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猫の探偵社  作者: 久住岳
1/8

第1巻 不思議な探偵

猫の探偵社 




 野上尚樹。


 北海道で生まれた彼は幼い頃から、自然と動物との触れ合いの中で育った。富良野の大自然の中で成長する中で、不思議な能力が備わっていく。彼がその能力に気づくのは、富良野の地を離れた後。両親がなくなり叔母に引き取られ、妹と二人、千葉に引っ越し中学校に通い始めてからになる。


 人の多い都会で彼は人の心の声に悩まされる。そう、尚樹は動物の感情を絵のように感じる事が出来る能力を持っていた。人の感情は妬みや恨みなどもいり交じる。富良野の動物達の純粋な感情とは違っていた。段々と心を閉ざし人と遠ざかるようになった尚樹に、叔母は精神修養を薦めた。


 奥多摩にある修験道場に通ううちに、人の感情の流入を抑えられるようになり、尚樹に普通の日々が訪れる。大学生になった時、妹の友達の行方不明になった猫の捜索を手伝う。部屋に残された猫が普段使っていた道具に触れた時、不明になっている猫の感覚が尚樹の心に伝わった。すぐに尚樹は猫の元にいき、探し出す事に成功する。この事があり卒業時に就職で悩んだ際、不明猫の捜索専門の探偵社を作る事になった。


 本条尚子。


 尚子は帰国女子。父親の仕事の都合で日本と海外を行ったり来たりの少女時代を過ごす。海外の生活が長い為か、臆する事なく言葉を発する傾向がある。子供の頃に空手を習い始め、全国大会でも入賞する達人だ。尚樹のような特殊能力はないが、探偵社入社後、探偵学校で最優秀の成績で卒業、探偵としての調査能力、格闘術に優れ、喧嘩の弱い尚樹を補佐して事件の解決にあたっていく。尚樹は猫の捜索以外はやりたくないが、尚子は事件に関わるのを好む。事件がらみでは尚子の体力が大いに役立っていく。


 黒猫のノアール。


 生後三か月の黒猫だ。足腰がしっかりしだすと、自分の周囲の事件の匂いを嗅ぎ取り、解決の為に奔走する。そんな中、溝にはまり家に帰れなくなり、飼い主が尚樹に捜索依頼をした。ノアールを探し出すと、彼女の抱えていた案件解決の為に、尚樹と尚子を巻き込んでいく。解決後、尚子の元に里子に出され、探偵事務所の所長に就任した。


 猫の捜索専門の探偵社だが、人と猫のかかわりは深い。猫に絡んで人の事件にも巻き込まれていく。猫の見た事や感情を知ることが出来る尚樹は、人間には知る事が出来ない事実から、事件や様々な案件の背景を読み解く。黒猫のノアールは特殊な感知能力と、周囲の猫達の情報で確信部に迫っていく。尚子は...並外れた格闘術で叩きのめす事もある。一匹と二人は猫と人とが関わる事件を解決していく。


 一匹と二人...事件に関わる度にそれぞれの能力を成長させ進化させていく。日本全国を巡り、土地の因縁や人の因縁と向かい合う。物語は一話完結形式で、時系列で進んでいく。


 序  章

 

 『ああ、やっと着いた。やっぱりここが一番いいな~』

 

 弓折乗越を過ぎて四十分、目的のテント場と小屋の後ろに、雄大な鷲羽岳が姿を現した。仕事が一段落すると心の安定を求めて、私はお気に入りの山に登る。一人で山の空気に触れ過ごす事が精神を安定させ、能力を高める事に繋がるような気がする。この山域には夏場しか来る事は出来ないが、一番のお気に入りの山域だ。

 私の名前は野上尚樹。今年二十九歳になった。北海道の十勝地方に生まれ、両親と四歳下の妹がいた。自然豊かな草原、山林を庭に育ち、いろいろな動物たちと遊んで育った。私の周りには野生の小動物が寄ってきて、何故か彼らの感情がわかるような気がしていた。言葉を知らない彼らの悲しみや喜び、怒り、驚きや恐怖といったものが、心の中に伝わってくる感覚があった。

 母、真由美は八歳の時に病で亡くなった。幼い妹、真希は《死》を理解していなかったが、母が家にいない事を悲しみ、泣き暮れていた。私も悲しかった。そんな私達を優しく癒してくれたのも、野生動物や牧場の牛や馬たちだった。私達が草原で座って泣いていると、何処からともなく鹿やリスがやってきて、寄り添ってくれていた。

