夏
夏休みになると同時に、紫乃との約束を守るためだけに帰省した。
また去年と同じように午前は中学で午後からは家だったり、レッスンに行ったりして、俺は紫乃の影のようにいつも寄り添っていた。
紫乃はまた一段と上手くなっていった。
ピアノを弾くことそのものが喜びで、その喜びを吸収してさらに上手くなっていく。そんな素直な円の中にいて、その円は年を追うごとに大きく膨らんだ。
1日だけ紫乃のコンサートについていった。
俺はステージの袖から紫乃を見ていた。ステージの上に立った紫乃は自信に満ちて大きく感じた。
音色が華やかにきらめいて、時に激しく、そして優しく俺の心の深くに響いて、思わず涙を流してしまった。
「蒼ちゃん。どうだった?」
「紫乃はまたうまくなってたな。」
「頑張った。大人になった?」
「なったな。俺も頑張らないと。」
「蒼ちゃんは、いっぱい頑張っているからもう休んでいいよ。おうちに帰ろう。」
優しい言葉をかけてくれるのは紫乃だけになっていた。
気がついたら、俺はこの家では嫌われ者で、紫乃がそう言ってくれないと家には入れない。
今回のコンサートも親族で俺だけがジーンズにTシャツだった。
「素敵な音色だったね。」
山中も来ていた。
「たぶん、これで彼は大学への進学も留学も決まりだろう。でもどうする?紫乃君一人で行けるのか?」
「知らないです。親がついて行くでしょう。俺にはやらなければならない事がある。」
「勉強していい会社に入って・・・か?
我慢していることがあるんじゃないのか?」
「していますよ。すごく。でも、我慢してでも、紫乃とは家族で居ようと決めたんです。
それでいいですか?
それじゃあ。また明日、学校へ行きます。
紫乃が待っていますから。」
まったく、ムカつくものの言い方をする。
人の心の中を透かして見たような言い草だった。
けれど俺はもっともっとムカつく言い方をしている。
これでは嫌われても仕方ない。
わかっている。全部知っていた。
「なあ蒼史君。その鏡の中には何が見える?」
翌日、中学校で絵を描いているとき、コーヒーを俺に差し出して山中は言った。
「何って・・・俺です。」
また変なことを言い出したなと思った。
まえからたまに変わったことをいう先生ではあった。
「本当か?なにか借り物のような顔をしているが、本当に君か?」
「本当ですよ。なんですかいきなり。」
「なんだか、言いたいことも我慢して、やりたいことも我慢して寂しそうに震えている捨て犬のような横顔に見えたからつい。」
「もう大人なんだから少しは我慢しないと。」
「大人・・・?君は中学の時から何も変わっていないけれどね。学年は進級しても、心の中は中学のままだよ。」
俺はむかつきすぎて何も言えなかった。
「一体何が言いたいんですか?」
「もう我慢しなくていいんじゃないか?と思ってね。」
「何度もいいます。俺はこれでいいんだ。望みの高校へも入った。大学へも行ける。ほかには特にない。もう帰ります。これで最後です。ここへは来ません。」
今回も自画像と紫乃の絵を描いた。紫乃の絵は山中に渡したが、今回は絶対にコンテストには出すなとクギを刺して渡した。今回も紫乃の泣きべそに見送られて学校に帰った。
でも、次の休みはもうここへは帰らないつもりだった。
家も中学も全部嫌いだ。ここに俺の居場所はない。




