英雄のようで
彼女を形容する言葉は人それぞれだろう。曰く、女神、化生、女王、魔女--。
私は。
もし、彼女を形容するならば。
きっと彼女はそれを認めはしないけれど、こう表現するのが、適切だと思った。
彼女は--。
誰からでも好かれる人間、そんな夢物語のような存在を私が初めて認識したのは、中学一年生の春のこと。
佐塔。ある一部分を除き、彼女は平々凡々で、極々一般的な少女だ。成績は中の上から中の下を行ったり来たり、運動神経も体力も、精々多くの文化部の女子よりは少し上程度で、運動部の女子に比べれば劣っていて、容姿だってありふれて背景に埋没するような、黒目黒髪の女子Aといったところ。多少奇天烈で苛烈な質ではあれど、私の知る限りにおいて、それは少なくとも、日常を逸脱しない、普遍に敬遠されない程度のものだった。
それでも、彼女は非凡であり、異常であった。
「佐塔さんが、みんなでケーキバイキング行こうって」
一緒にいこう、と、今日も今日とて、普段通り本の虫と化している私に声色に興奮を乗せ、そう言ったのは、冴えない男子生徒だった。
名前を憶えていないどころか、顔を見知ってすらいない、すれ違ったことすらあるかどうか分からないような彼。
普通はないことだけれど、入学して凡そ四ヶ月目。佐塔と同じクラスに所属し始めて四ヶ月目。日常と化した事柄に驚きはすれど戸惑いはしない。
「ええと、どちらさまで?」
驚いたように問うと、彼は、ああ、ごめん、と軽く謝り、自己紹介した。
それによると、彼は二つ隣のクラスだという。
「ふうん。……佐塔の知り合いか?」
「ううん、一方的に知ってるだけ」
だろうな、と内心ごちる。口には出さなかった。こと佐塔の関わることであれば、そうそうないとはいえ、彼が気分を害するかもしれないし、それ以上に、そんなことをいうのは私が嫌だった。
「そう、それでケーキバイキングなんだけど」
「すまない、ちょっと外せない用事があってな」
無論、嘘だ。佐塔のことは嫌いではないし、好ましく思ってしまっているけれど、態々金を出してあの騒々しい集団に混じる苦痛を味わうほどではなかった。
「ええ、そうなの? それ、どうしても、外せないんだよね?……残念」
とはいえ、佐塔には彼女が望んでいるかどうかとは別に、熱狂的な信奉者がそこそこ以上いる。恨めしげに、憎々しげにこちらを見遣る、目の前の彼のように。
「ああ」
「ん、じゃあ、他の人誘ってみるよ」
「……その」
そもそも、知人でもない女子に押し掛けるのはどうなんだ、という、常識的な問いは口から零れそうになるも、終ぞ喉を震わせず。
ただ、きっと彼も佐塔が絡まなければ普通に常識的な人物なんだろうな、と想像させて終わった。
「ん? なあに?」
「……何でもない」
矢張り佐塔は逸脱していると、そう思っただけだ。
「逸脱しているとは、随分な物言いね、加東」
「それ以上の形容があるか? 佐塔」
「そこはほら、とても魅力的とか、蠱惑的とか」
「どこが?」
「真顔で返すのはやめてっ! 流石に居た堪れないわ」
放課後、というよりは夜といった方が適切だろう。午後七時、薄らぼんやりと漂う夕日の残り香が夏を感じさせる。
「スコールとか、猛暑とか、本当嫌な季節ね」
うんざりした様子で佐塔が吐き棄てる。
「……私は好きだがな」
「あっそ」
興味なさげに言う。実際、興味も関心もないのだろう。
偶然に会うことの多い私達だが、単なる一クラスメートでしかないのだから。友人ですら、話し相手ですらない、精々ご近所さん程度の関係。
「それで? 今日は何の本を借りたのかしら?」
「これ」
『本当にあった?! 怖い都市伝説』と書かれたコンビニコミックのような本を二冊みせる。上中下巻構成らしいが、下巻は紛失中らしかった。
