような感じで視ている。尚子に指示し真由の近くに行くと、耳元で小さな声で鳴き頬を舐めた。その後、瑠偉の近くに行くと鳴かずに黙って見ていた。尚樹も病室内に漂う空気に違和感を覚えていた。あの屋敷の玄関先で感じた遮断された感覚に近いものだ。響子は日立に住むアムールトラに伝わった事が、この事だったと理解した。調査はこれで完了…と思った。
響子『悲しい報告になりますね。修一さん、ゲローイには伝えますね。』
ノアール『ミャ~~』
響子『え?』
尚子『まだみたい、終わってないって言っているわ。』
尚樹『僕もそう思う。修一さん、屋敷の中に入っていいですか?』
修一『え、ええ。いいですよ。私も一緒に行きますよ。』
一時間ほどで病院を出ると修一の屋敷に向かった。近所の人の話では『売りに出していると思う』言っていたが、実際には売りには出していなかった。瑠偉と真由と過ごした屋敷であり、父母との想い出もある。修一にとっても心の拠り所でもあり、手放すはずがなかった。いつの日か二人が目覚めて屋敷で猫達と一緒に、幸せに暮らせる日が来る事を信じていた。屋敷の裏手の門を開け車で裏庭に入っていった。正面玄関に向かうと十数匹の猫がノアールを出迎えた。玄関前には一匹のサイベリアンが待っていた。
修一『これは…なんでこんなに猫が…。』
ノアールが尚子から降り、十数匹の猫の前を通り、サイベリアンの前に行った。洋ネコは小さな声でノアールに鳴きかけると、背中を向けて猫用のドアから屋敷の中に入っていった。ノアールも洋猫の後に続いて、猫用の入口から屋敷の中に消えていった。尚子が慌てて修一をせかし玄関の錠をあけさせ、小走りに屋敷の中に入っていった。その後ろから尚樹達も屋敷の中に入った。
玄関から入ると広いリビングになっていた。視線の先には一匹のサイベリアンと話すノアール。やがて上を見つめ階段の方へ歩き出した。尚樹は室内に漂う違和感が、二階から来ている事に気が付いた。二階に何かある…一匹のサイベリアンはリビングに留まり、階段を上がろうとはしない。ただ、階段の上をみつめている。
尚樹『二階は?』
修一『瑠偉と真由の寝室です。僕は朝が早いから、妻と娘とルシアが一緒に寝ていました。』
尚子『行ってみましょう。』
ノアールの後に続いて尚子達も階段を上がっていった。階段を上がって左の部屋が母娘とルシアの寝室だ。寝室の扉の前にサイベリアンの雄猫が座っていた。亡くなった雌猫ルシアの夫、カイだった。まるで寝室を守る最後の砦の様に、勇敢な面持ちで鎮座していた。ルシアとカイ…瑠偉が十四年前から飼っている猫だ。ルシアは十三歳で亡くなった。カイは十五歳になるはずだと修一が話してくれた。
ノアールがカイに近づき、何か話しかけている。カイの瞳には悲しみが宿り、尚樹はカイから使命の波動を受けた。カイは尚樹風に言うと《進化した猫》ではない。発展途上の猫だった。その猫が使命感で動いているのは、恐らくルシアの想いからだろうと察した。ずっと感じる隔絶されたような違和感は、寝室の中から伝わってきている。
尚樹『この部屋に何かあります。』
修一『え?でも、誰もいないはずです。』
尚子『とにかく入ってみましょう。川村さん、響子さん、ノアールと尚樹さんの邪魔にならないように。私達は入口付近で立ってましょう。』
カイが部屋の前から移動した。尚樹がドアノブに手を掛け、ノアールと一緒に部屋に入っていった。その後を尚子と響子、修一が続き入口付近で止って、ノアールと尚樹の姿を眼で追っていた。三人にも部屋の中の空気が違う事は何となくわかった。尚樹とノアールは部屋の窓際に置かれてあるベッドの傍に立った。ベッドの周りには猫達の波動が纏わりついている。一階にいる一匹のサイベリアンとカイの波動、そしてもう一匹の強大な波動…恐らくルシアだろう。
ノアールがベッドの上に飛び乗った。前を見つめ『ミャ~』と大きな声で鳴いた。するとそれに呼応するように、部屋の中に猫の鳴き声が響いてきた。その声は響子と尚子、そして修一の耳にも聞こえていた。
修一『今の鳴き声は…ルシア…ルシアの声だった…。』
