【コミカライズ】七度目の人生で、私が願ったことは
また……戻ってきてしまった。
この世の終わりを告げるのは、小鳥の囀りなのだと思ったのは四度目の時だっただろうか。
その音を確かに耳にして、私は今、七度目の私となって、またこの世界へと戻ってきてしまった。
「いや……もう、いや……助けて……」
そのまま私は気を失って、目覚めた時には私には婚約者が決まっていた。
ヴィオリット・ヌヴォー公爵令嬢。この国の第一王子であるクラード・ゴルドロード王子殿下の婚約者。
一度目から今までずっと私はこの名前で、この地位にいる。
見た目も何も変わらず、高位貴族の生まれと幼い頃からの厳しい教育により、鋭い美しさと教養を兼ね備えた完璧なる未来の王妃。
一度目から……と言ったように、なぜこんなことになっているのか分からないが、私はずっと死んではまた生き返って、ということを繰り返している。
七歳の誕生日に目覚め、これで七度目となる繰り返し。
長くても私は十八歳まで生きられない。
必ず最期には毒を飲んで、人生の終わりを迎えるのだ。
一度目の私は、とにかく自信に溢れ、自分がこの国の王妃になるのだと信じて疑わない人間だった。殿下を心からお慕いし、この方をお支えするために自分は産まれてきたのだとすら思っていた。
殿下は完璧なる王子様だった。王子教育においても優秀で、語学も堪能。それでいて乗馬も卒なくこなし、その容貌も端正で美しいお顔立ちだ。
そんなお方を幼い頃からそばで見てきて、私が劣るわけにはいかないと何でも意欲的に取り組んできた。
傲慢だと言えばそうだったかもしれない。けれどそれだけの努力をして成果を上げ、視察先や慰問先でも殿下の名を出してお役に立てるように懸命に働き、人生の全てをかけて殿下を愛してきた。
そして殿下からも、
「私や国のために努力を惜しまない君を誇りに思うよ」
と言われ、私は高い評価を得ていた。
私のような強い愛情を殿下から感じることはなかったが、国を支えるパートナーへの情だったとしても、この方の隣は私以外にはありえないと思っていた。
しかし、私と殿下が十六歳の時、その変化は何の前触れもなく訪れた。
王城内で侍女として働き始めた同い年の男爵令嬢と出会ったことで、私達の世界は一変した。
同い年で天真爛漫な彼女は、すぐに殿下との仲を深めていった。
仲睦まじく話をする殿下に、周りはもう少し令嬢と距離を取るように進言した。しかし殿下から仲の良い友人だと言われてしまえば、それ以上は踏み込めなかった。
それが一年も経てば、もしかすると殿下は正妃を男爵令嬢にして、私を側妃にするのでは、という噂が王城内を巡った。
国としては十六歳で結婚できるところを、殿下がお互い若いうちに色々と経験を積もうと、私達の結婚式を十八歳まで延ばしていたことも悪い方へと影響してしまっていた。
その言葉通り、殿下は地方への視察に力を入れて国内外を飛び回っていた。私は王城で、殿下が不在の間の執務をこなし、王太子妃教育も同時に受ける日々が続いた。
殿下に蔑ろにされていると感じることはなかった。地方の名産品や、ヴィオリットが好きだと思って、と私を思い出して買ってくださるお土産に喜んだ。
視察先から手紙をくれることもあり、そこには、いつか君とも訪れたい、とあった。その言葉だけで励まされるようだった。
けれど周りは私達を放っておいてはくれなかった。
廊下を歩けば、帰ってきたばかりの殿下が、私よりも先に令嬢と談笑しているところが目に入る。
「見て、あんなにも楽しそうな殿下、ヴィオリット様の前では見たことがないわ」
「正妃に、との話は本当かもしれないわね」
聞きたくない話ほど、私の耳には届いてくる。
なぜあなたが殿下からの愛情を、という嫉妬に狂った気持ちが私を支配した。
いつしか周囲も、殿下と令嬢の身分違いの恋を応援するような雰囲気があったのだと思う。
殿下からは、ヴィオリット以外を正妃になど望んでいないよ、と言われたこともあった。慰めの言葉だったとしても、嬉しいことに変わりはなかった。
しかしある時、父からあの娘を始末しろ、との命令を受けた。
あの娘とはもちろん、男爵令嬢のことだ。
私は断れなかった。いや、きっと心のどこかでそれを望んでいたのかもしれない。
私は使用人に命じて、彼女を殿下から引き剥がすべく誘拐を企てた。怪我をさせたところで治ればまた元通りになるのは目に見えていたので、それならば物理的に離してしまった方がいいと思ったからだ。
けれどその計画は失敗に終わった。使用人が計画実行の直前に、私からこのような命令を受けたが、良心の呵責に耐えきれないと泣きながら訴えたのだ。
私が首謀者だと知った殿下は、私との婚約破棄を決めた。
自分がしたことを棚に上げ、私は猛反対した。私より王妃に相応しい人間などいない、あなたを支えられるのは私だけだと叫んだ。
あなたはこの国を統治する人間なのです。それには私が必要です、と喉が焼き切れるほど叫んだ。
けれど殿下は私に悲しそうな目を向けて、
「私を信じず、愚かにも罪を犯そうとした君が必要などとは……そんな傲慢な考えしか出来ないから、君は王妃になる資格も素質もなかったんだよ」
と、これまでの人生を否定される言葉をかけられた。
信じられなかった。その時初めて、私は絶望した。
私を貴族牢に入れた騎士が、悲痛な面持ちで私へと問いかける。
「国民は、あなたが素晴らしい王妃になることを望んでいました。どうして、このようなことを……もっと違う方法で、誰かには頼れなかったのですか……!?」
「……ごめんなさい。私には、これしか道が思い浮かばなかったの……」
騎士はハッとして、出過ぎた真似をして申し訳ございませんでしたと頭を下げた。
私はそれにありがとう、と返す。国民が期待してくれていたということを私はその時まで知らなかったから、心からお礼を言った。それだけで十数年に渡る私の努力が報われたように思えた。
涙ぐむ騎士に、もう一度、謝罪とお礼を伝えた。
数日後、お前は病死したことにすると言って、父から毒を渡された。
