百合NTRに対する考察
ある日の休日、高梨恵が友達の皇乃々花の家に遊びに行くと、恵の恋人と友達が抱き合っていた。
ドアを開けたまま立ち尽くす恵に気付き、二人はすぐさま身を離してあさっての方を向いた。
恵は特に気にせずに「お待たせ」と部屋に入っていく。カバンを隅に置いて適当な場所に腰を降ろしながら話しかける。
「駅前の商店街通って来たんだけどさ、肉屋さんのコロッケめっちゃ美味しそうだったからあとで買いにいかない?」
恵の提案に対して二人は驚愕の表情を返してきた。
「……ケイちゃん、それ本気?」
両手で口を覆ったまま聞いてきたのは三草姫子、恵の恋人だ。茶色掛かったストレートの髪は肩口で切り揃えられ、ゆったりとした白のワンピースとあいまってお人形さんのような雰囲気がある。
今日も可愛らしい自慢の彼女の姿に恵は心を弾ませながら、眉をひそめて尋ね返した。
「もしかして姫子ダイエット中? 大丈夫だって。むしろ姫子は細いんだからもうちょっと肉付けた方がいいよ」
「そうじゃない、そうじゃないんだよケイちゃん……!」
「ダイエットじゃないとすると……あっ、コロッケよりもメンチカツの方が良かった? ハムカツとかササミカツもあったし、鶏皮揚げってのもあったからどれ食べようか悩むよねぇ」
恵は店先のショーケースを思い出しながら味を想像しよだれを溜める。すでに恵の頭の中は揚げ物のことでいっぱいになりつつあった。
「鶏皮揚げ……ちょっと惹かれるかも」
不意に出たメニューに姫子もつい反応した。
「でしょー? 塩とタレの二種類あってさ、せっかく食べるなら両方食べ比べようと思ってて――」
「ストップストーップ!」
これまでだんまりだった乃々花が両手を振って会話を遮った。少しクセのある黒髪に太縁のメガネ。メガネは大きさが合っておらず度々ずれそうになるのを指で戻している。自室だからかTシャツの上にグレーのパーカーを着込み、下は黒のジャージというラフな服装だ。
乃々花は姫子にキッと視線を向ける。
「姫子ちゃんまで会話に乗っかってどうするの。きちんと手筈どおりにやらないと」
「ご、ごめん、美味しそうだったからつい」
「ちなみに私のオススメはチーズササミカツ」
「あーいいねぇ、ササミの中でとろっと溶けるチーズが最高だよね」
「――じゃなくて!」
うっかり乗ってしまった乃々花は再度会話を締めた。そのまま語気も荒く恵に問いかける。
「恵はさっきの私たちを見て何とも思わなかったの?」
「さっきって?」
「私と姫子ちゃんがこうやって抱き合ってたことについて!」
乃々花ががしっと姫子に抱き着いてみせると、恵は「あぁ」と声を漏らして続けた。
「まぁ何かあったのかなとは思ったけど、あたしに言うようなことだったらまた後で言うだろうし、深く考えてもしょうがないかなと」
「自分の恋人とそのクラスメイトが部屋で抱き合ってるのに!?」
「というかあたしに言えないことで落ち込んでるのをどっちかが慰めてるんだろうなと思ってた。だったらあたしがこの場であれこれ聞くことじゃないでしょ?」
「……その、嫉妬とかジェラシィ的な感情はまったく無かった感じで?」
「ないない。むしろ大丈夫かなって心配したくらい」
「…………」
絶句する乃々花の肩を姫子が叩いた。
「やっぱりケイちゃんが相手だと無理だよ。だってケイちゃんは私の気持ちが変わったりしないって信じちゃってるもん」
「そっか……自分が愛されてるって自信があるから多少のことで揺らいだりしないのか。私みたいな陰キャには絶対出来ない……」
がっくりとうなだれる二人に恵が引きつった笑みを浮かべる。
「なんか褒められてるようでけなされてる気がするんだけど。で、それがさっき乃々花が言ってた『手筈どおり』と関係あるってこと?」
恵の言葉に二人が気まずく顔を見合わせる。
「ケイちゃんってときどき洞察力が鋭いよね」
「姫子ちゃん、その言い方だと普段は鈍いみたいに聞こえかねないから」
「おーい、全部聞こえてるぞー」
ひそひそする気もない会話に一応突っ込みを入れてから、恵は腕を組んで二人を見やった。