やがてノアールの眼の前にベッドの中央にお腹を着けて座る、サイベリアンの雌猫、ルシアの姿が浮かび上がってきた。その威厳のある容姿は尚樹にもはっきりと視えた。ルシアは四本の足で何かを抑えている感じで、ベッドの上に鎮座している感じだ。この先は猫語を日本語にして進める。
ルシア『力ある黒き姫よ、よく来てくれました。私はルシア、この家を…瑠偉と真由を守るものです。ノアール、貴女にはもう感じていますね。』
ノアール『ええ、この不可思議な空間の歪みは、ルシア、あなたと一族が作り出しているのね。何かをここに留めておこうとしている。』
ルシア『ええ、そうです。悲しい事ですが、瑠偉には理解できないようなのです。』
病室で瑠偉が真由を抱きしめた時に、真由の魂は身体から抜けかかっていた。瑠偉は母親の本能でそれを察して真由を、娘を守ろうとした。死なせてはいけない!瑠偉は必死の思いだったのだろう。真由の身体に触れた瞬間、瑠偉の魂が真由の魂を包み込んだ。瑠偉が病院で真由を抱きしめた時に、意識を失った理由は魂の状態で娘を守る為だった。勿論、瑠偉自身はそんな事には気づいていない。必死の思いで行っただけだった。
ルシアは瑠偉が倒れてからはずっと瑠偉の傍にいて、彼女の様子を見守っていたようだ。瑠偉が手術をして入院してからは常に病室にいて、彼女の看病を続けていたそうだ。真由を抱きしめ意識を失った瑠偉は、非常に危険な状態になった。離れようとする魂を留める事は、人や動物の霊的な力では出来るものではない。このままでは瑠偉の魂もやがて肉体を離れ、真由と共にこの世から消えてしまうだろう。
ルシアは二つの魂を咥え、屋敷の寝室に連れ込んだ。ベッドの上に寝かせ一族の力を借り、寝室の空間を遮断した。邪魔が入らないように周りの猫達を集め、人が屋敷内に入るのを防いだ。修一が頼んでいた従業員は、裏戸から入って餌と水を代えるだけで帰る。屋敷の中まで入ってくる事はなかった。寝室の遮断した空間の中で、瑠偉への説得をするつもりだった。だが、瑠偉は真由の魂を抱き、意識を眠らせて応えようとはしなかった。
ルシア『私は何度も瑠偉に呼び掛けましたが、彼女の意識は真由を包み込む事に必死で…私の呼びかけに反応する事は無かったのです。』
ルシアは瑠偉と真由の記憶にある、全ての物に助けを求めた。そのルシアの叫び声を聞いたのが、アムールトラのゲローイだった。ゲローイと出会った猫の探偵社…この世に偶然はない、きっと必然だったのだろう。ノアールが最初に屋敷の傍に来た時、ルシアはすぐに救世主の出現を感じた。猫達に敵意を向けぬように思念を送ったが、尚樹が臆病過ぎて間に合わなかった。二度目に来た時は途切れ途切れになりながらも、自分の意思を伝えることが出来て、いずれこの部屋に来るものと一族には伝えてあった。
ルシア『瑠偉だけでも助けねばなりません。真由はいずれ瑠偉の基に戻ってきます。私が真由を守り続ける事になるでしょう。力ある黒き姫よ、後ろの人間と共に瑠偉を覚醒させ、現世に戻してくれませんか。お願いします。』
尚樹もルシアの言葉を理解した。ルシアは進化した猫よりも更に先にいる猫《神聖を備えた猫》だった。あの猫神ミケの領域には遠く及ばないが、不思議な力を持つ猫だった。ノアールと尚樹の目にベッドの上で、ルシアの身体の下に横たわる二人の姿が視えてきた。真由を抱きしめ目を閉じる瑠偉、じっと動かない真由。そして二つの魂を抑え込むルシア…瑠偉の目を覚ますには真由から離す必要がありそうだ。ノアールがルシアの一族の猫、庭にいる十数匹の猫に気を送るように命じた。集まった気で一時的に真由の魂を抱きとめるつもりのようだ。尚樹もノアールの意図を読み取った。
ノアールは集まった気を真由の身体に纏わせていった。真由の魂を完全に包んだ時、尚樹とルシアが瑠偉に呼び掛けた。ルシアは瑠偉の腕を取り、真由から離しながら優しく呼びかけた。ノアールはじっと動かず、真由の魂を繋ぎ止めている。尚樹も瑠偉に何度も声を掛け、呼び覚まそうとしている。後ろに立っている修一や響子には、何をしているのか不可思議な光景だった。瑠偉の眼がうっすらと開き始めた。
