第2話 血塗られた手・前編
俺は父親の顔を知らない。
彼は俺が生まれる前に、交通事故に巻き込まれて死んだ。
俺は母親の顔を覚えていない。
物心がついた頃には、既にいなかった。
だが、俺は姉の顔なら知っていた。
姉は俺より7歳年上で、いつも世話をしてくれていた。……小学校にあがるまでまでは。
「どうして、姉ちゃんが……」
いなくなったのは、何でもないような普通の日。俺の姉、藍野結友は町はずれの廃墟で息絶えていた。原因は、首を絞められたことによる窒息死。しかし、体に性的暴行の跡が何ヶ所も見られたことから、強姦殺人とみられた。いずれにせよ当時6歳の俺にとって、姉の死はあまりにも大きな傷跡となった
犯人が捕まっていないまま、俺は自身と姉を引き取ってくれた「親」のもとで得も言われぬ喪失を埋めようとしていた。
そんな時、あいつは俺の前に現れた。忘れもしない、小学5年生の9月。
「今日はこのクラスにやってくる転校生を紹介します。さぁ、入って」
担任の声に応じて、教室のドアが開いた。
入ってきたのは、活発そうな少女。栗色の長髪を揺らし、教壇の横に立って軽く一礼。
そして、自らこう名乗った。
「初めまして。atasi
は星田実希です!」
彼女の席は後ろから2番、左の窓際から2番だった。その左隣には俺が座っていたから、何とはなしに話をしてしまう。
「よろしくね、えーと……」
「……藍野。藍野阿陰だ」まだ昔のことを引き摺る俺は、窓際に顔を向けて返した。
「じゃあ阿陰君だね!いろいろ教えてね!」一方の星田実希は終始明るい声だった。
こうして出会った俺達二人だが、気が付けば俺は彼女の振る舞いにすっかり慣れてしまっていた。何か行事があるごとに実希は俺を誘ってきた。俺としても同年代の異性と共に過ごす時間を楽しみにするまっとうな男子であった訳で、まず断らなかった。そうしている内に、少しずつあの事件のことを忘れられた。
だが、それと同時に一つの疑問が浮かんだ。
「何故、俺なんだろう?」
実際、彼女のことは好きだったのかもしれない。けれども、自分が彼女に気に入られる理由が分からなかった。見た目ならもっとカッコいい奴は一杯いたし、運動神経も授業の成績も至って平凡な俺には彼女は不釣合いじゃないのか。そうだったとしたら、俺は彼女の人生を汚してしまっているのではないか。そんな事を考えていたら、何時の間にか小学校を卒業して、俺達は中学生になっていた。
中学1年生ともなれば、少々ませた奴らならあちこちでいちゃつく姿が見られた。とはいえ付き合ってもいない俺と実希には関係のない事でだった、のだが。
放課後、教室掃除当番だった俺は手早く自分の仕事を終え、もう一人に後処理を任せて下駄箱へ急いだ。実希に呼び出されていたためだ。俺達の関係を面白半分で見守っていたクラスメイト達は、近くには見当たらない。二人きりの方が話せることは多かったから、俺はそれで構わなかった。
「待たせたな。んで、話ってのは?」
「あ、うん。えーっとね、あのー……」
「何だ?」
「……すき……」
「……えぇ!?」
「阿陰君が、好き、なの!」実希は顔を赤らめて、大声で言った。
最初はなんかのドッキリだと思った。現実味に欠ける、おとぎ話のような。しかし、目の前の少女は本気の目をしていた。愛らしい彼女は、勇気を振り絞ってくれたのだ。
それなのに。俺は、酷い事を言ってしまった。
「……悪い。俺も好きだけど、もう少しこのままでいたい」
俺にとって彼女は、自分の傷を癒してくれた恩人で、かつ自分を信じてくれるかけがえのない存在だった。恋人になるのはまた新たな関係となることで、それはそれで大切な事なのかも知れないけど、当時の俺にはまだ踏み切る覚悟がなかった。
「……っ」実希の双眸から滴が零れ落ちる。しかし俺は、何も出来なかった。愚かなことに、何もしなかったのだ。
実希は顔を伏せて校舎から走り去り、立ち尽くす俺は強い罪悪感に苛まれた。走って止めに行こうとする自分と、それを無駄だとのたまう自分。ため息が漏れて、俺は一人で帰る羽目になった。
最悪の不幸が実希に襲い掛かったのは、その日の夜だった。
翌日、気怠い体を一杯のコーヒーで目覚めさせようと共用のダイニングへ向かうと、テレビニュースが流れていた。普段はスポーツや芸能、占いをやってる時間なのに、今日は何事かの事件現場らしき場所が映されていた。ニュースの内容は少女暴行事件で、場所は近所の公園だった。