十八歳になる数日前のことだった。
二度目も同じようなものだった。一度目であれだけ絶望したのだから、やり直せると思った。けれど、私達はまた男爵令嬢と出会ってしまった。
殿下はきっぱりと否定していたけれど、二人が話をしている姿がお似合いだと噂になる頃には、やはり父は黙っていなかった。
私も一度は断った。死ぬのが嫌だったから。
「このままでは、お前が十数年、努力してきたことも全て水の泡になるぞ? いいのか? それにお前はどこへ出るにも王家のことを知りすぎているしな。お前の口を塞ぐことなど私にとっては造作もない事だが……どうする?」
そう言われたら、もう逃げ場はなかった。
彼女を殿下から離すべく画策した。
一度目に人を頼ったから失敗したのだと思った。それなら自分の力で、と直接、令嬢に手切れ金を渡して殿下から離れるようにお願いした。このお金は自分の手元から出したお金だ。しかしこれが国の予算を横領したとして捕まった。
牢屋の外に立つ殿下のことは、一度たりとて見れなかった。あんな言葉を告げられたくなかったから、耳を塞ぎ、目を閉じて過ごした。
思えば、彼女が現れてからというもの、私は殿下とまともに言葉を交わしていなかったかもしれない。
「ヴィオリット……どうして、私を信じてくれなかった……」
牢屋に入る前に聞いた殿下の言葉。
私は殿下の何を信じれば良かったのだろう。一度目と同じ、十八歳を迎える前。私は父に謝罪をして、その手から毒を受け取り、人生を終えた。
三度目は、私としては善処した方だった。この時、男爵令嬢との出会いは学園でだった。それまでは学園になど通っていなかったので全く新しい環境である。
殿下はこれまで一人称が私だったけれど、俺に変わっていた。そういう小さな変化はあったのだが、私達の出会いの日は変わらず訪れた。
入学式で殿下にぶつかってきた男爵令嬢に、私は注意せざるを得なかった。それが新入生含め、在校生の集まった場だったのが良くなかったのかもしれない。
殿下が彼女とは距離を置くようにしていたのは分かっていたし、殿下からは、彼女とは話をしないようにと言われていた。
けれど、私はそれを守れなかった。
学友である高位貴族の令嬢達が、あの者の振る舞いは目に余ります、と私に訴えてきたのだ。私は必死になって彼女達をなだめた。しかし彼女達の怒りは収まらず、とうとう男爵令嬢へ抗議する展開へと陥った。
殿下の名前を呼び、駆けてくる令嬢を前に、私を睨みつける学友達。どこに行っても味方などいないと認識した。
だから私は、殿下の婚約者らしく……公爵家の娘らしく、立場を見せしめるしかなかった。
私は直接、男爵令嬢を注意をした。彼女は泣いた。そんなつもりはなかった、と。そうしてその光景を見た周囲が、私が彼女をいじめていると噂し始めた。
殿下だけが否定してくださったけれど、学友達は誰もその噂を否定してはくれなかった。
注意をしたのは二回だけだったのだが、私の悪評はどんどんと広がり収拾がつかなくなったことで学園長から陛下の耳に入ることとなった。
「王子妃となる者が力なき民に何という愚行を……お前にはこの国を背負う者の伴侶としての資格はない」
陛下からそう告げられ、私と殿下は婚約解消を命じられた。
「どうして……どうしてこんなことに……父上、彼女は何もしていません! ヴィオリットは間違ったことなど何もしていないのに、婚約解消などする必要がありません!」
この時は私よりも殿下の方が苦しそうだった。その後も婚約解消を取り下げるよう何度も申し出ていただいたらしい。
しかし一度陛下が下した決定を覆すことは不可能だった。
私は学園を退学となり、公爵家の別邸に送られた。十七歳になってすぐぐらいだったと思う。徐々に弱っていくよう食事に毒を混ぜられて、最期は眠るように生涯を閉じた。
四度目の朝、小鳥の囀りを聞いた時に自分が狂ってしまえなかったことに発狂しそうになった。何をしてもだめで、周りには味方になってくれる人もいない。誰も信じられない。
言われたまま動いて、私は間違った道を進んでしまった。それならもういっそ、何もしなければいいと思った。
そうだ、そうしよう。誰にも迷惑をかけず、慎ましく生きるんだ。
王子妃教育なんて四度目だ。もう学ぶことはない。今回は学園もない。必要最低限の生活、それを心がければいい。
決意したもわずか。王城に着けば、殿下が常に私のそばを離れなくなっていた。
「殿下、王子教育は大丈夫なのですか?」
「俺は問題ない」
「執務が滞っていると、宰相様が困っておりましたよ?」
「今日の分は全て終わらせている。問題などない」
殿下が私から離れなければ離れないほど、周辺貴族が私にすり寄ってきた。恐かった。誰も目が笑っていないのだから。
是非、殿下へとご伝言を……殿下にこの資料を……こちらの特産品を……ありとあらゆるものを預けられ、それを捌くだけで一日が終わってしまうこともあった。
ここでも男爵令嬢は現れた。今度は十六歳のデビュタントとして出席した夜会でのことだった。
相変わらず殿下は私から離れず、ずっと私の腰に手を回していた。男爵と共に挨拶に来た令嬢にも見向きはせず、私だけを見つめていた。
「こちら、デビュタントの方々に振る舞っております、お祝いのワインです」
そう言われて差し出されたグラスを私が受け取ろうとした時、私の手から殿下がそれを奪い、一気に飲み干した。
そして殿下はワインと血を吐き、その場に倒れ込んだ。
混乱する会場に、グラスを渡してきた使用人が私を指さした。
ヴィオリット様が選んだワインを殿下が飲みました、と。
私は否定した。選んでなどいない。これは渡されたものだ、と。
しかし誰も私を信じてはくれず、私はその夜、殿下が飲んだとされるものと同じ毒を飲み、その罪を償うこととなった。
殿下の生死は分からないまま。あの時、私がグラスを渡さなければ良かったのに、という後悔と、殿下はどうか生きてくださいますように、と祈りながら目を閉じた。