 父、俊一は牧場の獣医をしていた。いくつかの牧場を受け持ち、忙しく駆け回っていた。牧場の動物の病やケガは突発的に起こる、夜中や早朝でも父は出かける事が多く、母が亡くなった後、家にいる時の家事や妹の面倒は私がみていた。ある日、学校から帰ると慌てた父の姿があった。父が目を離したすきに、妹は家を抜け出してしまったそうだ。私は急いで家を飛び出し私の後を父も着いてきていた。裏の雑木林の中に入り真っすぐに泣いていた妹の元に駆け寄っていた。父は驚いて私を見ている、私自身も何故、妹がいる場所がわかったか解らなかった。

 

 父 『おまえは不思議な子だな』

 と父は私の頭を撫でて、笑っていた。

 

 そんな父も十二歳になる直前の二月に亡くなった。突然の出来事だった。朝、いつもなら起きて診療の準備をしているはずの、父の姿が見当たらなかった。急な往診に出かけたのかと思ったが、診療器具は残ったままだ。不安を覚え父の部屋を覗くと、ベッドで眠る父の姿があった。疲れて寝坊したのかと思い、声をかけたが反応はなかった。文字通り眠るように亡くなっていた。

 父の死を私はそれほど悲しんではいなかった。父は母を心底、愛していた。母が亡くなった後、私達の前では笑顔しか見せなかった父だが、私は知っている。私達が寝静まった後、一人で外に出て星を見上げながら、母を想って父は泣いていた。

 

 『父さん、母さんと仲良くね』

 葬儀の時、思わず声が漏れていた。二人が仲良く私達を見守っている感じがした。大好きだった父は、大好きだった母のもとに旅立った。そう思うと何故か悲しみが薄らいでいた。

 

 父は一人っ子で長野と岐阜の県境で生まれ育ち、動物が好きで獣医の道を選んだ。北大の獣医学部に入った時は、祖父母から『岐阜にも国立の獣医学部はあるだろう』と言われたらしい。しかし父は北海道の広大な自然の中で、働きたくて北大を選んだそうだ。卒業後、日高の病院に勤め四年後、二十六歳の時に富良野で、牧場専門の訪問診療の獣医として開業した。母とは富良野で知り合った。友人と旅行で来た母と恋に落ちたそうだ。父が二十七歳、母が二十九歳の時だった。

 母は千葉県で生まれ育った。祖父は普通のサラリーマンだ。東京にほど近い市川市で、三歳下の妹と家族四人で暮らしていた。卒業後、三年経った時に、一人暮らしを始めたようだ。旅行が好きで特に大自然の風景が好きだった母は、富良野の牧場で、牛と格闘する獣医の父をみて、恋に落ちたのだろうか?母は『格好よく見えたのよ、騙されたわ』と笑って、周りに話していたそうだ。出会ってから二年後、二人は結婚して、その二年後、私が生れた。父が三十一歳、母が三十三歳の時だった。母と母の五つ下の妹、叔母の荻原紗栄子は仲が良く、年に数回、富良野に遊びに来ていた。母が亡くなった後は来る回数が増え、母親のように優しく、そして厳しく接してくれた。

 小学六年生と二年生の兄妹は、愛する両親を失なった。父方の祖父母も母方の祖父母も七十歳を超えていたが、私達をとても大事に可愛がってくれていた。葬儀の後、双方ともに私達兄弟を連れて帰ると言ってくれた。その四人の前に座り毅然とした態度で『七十過ぎてるのよ。この子たちの面倒なんてみれないでしょう』と言い放ったのが、母の妹、叔母の紗栄子だった。この子たちは私が引き取る、と半ば強引に話を進め、三月の私の卒業式の後、東京に妹と私を連れて帰った。

 叔母は母とは違い独立心があり、上昇志向の強い女性だった。幼い頃から家の中や自分の部屋を弄くり回すのが、好きな女の子だったそうだ。イスやテーブルの位置を変えたり...自分が満足するまでやっていたそうだ。高校卒業後、専門学校のインテリアデザイン科に入り、インテリアデザイナーの道を歩み始め、卒業後には二級建築士の国家資格も取得した。三十二歳の時に独立、起業して小さいながらも、評価の高い会社を経営している。ブッシュクローバーデザインオフィスという社名だ。結婚には縁がなかったのか、する気がないのか、独身を通している。妹は叔母になついていた。