「またなんというか……随分大衆的というか、低俗というか、毛色の違うのを」
「本に貴賎なんてない」
「……まあ、うん、貴方ならそういうと思ったけれども」
ところで、と佐塔。
「貴方は来なかったみたいだけれど、嫌いなのかしら?」
「何がだ?」
「ケーキ」
「別に」
寧ろ、甘味は好きな部類だ。
「でも、来なかったでしょう。……うちのクラスで貴方だけよ、来なかったの」
「……ケーキは好きだがな」
「なら」
「騒々しいのは嫌いだ」
「……そ。なら、仕方ないわね」
「ああ」
目を伏せて、佐塔は溢した言葉に、そっと首肯して。
そして、それから、無言が続いた。
静かなのは好きな筈なのに、どうしてかその沈黙は居心地が悪かった。
続いていた会話が途切れたからか、あるいは。
カーブミラーが二股の道の真ん中で、珍しく雲一つない煌びやかな夜空を映し出している。私の家は左側で、佐塔は右側。
「送ろうか」
街灯があるとはいえ、暗い夜道を女子一人で歩かせるのはよろしくないだろう。
「要らないわ。すぐそこだもの」
「……そうか」
まあ、とはいえ、断られてまで貫きたいことでもないが。
「じゃあね、また明日」
「ああ、また」
ひらひらと軽く手を振る佐塔の背に返して、左の道に入った。
校長だか、教頭だか、長ったらしい話が続く。次は生活指導部らしい。
数少ない少ない救いは、ここが体育館内であり、さんさんと今日も直射日光を浴びせかける太陽の紫外線やら熱線やらからこの身を守れることと、体育座りで足を休められることぐらいだろう。
「怠いわね」
「全くだ」
隣に座る佐塔に小声で返す。騒めきを作るほどではないが、小声でのやり取りは他所でも多々あるようで、先生達も、黙認しているようだった。
まあ、この長い長い話は、中学生には辛いものがある。静かにじっとしているのは厳しいだろう。
「……さ行はもう少し後ろだろう」
「代わってもらったのよ」
「いいのか、それ」
「ウィンウィンよ。あの娘も気になる子と一緒の方がいいでしょう?」
「なるほど」
まあ、そうでなくとも、少なくともうちのクラスに、佐塔の頼みを断れる奴はそういないだろうが。……私のようなぼっちは兎も角。
「それで? 用件は?」
「あら、用がなければ話しかけちゃダメなのかしら?」
「巫山戯るなら聞かないぞ」
少なくとも、お前は用もなく集会中に話しかけてくるほど私と親しくもなければ不真面目でもないだろう、と。
「はあ、これだから」
呆れたように、諦めたように溜息を吐くと、殊更に声を潜めて。
「……放課後、四〇三講義室で待っていて。話したいことがあるの」
どこか躊躇い混じりにそう言った。
「了解」
「ありがとう。……それとね」
「起立」
ふわりと微笑った彼女が最後まで言葉を言い切る前に、マイク越しに司会の教員の声が響いた。
言葉の続きを、そっと彼女に尋ねたが、彼女はなんでもないの、と、教えてはくれなかった。
キンコンと鐘がなって、私は教室を後にした。
クラスメートの大半が明日からの夏休みに夢想する教室はざわざわと騒々しく、別段注目される要素もない平凡な私程度が静かに四〇三講義室へ向かおうと、それを見咎める人間など存在しないのだった。もしかすれば、気付いた人間すら。
「私は気付いていたわよ、勿論」
文庫本を読んでいると、ぜえはあと肩で息をしながら、佐塔が講義室へ入ってきた。
「お疲れさん」
「遅れてごめんなさいね」
時刻は午後四時三〇分。終業の鐘がなってから約一時間。
「いいよ、察しはつく」
いつもの如く、彼女はその信奉者達からの誘いやら何やら、揉みくちゃにされたのだろう。同情ならまだしも、非難なんぞをするわけもなく。
予想はしていたし、本を読んでいたから、暇を持て余してもいない。
