牛の首
家紋 武範様の「牛の首企画」参加作品です。
※7/22 一部分のみ改訂。
※2/26 挿絵を一番最後に追加しています。挿絵が苦手な方は右上の設定から非表示にご変更ください。
私は小さい頃、絵を描くのが大好きな子供でした。
白い紙に黒い鉛筆で真っ直ぐな、あるいは曲がった線を引き、それらを重ね合わせ、頭の中にある想像を紙に描き写す事が楽しくてたまりませんでした。
毎日毎日母に「おかーさん、紙ちょうだい」と家中のチラシや、コピー用紙や、要らない紙を貰い、裏が白なら喜んで絵を描いていました。
裏も印刷されていたときはがっかりするけれども、それでも空いたスペースに小さな絵を描いたり、印刷された写真に落書きを足したりしていました。
「葉子を大人しくさせるなら紙と鉛筆を与えれば良いだけ。楽なもんだ」と、かつて父が笑っていたのを覚えています。
そんな感じでしたから、習い事はピアノやバレエではなく絵画教室に通っていました。母がある日近所の子供向け教室を見つけてきてくれたのです。
そこでは主に水彩画を教えており、色鉛筆よりも鮮やかでクレヨンよりも混色が容易な画材があることを初めて知り、私はその七色の世界に夢中になりました。
やがて小学生になり、私の絵はある全国コンクールに入選しました。佳作でしたが、それでもその小学校では誰も入選しなかったくらいの倍率だったので、学校の皆も、親も親戚も絵画教室の先生も、皆がたいそう褒めてくれました。
特に、祖母が……今はもう居ないのですが、それはもう喜んでくれて。何度も「葉子ちゃんは将来は美大に行って凄い画家さんになるわね」と私に言っていました。
私も単純ですから「うん! 画家さんになる!」と無邪気に返答していました。
そんなやり取りがあったのと、絵画教室の先生が「お子さんは才能があります。将来美大を目指すならデッサンや油彩を教えてくれる教室にも通った方が良いですよ」と母に勧めたこともあり、私は中学生の頃から隣駅の絵画塾に通い始めました。
実は絵画教室の先生が勧めてくれたのは、先生の知り合いが勤めている別の塾でしたが、もっと遠かったのと月謝が結構したそうです。それで母が独自にインターネットで探してきた、美大出身の男の人が教えているという塾に通うことになりました。
今にして思うと、あの塾に通わなければ私の運命は全く違ったものになっていたでしょう。
その塾で私は一人の女の子と仲良くなりました。外田 凛音ちゃんと言う女の子です。
同い年で、別の中学に通っている子でしたがとても気が合い、そしてとてもデッサンの上手い子でした。
その絵画塾では週替わりでデッサンの講評と油彩画の製作を行っていました。教室にはやはり美術に強い高校や美大を目指す中高生の子達が集まっていたので、中学生でも講評に早いうちから慣れておいた方が良い、というのがその塾の方針でした。
講評とは、皆で同じモチーフのデッサンを行い、最後に先生がそれらを並べて寸評を行うのです。でも、私はあまりその時間が好きではありませんでした。
デッサンに慣れなくてあまり上手に描けなかった事。先生に散々な評価をされたこともそうなのですが……一番の理由は、モチーフです。
先生は、デッサンのモチーフにたびたび牛の首を……頭蓋骨を選びました。
その頭蓋骨を白いテーブルに乗せ、さらにそれを中心に皆でぐるりと囲みます。そして無言で一時間ひたすら描き続けるのです。
聞こえてくるのはシャッ、シャッ、カリカリ、ゴシゴシ……というような、ごく僅かな紙と鉛筆の擦れる音と誰かの息づかいのみ。その静けさのなかで牛の頭蓋骨をじっと見つめ、次いで自分のスケッチブックの中を見つめ、徐々に形を写し取っていく、ただそれだけの時間。
その時間を過ごしていると、なんだかまるで禁忌の黒魔術でも行っているかのように思えてくるのです。
単純ですね。頭蓋骨を皆で静かに囲む=黒魔術だと思うなんて。中学生らしい発想だと大人なら笑い飛ばすかもしれません。
でもあの時は、本気で恐ろしくなったのです。
「なんかあの頭蓋骨、怖い」
「どうして? 葉ちゃん」
塾の帰り。夕闇が辺りに忍んでもまだなお蒸し暑さが残る駅までの道を、私と凛音ちゃんはコンビニに寄り道してアイスを買い食いしながら話していました。
