初めて人が降った夜
美しい夜だった。
綺麗な星空には雲一つない。キラキラと輝く銀砂糖を夜空に散らしたようで、月明かりが優しく街を照らしている。昼間ではないから、手を翳さずとも空の奥まで見通せる。芝生の上で仰向けになって空を見上げて。ほぅっとレティアは息をついた。
柔らかく吹く風に前髪を揺らして、心地よさに目を閉じる。
王国屈指の魔術指南を行う教育機関―セレナイト魔術学園は、全寮制だ。一流の教師が揃っていて、最高峰の教育を無料で受けられる。入学試験の倍率は高く、選ばれた者しか入学できないが、入学すれば退学にならない限り就職先には困らず、在学中の食事と治療は保証されるのだ。多くの若者が入学を目指して日々努力している。
魔術師志望でなくともセレナイト学園を卒業している、というだけで箔が付く。研究機関でも騎士団でもこの学園を卒業しているだけで採用されやすくなる。
レティアはセレナイト学園の生徒だ。入学生は第一〇階位、そこから順番に昇格して卒業試験に挑めるのが第三階位から。昇格には一か月に一度行われる定期試験で八割以上の高得点を取らなければならない。他に特別課題や交流会など機会はあるものの、主にそれが一般的だった。
試験科目は魔術実技、魔術座学、一般座学、術式構築、応用技術の五つ。それぞれ三百点満点。―合計一二〇〇点以上で昇格だが、レティアの直近の試験では九二三点。魔術座学、一般座学、術式構築は満点だが、魔術実技は〇点、応用技術は二三点。
レティアは第七階位―それも、一年半をかけてギリギリ。筆記の試験に魔力量が加味され、特別課題のレポートとを合わせてギリギリだ。これ以上昇格できそうもない。
―だからもう、抜け出した。抜け出してしまった。
編入生として注目されていたのは一瞬で、実技授業の度こんなこともできないのかと視線を向けられている気がした。操作は完璧なはずなのに、何故か魔術は成立しない。
魔術式を介さず直接魔力放出をする魔法しか使えない。ただ、その出来は良かったから落第にはならなかった。だとしても、もう退学だ。今のレティアは落ちこぼれ以外の何物でもない。いくら練習を積んでも、どうにもならなかった。図書館の本を漁って文献を探しても、同じ事例は見つからない。
―どうせ追い出されるなら、先に捨てよう。
そんな子供らしい考えはレティア自身としてもどうかと思うが、それが全てだった。
寮の消灯時間を過ぎた後にこっそりと抜け出した。
―この後どうするのかすら、無計画なまま。
両親はいない。王都外れにある小さな民家と、そこに残された僅かな貯金。
はぁ、と嘆息する。
「―どうせなら。このままパタッと死んじゃったり、とか……」
そう呟きながら考えて。数瞬後に自分は何を考えているんだと笑った。途轍もなく、どうしようもなく救いがたい内容で、自分に自分で呆れるしかない。
父親の記憶はない。母親は数年前に失踪。そこからはある程度切り詰めた生活をしなければならなかった。その前も、質素ではあったが。
食べきれない程のご馳走も、大親友と呼べるような人も、娯楽を楽しむぐらいの贅沢も、一度も手にしたことがない。別に信じていないくせに、前世の行いに思いを馳せずにはいられないぐらいには、虚しかった。
―生き残っても虚しいだけだ。なら―
やっぱりその先を考えて、口から乾いた笑い声が漏れる。レティアはどこか自嘲的な表情を浮かべる。
「―え」
こちらを嘲笑うかのような満天の星空から視線をゆらりと下げた数秒後、急に周囲に影が差す。
周囲、といってもそこまで大きい訳ではない。
―例えるなら、人間。上には木も建物も何もない。
つまり、いきなり空中に人間が現れたのだ。ばっと身を起こす。口から、無意識に悲鳴が漏らした。
「なあぁっ?!」
「―ん?」
すると、現在落下中の人物が間の抜けた声を発した。声色から察するに、男性だろう。それまで気付いていなかったようだ。
残りの魔力量が少ないのに飛行魔術を使うなんて、どういう状況だろうか。―というより、何故いきなり現れたのだろうか。
分からないことだらけである。
男は徐々に地上との距離を詰め、ようやく身体を反転させた。どうやら、転がって受け身をとる考えらしい。
しかし、それではどう考えても男が自分と接触する。レティアはさせてやるものかと魔法を放出する。手に馴染む杖を向けた。
殆どのタイムラグ無しに生まれたのは水流だ。透き通った綺麗な水は魔力で生成されたもの。
それはうねりをあげ大蛇のように横から男にぶつかり、数メートル程吹き飛ばした。若干体勢は崩れたものの、男は問題なく足から着地する。びしょ濡れになってしまったが、特に外傷はなさそうだった。
この男、身体能力は高いようだ。レティアならお尻から大地に迎えられるところである。
そして、振り向いて自分に視線を向けた男の顔を見る。思わず、仰天してしまった。
―まさかのイケメンだった。
中世的な顔立ちをしていて、上質な素材でできた服装から身分が高いように見える。男はこちらに歩み寄ってきて手をそっとレティアへ差し伸べ―
「―少ないじゃないか」
―自身の手に乗せられた小さな手から無断で魔力を吸い取った。
その挙句、よりにもよって九割以上既に消費されている結果の魔力量に文句をつける。
「はあぁぁっ?!」
レティアは目を剥いて反射的に怒りの声を上げる。
まず無断で魔力を吸い取るなど失礼の一言に尽きる。あり得ない行動に、レティアは数メートル程男と距離をとった。
失礼というか生意気というか、とにかくマイペースなのは間違いなさそうだ。
「これでは平均もないんじゃないか」
「残り五パーセント程だったんですが?!」
これでも、一応平均の六倍弱以上のの魔力量保持者である。王国で一番多い数値だ。
勢いのみで吐いたその言葉に男が動きを止める。
「……そうか。ちなみに、測定値は」
「え......っときゅ、九七二です、けど」
正直に告げてから、心の中で叫ぶ。
(私、何を言っちゃってるんですかぁっ?!)