 引き取ると決めてからの、叔母の行動は早かった。それまで住んでいたワンルームマンションを引き払い、市川の実家の近くの四LDKのマンションを購入してしまった。私の中学入学の手続きや、妹の転校手続きも済ませてしまった。自分の祖父母には『私も仕事で留守が多いから、その時はお願いね』と伝え、父方の祖父母には『遊びに来てくださいね。夏休みとか長い休みが続くときは。そっちに行かせますからお願いしますね』と祖父母達が考える間もなく、事を進めていった。

 三月末、富良野を引き上げ、千葉のマンションに入った時に、私達を和室に座らせた。叔母が正座して前に座り『貴方達の事は私が見守るって、姉さんと約束したの。これからは家族よ。私は言いたい事は言う人だからね。貴方達も遠慮なんかしないで、思った事は言うのよ。』目に涙を浮かべて、優しく語り掛けてくれた。

 父が残した遺産は大したことはなかった。富良野の家や土地も売却し、私と妹の口座を作り、そこに全額入金された。叔母は『大事に使うのよ』と言って、通帳を私達に渡してくれた。お小遣いは叔母が不自由なく与えてくれ、父の遺産は使う事はなかった。

 千葉の中学に通い始めて、自分が他の人とは違うという事を感じ始めた。人が多いと雑音が頭の中に入ってくる。喜びや幸福感、怒りや恐れ、そして動物達には無かった、恨みや憎しみといった感情が、周囲から流れ込む感じがした。私は人と接するのが怖くなった。極力、接しない様に学校では友達も作らず、通学路は人のいないところを通るようにしていた。叔母も祖父母も心配したが、妹が『お兄ちゃんは敏感なの』と言って、一生懸命に説明してくれていた。

 中学二年の冬、叔母に勧められて、禅道場の精神統一会というものに参加した。奥多摩の郊外で行われた会は、私に安らぎを与えてくれた。そこから少しずつコントロール出来るようになってきた。普段は感覚を遮断して、感じたい時だけ感じる事が出来る様になっていった。高校生になった頃には雑音は遮断する事ができ、普通に楽しい学校生活を送る事が出来た。奥多摩に通ううちに、自然の中に溶け込むと、体内が清浄化するような感じも受けた。私の日常に山が加わったのもこの頃からだ。

 父があの時『不思議な子だな』といった能力が認識できたのは、大学二年の時だった。当時、高校ニ年だった妹の友人の、可愛がっていた猫が帰ってこない時があった。妹は私を連れて友人の家に行き、『お兄ちゃん、探して』と私に言った。妹は雑木林で泣いていた時、暗闇の中を真っすぐに向かってきた私の事を憶えていた。友人が持っていた飼い猫の写真と、猫が愛用していたオモチャに触れた時、その猫の感覚が伝わってきた。気持ちを集中させると、その感覚がいる方向がわかる感じがした。黙って歩き出す私の後ろを、妹の友人と母親は不思議そうに着いてきた。百五十メートルほど歩いた先の軒下に、猫は座って泣いていた。妹の友人が声を掛けると、大きな声で鳴いて擦り寄ってきた。

 この事があってから、少しずつ実験を繰り返して、『不思議な子』の能力の解析に努めた。わかった事はいくつかあった。

 

 一、対象の生物の感情を明確に把握する

 二、同気・同調:対象の生物が視ている映像、聞こえている音がわかり、いる場所の特定もできる。

 三、動物に自分の意思を伝えることが出来る。

 

 最初にわかったのはこの三つだ。そしてわかる範囲が、半径三百メートル程度だという事もわかった。

 実験する中でもう一つ分かった事があった。ある日、電柱に貼ってあった迷子の猫の張り紙をみて、探してみようと思った。写真を見た時に何か感じる物があったが、いつもとは違う感覚だった。感覚が示す方向に歩いていくと、塀の上にポスターの猫が座っていた。『にゃん』と鳴いたような気がした時、猫は消えていなくなった。違和感の正体は生死の違いだった。なるほどと思ったが少し怖くなり、墓地の傍では絶対使うのをやめようと思った。

 大学三年になり、就職も考えないといけない時期になったが、特にこれといってやりたい職業もなかった。叔母は困ったわねと言って私を見ていた。その時、妹が大きな声を張り上げた。

 