それよりか、彼女がこうまでして伝えたかった本題が気になった。
「それで、何の用だ?」
「えっと、うん」
「?」
茶を濁すように、曖昧模糊にはぐらかすように、目を僅かに逸らす態度に疑問符が浮かぶ。
私が知る彼女の毅然とした、女傑の如き性格とは正反対ともいえる態度だった。
「……話し辛いなら、無理に言う必要もないと思うが」
何せ、私達は精々御近所さん程度の仲なのだから。
「う……ううん、いう。言うわ。呼び出したのも、言うと決めたのも、私だもの」
佐塔は深呼吸をして。
「私、私ね、もうすぐ引っ越すの」
そう、私以外の誰かにとっての、爆弾を落とした。
「……それは、その。……寂しくなる、な?」
「ぎ、疑問系は傷付くわよ?」
「どう反応しろと」
「えっと、それは、その」
しどろもどろになる佐塔。それを無視して、恐らく一番重大な問題を確認する。
「で、このこと彼奴らは知ってんのか?」
「彼奴ら?」
きょとんとする佐塔。もしかして失念しているのか。
「お前の信奉者共」
「知らない筈よ」
知らせたら、酷い騒ぎになるでしょう、と。
流石に失念してはいなかったらしい。まあ、この辺境たる四〇三講義室を密談の場所に指定した辺り、然程心配していたわけではないが。
「と、兎も角! 引っ越すから、その……」
「ん、見送りにでもいくよ」
流石に、引っ越す近くに住む同級生を見送る程度はする。ご近所さん程度の付き合いだけれども、昨今のご近所さんだって、予定が合えば見送りぐらいはするだろうし。
「……絶対よ?」
「心配しなくとも、ちゃんといくさ。……まあ、引っ越しくらい静かにしたいか」
賑やかにするなら信奉者共を呼べばいいわけだし。
「う、煩くてもいいから! 来て!」
「お、おう」
「絶対よ!」
やや引き気味に頷く私になおも念押しする佐塔。
何がそこまで必死にさせるのやら。
一週間後。
佐塔が引っ越す日。
この日ばかりは、彼女の周りに溢れる雑音はなく。
不可避に発生する騒々しさは、鳴りを潜めていた。
「本当に来たのね」
唯一、この場へ訪れた同級生を見遣り、どこか揶揄するような、皮肉げな口調とは裏腹に、喜色を満面に浮かべて、佐塔は言った。
「まあ、そりゃ、約束したしな」
「そういうところは、貴方のいいところだと思うわ」
「……どーも」
真正面から言われて、照れる。
「そうだ、番号交換しましょう?」
名案だ、と言わんばかりの佐塔。
「すまん、ケータイ持ってないんだ」
「あ……そ、そう」
昨今の中学生は結構な割合で持っているらしいが、私は使う予定もなかったからな。
「……ええと、手紙出すから、返してね?」
「……筆不精でもいいなら」
「返ってくるなら、それでいいわ」
安堵したように息を吐く佐塔。
何だか、今日はいつになく表情豊かだ。
「おーい、もういくぞー」
「あっ」
親父さんの声に振り返った佐塔は、直ぐに私に向き直って。
「それじゃあ、もういくわね」
と、少しだけ眉の下がった笑顔で言った。
「……じゃあな」
「……ええ、またね」
バンの車窓から、どこか未練がましく、どこかそっけなく、振られる佐塔の手に、振り返した。
手は、小さくなっていく。
『本当にあった?! 怖い都市伝説』。
いつかみたような文言が表紙を踊る。
佐塔からの手紙に同封されていたそれは、三ヶ月後の今でも紛失中の札が取れない下巻だった。旅行の土産らしい。
返礼は、京土産でもいいだろうか。
小さな三つセットの根付を贈る。
彼女を--佐塔を形容する言葉は人それぞれだろう。曰く、女神、化生、女王、魔女--。
私は。
もし、彼女を形容するならば。
きっと彼女はそれを認めはしないけれど、こう表現するのが、適切だと思った。
彼女は、佐塔は--英雄のようであったと。
英雄の如き、人間であり、少女だった、と。