先生
俺は紫乃のレッスンが終わるまで、俺が描いた紫乃のスケッチ本とそこに残された。山中が好きと言っていた絵は、俺も一番好きな絵だ。
俺が一番思いを込めて描いた絵だ。
あのとき紫乃は、一番好きな曲を弾いていた。
子どもの頃から繰り返し聴いているが、その度にどんどんうまくなっていく。
軽やかな音には玉がコロコロと転がるような、滑らかな音にはそよ風が吹き花びらが舞う。はげしい音には嵐を起こし雷鳴を轟かす。一日一日の空気を余す事なく吸い取り成長して、俺をいつも驚かす。そんな紫乃が俺の気持ちを揺らさないわけがない。
幾度も、俺の渇ききった心に水を撒き、希望の花を咲かせたか。
だが、その都度現実という嵐がすべて根こそぎさらって行く。
夢に酔いしれる間も無くだ。
「蒼ちゃん・・・どうしたの。」
「イヤ、なんでもない。終わったのか?」
「うん、おなかすいた。」
「そうか、帰ろう。何が食べたい?」
これが現実だ。
今は親が働いて僕らの生活を支えてくれる。
親が引退したあとを俺が引き継ぐ、それが俺の使命だ。
紫乃が弟になった時から、そう決まったんだ。でも恨んではいない。
俺は紫乃が弟でほんとうによかったと思っている。最初は面倒くさいと何度も思った。
紫乃がいじめられれば俺までいじめられるし、障害があると聞かされたときは本気でイヤだった。
紫乃にも紫乃の母親にも本当に酷いことを言った。
それでも俺は今までに、紫乃にたくさんの事を教わった気がする。
あったかい気持ちやひとを傷つけない心や前向きでひたむきで、俺にはないものをみんな持っていた。
だから、俺は紫乃を守って行くことを決心したんだ。
「紫乃、留学はお母さんとでは嫌なのか?」
夕飯を食べながら、聞いてみた。
「蒼ちゃんがいい?ダメ?」
「お母さん、張り切っていたぞ。」
「でも、お母さんではダメなんだ。」
「どうして、俺より美味しいごはん作るぞ。」
「蒼ちゃんはお勉強できるから・・・
一緒にいく人たちはみんな英語ができるんだって。紫乃ちゃんどうするのって・・言われた。」
「お友だちからか?」
「お友だちじゃない。一緒に行く奴。でね、僕には蒼ちゃんがいるから大丈夫だって、言っちゃったんだ。」
「お前、いじめられているのか。」
「僕バカだから。
でも、ピアノでは負けない。勝つ。でも、蒼ちゃんがいないと自信ないんだ。先生は英語しか話してくれないらしい・・・」
「そうか・・・」
「どうしてもダメ?」
「そんなことないよ。なんとかするよ。」
なんとかってどうしたらいいかわからなかった。英語は勉強したし、点数もまあまあだ。でも外人と話しをしたことはない。知っているのは教科書にある英語で、いい点を取るためだけに勉強した知恵だけだ。
翌日、紫乃の大学で、どんな感じで会話をすればいいのかを教わった。俺の大学でのスケジュールを調節して母親にも電話をした。ものすごくがっかりしていた。でも、なんとなく山中に聞いていたような口ぶりだった。
少しはめられた感じはあったが、紫乃のためならばと、余計な事は考えないようにした。そして、山中にも連絡をした。
紫乃と二人、山中の泊まっているホテルにむかった。紫乃を連れてこいと言ったのは、俺が反抗的な態度を取るからだと思っていた・・・が、違った。
取材を受けるか?と言う話しだったようだ。
「私の教え子にね、雑誌社に勤めている子がいてね。雑誌と言っても、タウン誌のようなものらしいのだけど、紫乃君のことを話したらぜひにと言われてね。正式な取材は帰国後ということで、今日は楽しく食事をしよう。」
俺は少し僻みっぽい。きっと又お説教に違いないと、いつも、人を敬遠して話しを聴こうとしない。俺とは違い紫乃は誰とでも友達になろうとする。
成功することはなかなか難しいようだけれど、人なつっこく疑いを持って人に接しない素直なところも紫乃のいいところだ。
だから、この教え子という人にもとても気に入られて、取材の約束もどんどん勝手に進めていった。俺はその人がトイレに立った時、追いかけて行ってコンテストの結果が悪かったらキャンセルさせてほしいと頼んだ。やっぱり、障がい者だからという理由で取材するんだという気持ちが先だって手放しでは喜べなかった。
山中は教え子にご馳走してもらったのが嬉しかったのか、飲めない酒を飲んで上機嫌だった。
山中を部屋まで送ると、通帳を渡してくれた。
「これは君の父上から預かって来た。ここに本が売れた印税が入る。それはすぐには入らないのだがね、契約金みたいなものを少し入れてくれているらしいから、それを渡航費用にしなさい。
ケチな旅行にしてはいかんよ。おおいに遊び、おおいに学ぶ充実した旅を楽しみなさい。
そして、君にはまた宿題だ。絵を描きなさい。
見たものすべてを思い切り描きなさい。
これは君への最後の課題だ。夢を見なさい。
叶わなくてもかまわないじゃないか、挫折してもいいじゃないか、君はまだ若い。
いいか、おなかいっぱいだというまで楽しむんだぞ。」
山中はご機嫌だった。
俺はこの人の期待に応えられるような優秀な男ではない。
この人が求めていることの意味がこの時はまだわかっていなかった。
紫乃は俺が捨てた絵の道具をクッキーの缶に入れて持っていた。アメリカに行く前日、俺のスーツケースの上にそっと置いていった。
「紫乃これは。」
「蒼ちゃん、また絵描いてね。僕は蒼ちゃんが絵を描いている時が好き。いつも好きだけど、一番好き。」
「描くよ。紫乃のために。」
なんだかわからないけれど、その使い古した鉛筆に触れただけで、心が奮い立ち、熱いものが湧き上がるような気がした。
初めての海外旅行への不安と期待もあってか、その日は二人ともなかなか眠れなかった。