五度目はそれまでの恐怖が積もりに積もって、食事もまともに取れず、家からも出られなかった。それなのに私は殿下の婚約者へと据えられ、最低でも月に一度は殿下と会わなくてはいけなくなった。
食事が出来ない私はほとんど動けなかった。だからベッドの横に殿下が座り、私の手を握って名前を呼んでいた。
「ヴィオリット……ヴィオリット、頼む、死なないでくれ。俺を……生きることを諦めないで。俺は間違えてばかりだ。でも……俺は君がいないと、生きていけないんだ」
お願いだから、楽にさせてほしい。
もうやめさせてほしい。笑うことも泣くこともできず、そのまま私は弱っていった。
五度目の人生を始めてからどのくらい経っていただろうか。数年のように感じたが、数ヶ月だったのかもしれない。生きているのに何も出来ない私を憐れんだ殿下が、直接その口から毒を飲ませた。
これが私達の初めての口付けだった。
六度目は、必死に抵抗してみせた。
私が弱れば、私のために殿下が死んでしまう。それだけは嫌だったために、私は狂ったフリをした。
狂った者など婚約者には出来ないだろうと思ったのに、結果は変わらず。もうどうしていいか分からなかった私は、本当に暴れまわった。それでも殿下とは必ず会わなければならなかった。
大泣きしていても父は私を殿下の前へと引きずり出し、殿下が私を抱きしめて慰める、という日々だった。
やめてください、もう許してくださいと泣いても、殿下は首を縦に振ってくれなかった。
「ごめん、俺のせいだ。ごめん、ごめん……追い詰めてごめん。ヴィオリット、ごめん。それでも俺は、君を手放せない」
許しを請う殿下に、泣きながら暴れる私。
まだ私の方が力が強かった十二歳の時。
私が突き飛ばしたことで殿下は家具にぶつかり、落ちてきた花瓶がそのまま彼の頭へと直撃した。
頭から血を流す殿下は、震えて謝る私を見て微笑んだ。
「大丈夫。俺は何も痛くないよ。ヴィオリットの苦しみに比べたら、こんなものどうってことない。だからこちらにおいで。俺に君を抱きしめさせてほしい」
血まみれの手で抱きしめられた後、殿下は気を失った。
私は殿下が目覚めない間に、傷害罪でまた牢屋へと入れられた。
傷付けてごめんなさい、という書き置きだけを残し、すぐに私は毒を飲んだ。
もう二度と、殿下を傷付けることも愛することもない人生を……この悪夢でしかない繰り返しを終わらせてほしいと、最期の最期まで、願い続けた。
七度目に目覚めた今……願いなど叶わないのだと知った。
しかしこれまでより大きな違いがあった。殿下の婚約者にはなったけれど、殿下と会うことが一度も無かったのだ。
王子妃教育は受けるけれど、名ばかりの婚約者だと言われようとも私はここに来て初めて、嫉妬にかられることも無理に暴れることもせずに過ごせることに、安堵すら覚えていた。
そして一番の変化はといえば、殿下だろう。これまでの殿下は、その透き通るような金色の髪と空色の瞳が示すように、この国の至宝、国を照らす太陽、光輝く未来の王、など明るい印象を受ける言葉で例えられていた。
けれど、今回の殿下は冷然なる王子と呼ばれ、まだ十歳に満たないうちから次々に自身以外の王位継承権のある者を排除していると噂になっていた。
殿下の変化に戸惑いながらも、私自身は今までで最も緩やかに時が経過していくのを感じていた。
私は殿下と会っていた時間を、孤児院の訪問や入院施設の慰問へと充てた。これは殿下からの手紙がきっかけであった。
『俺との顔合わせは不要だ。ヴィオリットには、君が望むままに好きなことや、やりたいことをしてほしい。そのためにかかる費用は全て俺がもつ。好きなものを買っていい。どこか旅行に行くのも良いだろう。どうか、君が穏やかな時間を過ごせることを願っている。返事は必要ない。この手紙の受け取りを以て、君の了承を得たと判断する。』
手紙を読んで、確かに前までの人生は殿下を中心に回っていたのだと痛感した。何がしたいのかと考えても思い浮かばなかったからだ。
しかしある時にふと、貴族社会ではない場所に行きたいと思った。だけど殿下のお金で行くのだから、殿下の役に立てるのならばそれがいいとも思った。
私が手紙を受け取ったことで、殿下は了承とみなしたのだろう。次は行動する際の注意事項が書かれてあった。
移動時には、必ず殿下直属の騎士を伴って移動すること。
何かを購入する際は、殿下が指定したお店のみ利用し、領収書は必ず同行した騎士に手渡しで預けること。
手助けが必要な際は、騎士に言えば人数はいくらでも増やすということ。
これらも返事は不要で、受け取れば了承ということだった。
こんなにも気を遣っていただいて、何かお返事がしたかったけれどいらないと言われているのに送るのは迷惑かと悩んでいたら、手紙を渡しに来てくれた騎士が消耗品にしてはどうでしょうと提案してくれた。
その騎士は、一度目に私に国民の声を教えてくれた騎士だった。
そうね、その手があったわね、と庭の花を一輪摘んで、それを渡してもらった。それからは手紙の返事は花を渡すことになった。
訪問先は私が決めたところを騎士に殿下へと伝言してもらい、良ければ殿下からのプレゼントを持った騎士が、別の施設が良ければ候補のリストを持った騎士が、殿下の返事の代わりだった。
孤児院の訪問時には本や服、食べ物も追加で買って、これは殿下からのプレゼントですよ、と子供達に配って回った。
入院施設の慰問では清潔なシーツを大量に買い込んで、足りない分をそれぞれ申請してもらうことで各施設に提供した。シーツには殿下の名前と回復を願うメッセージを刺繍で入れてもらった。
やってみたかった洗濯のお手伝いをさせてもらったり、子供達とお菓子作りをしたこともあった。
そのうちにその地の領民とも話をすることが増え、農家の収穫を手伝わせてもらったり、孤児院の子供達に紛れて、お祭りにもこっそり招いてもらえることもあった。
自分の手や体を動かすことは、心を元気にするのだと実感出来た。例えこれが私の自己満足だったとしても、お礼の言葉や手紙をもらった時には、すごく嬉しかった。
