夢を見る
「いつまで寝ているんだ。起きなさい。」
俺の毛布を取り上げたのは山中だった。
「君はいつになったら気づくのですか。」
「もう俺のことはほおっておいてくれませんか。あなたも俺を見て絶望したでしょう。何の成長もないダメな人間なんです。」
「知っているよ。君がダメな人間なのは。まあ、今日はさすがにひどいと思ったけどネ。
そもそも、なぜ仕事を辞めた時私を訪ねて来なかったんだ。」
「行けるわけがないでしょう。何の成功もしていない俺が、こんな姿を誰に見せろというのですか?」
「今の自分の姿が恥ずかしいと理解しているんだね。」
「していますよ。たぶん僕はあなたが今まで教えてきた誰よりも一番みじめだ。」
「そうでもない。今の君よりダメなやつを僕は一人知っている。
君は中学校の時、私になんで美術教師にならなかったのかと聞いたね。
目指していたさ、僕が高校のころまではね。
僕の父は絵描きでね。夢しか見ない男だった。僕もその父の影響を受けて絵描きになりたいと思っていた。弟は彫刻家を目指していた。弟は僕より才能が有って嫉妬していた。何度も賞を取って本気でねたんでいた。兄弟でライバルだった。
生計は母が昼は弁当や、夜は食堂の皿洗いで立てていた。今思うと全くダメな貧乏家族だが、毎日楽しかった。それぞれに夢があったからね。
でも弟が病気になった。筋肉が萎縮していく病気で、最初は少し物がつかみづらいとか、荷物を落とすとかその程度だったけれど、みるみる進行してペンも持てなくなった。
母は看病のために仕事を辞めて、父は肉体労働で働くようになった。絵筆しか持ったことのない男だったから、それもなかなかうまくいかなくて、結局、僕がすべてをあきらめて教師になった。給料がよくて安定している私立の数学教師。君と一緒だ。毎日楽しいことなんて何もない。教師が嫌だったというわけではないよ。それは夢をあきらめたからだ。少しづつでも絵を描けばいいじゃないかと思うだろ。でも、父や弟に悪くて描けなかった。夢を亡くしたときは恨んだよ、弟のことも、父のことも母のことも。そうでしか自分が生きる価値を見出せなかったんだ。本当にバカだったよ。
弟は何度も死にたいと言っていたけれど、死ぬ力すら残っていなかった。
弟が死ぬと父も母もあっという間に亡くなって、僕に残されたのは3つの遺影だけだ。そして僕はもう年だ、今更夢を見ることも許されない。
なら、夢を持った若者の応援しようと考えたんだ。君は嫌だと思っていたかもしれないけれどね。
君がとても苦しんでいる姿は他人事とは思えなかったよ。まるであの頃の僕を見ているようだった。好きなものを好きと言えないつらさは誰よりもわかっているつもりだ。
君はまだ若い。今からやり直しても遅くはないだろう。」
「僕が絵を描きたいと思ったのは、小学校の四年生の時に紫乃を描いて賞をもらったとき、人生でただ一度だけ父に褒められた、そんな単純な理由ですよ。
けれどそれは紫乃を描いたから褒められたんだ、僕が賞を取ったことはどうでもよかったんだ。」
「君はいつになったら小学校を卒業するんだ。
君はアメリカから帰って、僕に手紙をよこしたね。絵は描けなかったと。でも紫乃君が持って来たよ。」
山中は俺がアメリカで書き溜めたスケッチブックを持っていた。
「紫乃君が、君に金賞をやってくれと僕にこれを持って来たんだ。僕は圧倒されたよ。君は本当にうまくなった。紫乃君が、ピアノがどんどんうまくなっていくのと同時に、君もどんどんとその才能を開花させていく。
僕はね、本当は君に失望していたんだ。素直にならない君に匙を投げていたのをもう一度だけ励ましてみようと思わせたのは紫乃君だ。
紫乃君は君に絵を描かせたい一心でコンサートを開いているんだよ。しかも、君が住んでいる場所に一番近い、あのホールでしかやらないんだ。待っているんだよずっと、君のことを。
君は紫乃君に言ったそうだね、一番前の紫乃君が見える薄明るい真ん中の席、その席で紫乃君の絵を描いているから最高の曲を弾いてくれと。紫乃君はその言葉通り、毎回最高の曲を弾いている。だけど、何度チケットを送っても君は見に来ない。
一番前のピアノに近い席はいつも空いたままだ、君だけのために用意された席だ。」
「紫乃が・・・」
「ああ、紫乃君はお父さんに、君を自由にさせてほしいと頼んだそうだ。自分が生きていくだけのお金は働いて何とかするからと。