 真希『お兄ちゃん。山だよ、山。山ばっかり登っているんだから、登山ガイドになればいいじゃん。一石二鳥だよ。』

 

 紗栄子『でもね~、ガイドって大変だよ。食べていくのもだけどさ。それに尚樹は一人で登っているでしょう。人の世話を焼きながら...う~ん。』

 

 叔母は納得していないようだ。

 

 真希『確かにそうかも。じゃあ、あれは。去年、猫を見つけてくれたじゃない。あれって凄かったよ、普通は出来ないよ。お兄ちゃんだけだよ、あんな事が出来るのはさ。』

 

 この言葉で私の職業が決まった。叔母も賛成してくれた。決まると叔母の行動は早い。すぐに探偵業の開業に向け、調査と手続きを開始した。猫の捜索専門で探偵業の登録が必要なのかは疑問だったが、走り出した叔母は無敵だ。私のいう事など耳には入らない。叔母から愛玩動物飼養管理士の資格を取るように指示があり、大学四年になる前に資格を取得した。その後は簡単な開業手続きの申請をして認可が下り、四年になった時に《猫専門探偵社・猫の手》を開業した。

 

 紗栄子『あとは宣伝ね。まあ、卒業するまでは自由にやってごらんなさい。アドバイスはするからね。』

 

 こうして私の猫の探偵業は始まった。さて、報酬はどうするか?調べてみると日当が二万円~三万円、別途、交通費という会社が多かった。成功報酬的な要素はあまりないようだ。他社との差別化を図る為、日当を低価格にし成功報酬を導入する事にした。探せる自信があったのも後押しになった。日当一万円・成功報酬二万円、別途、交通費の価格体系。ホームページを開設し、チラシ類は作らなかった。

 最初は街を歩き電柱や掲示板に《この子をさがしています》といった張り紙を探したり、ネットのサイトで探している人をみつけ連絡を取っていた。しかし全く信用されずに電話を切られるばかりだった。仕方が無い、無償でもいいから実績を作り口コミに期待にしようと思い、張り紙の猫を探しては飼い主に届け、名刺を渡して来る日々が続いた。依頼があったのは開業から半年たった夏だった。

 最初の子は黒猫の女の子だった。とても可愛い綺麗な瞳の子だ。千葉の中核都市の一軒家に住んでいる家族からの依頼だった。行方不明になって二日。今まで朝帰りもした事の無い、真面目な子だったという。『パパとは違うね』と高校生の娘に言われて、御主人は苦笑していた。写真を見て部屋に残る感触を取り入れると、すぐに彼女の存在を感じた。

 

 尚樹『では、迎えに行きましょう』

 

 家族を連れて家の外に出た。娘も両親も半信半疑で後を着いてきた。家から百メートルも離れていない、神社の境内につくと彼女の感覚を近くに感じた。

 

 尚樹『おいで、迎えに来たよ』

 

 心の中で話しかけると茂みの中から彼女が出てきて、高校生の娘に走り寄っていった。外で遊んでいる時にサイレンの音に驚き、走って逃げているうちに家の方向を見失ってしまったと伝えてきた。家族からは大変感謝され日当一万円と、成功報酬二万円の三万円を初めて手にした。依頼者の家に入ってから、ニ十分もかかっていなかった。

 この高校生の娘のネットでのつぶやきが拡散され、徐々に依頼も増え始めた。大学を卒業する頃には月に五、六件の依頼が来るようになっていた。犬の捜索依頼もあったがお断りした。犬の行動範囲は広い。私の感じる範囲では追えないだろう。猫の捜索は必ずしもハッピーエンドで終わるわけではない。探し出せなかった事は一度も無かったが、悲しい結果に終わった事もあった。私は捜索依頼を受ける時に、亡くなっているケースもある事を、伝えてから依頼を受けるようになった。

 こうして、まあ、順調なスタートを切った《猫専門探偵社・猫の手》。猫の捜索しか頭になかったが、様々な人間模様や事件に巻き込まれていく。開業して七年。《探偵社・猫の手》が関わった事件...人の世はやっかいだ。

 

   第一話 伝えたかった事・姫を守る 勇者コハク

 

 《猫専門探偵社・猫の手》の口コミは、じわじわと広がっていった。『部屋に入って写真を見たら、すぐに見つけたんだよ。特殊能力だよ』とか『猫と話してた』とか...ある事ない事を含めて広まっていた。依頼の内容も捜索だけではなく、猫の相談みたいな事も増えていた。猫は飼い主にとっては大切な家族だ。電話で相談内容を聞いて、対応できる案件は、極力受けるようにした。