その数字が大きければ大きいほどに身元は割れやすい。数値を言い終わった瞬間、しまった、と感じた。今は知らないだろうが、後から調べられてしまうかもしれない。
出会い頭にいきなり人の魔力を吸い上げるような非常識な不審者ともいえる男に個人情報を教えてしまったのだ。
レティアは一人で百面相をしながら胃を押さえる。これ以上、心臓に痛いことをしないでほしい―その願いは、やはり裏切られる。
「成程。お前、レティア・レグリアか……セレナイト学園の編入生」
ほんの数秒でバレてしまった。
どうして名前を覚えているのだろうか。魔力値を知ることで調べることは可能だろうが、公表はされていないはずだ。こんな夜中にこんな所をうろつくような役人はいるわけがない。
―だとすれば、この男はやはり色々と普通から離れているのだろう。
最早驚く気も起きずボンヤリと空中を見つめるレティアに男は頷いて、次の言葉を口にする。
一瞬、二人の間の風がやみ、月が雲に隠れた。静寂が訪れて―
「僕の名はリアムだが……まぁ、好きに呼べばいい」
―そう満足そうな顔をして、男―リアムはレティアに近付き、その手を引いた。
座り込んでいたレティアを強く、それでいて優しく立たせると、まっすぐに見つめる。
改めて見ても、その端正な顔は綺麗に整っている。かなりの高身長で、小柄なレティアから見るとそれをより訴えかけてくる。
その贅肉というものを極限まで減らしているものの均整をとれた肉体は美しかった。
「僕は暗殺を生業としている。詳しくは言えないが―ここで果てるぐらいなら、僕と一緒に来ないか」
綺麗な唇から発せられたその言葉にレティアは―
「―勿論。私なんかでいいのなら、喜んで」
―気付けば、頷いていた。
何故なのかは分からない。暗殺者―人を殺すかことを生業とする男にノコノコと着いていって、きっとロクなことはない。
―でも。
世界が急に色づいていき、体が急速に熱をもっていく。冷え切っていた指先まで、全身に血が巡る感覚がする。体中が熱くて、まるでゆだったようだった。
生まれてこの方体験したことがないような、どういう感情なのか、名前も分からない変化に戸惑う。まさか、不良品のような自分に訪れるとは思っていなかった心地だ。
それに身を委ねるのも悪くない心地で、生きる意味を与えてくれた彼に少しでも貢献したいと思えた。―たとえ、彼が暗殺者だとしても。
突き離されても魔術以外を愛せなかったレティアに、初めて訪れた熱。
それを、心の中で大切に抱きしめて、離さないと囁く。思考がプカプカと水面に漂って浮いているようだった。
先程とは別の理由でレティアがボンヤリしている中、リアムはマイペースなまま。
「では、僕の屋敷へ戻ろうか。ちょうどあいつらの世話も持て余していたところだ。数分で到着するだろう」
そう言ってリアムは一度手を離すと詠唱を始めた。レティアは未だに空中を見つめていたが、その詠唱を聞いて我に返る。
リアムの手の甲を思いっきり抓った。一切の迷いもなく。
「......」
不服そうに眉をひそめられるがレティアは意に介さない。目を吊り上げる。
―こればかりは、許せない。
「痛いじゃないですよ!! 人の魔力勝手に使ってるのに、そんな無駄ばかりの魔術使わないでくださいっ!! それだと使用魔力の三割は捨てているようなものです!! そりゃあ魔力切れだって起こしますよ!! さっさと仲介してください、私が代行しますっ!!」
大声を出し早口でまくしたてる。リアムは唖然としていたがやがてため息をついてレティアと仲介術式を繋いだ。
レティアは一切無駄がない組み立てをし、節約式を盛りっ盛りにして詠唱する。魔術式に精通しているレティアにとって先ほどのリアムの魔術式はどうしてそれで飛行魔術を使えるのかというほどに無駄と穴だらけだったのだ。
―そこまで細かくこだわるのはレティアだけだろうが。魔術を使えないくせに、仲介術式を繋がれると調子に乗るタイプだった。
「―また変な奴を引っかけてしまったな」
速度を通常の三倍程に調整し、節制術式を組み込んだ詠唱を物凄い早口で行っているレティアにリアムは諦めの目を向けた。
ぼそりと呟いたそれにレティアが反応したところで、魔術が発動した。
「何か言いましたかっ?! 黙ってて下さ―いやああああぁぁぁぁぁっ?!」
先程リアムが指し示した方向へ、二人は猛スピードで吹っ飛んでいく。
―レティアは、しっかりと変な奴だった。
二人はしばらく夜の空を移動して―数分後、山の中で魔力切れを起こし落下したところをリアムの屋敷に激突して停止した。
勿論、壁には大きな穴が開いた。
―人類にとって初めて、人が降った夜になった。