「さて、詳しく聞かせてもらいましょうか」
「恋人を寝取られたときの心境を知りたい?」
目的を聞かされた恵は呆れを隠すことなく言葉を復唱した。
乃々花が頷いて答える。
「NTRものの百合マンガを描こうと思って、色々参考になりそうなのを探してたらその……」
「私が乃々花ちゃんに寝取られたフリをして、ケイちゃんに色々聞いてみるのはどう? って提案したの」
恵は深くため息を吐いた。結果的にそう思わなかったから何ともなかったが、もし恵が二人の仲を疑っていればケンカになったかもしれないのだ。
「だからって誤解を招くような行為をしていい理由にはならないでしょ。人を嫌な気持ちにさせてそれを参考にしようって考えも好きじゃないし」
「「ごめんなさい……」」
二人が深く頭を下げるのを見て恵も矛を納めた。
「まぁ姫子がマンガに協力的なのは今に始まったことじゃないけどさ」
そもそも乃々花と仲良くなったきっかけも、恵と姫子が普段どのように付き合っているかを取材させて欲しいと頼まれたからだ。姫子の突飛な行動を注意するのも今更の話。
頭を下げていた姫子がちらと恵を窺った。
「ちなみにさ、ケイちゃん。本当の本当にまったくこれっぽちも嫉妬とかしなかったの?」
「ないって。だいたいもし本当に姫子たちがそうなったら絶対あたしに報告してくるでしょ。違う?」
姫子と乃々花はそれぞれ曖昧に頷いた。
「まぁ隠れてこそこそするよりかは面と向かって言う、かなぁ」
「私は秘密にしたまま恵と普通に話せる自信がない……」
「ほら、あたしの感覚の方が合ってるじゃんか。まるであたしが細かいことを気にしない豪傑みたいに言うけどさ」
そこまでは誰も言っていなかったが、後ろめたい姫子たちは乾いた笑いを浮かべるだけだった。
「だいたい恋人に嫉妬をさせたいっていうのもどうかと思うんだよ。嫉妬させたから何? 自分が愛されてるって実感するの? そんなものなくても普段の接し方で分かるもんでしょ。姫子はあたしが嫉妬したとして嬉しくなる?」
「嬉しい、とは違うけど、嫉妬してちょっとすねたケイちゃんは見てみたいなぁとか思ったり……」
「まさかそんな理由で乃々花に話を持ちかけたんじゃ」
恵が凄むと姫子は小さく頷いた。はぁ、とまた大きく息を吐いて恵が言う。
「勘弁してよ。そんなことで抱き合ったりしてたらそのうちあたしを驚かす為だけにキスとかしそう」
「キスしたら嫉妬する?」
「嫉妬する前に止めるっての! ていうかあたしだって嫉妬くらいしたことあるから」
「え、いつ?」
「いつもなにも姫子と乃々花が楽しそうにマンガの話をしてるときに羨ましいなぁって思ってるよ」
「ウソ、全然そんな顔してないじゃん」
「姫子たちが楽しそうなのにあたしだけ嫌な顔できるわけないでしょ! かっこ悪い!」
恋人が喜ぶ姿を喜べないなら恋人でいる資格がない。恵はそう考えている。それがたとえ自分にとって愉快なことでなくても後押しをしてあげるのが恋人として当然の義務だ。
恵が嫉妬していたと知って姫子は明らかに喜んでいた。緩みそうになっている頬を手で押さえながら姫子は乃々花に振り返る。
「ねぇねぇ、乃々花ちゃん聞いた? ケイちゃんも嫉妬してたんだって?」
これまで黙って聞いていた乃々花はメガネの位置を直しながらやおら顔を上げた。
「……姫子ちゃん、やっぱりこれはNTRじゃないんじゃないかと」
「ど、どうしたの急に?」
「NTRの神髄というのは、徐々に変わっていく恋人に対して『まさか』と疑惑を抱く所から始まり、だんだんと確信に近づくにつれて焦りや葛藤が生まれ、ついにその現場を目撃したときに過去の疑念が一本の線になって心のより所を失っていく――そういった道程が大事なんじゃないかな」
これは乃々花の個人的な意見であり、主張は千差万別、かつ対象年齢によって趣が異なることも記しておく。
乃々花の言葉に姫子は顎に手を当てて考えこむ。
