8話 メイドジョーク
セイラが燠沖から帰国して一週間。ようやく土産の食べ物―ちなみに、王都で購入したケーキは二日で食べ終わっている―を消費し終わった頃。
リアムとセイラの詳細な話し合いの末決定した基礎訓練の後、麓の街で買い出しを終えたレティアは屋敷の扉を開ける。すると、そこにいたのはセイラ。普段と一切変わらぬメイド服を着てただ佇んでいる。
「どうしたんです?」
セイラは日中、どこにいるのかよく分からないのが『普通』という認識。ただ、この山の中、特に屋敷ではどこにいても呼べば出てくるのだ。椅子に座っている所に遭遇、といったことは一切ない。食事の用意ができた時も声を上げて呼べば出現する。
むしろ普段存在しないのでは、などという想像が生まれてくるぐらいに生活感のないセイラ。それが玄関で待っていたとなると、何かあったと考えるべきだろう。
セイラは右手をゆっくりと持ち上げ、口元で人差し指を立てる。それが意味するのは『静かに』というところだろう。なおさらに意味が分からない、と首を傾げつつ、レティアは口を閉じてセイラについていく。
談話室に辿り着くと、そこにはエレナとヘヴンも集まっていた。エレナと目が合うがまだ恥ずかしいのでふいと視線を逸らす。ヘヴンとは未だ視線が合ったことがない。
ソファに腰を下ろし、レティアはセイラを見る。
「それで、どうしたんですか? 誰か応接室にいるみたいでしたけど」
応接室から漂ってきた紅茶の香り。リアムの何やら真剣な話し声。セイラが静かにするようにと命じてきたことから、大切な客人だろうかと考えていると、セイラは数ミリ頷く。
「<従事者>管理本部の上層部に位置するチーム所属の<逢瀬>様です。今頃、お楽しみでしょう」
上層部。つまり、リアムの上司か―と、客人の位置づけを整理していたレティアははたと動きを止めた。
セイラが付け足した、「ちなみに、最後の情報ただのメイドジョークです」という言葉はレティアの耳には届かない。
セイラが告げた登録名。王国の<従事者>制度では異名のようでもあるそれで業務中に言葉を交わす。魔術師や研究員などは本名を隠す必要もないのだが、暗殺者や工作員といった職業ではそうもいかない。そのため任務に参加する際は基本的に登録名で呼び合うのである。
こういった人に言えないような職業の者は良好な家庭関係を持っていることは少ない。先の戦争で孤児になった、親に育成機関に放り込まれた、などの理由から偽名を使うことも多い。リアムやエレナ、ヘヴンもそのようである。
生まれ持っての本名で参加する者は人に言えない仕事で迷惑をかける者がいないだけ。レティアを待つ姉でもいたら、偽名を選ぶ―というより、ここにいなかった可能性もあるが。
とにかく、<従事者>は登録名を持っており、それで呼び合う。その登録名は本人が決めることもあれば、その恩人、又は上司が決めることもある。つまり、遠からずも本人の気質を表すものなのである。
―というのが、一般常識。そして、問題なのがリアムの上司の登録名である。
逢瀬―その意味は、『恋愛関係にある男女が人目をしのんで会うこと』。
『今頃お楽しみでしょう』、というセイラの言葉。何をお楽しみだというのか。
それらの知識を並べて、整理して―レティアはその時点で、何かよく分からない感情に心を支配され、―一応追加の菓子を持って―応接室に飛び込んでいた。
*_*_*_*_*_*
その日、リアムは朝から自分の機嫌が悪いことを自覚していた。午後に事実的上司である<逢瀬>が屋敷に訪ねてくる予定なのが原因である。
セイラとは違う意味で気に入らない上司。人間性が問題なのだとリアムは思っている。暴言でしかない。
レティアが用意した昼食をとり終わって、食器を片付ける。彼女は今日も訓練に取り組んでいるらしかった。
「......金銭的なことは気にしなくていいんだが」
どうもレティアは何かを気にしているようで、最近は焦っているように感じられる。
こんなとき、自分の姉弟子ならどうするだろうか。焦っている、というのはすぐに気付けたが、何が原因なのか、どうしてやればいいのかはリアムには分からないのだ。
だが、リアムの姉弟子は拠点が遠いしきっと今も任務中。迷惑をかけるわけにはいかない。―なお、師匠は論外。
一応、姉弟子でなくても分かりそうな人はいる。顔馴染みの魔術師の女性はその一人だ。彼女は誰に救われたのか、そこまでは知らないものの直面してきた壁は何となく分かる。彼女を救った奴がいれば、と何度か考えたこともあった。
「..............................セイラは」
嫌だ、というのが本音だ。レティアやエレナが見ているほど仲は良くない。
―頼めば、解決してくれるのかもしれない。何を見返りにされるか正直不安だが、セイラは本質を理解している、とも思う。
「―お呼びですか、<嚇焉>様」
「呼んでない。湧いてくるな」
呼んだけれど。
呼んだ、とは認めたくないから、口にしたと表現するが、一応は。名前を屋敷の中で呼べば来るのは分かっていた。
―心の内で褒めたところだったので、来ないで欲しかった、というのは誰にも言わない本音である。
「―、セイラのアイデンティティですので」
その本音を、見透かしたような反応をするのがセイラだ。機械的に首を傾げてそんなことを口にする。
―リアムは今、自分が苛立っているのはどうしてかさえ理解できていないのに。