お父さんも君だけにつらく当たって、申し訳なかったと言っていたよ。父親はなかなか息子には謝りにくいもんだ。許してやれ。
そして君はもう一度絵を描きなさい。好きなだけ。
そこで本当にやめたいならまた違う道を歩めばいい。
どのみち、今の君は人生をやり直したいと思っているんだろ?」
俺は何も答えなかった。答えると、涙があふれそうで嫌だった。
山中は俺のタンスを開けてスーツを取り出し俺に投げつけた。
「ほんの一時でも一流企業に就職していたとは思えないほどみすぼらしいスーツだがまあいい、とにかく着替えなさい。顔も洗って。」
「どこへですか?」
「いまの君を受け入れてくれるところは一つしかないだろう。紫乃君のところだ。」
「いまさら、どんな顔をして会いに行けばいいのですか?紫乃だってきっと今の俺を恥ずかしいと思うはずだ。」
「だったら、恥ずかしくない自分に戻ることができるよう、自信を取り戻しに行けばいい。
君ができることはまだ残っているだろう。」
「紫乃の絵を描くことですか。」
「さあ、開演までにあまり時間がない。顔をあらって来なさい。」
すぐに立ち上がり駆け出したかったけれど、少しよろけて立ち上がれないふりをした。恥ずかしくて素直になれなかったからだ。
ヨレヨレのスーツだったけれど、久しぶりに袖を通すと、会社に行っていたときとは少し違う新しい気持ちになった。一つを終えて何かが始まる・・・そんな気持ちだった。
会場に着くまでの車からみる窓の街の景色は、初めて見るように感じた。今までずっとうつむき加減で自分の足元しか見ていなかった。周りを見渡せばこんな広い世界が自分を取り囲んでいたのかと今更ながらに新鮮な思いが心を洗い流した。
「本当に紫乃は俺を待っているでしょうか?」
いざ、その場所につくと足が止まった。紫乃に会わなかった2年間が二人の間の壁をより高くした。
「君の眼で確かめたらいい。」
山中は新しいスケッチブックと、使い古した鉛筆を握らせ背中を押した。
震える手で、2枚目の扉を握った。
今までの思い出と感情が鼓動を加速させた。
そそり立つ観客席と、その幾百ものまなざしの向かう先の谷間の中心に1つぽつりと空いた椅子。演奏者が正面で見えるあの席。
あの時のあの席だ。その席にはペンライトが1本、用意されていた。
俺がそこに座ると当時に、紫乃が現れた。
相変わらず上着も靴も履かない、だらしない姿だった。どんな姿であっても誇らしい俺の弟だ。しかも、紫乃は俺が抱きしめなくても、一人でここまで歩いてこれるようになった。
そしてピアノの前で深呼吸すると、あの時のアニメの曲を弾きだした。いつも元気のない俺を励ましてくれていたあの曲だった。
「紫乃・・・」
ずっと、ずっと俺は紫乃の犠牲になっていると考えていたけれど、助けられていたのは俺だった。独りぼっちが好きなのだと自分に言い聞かせて強がってきた嫌味な俺に、やさしい気持ちを分けて一緒に大人になってきてくれた。
今も、俺が足並みをそろえるまで待っていてくれたんだ。
曲が終わりそうになってとき、紫乃が俺をちらりと見た。俺も、うんと深くうなづいて合図した。すると紫乃は思い切り息を吸って、一番好きだと言っていた曲に移り始めた。音は華やかに勢いを増し、ホールの色を塗り替え、空気の流れを一新した。強く激しく叩く鍵盤に俺の鼓動は高鳴り、全身から沸騰した汗が吹き出し、身が震え興奮を隠しきれないでいた。久しぶりに見る紫乃はさらに輝きを増し、自信に満ち溢れ、その奏でる音は妖艶な魔力さえ放つようにも思われた。
紫乃は今、俺に戦いを挑んでいる。あの時のように、心は音の中にすべて捧げ、その姿を描いてみろと。
ならば俺も今のすべてを絵に託そう。
そして終わりなき人生の夢として、永遠のライバルとして今度は紫乃の背中を追い続けよう。
今まで俺の背中を追い続けてきたように、今度は俺が紫乃のあとを追い続け、描き続けたい。
心は決まった。
涙を拭き、顔を上げ、ピアノを弾く紫乃をしっかりと見上げた。
新しいスケッチブックに、一本の線を描いた。
さあ、勝負の始まりだ。
曲は階段を一気に駆け上がるように調子を上げていく、俺も振り払われないようにスピードを上げてペンを走らせる。向かう先はずっと、ずっと、ずっと高いところ。今まで見たこともない夢の先。
メロディは道を開き、そっと背中を押す。
そしてまだ見たこともない明日に向かって俺のペンは音を追いかけて走っていく。
明日も、そして明後日も・・・