「なるほど、確かにただ私達が抱き合ってるシーンをケイちゃんに見せても、それはたんに浮気現場に遭遇しただけ……。もしも本当に寝取られを実践するなら、水面下で行ってそれとなくケイちゃんに感づかせないとダメだったってことだね」
「えぇ。たとえば恵がトイレに立って戻ってきたときに私達の衣服が乱れてて息を整えながらわざとらしく笑って出迎えるとか、三人でどこかに一泊したときに恵の背後で布団にもぐって押し殺した声を聞かせるとか」
「待て待て待て。何すっごいイヤらしいことを真顔で言ってんのよ」
「だって寝取られって本来そういう意味だから。ハグだけじゃ寝ても取ってもない」
「本来の意味とかどうでもいいの。嘘でも乃々花と姫子がそういうことするとか言わないで」
その状況を想像しそうになって恵は頭を振った。もしも実際にそれに遭遇したら正常でいられる自信がない。果たして二人に問い詰められるだろうか。いや、返ってきた答えが予想通りのものだったらと思うと聞くことも出来ない。ひとりで悶々と悩んだ末にそれとなく姫子に聞いてみて、『別になんでもないよ』とか言われたらそれこそもうどうしていいか分からなくなる。
「はぁ、はぁ……」と苦しげに呻きながら恵は実感を込めて呟いた。
「これが、NTR……!」
「あの、そこまでダメージを受けると思わなかったから……ごめん」
乃々花が謝る横で姫子が軽い口調で告げてくる。
「私も逆バージョンで想像してみたんだけど、たしかに結構ショックかも」
「っ!? 姫子ちゃんまで!? ご、ごめんなさい、決してそんなことするつもりはないので!」
床に両手をついて平身低頭謝る乃々花に姫子が首を横に振る。
「乃々花ちゃんは悪くないよ。私達が勝手に想像して勝手に落ち込んだだけだし。キスくらいだったらされても平気だと思ってるんだけどなぁ」
「え、姫子……それって私が乃々花とキスをしたら、ってこと?」
「うん」
「そ、そんなの起きるわけないでしょ」
「そうかな? 乃々花ちゃんが不意打ちでキスすることもあるかもしれないじゃん」
「「いやいやいや」」
恵と乃々花の声がハモった。しかし姫子は言葉を取り下げない。
「じゃあ例えば乃々花ちゃんが一生に一度のお願いだから思い出にキスさせて、って迫ってきたとして、ケイちゃんは断れる? 私は無理だと思ってるんだけど」
「そんなことは……」
涙ぐんだ必死の表情で訴えかけてくる乃々花の姿がありありと目に浮かび、恵は言葉を詰まらせた。
乃々花がそれをお願いするということはよほどの覚悟を伴ってのことだ。決死の想いを無下にするほど恵は残酷な性格をしていない。むしろ応えてあげなければと奮起することの方が多い。
眉根に皺を寄せる恵を見て姫子が苦笑する。
「ね? それがケイちゃんっていう人なの。キスくらいは仕方ないって言い方だと語弊があるけど、いつかその現場を見ちゃったとしても諦めようって考えてた」
キスとはいえ不貞行為には違いない。諦めるとは要するにキスまでなら浮気を許すと言っているのだ。
恵は自分の恋人の度量の広さに感服した。そしてここまで言ってくれる彼女を悲しませてはいけないと改めて思った。心身ともに気を引き締めて余計な心配などさせまいと。
その決意など知る由もない乃々花はおずおずと手を上げながら尋ねた。
「……あの、私がお願いしたらキスはオッケーという認識で……?」
「ダメダメっ!」
「それは違うでしょっ!」
恵と姫子に全力で否定されて落ち込む乃々花。
「うぅ……私は一生キスも知らないまま生涯を閉じるんだ……」
うなだれた後ちらりと恵を見てまた床に視線を落とす。
「キスをしたこともないのに恋愛マンガなんか描きやがってって子供たちからバカにされちゃうんだ……」
今度は姫子の方を見てから両目を手で覆って小さく嗚咽を漏らし始める。
「ひっく、私みたいな陰キャコミュ障冴えない顔の喪女は人のぬくもりなんて知る資格ないんだ……うっ、うぇぇ」
乃々花のそれが嘘泣きであることは一目瞭然だった。恵は肩を竦めながら息を吐く。
「いつの間にか強かになったもんだね、乃々花」