 

 六月のある日、メールで変わった内容の依頼があった。

 

 『うちの猫がほとんど動かずに、部屋の一点を見続けているんです。時折、宙に向かって唸るような仕草をみせたり、爪をたてて追い払うような仕草をしたり。食も細くなり病院に連れて行こうとすると、抵抗して引っ?いたりするんです。こんな事は今までなかったんですが、引っ越してから始まって、日に日に酷くなっています。猫は家につくと聞いた事があります。引っ越しのストレスでしょうか?ご相談に乗って戴けないでしょうか。お願い致します。』

 

 メールを読んだ時に猫の様子や、家の中の様子が頭の中に浮かんできた。電話で話を聞いてみると、一カ月前に引っ越して来たらしい。猫の様子がおかしくなり出したのは、引っ越した日からだそうだ。電話の先の女性は泣きそうな声で話していた。心配なのだろう。私はお役に立てるかどうかはわかりませんが、と前置きしたうえで、お伺いする事にした。

 依頼主の家は埼玉県越谷市にあるマンションだった。斎藤と名乗る女性だ。電話で話した翌日にお伺いした。

 

 尚樹『探偵社・猫の手の野上です。』

 

 斎藤『お待ちしていました。どうぞ、お上がりください』

 

 部屋に通された。ふと見ると二LDKの部屋のリビングの奥に置かれた椅子の上で、正面の壁の上を見ている猫の姿がすぐに眼に入った。リビングには男性の姿もあり、少しホッとしてしまった。新婚の新妻しかいない部屋にお邪魔するのは、緊張感があったが...良かった。結婚してひと月前に夫が住む部屋に猫と二人で越して来たそうだ。猫はオスの茶トラの男子で四歳になるそうだ。名前はコハク。風格があり目力のある立派な紳士だった。

 

 妻 『あんなにじっと睨むように、天井の方を見ているんです。この部屋に何かあるんじゃないかって思って少し怖い、コハクが弱っていくのもわかるし、どうしたらいいのか...』

 

 夫 『僕はこの部屋に五年も住んでいるんですが、特に今まで何もないんです。コハクとも仲良くできると思っていたんですが、僕が話しかけても見向きもされないし。』

 

 その時、コハクが唸り声をあげた。臨戦態勢のような姿勢になり、何かを威嚇しているようにも見える。コハクが視ている壁には何もない。私には何も見えないし、何も感じなかった。コハクの傍にいきそっと頭を撫でて話しかけてみた。

 

 尚樹『コハク君、どうしたの、何を見ているの。』

 

 彼から流れてきた感情は、責任と勇気だった。この二つの感情を感じる時、猫は守護の体制になっている時だ。彼は何かから大切な飼い主を守ろうとしているのか?コハクは私に期待の感情も伝えてきた。これはひょっとしたら。

 統一会の禅宗の老師が私に語った言葉を思い出していた。生と死の狭間を漂う魂がある。決して恐れる必要はないのだよ、何かを伝えたいだけなのだから。野上君は怖がってみないようにしているが、恐れは歪を生むだけだ。恐れずに心を開いて。君には感じる力がある。力があるという事は使命があるという事なんだよ。

 

 尚樹『コハク君、一緒に頑張ろうね。』

 

 本当はコハクに『僕も守ってね』と言いたかった、が、我慢した。こういった事は避けてきたが、コハクが弱っていくのを見過ごす事は出来ない。コハクを抱き上げ彼が座っていた椅子に座り、彼を膝にのせて彼の見つめる壁をみつめた。老師の仰っていた言葉を信じ、心の扉をゆっくりと開けていった。

 壁に白い靄がかかったように、何かが...何か得体のしれないものが見えてきた。はっきりとは見えないが声は聞こえてきていた。

 コハクは膝の上に乗ってから唸るのをやめ、壁の方はじっと睨むように見ている。彼にははっきりと白い靄の姿が見えているのかもしれない。私は少ししかない勇気を振り絞って、白い靄に話しかけてみた。

 

 尚樹『貴方は誰なのですか。なぜ、ここにいるんですか。』

 

 

 私の言葉を聞いた斎藤夫妻は、凍り付いたように固まってしまっていた。心の中で呟けばよかったのだが、私にもそんな事を考える余裕は無かった。頭の中に声が聞こえてきた。コハクの身体に緊張感が走った。私の手はコハクの身体をしっかりと掴んでいた。