「なんかさ。あの目のところが真っ暗でさ。描くために見つめていると……魂を吸われているような気がするの」
「ははあ、だから最近葉ちゃんは骨の裏側に座ってるのか」
凛音ちゃんはケラケラと笑いながらスイカ味のアイスバーをかじりました。
ガリリと口の中でアイスを噛み砕き、コクリと飲み込んだあとこう言います。
「そう言えば先輩が『あの骨は呪われてる』なんて言ってたな~」
「えっ!?」
「あはは、大丈夫だよ~。もし葉ちゃんが言うような事が本当にあるなら、私は今ここに元気でいないでしょ?」
モチーフの周りに座る時、どこに座るかは基本的に自分で選べます。私は頭蓋骨の真っ暗な眼窩を覗きたくなくて、頭蓋骨の裏側の方をできるだけ選んで座るようになりました。
凛音ちゃんはいつも、私の反対で頭蓋骨の真正面か斜め前を陣取っています。そして彼女のデッサンはとても正確で、特に頭蓋骨がモチーフの時はそれが抜きん出ていました。
彼女があの、真っ暗な牛の首の眼窩を、他のどの生徒よりも長い時間見つめているのは間違いありません。
「それは確かに……」
「ね? そんなもんただの噂だよ。それに真っ暗って言うのも厳密には違うよ」
「え?」
「ほら、黒にも明るい黒、暗い黒があるじゃない。あの目のところをね、じっと見ていると段々違いがわかるの……光と影が。それを見分けて描いていくとね。なんていうか……一体感? みたいなものを感じるんだ」
凛音ちゃんの横顔は夜の暗さと、道傍のお店から発される照明とを同時に受けて、その目と輪郭だけが光り輝き、他は青紫色に染まっていました。白いブラウスは汗で少し身体に張り付いていました。
私は彼女の言葉とその姿に、凛音ちゃんがやっぱり牛の骨に呪われて居るのではないか……と妙な妄想をしてしまい恐ろしくなってしまいました。
私は手にあった苺味のかき氷アイスを一気にガリ! ガリン!と貪りました。頭がツーンとして痛いけれど、それで私の身体にまとわりついていた熱気と妄想が一気に逃げた気がしました。
「そっ、そっか。凛音ちゃんのデッサンの秘訣はそれなんだ。いつも上手くて羨ましいなぁ」
「ああ……そうかもね。デッサンは光と影を如何に描くかじゃないかな。でも私は葉ちゃんの方が羨ましい」
「えっ? なんで? 私のデッサンなんていつも先生にひどく言われてるのに」
「葉ちゃんの色彩のセンスは私には真似できないから。あれだけ色鮮やかなのにうるさくならないのは芸術だよ。私は光と影をとらえる……白黒の世界は得意なんだけど、油画を描いていると途端に色が褪せてボヤけちゃうの」
「ボヤける?」
「そう。……デッサンを正確に描くことは大事だけど、それは技術であって芸術じゃないんじゃないかって……最近思うんだ」
その時、凛音ちゃんの青紫色の顔が寂しそうに微笑んだ気がしたのです。私は必死に訴えました。
「そんなこと無いよ! 凛音ちゃんの絵は凄いもん! 講評でも先生に一番良いっていつも選ばれてるじゃない! 私なんか一度も無いんだよ!」
「……そうだね。少なくとも私は骨のデッサンならあそこの塾では誰にも負けないつもり。ありがとう、葉ちゃん」
私はもっともっと言いたかったのですが、丁度そこで駅に着いてしまったので、私達は別れの挨拶をしました。
反対のホームに登る凛音ちゃんの背中を眺めながら、私は手に残ったアイスの棒がべたべたしているのを感じていました。
その翌月の事だったと思います。確か夏休みでしたから。
夏期講座のキャンペーンで新しい人が入ってきました。名前は……ここでは出せないので鈴木さん、という事にします。
高校生のお姉さんで、凄く綺麗なひとでした。絵画塾ではなくて、同じビルの上の階にあったモデル事務所と間違えて入ってきたのでは? と思うほどだったのです。
でも口数や表情の変化が少なくて、大人しい感じの人でした。
「今回の一番はこれだ」
その日のデッサンの講評の時です。部屋の中は暑いのに、先生の言葉に一瞬だけ皆の空気が凍りついたような気がしました。
「いやー、フォルムの取り方が独特で素晴らしい」
