笑わない王女
きっと人間の感情は、単純な仕掛けなのだろう。
からくり人形の頭をなでると、人形は笑ったような顔を作る。また、叩くと、泣きそうな顔を作る。
単純な仕掛けだ。からくり人形が楽しんだり悲しんだりするわけではない。
しかし、笑った人形を見れば、楽しんでいるように見えるし、泣きそうな人形を見れば、悲しんでいるように見える。
楽しむ人を見たり、悲しむ人を見たときと同じような感情を、人はその人形に対して抱く。
きっと人間も単純な仕掛けなのだろう。
ある人々が言う。
楽しんでいるように見えて、楽しんでいるものとして扱ってよいなら、その人形は楽しんでいると言えるのだ。
もっともらしい話だった。楽しくもないのによく笑う人がいたとして、一生涯にわたってよく笑い続けるのだとすれば、他の人にとってその人はよく楽しむ人も同然だ。
——私は、そういう説が嫌いだ。
私は笑ったことがない。私は泣いたことがない。物心ついたときから、眉もまなじりも口の端も、思わず動くということがなかった。
楽しいことを楽しまないわけではない。悲しいことを悲しまないわけではない。
心の中では、喜びも愛しさも悲しみも怒りも、よく感じた。そのつもりだった。
でも、からくり人形に感情を認める人々は、私に感情を認めないのだろう。
表に出ないから。
私は、御殿にやってくる役者が喜劇や悲劇を演じるのを楽しむ。喜劇は可笑しいし、悲劇は悲しい。
ただ、それを表情に出すことがない。
そのことだけで、役者は私に「うけなかった」と判断する。
そんなことはない、と言っても、苦笑いするばかりだ。
父王は、私を笑わせる者があれば嫁に出そう、とお触れを出した。
景品か、私は。
人は私のことを、冷血姫とか人形姫とか呼ぶらしい。
私よりもからくり人形の方が、よほど感情豊かだという。
私は悲しんだし、怒った。
けれど私が悲しんで怒っているとは、思ってもらえなかった。
私が喜んでいても、皆は私が喜んでいると思わない。
私が怒っていても、皆は私が怒っていると思わない。
心の中ではたくさんの感情を知っている。
けれども誰も認めないものだから、私はそのうち本当に、喜んだり悲しんだりすることができなくなるかもしれない。
人間の感情は、単純な仕掛けなのだろう。
そして私の仕掛けは、どこかが破綻しているらしかった。