 

 『...ひろ...し。』

 

 声は『ひろし』という人物に話しかけていた。奥さんにメモとボールペンを借り、声の主が語る内容を忘れない様に書き取っていった。声の主は十分間、語り続けた。語り終え消えかかる声の主に、心の中で訊ねた。『貴女は、誰なのですか』、声の主は最後に名前を言って消えていった。気配が去るとコハクの緊張も消えていた。

 コハクは私の手を咬み膝から降りていった。知らず知らずのうちに、コハクにしがみついていたようだ。振り返ったコハクから感謝の感情と、少しだけ軽蔑の感情が流れてきた。勇者コハク、君ほどの勇気は僕にはないんだ。コハクに見下されてしまったかもしれない。コハクは端に置かれた餌の皿から、ご飯を必死に食べ始めていた。

 

 妻 『コハク!良かった、こんなに食べてくれるなんて、一カ月ぶりだわ。』

 

 奥さんはコハクの頭を撫でて、跪いて食べる様子を涙目でみていた。私はメモを読み直して椅子から立ち上がり、御主人が待つダイニングテーブルに戻った。奥さんが来るのを待って報告を始めた。

 

 妻 『一体...何があったのですか?』

 

 尚樹『落ち着いて聞いてください。私もこういった事は初めてなので、ゆっくり伝えます。コハク君が視ていたものは、一種の霊魂だと思います。亡くなった方の残留思念のようなものかもしれません。私にコハク君ほどの勇気があれば、姿も見る事が出来たかもしれませんが、残念ながら声だけが聞こえました。失礼ですが御主人のお名前をお聞かせください。』

 

 夫 『浩二です。斎藤浩二です。妻は裕子です』

 

 尚樹『違うな、ひろしさんという方に、お知り合いはいますか。』

 

 夫 『え!父の名です。父が浩史です。』

 

 尚樹『では、節子さんという女性は?』

 

 夫 『祖母です。三カ月前に亡くなりました。』

 

 尚樹『そうですか。ここにいらっしゃったのはお祖母さんでした。浩史さんへのメッセージを残されて行きました。』

 

 妻 『何故、ここに?しかも私が引っ越してきてから?』

 

 コハクが奥さんの膝の上に乗って私を見ている。

 

 尚樹『奥さんが来る前から、御祖母様は部屋にいたと思います。御主人は感じなかったのでしょう。奥さんに気づいて欲しかったのかもしれません。』

 

 妻 『昔は金縛りになる事も結構あったけど、もう何年もなかったのに。』

 

 尚樹『そういう事が無くなったのは、コハク君が来てからじゃないですか。彼は貴女を守っているんですよ。』

 

 妻 『コハク...』

 

 奥さんはコハクを抱きしめていた。コハクは毅然とした面持ちで、膝の上に座っている。御主人に内容を伝えようとすると、御主人は『直接、父に伝えて貰えないか』と言ってきた。親子とはいえ父宛てのメッセージを、本人の了承もなく聞く事は出来ないと。手紙にして渡す事を提案したが、一緒に父のもとに来てくれないかと要請された。

 

 浩二『こんな状況を僕が話しても、信じて貰えないかもしれない。お願いします。野上さんから伝えてください。謝礼は当然、お支払いします。』

 

 私はあくまでも猫の専門探偵。今回も勇者コハクが弱っていくのを、見過ごせなくて手を貸しただけだ。お断りしようと思った。彼の実家は会津若松にあるそうだ。会津か、磐梯山には登った事がない。...お引き受けする事にした。その日は日当と成功報酬の三万円を受け取って、コハクに別れを告げて家に戻った。メモに取った事を清書して手紙に書き替えていた。

 

 紗栄子『うまくいったの?』

 

 尚樹『うん、大変だったけど...怖かったよ。』

 

 真希『え、怖いって?話してよ。』

 

 二人は私の話を興味深げに聞いていた。叔母は現実主義者だがこういった話を否定する事はない。自分の目で確認するか体験するまでは、保留にする感じだ。妹はこういった話が大好きだ。大学ではオカルト研究会に所属するほど興味を持っている。

 

 真希『お兄ちゃん、猫の手のホームページにさ。霊的案件も対応可って書きなよ。売上倍増だよ、私さ、欲しいバッグがあるんだ。』

 