先生が絶賛したのは、鈴木さんが描いた頭蓋骨のデッサンでした。その言葉が妙に空々しく聞こえたのは気のせいでしょうか。私はそっと、横に居る凛音ちゃんを盗み見ました。
真っ直ぐに前を見据えていた凛音ちゃんの顔色が蛍光灯の下なのに青みを帯びているように見えました。
「さっきの、接待ってやつだよ。今回も一番は外田ちゃんだったと俺は思うな」
最後の片付けの途中、私と凛音ちゃんが一緒にいるところへ、親切な先輩のお兄さんがそう小声で言ってきました。
「接待?……ってなんですか?」
「ほら、アゲて、良い気持ちにさせて、夏期講座からそのまま正式入会の生徒をゲットしたいんだろ。あんなもん、どう見たって一番じゃなかった」
「ああ……」
私は先輩の言葉に納得しました。鈴木さんのデッサンはせいぜい私より少し上、くらいの実力にしか思えなかったからです。
「だからあんま気にすんなよ!」
「……はい。ありがとうございました」
先輩の励ましに凛音ちゃんは頭を下げましたが、表情は固いままでした。
鈴木さんは正式に絵画塾に入会しました。
そして……毎回とまでは行かないものの、かなりの頻度で講評の一番良い作品に彼女のデッサンが選ばれました。
私も、凛音ちゃんも、他の人も何も言いませんでしたが、先生の講評に皆が不可解な物を感じていたと思います。
「新しい油画を描こうと思って」
油彩画の週、凛音ちゃんが真新しいカンバスをイーゼルに立て掛けながらそう言った時、イーゼルの向こう側に見えたあの牛の首と私の目が合ったような気がして、私の身体は固くこわばりました。
「新しい油画……その頭蓋骨を描くの?」
「だって」
ふふっと凛音ちゃんが笑みを浮かべますが、全然楽しそうじゃありません。
「私の取り柄って言ったら、これしかないもん」
「……」
「でもそれも、最近鈴木さんに負けちゃってるけど」
「そんな! 違うよ……!」
私は大声をあげかけ、周りの目があることに気がついてハッとしました。
凛音ちゃんも声をひそめます。
「葉ちゃん、私は大丈夫。私は骨の絵ならこの塾の誰にも負けないと思ってる。先生に選ばれなくたって大丈夫。実力で私の絵が一番だとわからせてやる」
「凛音ちゃん……」
「私は大丈夫」
彼女は大丈夫、と繰り返しましたが、それは私の心を落ち着かせるどころかかえって逸るばかりになるものでした。
凛音ちゃんの目が、炎が燃ゆるかのようにギラギラとしているのに顔色が青いままだったからです。それはあの夕方、一緒にアイスを買い食いした時の事を思い出させました。
翌週はデッサンと講評の週でした。
先生はまた頭蓋骨をモチーフに選びました。そしてこう言ったのです。
「今回、一番を取ったやつは俺が飯を奢ってやる」
皆、無言で頷きました。けれど私も……何人もの人が、そっと鈴木さんを見ました。
ただひとり、凛音ちゃんだけは頭蓋骨をずっと見据えていました。
いつものようにモチーフの乗ったテーブルを皆で囲み、デッサンを始めます。いつものように私は裏側、凛音ちゃんは真正面の席を取りました。
でもいつも通りじゃなかったんです。
頭蓋骨越しに見える凛音ちゃんが、ずっと何かをぶつぶつと呟いているのです。勿論声は聞こえないのですが、唇が小刻みに動いていました。
「一番は鈴木のデッサンだな」
先生がニヤニヤしながら言いました。
「やっぱり鈴木は骨を描くのが得意だな。この幽玄さを見ろ」
(ゆうげんって何? 「有限」じゃないよね)
いつも以上に頼りなげでふらふらした線で描かれ形も歪んだ、ハッキリ言って私のよりも酷い出来のそれを見た私は、思わずイラッとして先生と選ばれたデッサンを睨み付けました。
次いで鈴木さんをも睨み付け……そしてハッと気づきました。
鈴木さんはうつむいていました。そして、伏せた顔の目尻が上がり、逆に口角が下がっていました。
いつも何を考えているのかわからない、表情に乏しい彼女がハッキリと嫌悪の表情を浮かべているのがありありとわかりました。
私はその瞬間、今まで彼女を誤解していたことを悟りました。鈴木さんは自分が実力以外で一番に選ばれても嬉しいのだとばかり思っていました。でもそうではなかったのです。
……きっと、今回のデッサンがいつもより出来が酷いのも、鈴木さんは一番を取りたくなくてわざと描いたのかもしれません。
