大学
山中の言う通り紫乃の大学進学が決まった。大学は、俺のいるところに近くなるから、一緒に生活することにした。
親が紫乃のためにピアノが置ける贅沢なマンションを借りてくれた。
だいぶ無理をしたに違いない。俺もできる限りは力にならないと、とは考えていたが、勉強と紫乃の面倒は楽ではないことはわかっていた。
しかも、生活費はバイトで賄わなければ、親にばかり頼るわけにも行かない。
音大はすごくお金がかかる。
紫乃が頑張るなら、俺はそれ以上に頑張らないといけない。幸いにも紫乃はピアノの前には何時間でもおとなしく待ってくれるので、バイトが終わってから迎えに行っても平気だった。
夏休みも家に帰らずレッスンの毎日で、俺はバイトの毎日だった。
ある日、紫乃を迎えに行くと、そこに山中がいた。
「あ、蒼史君。」
「先生・・・どうして・・・」
「久しぶりに紫乃君のピアノが聞きたくなって・・・いや、本当は君に用事があってね。」
分厚い封筒を渡してきた。
「君の絵を買いたいと言う人が現れてね。君、生活にとても困っているんだろう。
自分の勉強はできているのか?」
「アレは先生へのお礼です。ですから、コレはもらえません。」
「頑張るのもいいが、頑張る方法を間違えたら、疲れるだけで何の成果も上がらない。それでは面白くないだろう。君は、君の勉強をもう少し頑張りなさい。
絵を描く余裕も無いほど疲れきっていては、元も子もない。」
「でも、これは受け取れません。絵ももう描きません。」
「子供は子供らしく、大人の親切に甘えなさい。」
「俺は子供じゃない。」
「君は子供だ。小学校四年生でお兄ちゃんデビューした時のままだよ。
このお金で僕に借りを作りたくないなら、また、絵を描いて僕にくれないか。期限はお正月。お正月は帰省するんだろう。それで貸し借りなしだ。」
結構な額が入っていた。正直助かった。紫乃の特別レッスンの料金や楽譜、移動の料金の細かい出費も重なって、バイトだけでは賄えなくなっていた。
俺もバイトばかりしていて出席日数が危うかった。体も辛かった。
唯一の支えは紫乃の笑顔だった。俺が迎えに行くと割れそうな笑顔で俺に手をふって返す。たったそれだけのご褒美でここまでやってきた。俺はここですべてを挽回するかのように勉強をした。
バイトも辞めた訳ではない。時間の融通のきくものに変えただけだ。
そして、空いた時間はすべて絵を描いた。
飢えた獣が骨までも貪り着くように何枚も絵を描いた。紫乃だけを描いた。
他には何もない。紫乃と紫乃の鳴らす音とその周囲の空気をかき集めて残さず1枚の紙に押し込めるように描いた。
強い音には強いタッチで、弱い音には流れるように柔らかく。
音に合わせて紫乃を描く。
伸びやかに華やかに生きる喜びのすべてを鍵盤にぶつけるそれが自分の唯一無二でありこの手にはもうなにも掴むまいと、流れる音だけを掴んで離さない紫乃の生き方がイキイキと見えて、俺は嫉妬した。
羨ましい?俺が?イヤ、あり得ない。
オレには夢はいらない。
紫乃の影として生きる、そう決めた。紫乃が強い光の中で生きられるようにより濃い影でいようと決めた。
揺るぎない決心・・・そのはずだ。
その俺の決意の一滴までも残さず絵に込めた。
俺は正月の帰省で、その時描き貯めた絵のすべてを持って一番に山中のところに行った。
「借りを返しに来た。」
「ほう、また沢山描いたね・・・今までに君が提出した反省文よりはるかに多い。」
「嫌味は辞めて下さい。」
俺は出されたコーヒーに少し多めの砂糖とミルクを入れて紫乃の手に持たせた。
「じゃあ、拝見しようか。・・・だいぶうまくなったね。」
「うまくなったって・・・」
「ようやく自分のやりたいことを見つけました、と、心の声を書きとめたような清々しい絵だ。」
「やりたいことなんて何も・・・
ただ俺は大学をさっさと卒業して、給料のいい会社に入れればそれでいい。
それ以上でも、それ以下でもない。」
「ほう、そうか。頼もしいお兄ちゃんでよかったな、紫乃君。」
俺はなんだか、バカにされているようで腹が立った。
この人の言い方はすべて、反対のように聞こえる。
「もう紫乃が疲れているので、帰ります。
・・・紫乃帰ろう・・・」
俺はカップを紫乃から取り上げて、少し強めに机に置いた。
「君は・・・君は疲れていないのかな?
君の人生は、まだ始まったばかりだ。なのに、僕には、君がくたびれ果てた老人のように見えるよ。夢を見る事も諦め、恋すらしようとしない。
ほんとうに君はそれでいいのか?」
「諦めた訳じゃあない。最初から選択肢になかっただけだ。紫乃がピアノだけなように、俺は紫乃と生きる。それだけだ。」
「それが君の本心ならば、いいのだけれどね。」
俺はたぶんとても恐ろしいようなモノを見た顔をしていたと思う。
一瞬時間が止まったけど、すぐ自分を取り戻した。
「もうこれで本当に終わりにして下さい。
僕はたしかに中学の時はあなたに迷惑をかけました。それについては謝ります。
この間もとても助かりました。感謝しています。
けど、もう、これ以上、俺の気持ちを騒つかせるような事は辞めてくれませんか。」
「ざわつかせているのは僕じゃない。君自身だ。君自身が溶けてきた心の泉に石を投げているんじゃないのか?それが夢を見つけた証拠だよ。」
俺は紫乃の手を引いて、慌ててその部屋から飛び出した。
なぜか自分自身に無性に腹が立っていた。正月が明けるか明けないかのうちに紫乃をおいて一足先に戻った。そして、絵の道具のすべて捨てた。