数年かけて、たくさんの施設を巡った。それらがある土地の領主……いわば貴族の当主とも話をする機会もあったが、彼らは皆、口を揃えて殿下は公正な目を持った素晴らしいお方だと言った。
私は自分が褒められているようで嬉しくなり、何度もそれにお礼を返した。
とても……とても穏やかな時間だった。このままいけば、私は十八歳を超えられるのでは、と希望を持つことも少しずつだが出来ていた。
しかし私は……運命の日を迎えることとなった。
一度目と同じ日付で、一年後にあたる十七歳。
公爵家の侍女として、例の男爵令嬢が働くことが決まった。
私はもうパニックでしかなかった。
なぜ、どうして、あなたがここに……
彼女を見て取り乱し脅えて震える私に、周りは私がおかしくなったと思っただろう。それから使用人達からは距離をおかれることになった。
殿下とは相変わらず会うこともない。公爵家の侍女なのだから、彼女が殿下と会うこともない、はずなのに。
そう思っても、彼女は私にとって恐怖の象徴でしかなかった。
耐えきれなくなった私は、手紙で殿下に婚約解消を、と願い出た。そして父にも、修道院に入れてくださいと頭を下げた。
父からは素気なく却下され、手紙を送って二日後、婚約者となって初めて殿下が公爵家へと参られた。
私に話を聞くためだと言って来られた殿下を、使用人一同が出迎えた。もちろんその中には男爵令嬢がいて、二人が出会うきっかけを、自ら作ってしまったのだと悟った。
応接室で向かい合ってソファに座り、男爵令嬢が淹れたお茶を目の前にして、私は殿下と対峙した。
男爵令嬢ともう数人の侍女が部屋には待機していた。いつも私の移動に伴ってくれる騎士が二人、殿下の後ろに控えている。
「ヴィオリット、俺は君との婚約を解消するつもりはない。何があっても、俺の婚約者は君以外には考えられない」
喜ばしく思わなければならないはずなのに……二人が出会ってしまうきっかけを自分が作ったことで、この言葉を素直に受け止められないでいた。
もう、自嘲気味に笑うしかなかった。
「……何がおかしい?」
「いえ……申し訳ございません、殿下……」
「ヴィオリット」
殿下の強い声に、その瞳を見つめれば射抜くような鋭さで見つめ返される。
「君は何を思い、何を願う?」
「いきなり……何をおっしゃっているのですか?」
「婚約者の望みを聞いて何が悪い? これまで話すこともしなかっただろう。こうやって直接会えたのだから、君が望むものを与えたいと思ってもおかしくはない」
私が……望むもの。
……それは、たった一つだけ。
「…………許されるならば、どうか安らかな眠りを……」
私の言葉に殿下が息を呑んだ。きっと殿下を見つめる私の目は、彼のような強さを宿してはいないだろう。
希望は捨ててしまった。持っていても苦しくなるだけだから。
愛情は忘れることで楽になった。もう殿下を傷付けなくてすむのだから。
「……すまない、ヴィオリット。君にそれを望ませたのは、俺なんだな……」
先程からは考えられない、泣きそう声だった。
しかしどこかその声に、救われたような気持ちになった。
「いえ……殿下。聞いていただけただけでも……私にはきっと意味がありましたわ」
どうかこの人生は、この人が苦しまずにいられますように。
私のことはもうどうだっていい。愛は忘れたはずだ。だけれど姿を見れば思い出してしまうから。
「殿下……どうか、私を修道院へと送り出してくださいませ」
「それが……君の望みか?」
「ええ。私はいついかなる時も、殿下の幸せを心から願っております」
「俺の、幸せを?」
「はい。私はずっとずっと……殿下の幸せだけを、願っておりますわ」
殿下は立ち上がり、私の元へと来ると私にも立つように促した。腰を上げた私を、殿下は静かに抱きしめた。
「……俺が何者になろうとも、俺の幸せを願ってくれるのか?」
締め付けられるような強さに、息が止まりそうになる。
ああ、でもこの腕の中で眠りにつけるのならば、何て幸福なことなのだろうと思った。
「ヴィオリット、君は俺の幸せを願うのだな?」
「はい、殿下」
「……名を、呼んでくれないか?」
そう願われたのは、初めてのことだ。七度目の人生で初めて、彼から乞われてその名を口にする。
「……クラード殿下」
「殿下はいらない。どうか呼んでくれ。ヴィオリット。君に……呼ばれたいんだ」
「……クラード」
「ああ」
「クラード……クラード、クラード……」
私が呼ぶほど殿下の抱擁は強くなり、私も彼の背に手を回して私達はお互いにすがりつくように抱きしめあった。
「ヴィオリット、君は俺のものだ。君の望み通り、修道院には送り出そう。ただし忘れるな。俺は君を諦めない」
「ええ、クラード……私はあなただけのものです……」
私の涙をクラードの唇が吸い取り、そのまま私の唇を奪った。毒を飲むことのない、初めての口付けを私達は長い間続けていた。
世界に私とクラードだけになったように、お互いの名を呼び、すがりつきながら、私達は確かに支え合っていた。
翌日、私は修道院へと身を置くことが決まった。それは私と殿下の婚約解消が成立したということでもあった。
「……お父様、お役に立てず、申し訳ございませんでした」
「お前のような者、既に娘などとは思っておらん。良いことを教えてやろう。お前の他にも私に娘はいるから、公爵家としては何も変わらんよ」
「……え?」
父に呼ばれ、父の横に立って肩を抱かれたのは……どこか青白い顔をした、男爵令嬢だった。
「こんなこともあろうかと、お前のスペアとなる存在は用意しているに決まっているだろう。王家としては我が公爵家の娘であればお前だろうとこの娘だろうと変わらん。間違いなくこの者は私の血を引く実子だ。お前が修道院を望んだのであれば、この娘を殿下の婚約者に据えるだけだ」
「そんな……そんなことが許されるはずがありません」
「誰がそれを許さないだと? これは陛下の命だ。陛下は王家の後ろ盾として我が公爵家を望まれている。公爵家の人間であれば、相手は誰でもいいということだよ」
誰でもいい……?