「鈴木は飯を奢ってやるぞ。じゃあ二番。外田だな。これも良いけど、ちょーっと鈴木に比べると暑苦しい」
それは今まで見た凛音ちゃんのデッサンの中でも最も……何というか、凄い絵でした。
真っ黒く塗りつぶした背景に浮き上がる、白い牛の首。それは骨のはずなのに、何故か今にも動き出しそうに思えました。そしてその目は背景と同じ真っ暗でした。
……真っ暗だったんです。今まで頭蓋骨の真っ暗な眼窩にも、明るい黒と暗い黒があると言っていた凛音ちゃんだったのに。
私は横にいる凛音ちゃんを見つめました。真っ直ぐに前を見ている彼女の瞳も、光がなく真っ暗に見えました。
「先生。一時間居残りしていいですか。油画の続きを描きたくて」
凛音ちゃんはイーゼルを片付けず、先生にそう言いました。この塾は一時間だけ自主的に残って製作をしても許されます。
「……ああ、良いけど俺は出るから鍵を管理室に預けてくれ」
先生はそう言いました。いつもなら立ち会ってくれるのですが、ごくたまに先生の用事があって不在の場合は居残った生徒が鍵を閉め、ビルの一階の管理室に預ける決まりになっていました。
先生の今日の用事とは……。
「さあ、鈴木、約束通り奢ってやる。何が食いたい?」
「あ…………いです」
「ん? 何?」
「……いいです。結構です」
「遠慮すんなよ~」
帰ろうとする鈴木さんの肩に、先生が手を置きました。鈴木さんがその肩をぴくりと揺らすのがわかりました。
「あれ、ヤバくないか? キモすぎんだろ。いくら鈴木さんが美人だからってさ……」
先輩が二人の方を見ながら私達にこっそりとそう言いました。
「俺、尾行してみるわ。なんかあったら通報する」
「えっ!? 先輩、そんな事して大丈夫ですか!?」
「大丈夫。つーかさ、俺塾辞めようかなって思ってたんだ」
「え?」
「先生、アラサーの独身だったよな? 前から鈴木さんを贔屓すんのキメエって思ってたけど……見たろ? 鈴木さんが嫌がってるの」
「はい……私、鈴木さんは嫌じゃないんだって思ってました……でも勘違いだったみたい」
「こんなキメエ奴の塾、もう通いたくない。だけど辞めて他のところ行きたいって言ったら、親にただのワガママだと思われても悔しいからさ。ちょっと証拠とか撮れたらいいなって」
「き、気をつけて下さい」
「大丈夫! じゃあまたな! 居残り頑張れよ」
先輩は鈴木さんと先生を追いかけて塾を出ていきました。私はその後ろ姿を見送って、それからふと気づきました。
凛音ちゃんが今の先輩との会話に一切参加していなかったことを。
振り向くと凛音ちゃんはカンバスに向かい、パレットに絵の具を出していました。
「……しが………ん………を……ってる」
凛音ちゃんが小さく何かを呟いています。と、深川鼠の色で下塗りをしていたカンバスに、チューブから出したままの黒の絵の具をいきなり塗りたくり始めました。
「凛音ちゃん?」
「私が一番あなたをわかってる。私が一番あなたを描いてあげられる。私が一番あなたと相性が良い……」
「凛音ちゃん!!」
私は恐ろしくなって凛音ちゃんにしがみつきました。
彼女の持っていた筆とパレットが床に落ち、ガランガランと言う耳障りな音と、黒い絵の具とペインティングオイルとを辺りに振り撒きました。
「…………あ……?」
「凛音ちゃん、大丈夫!?」
「葉ちゃん……?」
「今、凛音ちゃんおかしかったよ! なんかぶつぶつ言ってて……っ、私、私怖かった……!!」
私は泣きながら凛音ちゃんに訴えました。彼女はふらりとその場でしゃがみこみ、力無く微笑みました。
「ごめん……ちょっと最近寝れてなくて……あとココ暑いから、熱中症とかもあるかも……」
「凛音ちゃん、無理しないで。今日はもう帰ろうよ!」
「うん……そうだね……でも床を汚しちゃったから掃除しなきゃ帰れない……」
「私も手伝う!」
「ありがと……でも、ちょっとスポドリ買ってきてくれない? このままじゃマジでぶっ倒れそう。私、ここで休んでるから」
「わかった! 凛音ちゃん、私が戻るまで休んでて。動いちゃダメだよ!」
「うん……あと、アイスもお願い」
「わかった!」
私は近くのコンビニに走りました。スポーツドリンクと、スイカ味のアイスを買って急いで戻ろうとした時です。