(............それに思い悩む気はないが)
自分の内面に悩みながらでは、任務に支障が出るのは明らかだ。
人の命を奪う仕事。奪われた相手は、思い悩むことさえできなくなるのだから。
「......そんなものを己の個性に加えるな」
そう言ってから、リアムは言葉選びを間違えたかもしれない、と思った。
セイラがする数少ない貢献は『呼ばれたときに駆けつけること』。それを否定すれば、機嫌を損ねてもおかしくないのだ。
いつだったか、師匠に『セイラを雑に扱いすぎると、痛い目を見るさね』と言われたこともある。
セイラは目を細め、リアムに対する不愉快を滲ませるかと思われたが―
「そうですね」
―そう、静かに目を伏せただけだった。
思わず身構えていたリアムは呆気にとられる。どこまでが本気なのか、どこからが地雷なのか、分からない少女である。
王国最強とまで崇められたリアムの師匠が『雑に扱うな』と言い、稀に底の見えない発言をする。その割に、普段はただのサボり魔で役に立たない。師匠の命令で屋敷に置いているが、出自も知らないのだ。
恐れることはない―が、気味が悪い、とは思う。だから喧嘩腰なのかといえば全く関係ないが。
「............僕は呼んでいないから、戻るといい」
自室へと歩き出す。上司が訪れる理由は知らないが、現在抱えている任務の資料やら何やら揃えて準備して、出迎えなければいけない。
午後三時に到着の予定。茶菓子はあっただろうか―と考えながら、セイラに声をかける。気配はまだあるから、同じ位置にいる。
「<逢瀬>のことを馬鹿二人に言っておいてくれ」
レティアは大丈夫だろうが、残り二人は真面じゃない。<逢瀬>に何をしでかすか分からない。上層部と揉めれば面倒だ。
セイラの声が割り込んでくる。
「セイラが最大の個性を失ったのはあの女が原因だ......!!」
その言葉、声の強さにギョッとして振り返る。セイラの魔力がこれまでにないほど膨れ上がっていたのだ。
振り向いた視線の先、相変わらず頼んでもいないのに着用しているメイド服の彼女はいつもと何ら変わりないように思える―が、色が違っていた。
端然とした紫紺色の髪は一房だけ白銀に染まっている。いつもの深く無機質な紫の右眼だって白銀色に輝いていた。
「......セイラ、お前、」
大きく見開いていたからかすぐに目が乾き、瞬きをする。その瞬間、セイラの容姿は元に戻っていた。
セイラは一瞬前までの憤怒の表情などしていなかったかのような様子で、口を開く。
「幻術です」
「........................」
本当か、とは聞けない。ただ確かなのは、セイラの魔力が膨れ上がったこと。だがそれは意図的に起こせることだ。
読み取れない真意にリアムがセイラを見詰めても、やはり分かることはない。
「メイドジョークです」
だといいけど、とリアムは小さく呟きを溢した。
*_*_*_*_*_*
その約二時間後。
精神を仕切り直すことは叶わず、心なしかピリピリしながら<逢瀬>を出迎えたリアムは、紅茶を用意した応接室で沈黙していた。
不満を持ちつつ、静かに話を聞いていると<逢瀬>が説明を終える。
「......それは」
眉間に、皺が寄るのを感じた。
「<流離>の暗殺を打ち切れ、ということか」
不機嫌を隠さない声に、<逢瀬>は肩を竦める。自分のせいではない、と言いたげだ。
「君がさっさと暗殺に踏み切らないからだよ?」
「あれは何か企んでいる。それが何か分からない以上、暗殺後に悪用される可能性がある」
「だとしても遅すぎるんだ。最悪の手段の準備は出来ている」
最悪の手段―それは、拷問だ。
鎖で縛って、専用の器具で出来る限りの苦痛を与える。屈強な大男が自決も許されず、死んだ方がマシだと泣き叫ぶほどの。
<逢瀬>は先程から、他人事のような口振りをする。『最悪の手段』の用意をした、あるいはさせたのは<逢瀬>だろうに。
リアムはだから嫌いなんだ、と息を吐いた。
「だからなんだ? 今から殺しに行けとでも?」
そう問うと、<逢瀬>は首を横に振る。いや、と聞こえたとき、猛烈に嫌な予感がした。
「あそこには、優秀な魔術師がいるだろ? <劫火煙>を使える宮廷魔術師に頼めばいい」
「寮ごと吹き飛ばさせるつもりか?」
「何か他に案でも?」
案といっても、リアムはもう少し時間をかけた方がいいと思っている。もう今すぐ正面衝突するか不意打ちで殺しにかかるかしかないではないか。
―かといって、彼女に寮を破壊させたくはない。
リアムが黙り込むと、<逢瀬>は―彼はその甘いマスクの口元を持ち上げる。
「分かってもらえたようで何より。さて、返事を―」
彼がそこまで言ったところで。リアムが適当に用意した茶菓子が全て<逢瀬>の胃に収まってちょうど二分経ったところで。
応接室の扉が、何者かによって開かれた。
扉の隙間から、最も早く覗いたのは艶やかな白髪だ。その次が、茶菓子。そして最後に、それはもう爛々と輝く薄紅の瞳。
小さく礼をして、恐ろしくお上品に追加の茶菓子をテーブルに並べた少女は<逢瀬>と正面から視線を合わせる。そして、告げた。
「初めまして。<嚇焉>の弟子、レティアと申します.............以後、お見知りおきを――<逢瀬>様?」
先制攻撃でもするかのように紹介をぶちかましたレティアは―その一瞬後、きょとんとしたようにリアムには見えた。