コンテスト
コンテストの当日、紫乃は緊張しているのかタキシードを着るのをとても嫌がった。
何度蝶ネクタイをつけても取っては床に投げつけ、靴も履かずウロウロと歩きまわり、いつものようにテーブルで指を動かす練習も、楽譜を見なおすことすらもしなかった。
楽屋から、会場の袖に移動した時、紫乃はとうとう我慢ができなくなって、泣き出してしまった。
「僕もう嫌だ。もうやめたい、これも着たくない。」
紫乃は上着もくつも脱ぎだした。今まででも何度か急に泣き出したり、怒りだしたりしたけれど、それは子供の頃のことで、大人になってからははじめてで俺もどうしていいか戸惑った。
同じく袖で待っている者たちは皆、奇妙なモノを見る目で紫乃を見た。前の俺なら恥ずかしくて無理やり押えこもうとしただろう。今でも、チョットはそんな気持ちもあった。
「紫乃。紫乃。」
そんなことをしても無理だとわかっているのについ、両手首を持って力でねじ伏せようとしていた。
「嫌だ。怖いよ。あっちが暗くて吸い込まれそうだ。」
紫乃が知っているステージよりはるかに大きく高く、煌々と照らされていて観客席側が真っ暗に見えた。あそこに立ちスポットライトをあびる紫乃がずっと羨ましく思っていたが、ほんとうはいつも一人で怯えていたのかもしれない。
けれど、あそこに行かなければ手に入れられないものがある。
俺ができることは、紫乃をあそこに送り出す事だけだ。
「紫乃。紫乃。いいか紫乃。よく聞け。
上着も着なくていい。靴も履かなくていい。
よく見ろ、あそこの真ん中、見えるだろうあの椅子。あそこに俺は今から行く。あそこでおまえを見ている。紫乃が上手に弾くところを一生懸命見るから、紫乃も一生懸命弾いてくれ。俺のために。」
俺は夢中で紫乃を抱きしめた。紫乃の体はとても熱く、心臓が破裂しそうに激しく鼓動しているのが伝わった。少しでも紫乃の不安を吸い取るようにきつく抱きしめた。
「嫌だ・・・やめたい・・・」
「嫌か?紫乃はずっとこの日を夢見て頑張ってきたんじゃないのか?」
「蒼ちゃんだけ聞いてくれればいい。」
「俺が聞きたいんだ。あそこでおまえが弾く最高のピアノを。俺は一度も観客として紫乃を見ていない。だから、一度でいいんだ、そこでお前がピアノを弾く姿を見たい。」
真っ暗な観客席の一番前の席、ステージからの明かりが落ちた、ほんのりと明るいその席を指さして言った。
紫乃はふーふーふーと三回大きく息を吐き、小さくうなづいた。
少しずつ震えが小さくなり呼吸も落ち着いてはきたが体は熱いままだった。
間に一人挟んで、次が紫乃の番だと支持された時、ゆっくりと紫乃を離し、両手を取って胸で温めた。涙で濡れた顔は、小学生の頃のままだった。
「大丈夫か?できるか?」
紫乃は、今度は深くうなずいて、
「蒼ちゃんも絵を描く?」
と聞いてきた。
「描くよ。あそこで、紫乃の一番いい顔を描く。だから、最高の曲を弾いてくれ。」
「わかった。」
「できるか?」
「できる。」
ギリギリまで紫乃の手を胸に握り、いよいよというとき顔を見合わせ大きく深呼吸をした。俺は走って客席へ、紫乃はステージに向かって、別々の道を歩き出した。
俺が席に着く頃、紫乃は光が強くさす大きなステージの上に、腰からはみ出したシャツにカフスも外れたままの姿で、ペタペタと裸足で出てきた。みんなはどう思ったかはわからない、俺はどんな姿でもここまで来たことこそが、素晴らしいと思った。
ポロリと1つの音を立てただけでもう、紫乃は別の輝きを放った。
俺に向かって投げられる音の響きが、体の真ん中の深いところから全身に溢れ出し、声にならない沸騰した息を吐いた。
小さなペンライトだけでスケッチブックに色を走らせた。全身が震え、ペンを持つ手を何度も叩きながら一瞬一瞬を余すことなく書きとめた。曲が進むと鼓動が高鳴り、目が霞んで前が見えなくなってきた。俺は泣いていた。
激しい感動が堪えきれず溢れ出していた。と同時に紫乃がどこかへ俺を置き去りにして飛び立っていく錯覚も覚えた。それを振り切るように、俺もまた紫乃の弾く音に勝負を挑むようにペンを走らせた。
奏でられる熱い情熱の音の一つ一つに自由を奪われそうなほど陶酔し、吸い込まれそうになりながら、必死に自分をふるいおこし、その甘美な音色に立ち向かった。
そして、曲が終わる頃、絵も描き上がった。
拍手に気をとられ余韻に浸っていて、紫乃の事を一瞬忘れていた。
慌てて舞台袖に向かうと紫乃は壁に持たれて座りこんでいた。
ぐったりとなった紫乃の体をかかえ、楽屋へと戻る途中、紫乃は吐き気をもよおした。
俺はただピアノを弾くことが好きで、やりたい事をだけをやっているのかと思っていたが、紫乃なりに身を削って周囲の期待に応えてきたのかと思うと、申し訳無い気持ちでいっぱいになった。
「よく頑張ったな。紫乃。」
「上手だった?」
「とっても…最高だったよ。」
「蒼ちゃんも描けた?」
「かけたよ。どうだ。」
俺は紫乃に絵を見せた。
「すごい。また金賞だね。」
紫乃は僅かに残った力で俺に拍手をした。
「ありがとう。そう言ってくれるのは紫乃だけだ。」
紫乃だけでいいのだとも思った。
紫乃は四位だった。日本人ではただ一人の入賞だったけれど、もう喜ぶ力も笑う気力さえ残ってはいないようだった。
俺たちはレセプションパーティーもそこそこに、街のカフェでただ人が行き交うのを見ていた。紫乃は俺の肩に寄りかかって、うつらうつらしはじめた。
「帰るか?ゆっくり眠りたいだろ。」
「もう少しだけ、蒼ちゃんにくっついていると気持ちいい。」
「変な奴だな。」
「初めて蒼ちゃんのお家に行ったときも、蒼ちゃんのベッド借りたのに、朝起きたら、蒼ちゃんにくっついて寝てたね。
お熱出した時も、毛布で温めてぎゅっとしてくれた。気持ちよかった・・・・」
「よく覚えているなそんなこと。」
「僕ね。ずっと一人だったんだ。蒼ちゃんに会うまで。保育園でも幼稚園でもいじめられて。学校は殆んど行ってない。お家でヘッドホンしてオルガン弾いていた。
蒼ちゃんに会えてほんとうに嬉しかった。
僕は今まで、ごめんねな事も、いっぱいしたね。でも、ずっと一緒にいてくれた。勉強も教えてくれた。高校に行ったとき、蒼ちゃんがいなくなって・・・嫌われたのかと思って寂しかった・・・」
「でも夏休みはちゃんと帰っただろ。」
「うん。蒼ちゃんが絵を描いてくれて、それを見て頑張った。
これからも蒼ちゃんのためにピアノ弾くよ。」
「辞めてもいいぞ。今日みたいなの、辛いだろ。
おまえの好きな時に好きなように弾けよ。
俺はおまえをちゃんと一生面倒みていくから大丈夫だぞ。」
その時はもう夢の中にいたようだった、俺はウインドウに映る二人の顔と行き交う街の風景をスケッチした。おそらくこれが俺の最後の1枚だ。