瑠偉『…ここは…、そうよ、真由!』
ルシア『瑠偉、私がわかりますか。』
瑠偉『え?ルシア?ルシア!会いたかった、真由が…』
ルシア『瑠偉、わかっています。ずっと瑠偉の傍で視ていましたから。真由はもう魂が離れています。神ではない者の力では繋ぎ止める事は出来ません。瑠偉にもわかっているでしょう?』
瑠偉『でも…真由がいない事なんて信じたくない。』
ルシア『周りをごらんなさい、修一も心配しています。貴方がそのままでは悲しむ人も増えるのです。』
瑠偉『修一…ルシア、真由は助からないの』
ルシア『今はその手を離して、真由を私に委ねなさい。真由は私にとっても可愛い娘。この子の魂は私が守ります。』
瑠偉『ルシア』
ルシア『真由はやがて瑠偉、貴女の基に戻ってきます。その時は私も戻ってくる事になるでしょう。一時の辛抱よ。』
瑠偉『ほんとう?ルシア、ほんとうなの?』
ルシア『瑠偉、私が貴方に嘘をついた事がありますか(笑)』
瑠偉『ないわ、真由、私の可愛い真由。ルシア、約束よ。真由と一緒に戻ってきてね。』
部屋の中を覆っていた空間の歪みが薄れた感じがした時、瑠偉の存在が部屋から消えていった。部屋の中には真由の魂だけが残され、ノアールが集めた気で繋ぎ止めていた。ルシアがノアールに話しかけると、ノアールは閉じた目を開けルシアを見た。
ルシア『力ある黒き姫よ、助かりました。ありがとう、これで真由の魂を昇華させる事が出来ます。』
ノアールが集めた気を拡散させ猫達に戻した。真由の身体が浮き上がり、ルシアの横に立ちあがった。真由は眼を開け意識を取り戻しノアールと尚樹に礼を言って、ルシアと共に消えていった。部屋の中を覆っていた空間の歪みはなくなり、静寂と清浄な空気に包まれていた。ベッドの脇でボーっとした顔で立つ尚樹を、ノアールが大きな鳴き声をあげて急き立てた。
尚樹『終わりました。病院に急ぎましょう。』
修一『一体、何が?』
尚樹『詳しい話は車の中でします。修一さんにはつらい話かもしれません。』
病院に向かう車の中で尚樹の話を聞き、修一は愛娘、真由が旅立った事を知った。瑠偉と真由の事も全て聞き、あの部屋で起きていた事も尚樹から聞いた。修一は医師から真由の事は聞いていた。事故から四カ月、生存しているのが奇跡としかいいようがないと医師達は言っていた。真由の事は覚悟が出来ていた…覚悟はできていたが…涙がとめどなく溢れていた。そして瑠偉が真由の事で悲しむ姿を見るのが辛かった。病院に着くと院内が騒がしかった。
看護師『あ!川村さん、奥さんが瑠偉さんの意識が戻りました。それと…』
川村『真由が息を引き取ったんですね。』
看護師『はい…病室に急いでください。』
病室には医師と看護師が、瑠偉のベッドに寄り添っていた。真由は両手を十字に組んで寝かされていた。修一が瑠偉のベッドの脇に座り、瑠偉の頬を撫でて涙を拭っていた。修一の眼からも涙が溢れていた。部屋は一瞬、静寂に包まれた。瑠偉を抱き起し二人は抱き合うようにして、隣のベッドに横たわる真由を見ていた。尚樹も尚子も響子も、二人の姿を視ているのが辛かった。
瑠偉『あなた、真由がこんなに早く逝くなんて…守ってあげられなかった。』
修一『僕の責任だ、ごめんね。瑠偉、君だけでも戻ってくれて…ありがとう』
その時ノアールが尚子から離れ、真由のベッドの上に乗った。真由の頬を舐めた後、振り返って瑠偉と修一を見つめた。二人は驚いて黒い威厳のある猫の姿をみていた。ノアールが声を出して鳴くとその隣にはルシアが座っていた。修一にも瑠偉にも他の人達にも視えなかったが、尚樹にははっきりと視えていた。尚樹がルシアの言葉を伝えた。
尚樹『瑠偉さん、ルシアは瑠偉さんに嘘を言った事はないのでしょう。僕はルシアの言った言葉を信じていますよ。』
瑠偉『ルシアの…何故、その事を知っているの?夢の中の話なのに。』
修一『瑠偉、夢じゃなかったんだよ。信じられないと思うけど。』
尚樹『瑠偉さん、元気を出して。ルシアもノアールの横に来ていますよ。』
瑠偉『夢じゃない?ルシア、さっきのは夢じゃなかったの。』
