たまたま傍にいただけだから
車椅子の少年が公園に来ていた。彼は三つのボールでジャグリングをしていた。
彼が公園にやってくるときは、いつも三十代くらいの女性が一緒についてきた。彼がボールを取り落したときはその女性が拾ってあげていた。彼女は母親ではないだろう。おそらくお手伝いの類だ。
少年のジャグリングはなかなか様になっていたが、あるとき落としたボールが車椅子の足掛けに当たって、思いのほか遠くまで跳んでいった。そして段差の向こうの植え込みの中に落ちてしまった。普段ならあの付き添いの女性が拾うはずなのだが、今は生憎、離れたところにいた。彼はボールを取ろうと頑張ってみたが、車椅子の車輪が段差に引っ掛かってしまうため、手が届かなかった。
「ちぇっ、参ったな」と少年は頭を掻きながら呟いた。
そのとき、遠くでずっと見ていた少女が立ち上がって歩み寄り、植え込みの中からお手玉を拾い出して少年に手渡した。
「どうもありがとう」と少年は言った。
少女は照れたように僅かに頬を赤らめ、そして呟くように言った。
「たまたま傍にいただけだから」
「もし見たかったら近くで見てくれていいんだよ」
少女は黙ったまま、小さく頷いた。それから言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」と少年は微笑んで言った。
彼女は少年の前方の、少し離れたところに座った。ボールが彼女にぶつかるのではないかと、少年に余計な心配をさせないためだ。
ボールが三つでもできることは山ほどあるらしく、少年は次々と技を繰り出した。脚が利かないぶん、腕を使うことに熱意を燃やしているのかもしれなかった。素晴らしいボール捌きで少年は彼女の目を楽しませた。
そうしているうちに、あの付き添いの女性が戻ってきた。
「あら、可愛らしいお客さん」と付き添いの女性は少女に微笑み掛けたあと、少年のほうを向いた。「ファンがついて良かったじゃない。どう? 今の気持ちは」
「やっぱり人が見ていると張り切っちゃうよね」と少年はやや頬を上気させて言い、それから少女にウインクをした。「最後に大技を見せてあげよう」
彼はいつものようにジャグリングを始めたあと、三つのボールを次々に投げ上げた。それから車椅子の左右の車輪を逆向きに動かし、その場で一回転してからボールを三つともキャッチした。少女は思わず盛大に拍手した。少年は嬉しそうな表情で一礼した。
「それじゃあ、タク」と付き添いの女性は少年に向かって言った。「名残惜しいけれど、今日はこれくらいにしておきましょうか」
タクと呼ばれたジャグラーの少年は頷いた。
「それとタク、あなた、明日は筋肉痛になるんじゃない?」
「そんなにヤワじゃないよ」とタクはやや口を尖らせて言った。
それから彼は少女のほうに向き直った。
「じゃあ、またいつか。毎日は無理だけれど、天気の良い日は僕もできるだけ外に出たいから、ちょくちょく来ると思うよ」
少女は分かったという合図で小さく頷いた。
「あ、そうだ」と去りかけていたタクは少女のほうを見た。「君の名前は?」
「エリ」
「分かった。今度、君を見ていて思いついた、新しい技を見せてあげられるかもしれない。エリ・スペシャルと名付けよう」
「私なんかを見て、何を思いつくの?」
「誰にでも独特の雰囲気というものがある。君は物静かで親切だ。僕がさっき見せた技も全部、誰かの雰囲気からインスピレーションを得て作ってるんだ」
「えっと、最後のやつも?」
「あれは僕のお母さんだね」
「お母さん、凄い人なの?」
「そうかも。見た目はクールなんだけど、さりげなく凄いことをやっちゃう」
「タク君もさりげなく凄いことをやってたよ」
「僕の場合はむしろ、他にできることがあまりないから。たった一つの手慰みをずっと続けていたら、こうなったんだ。あとはプログラミング。コンピューターの」
「私はやったことないけど、分かるよ」
「ずっと座っていられるのが特技だからね」
「その冗談は笑いづらい……」
「ごめんごめん。それじゃ、またね」
「うん。ばいばい」
タクは今度こそ本当に去って行った。長々と話していたのを、付き添いの女性は微笑みを浮かべながら、じっと黙って聞いていた。今はタクの車椅子を押しながら、彼と話をしている。エリのところには内容までは聞こえてこなかったが、楽しそうだ。彼はいつも楽しそうだった。彼の脚が利かないということを、エリはうっかり忘れそうになるほどだった。