人と接することが苦手で自分に自信のない乃々花がキスをせがむようになったのはある種成長したと言ってもいいだろう。それは喜ばしい反面、内容が内容だけに素直に褒められない。
「私だってキスしたい! 女の子の柔らかい唇を味わいたい!」
乃々花は泣くのを止めて拳をぐっと握った。単純かつ明快な理由を恥ずかしげもなく叫ぶのを見て恵と姫子は視線を交わし合う。
どうする? 叶えてあげたいけどさすがに……。無言の会議をしばし続け、姫子が結論を出した。
「ほっぺたにキス、じゃダメ?」
恵が乃々花の頬にキスをしたのちに、乃々花が恵の頬にキスをする。目の前での唇同士のキスは許容できないがこれくらいなら、と考えた末の譲歩だ。
乃々花が両手をあげて喜びをあらわにする。
「ありがとうございます! ――ではさっそく」
「わ、わ、待って! あたしはまだ心の準備が」
制止しようとする恵に乃々花はどんどん詰め寄っていく。
「ほっぺにチューなんて欧米じゃ挨拶だから……はぁはぁ」
「息が荒いんだけど!?」
「すぐ終わるから安心して……はぁはぁ」
「その顔で言われてもちっとも安心できな――あうっ」
乃々花に頬にキスをされて恵は身を固くした。キス自体は姫子にもされたことがあるので特筆すべきことではないが、恋人と違う唇の柔らかさと体温を感じるにつれ恥ずかしくなってくる。おまけに乃々花の鼻息が荒く頬がこそばゆい。だからといってここで突き放したりするのは恵の良心が痛む。女友達から頬にキスをされたくらいで嫌がるのもバカらしい。結局恵は何も抵抗せずに耐えることを選択した。
恵がじっとしているのをいいことに、ちゅ~っ、と音を立てながら乃々花が恵のほっぺたを吸った。
「こらっ、吸うんじゃない!」
「――ぷはっ、だ、だってこんなときじゃないと出来ないから……ごめんっ!」
謝ってから乃々花は再び恵の頬にキスをして唇を動かしながら吸い始めた。
「姫子からも何とか言ってやってよ! ほら、このままだと跡になっちゃうかもしれないしさ」
きっと助けてくれるだろうと信じて恵は姫子に呼びかけたのだが、そこで姫子の異変に気付いた。姫子は顔を上気させ、動悸でも激しいのか胸を手で押さえて苦しそうに眉を下げている。
「どうしたの姫子? 体調でも悪い?」
姫子はふるふると首を横に振った。潤んだ瞳を恵に向けて声を絞り出す。
「……どうしようケイちゃん」
「?」
「ケイちゃんが乃々花ちゃんにキスされてるのを見て、嫌な気分になるどころか、ちょっと嬉しい私がいるの……」
「はぁ?」
姫子の感想は止まらない。
「ほっぺにキスされて戸惑いながら照れてるケイちゃんが可愛いすぎだし、私がキスしたときと違う表情のケイちゃんが新鮮だし――やばい……私やばいかも」
いつになく言動や仕草がおかしなことになっている姫子を見て、恵は事態のまずさに思い至った。
(今この場にストッパーがいないっ!?)
これ以上キスを続けていてはよからぬことになりかねない。恵はやむを得ず乃々花を引きはがしに掛かった。
「そ、そろそろいいんじゃない?」
「……っはぁ……次は恵が私にキスする番?」
「いやぁ、それはまたの機会でいいと思うんだ」
「――ヤダ!」
至近距離だったせいで恵の反応が遅れた。乃々花は恵の頭を両手で挟むとその唇に自身の唇を合わせてきた。
勢いに押されて恵は乃々花と一緒に床に倒れ込んだ。
「――――」
唇から友人の味が広がってくるが、恵は恋人のことが気になってそれどころではない。
「んん~~っ!!」
乃々花をどかそうにも上からのしかかられて更にがっちりと両腕でホールドされているのでどうすることも出来ない。
(ごめん……ごめん、姫子! 姫子の目の前でこんな裏切るようなこと……)
恋人を悲しませないと誓った直後の体たらくに情けなく思っていたとき、恵たちの真横からキスの様子を眺める姫子に気が付いた。
(姫子!? なにやってんの?)
恵の視線を受けて姫子が声を出さずに『ごめん』と呟いた。なんの謝罪か分からない恵をよそに姫子はスマホを取り出してカメラを二人に向けた。
(――ちょっ!?)