病室に瑠偉の泣き声が響いた。しかし悲しみに包まれた泣き声ではなく、希望も混じった泣き声だった。瑠偉がノアールを抱き『貴女は一体、何者なの?』と聞いていた。尚子が名刺を差し出すと驚いた顔でノアールを見つめ、再び泣きじゃくりながら抱きしめていた。猫好きの牧場の奥さん…瑠偉の中で猫の探偵社は特別の存在だったようだ。ルシアはベッドの上から優しい眼差しを送っていた。
依頼はこれで完了した。久能響子は帯広空港から空路、東京に戻っていった。出版社の編集長に電話で報告すると、記事を早く書くように急き立てられた。響子もイメージと感触を忘れないうちに書き上げたかった。尚樹と尚子とノアールはレンタカーで富良野を目指した。尚樹の生まれ故郷、小学六年生まで暮らした街だ。富良野を出てもう十四年になる。その間、一度も富良野に行く事はなかった。
富良野に着くと住んでいた家を探した。十四年経っても風景は変わっていなかった。尚樹が暮らした家は売りに出され、買った一家がそのまま住んでいた。懐かし気に家を外から見る尚樹、尚子はちょっとだけ優しい気持ちになり、そっと尚樹と腕を組んだ。尚樹の実家を買った人はやはり獣医だった。父の死後、新しい獣医として富良野に来た一家に買われていた。
尚子『訪ねなくていいの?』
尚樹『うん。お父さんとお母さんの想い出は胸の中にある。』
その後は父が担当した牧場を見たりして、尚樹が動物達と戯れていた場所にも行った。冬の富良野、その場所は雪原になっていて動物達はいなかったが、尚樹の脳裏には在りし日の光景がよぎっていた。雪原で佇み一時間近く、物思いにふけっていた。尚子とノアールは十分で寒くなり、車に戻って尚樹が戻るのを待った。尚樹が戻ると車は札幌に向かって走り出した。
尚子『今度さ、真希ちゃんも連れて夏に来ようか。』
尚樹『そうだね、真希も懐かしいと思う。』
札幌には夜八時に着き中島公園近くの、ペット可のビジネスホテルに泊まった。翌日、朝六時半過ぎの特急北斗に乗り、新函館北斗で新幹線に乗り換え、東京には三時過ぎに着いた。事務所には寄らずに叔母と真希の待つ自宅に、尚子とノアールも一緒に帰った。北海道のお土産は帯広が本拠の六花亭の十勝日誌だ。六花亭のお菓子の詰め合わせには、真希も紗栄子もとても喜んでくれた。
翌日は旅の疲れもあり休暇にした。ノアールも長旅で疲れただろう。老成しているとはいえ、まだ一歳半のお嬢様だ。尚子の部屋で一日中、猫用のベッドでぐーたら過ごしていたらしい。アイドル視している猫達が視たら、姫神様の威厳も落ちたかもしれない。尚樹は事務所で書類作成をしていた。捜索資料と請求書を送らないと、捜索が終わった依頼主も振り込みが出来ない。
休暇の次の日は二人と一匹で日立に向かった。アムールトラのゲローイに報告する為だ。黒い毛で思念は送れるが、直に会って報告すべきとノアールが判断した。動物園に着くと園長と由香里、優貴が待っていた。ゲローイも裏の檻で待っていた。ノアールとゲローイは三十分程、檻の中と外で話をしていた。話し終わった時、ゲローイの眼に涙が零れていた。
園長『黒猫のノアールか。不思議な猫と不思議な二人だった。』
由香里『ええ、本当ですね』
動物園を去るノアールと二人の背を、園長たちは見送りながら話していた。
それから一月後、瑠偉は退院し屋敷に戻った。カイと娘、メス猫のアーシャは瑠偉を守って暮らし始めた。そして半年後にカイが天に召された。十六歳、猫の天寿を全うし真由とルシアのもとに旅立った。川村家にはルシアとカイの娘、サイベリアンのメス猫アーシャだけになり、瑠偉はもう一匹サイベリアンの雄猫を飼い始める。二歳のバズだ。瑠偉はルシアが望んでいる様な気がした。
そして一年後、瑠偉が身籠った、瑠偉はあの時のルシアの言葉を信じていた。きっと真由が戻ってきたと思った。瑠偉が妊娠三カ月目に入った頃、サイベリアンのアーシャも懐妊した。二カ月後、アーシャは二匹の雄と雌の猫を産んだ。瑠偉はメス猫にルシア、雄猫にはカイと名付けた。瑠偉が産んだ子は女の子だった。瑠偉は真由と名付けルシアがずっと寄り添っていた。