そんなこと……そんなことあるはずがない!
「そのような即席の者に、殿下をお支え出来るはずがありませんわ! たとえ公爵家の後ろ盾を得たとしても、王妃としての責務を果たせない者など、国民が望み、慕うはずがありません。お父様はこの国を崩壊させたいのですか?」
「国民に王妃の良し悪しなど分からんよ。いくらでも後ろで人を使えばいいだけだ。王妃など飾りに過ぎん。王に力があれば国は栄える」
「そんな……それならば何のための王子妃教育なのですか!? 私は……私は何のために……」
あれほどまでして、命を差し出してきたのだろう……
「その時間を手放したのはお前だろう? 女には子を残すという最大の仕事があったというのに……お前では力不足だったというわけだよ、ヴィオリット」
「女性は子供を産むだけの道具ではありません。それに、国民もお父様が思うように単純なものではありませんわ。お父様、どうかお考えを直してください!」
「いい加減にうるさいな。おい、さっさと修道院へ送れ。耳障りだ」
そう言って、私は馬車へと押し込まれた。
馬車も御者も見たことがなく、公爵家の家紋など入っているはずもない。
「出して! 出してください! 殿下はこのことを……っ!」
どれだけ叫んで扉を叩こうとも、外からかけられた鍵は開くことはなかった。移動を始めても抵抗した。声も枯れ果て、喉が切れてしまったのかひどく痛み、叩き続けた手は擦り切れて血が出てしまっている。
殿下をお支えすることが私の生きる希望だった。
あの方のために、私は全てを捧げてきた。
でも、周りに流され、噂に踊らされたのは私だ。殿下は友人だと否定していたのに。
私達は話し合う機会を持たなかった。
先に殿下を裏切ったのは……私の弱さだ。
『どうして私を信じてくれなかった……』
話し合うことから逃げて、殿下からも逃げた。
その後の殿下は……変わっていたじゃないか。
学園では私の噂を否定し、陛下に何度も婚約解消を考え直すように申し出てくださったそうだ。
弱りきった私の手を握り、励ましてもくださった。
血だらけになりながらも、私を呼んでくださった。
私の願いを聞いて、抱きしめて……あんなにも名を呼びあったのに……
死が恐かった。嫌われたくなかった。もう辛い思いをしたくなかった。
私はあそこで生涯を終えたけれど、殿下は私がいなくなった世界で、苦しみ続けていたとすれば?
五度目の時など、自ら毒を飲んで私を解放してくださったのに。
きっとこれは、狂気じみた愛なのだろう。
執着、執念……もしかしたら怨念とも呼ばれるかもしれない。
きっと万人には理解されない。
私だけの、クラードへの愛だ。
どうか……どうか彼に、もう一度だけでも……
「クラード! クラード! どうか……どうか、クラードに会わせて……クラードに、会いたい……愛してるの、クラード……!」
涙が流れた直後、馬車が大きく揺れて、その勢いに流され壁に体を打ち付けた私は、自分の死を身近に感じた。
けれどすぐにガチャガチャと鍵を壊すような音がして、馬車の扉が勢いよく開けられた。
「ヴィオリット!」
そこには、息を切らし汗を流したクラードの姿があった。
「ヴィオリット、すまない! 乱暴にしてしまって! 痛かっただろう? 血は出ていないか? どこか痛むところは?」
抱きしめられて、怪我を確認されながら矢継ぎ早に質問をされる。扉を叩いて擦り切れていた手には、彼が持っていた布を手際よく巻かれる。
「クラード……本当に、クラードなの?」
昨日見たはずなのに、その見た目が大きく変わっていた。
彼の特徴ともいえる金髪はいつも一つ結びの長髪だった。それが今や耳も項もしっかりと見える短髪になっている。
「随分と印象が変わっただろう。しがらみを捨てるには、まずは俺自身も変えようと思ってな。それよりも、喉は大丈夫か? 声がかすれてしまっている」
にこりと笑う彼は……もう、何年……何十年と見ていなかった。
「ク……ラード……クラード……クラードォ、会いたかっ……た」
「ヴィオリット、待たせてすまない。どうか泣かないで」
頬に添えられた手が熱い。親指で私の涙を拭い、その優しい指先にまた新たに涙が溢れてしまう。
彼の手に自分の手を重ね、思わず私は頬ずりをした。
「ああ……たまらないな。やっとだ……やっと、君を俺だけのものに出来る……」
ぐんと体が浮いて、気付けば彼に横抱きにされていた。私はたくましいその首に両腕を回し、離れたくないと強く抱きつく。
「痛いところはないか? 大丈夫なら少し移動するのだが」
「大丈夫……少し体を打ったけれど、痛みはありません。それより……これは一体?」
私を抱き上げたまま、クラードは歩き始めた。
「今度こそ、俺と君は幸せになるんだよ、ヴィオリット」
「幸せに……?」
「ああ、そう願ってくれただろう?」
それは昨日のこと。彼の幸せを願うと、そう口にした。
彼の足が止まり、私は一台の馬車へと乗せられる。しかし馬車の中でもまた、クラードの上に横抱きに乗せられ、大人しくそれに従った。
「この国はだめだ。根本から腐ってる。何度も足掻いてもがいてきたけれど……君を幸せに出来ないまま……俺は後悔ばかりしていた。これ以上、苦しむヴィオリットを見ていられないのに、君を離すことなど考えられなかった。だから、君が壊れるくらいなら国を壊そうと思ったけれど……そうすれば君は国民を思って悲しむだろう? ならば俺は……この国に見切りをつけ、独立することに決めた」