シャッターとは違う電子音が鳴り、緑のライトが点灯した。録画モードのようだ。恋人の信じられない行動に恵の頭は混乱する。何故助けてくれないのか。まさか本当に楽しんでいるのか。しかし恵の思考は口に侵入してきた乃々花の舌によって中断させられた。
(嘘でしょ!? 舌入れるとか――)
恵が取り乱した一番の理由は、舌を入れるようなディープキスをしたことがなかったからだ。口内を蹂躙されながらその未知の感覚に恵は圧倒される。生き物のように絡み付いてくる舌。粘膜と粘膜の接触はちゅぷちゅぷと卑猥な水音を立て、相手の唾液と自分の唾液が交ざり合い唇の端から頬を伝って床へと流れ落ちていく。
口からもたらされる膨大な刺激は恵から思考能力だけでなく力まで奪っていった。いつしか恵は乃々花のキスに抗う素振りすら見せずに受け入れてしまっていた。
…………。
長い長いキスの後、乃々花が唇を離した。粘ついた唾液が糸を引く。恵は目を瞑り仰向けになったまま荒い息を整えていた。
細部の様子までスマホ越しに見ていた姫子が溜まっていた唾を飲み込む。姫子自身なぜこんなに興奮しているのか分かっていない。いや、恋人が友人に襲われる様を見て悦ぶような性癖なのだと認めたくなかったのだ。動悸を抑えるためにゆっくり深呼吸をしながら姫子は動画を保存した。
ふいに乃々花が姫子の方を向いた。姫子の体がびくっと跳ねる。なんとなく不穏なものを感じて姫子は笑い掛けた。
「あ、あはは、ず、ずいぶん激しいキスだったね。乃々花ちゃん満足した?」
乃々花の唾液にまみれた唇が吊り上がっていく。
「姫子ちゃんも、キス、しよ……?」
「――ひっ」
まるでホラー映画で怪物を見たときのように姫子は竦みあがった。乃々花がその隙に飛びかかり、姫子の唇を奪った。
「ん~~~っ!!?」
姫子の悲鳴が部屋に木霊する。その声を聞いても恵は助けに行こうとはしなかった。助ける気力が無いというのもあるが、なにより姫子にも自分と同じ目に遭わせてやりたかったのだ。
(あたしを助けなかったバツだ)
乃々花に舌を入れられたのだろう、再びくぐもった悲鳴を上げた姫子に恵はくすりと笑みを零した。
………………。
…………。
「本っっっっ当に、申し訳ありませんでした」
正気を取り戻した乃々花がおでこを床にこするようにして二人に謝った。低い位置から力無い声で続ける。
「無理矢理キスをするというのは犯罪だと分かってます……。強制わいせつ罪として出るとこに出てもらって構いません……」
先程までの勢いや強引さはどこへやら。乃々花は恐縮しきりっぱなしでひたすらに頭を下げ続けた。
恵と姫子は顔を見合わせてどちらからともなく口を開いた。
「まぁ、さっきのはしょうがないと言うか……」
「私たちも悪かったから……」
乃々花がメガネを押さえながら顔を少しだけ上げた。
「……では、許してくれるんです?」
「まぁ……」
「うん……」
途端に乃々花は安堵の息を吐いて座り直した。
「よかったぁ……絶交されたらどうしようかと思った」
「き、キスくらいで絶交なんてするわけないって。あ、あんなのただのコミュニケーションだし。ねぇ、姫子?」
「そ、そうだよ。女の子同士がじゃれあってキスするのなんかよくあることだから」
さっきのキスは全然やましいことではない。そう結論づけることで無かったことにしようという寸法である。
乃々花も二人の思惑を察してそれ以上何も言わなかった。
ここまでで終わっていればただの笑い話で終わっただろう。だが、すでにこの事件の根は深いところまで張られてしまっていたのだ。
ある日の休日、いつものように乃々花の家に遊びに行った恵は少し遅れて到着した。
「お待たせー。いやぁ、電車が遅れちゃ……って……」
ドアを開けた瞬間から恵は異変に気が付いた。まず姫子と乃々花の距離が不自然に遠い。しかも二人とも正座をして姿勢がいいし、二人とも妙に顔が赤い。衣服を整えている姫子の手にはハンカチが握られていた。そのハンカチで何を拭ったのか。
これと似たようなシチュエーションを誰かが前に話していたが、いつのことだったか。考える恵に言葉が投げかけられる。
「電車大変だったね。大丈夫?」
姫子が労るように微笑むその顔が、恵にはまるで何かを隠そうとしているかのように見える。
