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夢を見る。  作者: 富井
16/21

留学

三年生の夏休みになったら紫乃は留学するという話が出てきた。


それには母親がついて行くらしく、俺はその話にはまったく蚊帳の外だった。


はっきり言って助かった。


就活の準備や論文の準備もあって、夏休みの間の時間がすべて自分のために使えるのは、本当にありがたい。


最近では、ちょくちょく母親が出てきては俺の代わりのレッスンにも付き合ってくれて、ゆっくり本を読む時間もできた。




久しぶりに紫乃を迎えに行くと、部屋を覗く背の高い男の後ろ姿があった。


山中・・・すぐわかった。


しばらく声を掛けようか迷った。


このままどこかに隠れて、紫乃がでてきたところを見計らってダッシュで帰ろうとか、くだらないことをいろいろ考えている間に山中から声をかけてきた。




「蒼史君。久しぶりだね。


何度か電話を掛けたんだけど、忙しそうだね。」




電話に出られない訳じゃない。この人から俺は、逃げていたのだ。




「今日はなんですか?」


「今日はちょっと紫乃君の上達ぶりを拝見しにね。今度こそ本当だよ。」




「そうですか。紫乃はとてもうまくなりましたよ。イヤ。毎日どんどんうまくなっていく。かな。子供の頃から凄かったけど、今の凄いはその時とはまったくちがって・・・そうだな、大人の音を出すようになりました。


紫乃の弾く曲はただ音がなっているだけじゃない、雨の曲には雨の香りが、花の曲には花の色が見えるように感じるのです。


昨日と同じ曲を今日弾いても昨日より格段にうまくなっている。昨日弾いている音をすべて覚えていて、今日はもっとうまく弾こう、明日はもっともっとって逸る心を音に変えていくんです。


そうやってあいつはいつも二乗の速さで成長していくんです。」


「紫乃君の事をよくわかっているんだね。」


「弟ですから・・・」


「そう、だったら留学の事も当然知っているんだよね。」


「ええ、夏休み行くみたいですね。」


「いきなり人ごとのように言うんだね。」


「紫乃と紫乃の母親が一緒に行くらしいです。俺は就活と論文の準備があるのでついてはいけません。」


「紫乃君は留学で三週間レッスン漬けの日々を送るんだ。その最終日コンテストがあってね、そこでいい成績を納める事が出来ればこの先の人生はほぼ約束される。けれど、そうでなければ・・・その先は僕にはわからない。


それも当然知っているよね。」


「それは初めて聞きました。」


「そう。ここのピアノ科には、僕の友人がいてね、紫乃君の話は彼から良く聞くんだよ。


それでね、紫乃君は留学には君が昔描いた自画像を持って行くらしいけど、それだけでは不安だって、最近悩んでいるという話を聞いてね。」


「先生、待って下さい。俺は本当に無理です。先生だって大学生のときはあったでしょう。


三年生の夏休みがどれだけ重要か知っていますよね。」


「うん。知っている。けど、たった三週間じゃないか。八十歳まで生きたとして、君は今二十歳だから、これからあと六十年生きる。そのなかでトータルして三週間くらいはムダな時間を過ごすだろう。その無駄な三週間を先取りして使ってしまうと考えたらどうだ。


帰って来てから死ぬ気で頑張れば、優秀な君ならばなんてことないだろう。


そもそも中学時代の君は、半分くらいはムダではなかったかな?」




そこを引き合いに出されたら、俺はもうなんの抵抗もできない。




「でも・・・」


「お金のことは心配いらないよ。


僕からのささやかなお祝いとして、君が描いた紫乃君のスケッチを本にしてみました。


正確には僕のお金で出した訳ではないけれど、発案したということで、僕からのお祝いということにしてくれ。」


「なんでそんな・・・名前まで載っているじゃないですか。恥ずかしい。」


「大井蒼史 いい名前じゃないか。最近は、紫乃君も雑誌に載ったり、たまに小さなコンサートを開いたりしているそうじゃないか。それもあって、売れているらしいよ。」


「ひょっとして、本屋で売っているんですか?」


「そうだよ。」


「そうだよって、恥ずかしいこんな絵。」


「そうか?僕にはどれもとっても素敵に感じるよ。だから、こんな立派な型になったんじゃないかな。僕の気持ちだけではこんなこうはならない。評価する人間が大勢いると判断されてこうなったんだ。」


「紫乃だって、障害があるから、今は面白半分に取り上げられているだけだ。その本だってそのうち紙くずになる。」


「そう怒るな。


これなんてとってもよく描けている。細い肩、細い腕、だが、ただ細いだけではない、ブラウスの上からでも筋肉の動き表情までもがいきいきと描かれている。


指の一本一本爪の先までも生命を感じさせ、踊るように、歌うように、鍵盤を叩く仕草には空気の震えが伝わってくるようだよ。


とくにこの表情、歓喜と自信に満ちたこの表情は他の誰にもかけない。


彼をそばで見て来た君だから描けた。


そして、君の希望、嫉妬、ありとあらゆる君の感情をぶつけ、この作品のすべてに情熱を捧げたんじゃないのか?」




「そんなのは少し描ける奴なら誰でも描けるでしょう。」




「蒼史君・・・」




「俺は、あなたが描けというから描いた。ただそれだけです。」




「そうか、僕は君がこの絵を描いているときにたしかな夢を感じていたんだと思ったのだけどね。君の夢への渇望と情熱を感じたから、僕は力を貸したのだが・・・」




「買いかぶりすぎです。僕には才能も夢もありません。


ただ、両親と障害のある弟の面倒を見て行く。それだけです。」


「なかなか君の笑顔を見ることはできないな。」


「留学の事は紫乃と話し合います。」


「そうか、僕は明後日までコッチにいるからここへ尋ねて来なさい。


必ず、二人でくるんだよ。いい返事を期待しているからな。」




そう言って、ホテルの名前を書いた名刺を渡して帰って行った。

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