 紗栄子『尚樹、気をつけなさいよ。私は猫ちゃんだけにしてほしいわ。一度、奥多摩の住職さんにも相談してらっしゃい。』

 

 会津若松に行く日になった。越谷の駅前で斎藤夫婦の車に乗り四時間かけて、会津の鶴岡城の近くにある実家に向かった。後部座敷の隣にはコハクが座っている。浩二は父には行く事だけしか伝えていないそうだ。実家に着くと浩二が怪訝な表情になった。

 

 浩二『なんだろう。玄関にお札が貼ってあるよ。野上さん、どうぞ着いてきてください。』

 

 玄関を開け中に入ると、壁や襖など至る所に数枚のお札が貼ってあった。父、浩史が出てきて居間に通された。居間の床の間にもお札が貼ってあった。仏壇には線香が焚かれ写真が飾ってある。このご婦人が祖母、節子かもしれない。

 

 浩史『浩二、どうした、急に連絡してきて来るなんて驚いたぞ。こちらの方は?』

 

 尚樹『ご挨拶が遅れました。探偵社・猫の手の野上と申します。』

 

 浩史『探偵社?』

 

 裕子『野上さんは猫専門の方で、猫愛好家の中では有名な探偵なんです。コハクの様子がおかしくてご相談したら、お義父さんに関わる事らしくて。それで一緒に来ていただきました。』

 

 尚樹『浩史さん、貴方へのメッセージを預かりました。読んで戴けますか。話はその後で。』

 

 浩史に亡き母からのメッセージを記した手紙を渡した。便箋六枚の長い手紙だ。

 

 『浩史、貴方にずっと黙っていた、秘密にしていた事があります。父さんと浩史には話さないと決めた事。でも、死が近づいた時、伝えなくてはいけないと思いました。でも、間に合わなかった。容態が悪化して話せない状態になりましたから。あなたに伝えようと家にも来ましたが、臆病な貴方は私が入れない様にしてしまいました。仕方なく浩二に委ねる事にしました。浩二は鈍感で私には全然気づいてくれませんでしたが、お嫁さんが気づいてくれそうだった。でも、猫が邪魔をしていました。私はお嫁さんに何もしないのに...。やっと、私の声を聞いてくれる人が来てくれました。最後の言葉、貴方に五十三年間、隠し続けた真実を伝えます。』

 

 浩史『お袋が来ていたのか、それを俺は...追い出そうとしていたのか。何てことだ。』

 

 浩二は床の間や壁に貼ってある、護符を破り捨てて泣き崩れた後、手紙を再び読み始めた。

 

 『私は二十歳で父さんと結婚して、二十二歳の時に身籠りました。私も父さんも祖父母も、親戚一同大喜びだったのよ。当時は跡継ぎが生れる事は、田舎では大きな出来事だからね。でも、その子は産まれる前に、あの世に召された、死産だった。浩史、この事はお前にも話したから知っているわね。周りの人達はガッカリしていた、父さんは私の身体と心を気遣ってくれて、お前が無事でよかったよ、と言ってくれた。その後は身籠る事がなかったの。六年後、家の前に籠が置いてあった、その中には生まれたばかりの赤ん坊がいて、元気な声で泣いていたわ、それが貴方よ。籠の中に《この子の名は浩史です。事情があり育てる事が出来ません。必ず迎えにきます。》って置手紙があったわ。』

 

 浩史『母さん...俺、気づいていたよ。いつだったか、夜中に目を覚ました時に、二人が話してるのを聞いちゃったんだ。』

 

 浩史の眼には涙が薄っすらと滲んでいた。

 

 『私と父さんはあなたを我が子として育てる事にしたの。周りも賛成してくれたんだよ。もう子供は出来ないって思っていたからね。お前はいい子だった。元気で明るくて利発で...日を追うごとにあなたへの愛情は深くなっていったわ。あれはあなたが三歳の時だった。ある日、二十歳くらいの女性が訪ねてきたの。その女性は三年前にあなたを家の前に置いていった人だったわ。やっと生活も安定して育てられようになりました。ご迷惑をおかけし勝手な事とお思いでしょうが、あの子を引き取らせてくださいって。でもね...もう父さんも私もあなたのいない生活は考えられなかったの。その人には何の話をしているのかわかりません、人違いでしょうって言って追い返してしまった。彼女はその後も何度も来ては泣いて土下座してお願いして...可哀相だったけどね。なんでも十六歳で身籠ってしまって、両親から勘当同然で駆け落ちしたらしいの。相手の人は事故で亡くなったらしくてね。途方に暮れて、せめてお前だけはちゃんと育てないとって思って、お前を私の家に置いて一生懸命に働いたらしいわ。やっと仕事も生活も安定して、迎えに来ることが出来たと言っていたわ。

