俺
朝、起きるとベッドに紫乃はいなかった。
全身に寒気が走った。
病院中を探し回りやっと見つけると、紫乃はフロアにあるピアノを一身に弾き、それを囲うように人垣ができていた。
俺は一番後ろの柱にもたれて優越感に浸りながら、その姿を見つめていた。
紫乃の兄ちゃんで嬉しいと本気で思った。
音楽が終わると拍手が起きて、ちょっとしたコンサートのようになった。
紫乃はピアノの横で照れながら小さくお辞儀をすると俺のそばに駆け寄り、隠れるように腕を組んだ。
「凄いなおまえ。」
「蒼ちゃんはどう思った?上手と思った?」
「ああ、思った。どんどん上手になるなぁ・・・すごいよ、お前。」
「蒼ちゃんのために弾いた。蒼ちゃんに上手って言われると嬉しい。」
「そうか。」
「お家帰りたい。お家のピアノがいい。」
「わかった。先生に聞きに行こう。」
俺が夏休みの間だけ家に帰らせてもらえる事になった。精神的な病気だから、このまま良くなれば、すぐにでも学校にも戻れる。
何とかここにいる間に俺が治してなりたい・・・
「おまえ、いじめられているんじゃないのか?」
「いじめられていないと思う。ほとんど学校行っていないし。」
「ほとんどって・・・・」
やせてしまった手がその月日を感じさせた。
「蒼ちゃんがいないと僕、やっぱりだめだ。だから蒼ちゃんと同じ所へ行くよ。」
「それは無理だ。俺の学校にはピアノがないんだ。だから・・・」
俺は夏休みが終われば学校に帰る・・・
どうしたらいい・・・
俺は紫乃と中学へ行き、自画像の描きかたを山中に教えてもらえるよう頼んだ。
山中はうれしそうな顔でスケッチブックと鉛筆を俺に渡した。
そして紫乃のピアノを聞きながら毎日、俺は鏡の中の俺を描き続けた。
いやな顔だった。俺は俺をまだ好きにはなれないでいた。
紫乃を病院から連れ出したことも、昼、中学校へ連れて行っていることも、母親も父親も怒った。
けれど柴乃の回復していく姿を見て、や無終えず折れたというところだろう。
相変わらず、俺はこの家ではアウェーな感じだ。
中学では自画像を、家に帰って紫乃の絵を描いた。
紫乃はまたあのアニメの曲を弾いた。
「え、まだ覚えていたのか?」
「蒼ちゃんが好きな曲だから。」
「紫乃が好きな曲を弾けよ。いま紫乃の顔を描いているんだから。いい顔してくれよ。」
紫乃はすこし俺を見てニコッと笑った。
そして大きく息を吸って強く鍵盤を叩いたかと思うと、ひび割れた大地に水を放つように一気に音を並べた。
その希望に満ちた音色が部屋中に溢れかえり、俺は溺れるようにうっとりと聞いた。
何度も何度も繰り返し聞いた曲だ。
だけど聞くたびに表情を変え、色を変え、形を変える。
紫乃はピアノが好きで、好きでたまらない。この曲も、この音もみんな好き・・・そんな心の声を一滴と残さず、スケッチブックに書き込んだ。そんな素直な紫乃がうらやましい・・・
紫乃を描く俺の気持ちは子供のころからいつも変わっていない。
たぶん来年も、再来年もそう思って描くのだろう・・・・俺も紫乃のように自由でいたいと。
夏休みが終わり、俺が学校に帰る日に紫乃に俺の絵を渡した。
「今度は冬休みに帰ってくるから、それまでこれを見て頑張れ。
声が聞きたくなったら電話をかけろ。
授業中でも構わない。絶対に頑張れよ。
俺も頑張るからな。」
そう言って家をでた。見送るなといったのに、紫乃は泣きべそを書きながら玄関で俺を見送った。俺が家を出ると、追いかけていつまでも手を振っていた。
俺も何回か振り返って手を振った。
紫乃の絵は山中に渡した。
御礼のつもりだったけど、また何かの展覧会に出したらしい。
でもなんの興味もなかった。
ただ必死に勉強していい会社に入る。
親にもそういわれてきたし、そうすることが認められることなんだと信じていた。