「独立……まさか、独立国家を?」
「ああ、俺が新たな王となる。ヴィオリット、君にはどうか王妃として、新たな国を……俺を支えてほしい」
「私……が、王妃に……」
「君が言ったんだろう? 自分よりも王妃に相応しい者はいない。そして俺は国を統治する人間で、それには自分が必要だと。俺を支えられるのは、自分だけだと」
……その言葉は……だって……まさか、そんなこと……
いいえ、その片鱗はずっとあった。見えないフリをして、聞こえないフリをして、気付かずにいたかっただけ。
だってそうしなければ、耐えきれなかったの。
私がいなくなった世界で、あなたは私を忘れて幸せに暮らしたのに、私のせいでまたこの繰り返しへと落ち来てしまったのではないか、なんて……
「その通りだったんだよ、ヴィオリット。君を失った俺は、みるみるうちに全てを失っていったんだ。特に顕著だったのは、民の信頼だ。まるで敵国の者を見るかのように睨まれ、蔑まれ、罵られた。お前は未来の王妃を……国の宝を捨てた。あれほどお前に尽くしていた人を信じなかったお前に、国は任せられない、と。それで気付いた……資格も素質もなかったのは、俺の方だ。俺は君がいてくれたからこそ、王子として、将来の王としてあれたというのに」
苦しげに笑うクラードは、小さく息を吐き出した。そうして私をまた抱きしめて……彼はとうとう震える声を出した。
「……すまなかった、ヴィオリット。謝って許されることではないのは分かっている。俺は何度も君を……君を……幸せに、したくて……でも、結局は、苦しめて……ばかりで……」
嗚咽混じりの謝罪に、胸が締め付けられる。
悪いのはあなただけじゃないと言いたいのに、私も泣きながらしゃくりあげてしまって言葉が出なかった。
「苦しかった、だろう? 辛かっただろう? 恐くて悲しくて……安らかな眠りを、願うほど……君を追い詰めて…………それなのに、ヴィオリット……君は、一度だって……俺を責めなかった……悪い、のは、いつも自分だと……」
短い息で紡がれるそれらに、お互いに肩口を濡らしたけれど、決して離れることなど出来そうもなかった。
「君は何も悪くない! ずっとずっと君は悪くなかったんだ!自分勝手に、君を、振り回し続けた……俺……が、本当は、死ねば良かっ……」
「良いわけないわ!」
「ヴィオ……」
「私は一度だってあなたの死を望んでなんていないわ! 先に裏切ったのは私なのよ! あなたは間違ってなんかない……あなたは、ずっと信じてと、言ってくれて……いたのに。父に逆らえず、周りに流されるしか、なかったから……私が、弱かったから……」
「やめろ! 君を責めるのだけはやめてくれ! 俺はもう、二度と君を失いたくないんだ! 今度こそ、君を失ったら……俺は本当に狂って、この国の全てを破壊してしまう……」
噛み合っているのかいないのかすら分からなくなった会話でも、伝わる想いはいくつもあった。
悲しかった。辛かった。苦しかった。寂しかった。痛かった。
けれど、一番伝えたい言葉は……伝えてほしい想いは、まだ言えていないままだ。
「ヴィオリット……お願いだから、もう、俺の前からいなくならないで。俺を一人にしないで」
「……ごめんなさい。一人にして……あなたを、一人ぼっちの苦しさに、取り残してしまって……」
「何があっても、俺と一緒にいて。俺と共に息をして、笑って泣いて、悩んで話し合って……年を取って……俺と、生きて」
抱きしめる腕の力が緩まって、少しだけ後ろに肩を引かれる。
目前に迫る空色の瞳は、涙に濡れているし泣きすぎて瞼も腫れてきていたけれど、真っ直ぐに私だけを見つめていた。
「ええ……クラード……あなたと共に生きたい。私は一度目から今まで……狂おしいほどあなたを愛しているわ」
私が発する初めての愛の言葉に、クラードの瞳からは涙がぶわりと溢れ出し、それを目に焼き付けたと同時に噛みつくようなキスをされた。
「愛してる、ヴィオリット……ずっと君だけを、愛していたんだ……ずっとだ、ヴィオ、ヴィオリット……愛してる……」
「わたし、も……あなた、だけ……クラード……愛してる……ねぇ、もっと……もっと、お願い……愛してる、と、言って……」
「ああ、何度でも……君が望む、限り……愛してるよ」
涙と鼻水が混じっているであろう口付けは、ひどく切なくて甘い……きっとお互いに狂いきった先にある愛情の味となり、私達はそれを求めて貪りついた。
息すら吸えなくて良かった。ただただ、お互いだけがいれば、それだけで良かった。
それから、私達は南の土地に辿り着いた。
クラードが一度目の人生で視察に来た際に、自然豊かで良い場所だから余生を過ごすならここで、と目をつけていたらしい。
元からの住民と、予め手回ししていたために越してきていた住民もいて、私の想像よりもそこは活気づいていた。
小高い丘の上。クラードと私は二人並んでその土地の様子を見つめていた。
「ここなら、君が慰安先として訪れていた施設もある程度は近いだろう? 孤児院は新たに建てるから、希望者はそこに越してこさせるつもりだ」