俺の中で、封印していた悪しき記憶が蘇る。そして……。
「被害者はこの町に住む13歳の少女で、近所の住民に助けを求めて……」
嫌な予感がする。俺は自分の部屋に戻り、スマートフォンを手に取る。震える手で実希の番号を探し、電話をかけた。しかし待っていたのは、非情な留守番アナウンス。
「くそっ!俺が、あんな言葉を言わなければ……!」
もはや冷静な判断が出来ず、俺は学生服を着て家を飛び出した。実希の家は決して近くはない。自転車を全力で走らせて5分、彼女の母に話をすると、
「ごめんなさい。実希は今、誰にも会いたくないって……」そういわれた時。
「……阿陰、君?」玄関のドアが開き、弱弱しい声が聞こえた。
「実希……」
そこにいたのは、昨日までの明るくも優しい彼女ではなく、か細い声で目も虚ろな星田実希という儚き存在だった。
「これが、報いだってのか?俺への……」俺は再び、歪な性衝動の下に大切な人を奪われた。しかし、俺には最早悲しみはなかった。代わりに湧き上がってきたのは、犯人への復讐心。
「すまない。しっかり休んでてくれ。それじゃ、失礼しました」何とも不躾な返答だが、彼女に合わせる顔はなかった。いや、もう一生無いのかもしれない。
「……殺す。殺す。殺してやるぅぅぅぅぅ!!」復讐心が破壊への欲求へと変わるのに、さほど時間はかからなかった。
まずは学校へ行き、クラスメイトからの情報を集める。流石に同級生が被害に遭ったためか、実希や俺への同情や心配、犯人への恨みが大半だったが、その中で有力そうな情報はメモを取った。授業中は隠し持ったスマートフォンのニュースサイトや掲示板で参考になるものをまとめ、放課後は素性を隠して町の人々に聞き込みに行った。警察が犯人を捕まえてしまえば、復讐の機会は失われてしまう。それまでになんとしても自らの手で犯人を突き止めたかった。
それから4日後、ついに犯人の素性とその住処を割り出した。
「市議会議員か。それなりに厄介だが、関係ない」知り合いの話じゃ、警察は未だに決定的な証拠を見つけていないようだ。これは好機と思い、確認のために得物を取り出す。それは、直径4cm・長さ60cmほどの鉄製パイプ。奇しくもこれを拾ったのは姉の死体遺棄現場だった。
もう、自分が道を踏み外していることには気が付かなかった。
犯人の住処は小さな丘の上、いかにも権力者の住みそうなちょっとした邸宅だった。すっかり日も沈み、電灯が路面を照らす時間帯に、俺は死角となる場所に身をひそめる。数分待っただろうか、目の前に黒塗りのタクシーが停まった。僅かな光でも分かる、ヤツの横顔。
「間違いない!あいつが……」俺の追っていた、犯人だ。
死角から音を立てず立ち上がり、ヤツが後ろを向いた瞬間。
「今だ!」俺は一瞬で詰め寄り、ヤツの後頭部を。
思いきり、鉄パイプで殴りつけた。
太いうめき声を上げ、地面へ突っ伏す犯人。俺はヤツの頭を何度も殴打する。普通なら周りの家が何だ何だと騒ぎ立てる前に立ち去らねばならなかったが、俺にはどうでもよかった。俺は最早、いたいけな少女を汚した下郎を成敗する正義の味方でもない、ただ自分が守るべき存在であった人を奪った者を憎しみのままに打ちのめす哀しみの犯罪者でもない。
俺はその瞬間、他者を平気で殺す破壊者となったのだ。
その後、住民たちと警察によって俺は取り押さえられた。もとより仇さえ討てれば俺の身がどうなろうと構わなかったので、すんなりと罪を認めた。俺が殴った男はその後、病院で息を引き取ったらしい。ヤツが犯人という証拠はいずれ警察も掴むはずだ。当人が死亡し、言いくるめられた周囲の人間もその枷を外されたなら、はっきりとした真実が見えるだろう。
当時の俺は13歳だったから、少年犯罪として家庭裁判所で審判に付されることになった。争点となったのは被害者への報復感情と行為の残虐性だ。捕まったことでほとぼりの冷めた俺は、何であれ人の命を奪ったことに反省していた。裁判官もそれを汲んでくれたのか、俺の処分は禁固3年となった。法廷には被害者の妻の悲痛な叫びが広がり、それと同時に俺は傍聴席へと目をやる。
見るんじゃなかった。そこにいたのは、クラスメイトや担当教諭に紛れて座っていた、ある少女。
目に入ったのは、実希の悲しげな顔だった。