私の携帯に先輩からメールが入りました。
『ミッション成功!』というタイトルで、本文にはこう書いてあります。
『この後、大声で人を呼んで俺も鈴木さんも無事。キモいロリコン馬鹿は逃げてった!』
メールには写真が添付してありました。私はそれを見て、さっきとは違う鳥肌が立つのがわかりました。写真の中の先生が鈴木さんの腰に手を回して、少し怯えた顔の鈴木さんが逃げようとしている様に見えます。
白昼ではないにせよ、堂々と公道で制服姿の女子高校生を無理やり捕まえようとするなんて正気じゃないと思えました。先生も暑さで頭がおかしくなってしまったのでしょうか。
……凛音ちゃんのように。
私はむわりとした夕方の空気を切り裂くかのように駆け出しました。
塾はビルの2階です。エレベーターを待つのももどかしく、私は階段を駆け上がります。塾のドアを開けると、何故か電気が消えていました。
「凛音ちゃん!」
カンバスの前に立っていた人影が、こちらを振り返りました。
凛音ちゃんの靴やスカートと同じものを履いて、でも上半身のブラウスは白ではない。窓から入ってくる薄明かりで見えるトップスの色は赤黒いように見えました。それらを身につけた、その人物。
その首から上には牛の頭蓋骨が乗っていました。
そして、その頭と首の境目から止めどなく赤い液体が滴っていたのです。
「あ、あ、あ、ああああああ嫌ああああああ!!!」
正直、何が起きたのか、私はその時何をしたのかよく覚えていません。後の状況と照らし合わせると、私は手に持っていたコンビニのレジ袋を取り落とし、一目散に逃げ出したのです。そして一階の管理室にいた守衛さんに助けを求めたのでした。
「ほ、骨が! 血が! 凛音ちゃん! 呪われてる!」
そんな支離滅裂な事を言っていた私を、守衛のおじさんは落ち着くように言って麦茶を飲ませてくれました。その人は親切では有りましたが、私の話を1ミリも信じてはいないようで笑いながら聞いていました。
私は恐ろしさと、わかってもらえない悲しさとでボロボロと泣きながらおじさんに訴え続けました。
「わかったわかった。じゃあ戸締まりも確認しないといけないし、一緒に行こうか」
おじさんはそう言って、一緒に2階にあがってくれました。私は逃げ出したい気持ちと、凛音ちゃんを助けたい気持ちの狭間で必死に耐えながらドアを開けました。
「……あ」
そこには誰もいませんでした。ただ、モチーフのテーブルや、イーゼルに乗せたカンバスと床に落ちたパレットや筆があるだけでした。
「ほら、何か見間違えたんだよ。ちょうど今は夕方だ。『逢魔が刻』って言うだろう?」
おじさんは笑いながら、私が落としたコンビニの袋を拾い上げました。中のスイカ味のアイスは、もう溶け始めてグズグズになっていました。
翌々日、学校から帰ると玄関に見慣れない男物の革靴が二足有りました。これは何かと疑問に思う前に、血相を変えた母が玄関まで飛んできて言いました。
「葉子、警察があなたに聞きたいことがあるって」
「えっ」
「あなたが仲良くしていた、凛音ちゃんの事で」
凛音ちゃんはあの日から失踪していました。
絵画塾から帰宅せず、携帯も圏外のままだったため家族が昨日捜索願を出し、塾の先生にまず警察が質問したところ「外出していたので守衛さんに鍵を預けるようにと指示を出した」と先生は答えたのです。
そこで守衛のおじさんは私の事を覚えていて、警察に話したそうです。
私は警察官にありのままを話しました。けれどもおじさんに話した時と同じで、全く信じてもらえなかったのです。警察だけじゃない。私の母ですら信じていないようでした。
「すみません。この子絵が得意だから、想像力が豊かなもので……」
「良いんですよ。思春期の子には良くあることです」
警察と母の会話にまた私は泣いてしまいました。私は信じてもらえないことが悔しくて悔しくて、そして凛音ちゃんが心配で心配で、なんとかならないか言葉を尽くしました。
「本当です! 私以外にも、凛音ちゃんの様子がおかしかったのを……先輩なら見てるはずです!」
「先輩?」