「そんなところまで考えてくれていたのですか?」
「これは君のおかげだよ、ヴィオリット」
「私の?」
「ああ。俺が独立を決めて、信用出来る貴族に根回しをしていたところ、その誰もが自分達も俺につくと二つ返事で了承してくれた。しかしそれらは全て、君が王妃になるならという条件つきで、だ。領民達は君を慕って、君についていきたいと願うだろうと。君を蔑ろにすることがあれば、うちの領地は反乱が起きかねないというところまであったくらいだ」
そんなにも……私は民に良く思ってもらえていたのだと胸が温かくなる。
「民だけじゃない、騎士達だってそうだ。君が常に努力し、君が俺のためにと尽力しているのを近くで見ていたのも彼らだ。一度目からずっとそうだった。俺達は常に見定められている。誰が国を任せるに信頼出来る相手か……彼らに選ばれてこの地位にいるというのに、いつの間にかそれを忘れてのさばってしまうんだ。彼らに支持されなくなった王家など……繁栄も安定もするはずがないのに」
きっとどこかで、そのようなことが起きてしまったのだろう。私の死がそんなところにまで影響していたなんて、想像もしていなかった。
「ごめんなさい……私がもっと抵抗しておけば、もっと早く……んんっ」
強引に口付けされて、言葉を呑み込まれる。
「謝るのはなしだ、ヴィオリット。君は悪くない。君はああするしかなかったし、そうなるように追い込んだ者がいるんだ」
「……父ね」
「そうだ。君に毒を渡すのは、いつも公爵だった。それにあの女も必ず君が去った後に、公爵の娘として俺の婚約者に決まる。どれだけ会話をせずとも、俺との仲が深いような噂が流れるのも……君の手元に毒が行き着いてしまうのも、全て裏で公爵が手を引いていたんだ。それに、王までもが公爵を後押ししていた」
陛下の話は私は今日、知ったばかりのことだ。いかに自分が繰り返しの中で殻にこもっていったのかを痛感させられる。
「公爵は貴族への影響力はあったが、民からは全く慕われていない。君の父だからこそ、領民も大人しくしていたが……君がいなくなった後、一番に崩壊するのはいつも公爵領だった。ヴィオリット……独立国家になるということは領民とも離れ離れになる。君がそれに心を痛めないかが、俺は不安でならない」
「……彼らはきっと、私達が正しい行いをしていれば自ずと私達を選んでくれます。そうした時に、喜んで彼らを受け入れられる準備をしておくのが、私達のやるべきことだと思うのです」
「……やはり君は……君のその気概が、彼らを惹きつけるのだろうな」
風が吹き抜け、花びらや草が舞い上がって落ちていく。
クラードは私の肩を抱き、丘の向こう……私達の新たな地に目を細める。
「ヴィオリット……始めよう、ここらから。新しい国を、新しい人生を。俺達が二人で、幸せになれる未来を」
「ええ、クラード、あなたのためにならば、私は何だって出来ますわ」
「そうだ。それならば、敬語をやめてくれ」
「敬語を?」
「王と王妃は常に対等だ。それを示すのに、一番分かりやすいのがそこだろう。形から入るということも必要だ」
「そうね……分かったわ」
向かい合って、お互いの指を絡めて手を握りあった。
この手を離さないように。もう二度と、お互いを苦しませることのないように。
「ヴィオリット……どれだけかかっても、俺が君を幸せにする。だから俺を信じて、いつまでも隣りにいてくれ」
「ええ、今度こそ、あなただけを信じぬくわ。ずっと二人で……国を、民を守り支え、豊かな国を作り上げていきましょう」
クラードはそれから間もなく、この国からの独立を宣言した。クラードが去った後、王位継承権を持つ者がいなくなったために後継者決めに迷走していた王家は、更に混乱を極めることとなった。
その間にも、国民には王家と公爵家の癒着、国家予算の横領、周辺貴族の贈収賄と……数々の王家と貴族に関わる疑惑を取り上げた記事が掲載された新聞がバラまかれた。
そこには王子の婚約者の父であった公爵が、庶子を王子妃にすべく、実子である婚約者を馬車の事故に見せかけて暗殺しようと目論んだこと。国内では禁止とされる毒物を所持し、使用の形跡があったことも載っていた。
王家、公爵、周辺貴族の問題が次々と明るみになり、彼らを裁くべく国民の多くがクラードを新たな王へと望み、新たな国家の誕生に賛同の意を評した。
そうしてクラードは、彼らの不正行為を徹底的に調べあげた証拠とともに糾弾し、悪事を働いた全ての者に相応の罰を与えた。
しかし、死罪に、と国民から多くの声が上がった公爵に対して、クラードは死罪を言い渡すことはなかった。
「死をもって償うなど、己の罪から逃げることを許さない。生きてその命ある限り、愚かな自分を悔やみ、罪を償い続けることだ。決して死んで自由になどさせない」
公爵はその宣言を聞いて、絶望的な顔をしていた。
彼は死なない程度に身体に不自由を与えられ、一生働き続けることで罪を償うこととされた。陛下も同じ処罰となり、二人は別々の労働所へと、生涯監視付きで送られた。
庶子として連れてこられた令嬢は、修道院送りが決まった。
彼女は私とクラードが公爵家で話をした時、私のお茶に公爵の命令で毒を混ぜていたらしい。
私がそれに口をつけなかったため未遂で終わり、彼女はそれが公爵に見つかったら罰せられると恐れて自ら飲み干したという事実が判明した