「喉渇いてない? お茶かジュース持ってこようか?」
乃々花が気遣ってくれるその優しさが、恵にはまるで何かを誤魔化そうとしているかのように思える。
「…………」
恵は無言で姫子に近寄ってからしゃがみ、息のかかる距離で目を見つめた。
「あたしに隠し事するの?」
「う……」
恵の圧力に屈したのか元より隠し通せると思っていなかったのか、姫子はぽつりぽつりと話し始めた。
「あのね、ケイちゃんが来るまで乃々花ちゃんとこの前のキスの動画を二人で観てたんだ」
「それもどうなの……続けて」
「うん。それで動画のケイちゃんを観てるうちにその、私も、したくなっちゃって……」
「……一応聞くけどキスを、だよね」
「もちろん。そしたら乃々花ちゃんもキスがしたいって言うから、じゃあ今回だけってことで――」
「二回目! これで二回目だから!!」
たまらず恵が突っ込みを入れると姫子は頭を大きく振って髪を翻した。
「だって! ケイちゃんが乃々花ちゃんにキスされて気持ち良さそうな顔してるのが悪いんだよ!」
「してないっ! 人聞きの悪いことを言わないで!」
姫子がスマホを取り出して画面を恵に向ける。そこには乃々花にキスをされて脱力したまま目をとろんとさせている恵の姿があった。
「――――」
愕然と膝をつく恵の背後から乃々花が顔を出した。
「恵、正直になろ? それで私とまたキスしよ?」
「ふふふ、いいよ乃々花ちゃん。私が許可してあげるからケイちゃんにキスしていいよ」
「なに勝手なこと――んんっ!?」
既視感のあるキスをされて慌てる恵に、姫子がじつに楽しそうに言い放つ。
「さっき私とキスした唇だから、実質私とキスしてるようなものだよね」
(そんなわけあるか!)
口を塞がれたまま恵が心の中で叫んだ。だが今回は前のときと違って体勢が崩れていない。腕力で勝っている恵ならば乃々花を押しのけることは簡単だろう。
恵が腕に力を込めたそのとき、今度は反対側から姫子が抱き着いてきた。
「ごめん乃々花ちゃん、やっぱり私もケイちゃんとキスしたい……」
乃々花が唇を離すのと入れ替わるように姫子が恵にキスをしてきた。姫子のキスは乃々花のよりも優しく柔らかい。続けて味わったからこそ二人の違いが恵にはよく分かった。
(知りたかったわけじゃないけど)
それまで夢中でキスをしていた姫子がキスを止めた。その視線は乃々花に向いている。
「やっぱり仲間外れは可哀想だし、ケイちゃん、ダメかな?」
乃々花にもキスをしてあげて、と姫子は暗に言った。恋人に友人とキスをしてという要望が普通のことではないことくらい姫子にも分かっている。それでも恵にお願いしたのは乃々花への憐憫の情と。
「姫子があたしと乃々花のキスをまた見たいだけじゃないの?」
「……ちょこっとだけね」
恥ずかしそうに指で示す姫子に恵は息を吐いた。絶対ちょっとだけではない。
「分かったよ。それが姫子の望みなら、あたしは叶えてあげるだけ」
恵にとって姫子が喜んでくれることが何よりも大事だ。その為なら自身の唇を捧げることも厭わない。
(……断じて乃々花とのキスが良かったからではないんだから)
胸中で独りごちてから恵は乃々花を手招きした。
目を爛々と輝かせて飛び込んで来た乃々花にさっそくキスをされながら、今日一日二人とキスをし続ける覚悟を固める恵だった。
「ところで、描きたいって言ってたマンガは描けたの?」
後日恵が乃々花に聞いてみると、乃々花は「いやぁ」と苦笑して答えた。
「自分でNTRもの描こうとして気付いたんだけど、寝取ったり寝取られたりって誰かが悲しんだりすることが多いから……」
「そりゃそうでしょ」
「自分で描くならみんなが幸せになるのを描きたいと思ったからいったんやめにした。ということで次はハーレムものにしようと考えてるから恵も協力してね」
「……まぁあたしに出来ることなら」
その協力とやらがキスでないことを祈りつつ、それでもやっぱりキスさせて欲しいと頼まれるんだろうな、とどこか諦めた心境で恵は悟った。
恵の口端が微かに笑っていたことに、恵自身も気付かないまま。
終
『百合の距離は等しく伸びて形をつくる』へ続きます。
シリーズにまとめてあります。