「はい。あの日、先輩は先生が気持ち悪いから尾行するって言ってて、でもその時の凛音ちゃんが不思議なくらい一言も喋らなかったんです。だからきっと、先輩に聞いてもらえば……」
「ちょっと待って。『先生が気持ち悪いから』ってどういう意味だい?」
それまで私は凛音ちゃんの事しか警察に話しませんでした。先生が鈴木さんを気に入って強引にご飯に行こうとしていたのは余計な話だと思っていたからです。
けれどもそれを話し出すと、段々警察官の人たちの顔が険しくなってきて、最後に先輩から貰ったメールと添付写真を見せた時にはとても怖い顔になっていました。
「これは……」
「うん。連絡しろ」
二人の警察官はぼそぼそとそんな話をしてから、私に「大変参考になりました。ありがとう」とお礼を言って、そして先輩の連絡先を聞いてきました。
先生は、重要参考人として警察に連行されたそうです。
彼が鈴木さんの腰を強引に抱いた時、先輩が大声で人を呼び、鈴木さんが泣き崩れたのと先生が慌てて逃げた様子を駆けつけた大人達が何人も見ていて証言してくれました。
それで警察が先生の家に質問をしに行ったら、部屋から未成年ポルノの本が沢山出てきたそうです。更に塾の床からも血液のルミノール反応が僅かですが見つかり、そのDNAは凛音ちゃんのお母さんのDNAと親子関係であることが証明されたそうです。
先生が逃げ出した位置は、走ればすぐに塾に戻る事が出来る場所でした。鈴木さんをものにできなかった腹いせに、誰でも良いから中高生の女の子を手に入れようとした。たまたま一人で塾に残っていた凛音ちゃんがその毒牙にかかったのだ……というのが警察の見立てだったようです。
私がコンビニに行き、先輩からのメールを読んで立ち尽くしていた時間を加味すれば、たった5分ほどの猶予しかありませんが凛音ちゃんを殴るなどして気絶させ、誘拐して裏口の非常階段から連れ出すことも理論上は可能なのだそうです。
私が見たものはやっぱり幻覚だったと片付けられました。
でも違うんです。あれは幻覚なんかじゃない。
牛の頭蓋骨が首から上に乗った凛音ちゃんの身体。境目の首からは鮮血が溢れ、彼女のブラウスを赤く染め、床にも何滴かが滴った様子。
だって私は知っているんです。
あの時、恐怖がまだ拭いきれないまま、けれども守衛のおじさんが部屋の電気をつけて一緒に居てくれたから安心して、私は床を掃除したのです。
床には絵の具と油が有りました。そのままにしておけば絵の具が固まって取れなくなりますし、油が滑って危ないでしょう。
だから私は備え付けの雑巾で床を拭いたのです。その時に雑巾についたのは黒い絵の具と油だけ。血はおろか、赤い絵の具さえつきませんでした。
それなのに床から、血そのものではなくルミノール反応だけが出るなんて矛盾しています。
それに、部屋には『ただ、モチーフのテーブルや、イーゼルに乗せたカンバスと床に落ちたパレットや筆があるだけでした』と私はさっき言ったでしょう?
無かったんです。テーブルの上にあるはずの…………牛の頭蓋骨が。
やはり、あの頭蓋骨は呪われた骨だったのです。凛音ちゃんはそれに魅入られ、あの骨とひとつになり、そして床に滴った血液ごと、どこかに煙のように消えてしまったのだと私は思います。
でも、どこかで、生きているのかもしれません。生きていてくれたら、と私は少ない望みにすがってしまうのです。
ふう……。
ちょっと話が長くなってしまいましたね。すみません。インタビューって、普通聞かれる方がこんなに喋り通したりしませんよね。
でも、私の画家としてのルーツが今の話なんです。それに、よく質問されるんです。私の作品には必ず『牛の首に赤い身体の人間』と『青紫の顔の女性』が描かれているけれど何故か? って。貴方もその秘密を知りたかったんじゃないんですか?
ええ。色鮮やかな配色に忍ばせた、あれらのモチーフは凛音ちゃんです。
私の頭の中にずっとずっと消えずに残っている、凛音ちゃんをカンバスに描き写してるんですよ。
そうしないと……常に絵にして吐き出さないと、どんどんと私の頭の中で凛音ちゃんの姿が膨らんでいって、それしか考えられなくなって、やがて真っ暗になってしまうんです。
あの真っ暗な目の中に魂を吸い込まれるみたいに。
お読み頂き、ありがとうございました!