公爵に言われた量よりも極微妙であったことから、死に至ることはなかったが、彼女の内臓は傷付き子を望めない体になっていた。
きっと彼女は彼女で悩み苦しんだ被害者だったと私は思う。彼女も周囲の思惑や噂に振り回された、一人の少女だ。
王妃を手に掛けようとしたと厳罰を求める声もあったが、私はそれを望まないとし、今の処罰となった。
彼女は自分に課せられた罰を聞いて、やっと解放される、と涙を流したという。
彼らへの処罰に不満を持った国民もいた。悪は根絶やしにすべきだという意見も少なからず出ていた。
「悪を根絶やしにするならば、私や我が伴侶もその悪の血が流れている。決して、善悪を血縁で判断してほしくない。どのような環境でも困難に立ち向かおうとする者はいる。これまでは自身の力がなく、それがかなわなかった者もいたはずだ。その者まで排除してしまうことは、新たな国家の繁栄を妨げることになると、私は思う。国民にはどうか、そのような者を血縁で判断せず、その者の意思を受け止め、あなた達の力で立派な領主として育て上げてほしい。もしも害をなす者がいれば、その時は容赦なく私が裁きを下す」
国民はこの言葉に思うところはあっただろうが、それぞれの領主へと向かい合うことで国家繁栄への手助けをしてくれることを選んだ。
裁きの賢王としてクラードが呼ばれる頃には、新たな国の始まりに多くの貴族や国民が、我が国を良い国にしようと立ち上がっていた。
目まぐるしく時は流れ、ようやく国も国民も落ち着いてきた頃、王城の完成を祝う祝賀会を開催することとなった。
国そのものが変わってしまったために、領地の立て直しを余儀なくされた地も多く、三年経ってやっと国民達の生活にも余裕が出てきたという領主の声が増えてきていた。
今回は是非とも盛大に、という声も多く、建国記念と私達の結婚式よりも更に規模を大きくした祝賀会は三日かけて行われることとなった。
その最終日、新たに建てられた王城のバルコニーに、クラードと私は並んで立ち、集まった観衆に手を振っていた。
祝福や期待の声とともに、私達の名を呼ぶ声がする。
孤児院の子供達が周りの大人に肩車され、必死に手を伸ばしていたり、入院施設の人々は車椅子に座り、皆でシーツを広げて手を振ってくれていた。
私達の後ろには、一度目のあの日、国民の声を私に教えてくれた騎士が、騎士団の団長となって護衛にあたってくれている。
これから先、少しでも彼らの期待に応えられるような王と王妃でありたいと心から願う。
「ヴィオリット」
声に呼ばれてクラードを見ると、彼は一歩その場で下がり、私の左手を取った。
薬指には、十八歳の誕生日に贈られた結婚指輪が輝いている。誕生日の前夜、安堵とも恐怖とも分からない感情に押しつぶされそうになる私を、優しく抱きしめ、愛してると言い続けてくれた。
その日を迎えた直後、彼からこの指輪とプロポーズの言葉を贈られ、私は朝になるまで涙が止まらなかった。誕生日だというのに目を腫らして皆の前に立つことになったのは、私にとってこれ以上ないほど素晴らしい思い出だ。
クラードは私の左手の薬指に口付ける。
「ヴィオリット・ゴルドロード……どうかこのクラード・ゴルドロードの生涯の妻として、そしてこの国の王妃として、国を共に支え、国民を守り、王としての私の隣に立ち、励まし合って、夫としての私を末永く愛してほしい」
空いた手を腰に回し、引き寄せられた私は彼の腕の中へと身を預ける。
「何度生まれ変わり、何度やり直そうとも、俺は狂うほどの愛情をヴィオリットだけに捧ぐ。例えこの身を投げ売ってでも、君と共に生きる未来を、俺は掴み取る」
私から俺に変わった一人称は、王としてではなく、クラード自身としてそれを望み、私にだけ語りかけてくれているということだ。
「俺と共に生きてほしい、ヴィオリット。君の未来を俺にくれ」
ワアアーッと、今日一番の歓声が上がっている。
しかし私の耳に届くのは、愛する人の切なる願い。
「クラード……一度目のあの言葉を訂正させて。あなたに私が必要なのではないわ。私に、あなたが必要なの。だからどうか、私と共にいてください」
「ああ、もちろんだ。愛してる、ヴィオリット。王妃としての君も……どんな姿になっても、全ての君を……君の全てを愛している」
「ありがとう、クラード……私を救い出してくれて、諦めないでいてくれてありがとう。愛してる……何度も何度も、あなただけを愛してきました」
七歳の誕生日の朝に聞いた、小鳥の囀り。
あれはこの世の終わりではなく、きっと新しい世界の始まりを知らせる音だったのだろう。
狂ってしまってもいい。もがき苦しんで、それでもこの腕の中に戻ってこられるならば
「あなたと共にいられるのならば……私は何度だって、やり直しても構わないわ」
「もうあんな思いはさせない。次にやり直すことなどないよ。俺はもう、後悔などないのだから」
その自信に満ちた声に私は頷き、そっと目を閉じる。
キツく抱きしめられて与えられた柔らかな口付けに、祝福の歓声は鳴り止まなかった。
END
死に戻りの起点はヒーローです。もう戻りません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!