 もう辛くてね、彼女を見るのも辛かったし、かといってお前を渡すのは嫌だった。それで引っ越したのよ。近所にも告げずにそっと。今でも思い出す、浩史の事を想って泣くあの女性の姿をね。いい人だったと思うわ。死を前にした時、彼女の事ばかりが浮かんできて、あ~きっと今でもお前の事を想って泣いているかもしれない。そう思うと切なくて...。あなたに話そうと思った時、私の寿命は尽きてしまった。気が付いたら家の中に浮かんでいる自分がいたの。仏壇の奥の裏に彼女が置いていった住所のメモと、あなたが家の前の籠に入っていた時の手紙を隠してあります。まだ彼女がそこに住んでいるかはわかりませんが、生きているのは感じます。浩史、あなたが会ってもいいのなら、会いに行ってあげてください。』

 

 浩史『お袋......。』

 

 浩二『父さん、何が書いてあったんだ。僕に話せる事?』

 

 浩史『ああ、おふくろは裕子さんのところに話にいったんだ。隠す事でもない。読んでいいよ。』

 

 尚樹『私の役目は終わりましたね。これで失礼します。』

 

 浩史『野上さん、感謝します。あやうくお袋の最期の言葉を聞き逃すところでした。有難うございます。駅まで送っていきますよ。』

 

 尚樹『いえ、結構ですよ。まだ、家族で話す事もあるでしょうから、では。コハク君、また、会えるといいね。元気で。』

 

 コハクは部下を見送るような感じだった。彼からは勇気を持て、といった感情が読み取れた。勇者コハク、彼は怯むことなく裕子を守り続けるだろう。金縛りや気配に怯える裕子を守る為、そういった物を寄せ付けない様にしてきたコハク。節子の思念もコハクの判断基準は善悪ではなく『そういったもの』だったようだ。斎藤家の実家を後にし、駅前のホテルに泊まった。折角の会津、そして、今回は精神的に疲れている。

 八方台登山口から登り始めた。磐梯山に登る最短ルートだ。会津磐梯山。百名山の一つに数えられる東北の名山。標高は二千メートルにも満たないが、四季折々に違う顔を見せてくれるらしい。登山口からニ十分程登ると、開けた窪地に建物の廃墟が見えてきた。中の湯温泉跡地だ。千八百八十八年七月。磐梯山の噴火では三十名以上の湯治客が、上の湯、中の湯、下の湯で亡くなった。昨今の御嶽山を彷彿させる。窪地を抜けるとササや樹木が茂る、ゴツゴツした登山道を登っていく。傾斜は緩い感じだ。稜線の登山道に出ると、辺りは開け清水小屋が見えてきた。なめこ汁とおでんを戴き山頂に向かった。山頂まで食事時間を含めて二時間半。こんな短時間で眼下に広がる絶景が楽しめる山は少ない。

 

 尚樹『はあ~今回は大変だったな~。う~ん、山の空気は心が和む。コハクか、ナイトの様な子だったな。彼には勇気を貰った感じだ。でも...こんな依頼が続かないといいけど。』

 

 山の空気に浸った後、高速バスで帰京した。叔母の逆らい様のない強い助言もあり、久しぶりに奥多摩の禅寺を訪ねた。老師に今回の話をすると、自然の摂理、定まった道だと諭された。心根をしっかり持てば、大丈夫。尚樹君は守られているよ、恐れは心根を揺らす、恐れる事なく真っすぐに向き合いなさいと言われた。頭の中に毅然としたコハクの姿がよぎった。

 二週間後、浩史と斎藤夫妻とコハクは新潟五泉市にいた。母、節子が仏壇の裏に残した住所の家に来ていた。表札には紙に書かれた名前があった。庭で花壇の手入れをしている七十代のご婦人が気づき、浩史の元に歩み寄ってきた。『斎藤浩史です』。夫人は泣き崩れて、浩史の腕を掴んでいた。コハクの眼には夫人の後ろに、安堵の表情の節子の姿がみえていた。


 


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