第八話 眠れる王子とチーズの入ったとろふわオムレツ
僕は掃除機のスイッチを切った。途端に轟音が止み、徐々に静けさが広がっていく。
これで午前中の仕事は終わった。一休みしたら買い出しにでも行こうか…。
その時、玄関のチャイムが鳴った。僕は掃除機を床に置き、来客を迎えるために歩き出した。
僕は、訳あって魔法使いの家でハウスキーパーをしている。そして今日の客人は、ちょっと意外な人物だった。
「俺、田中裕介っていいます。こちらの花さんとお付き合いさせてもらってます」
なんと目の前にいるこの男こそ、花さんの恋人その人でだったのだ。
「あ、お話は伺っております」
なんだか妙な具合だ。居心地が悪くて背中がむずむずする。
「ですがただいま花さんは、会社の方に出社しておりまして」
花さんはああ見えて、宝石の会社を経営している。いわゆる敏腕女社長だ。
「もちろん、知ってますよ。だから今来たんです」
「え……」
「相談事をするならあなたに限るって、花さんがいつも言うものだから」
「…………」
僕は一瞬面喰い、それからなんとか立ち直った。
「……わかりました。お力になれるかどうかわかりませんが、どうぞこちらへ」
「俺、花さんと別れた方がいいような気がするんです」
ソファに腰を下ろすなり、裕介さんはそう言って頭を抱えた。僕は内心あわてたが、とりあえず止めに入る。
「花さんは素敵な方じゃありませんか?優しいし、おきれいですし……」
「そんなことはわかってます。でも俺は、そんな花さんに母親の面影を重ねているような気がするんですよ」
「母親の……」
「俺たち兄弟は早くに両親を亡くして、叔父夫婦に育てられました。俺は当時まだ小さかったので、両親のことはよく覚えていません。だからでしょうか……花さんといると、いつのまにか『本当の母親はこうだったかもしれない』と思っている自分に気が付くんです。これじゃ、男性として対等なお付き合いを求めてくれる花さんに失礼じゃないですか……それを考えると、夜も眠れないし、食事もとれないし……」
それは、思いもよらない展開だった。このことを花さんが知ったら、花さんはどうするのだろう。悪酔いして大荒れになったりしないだろうか。
いつの間にか考え込んでいたのかもしれない。ふいにかすかな寝息が聞こえた気がして、僕は思わず目の前の客人を見つめた。なんと裕介さんは、悩んだ格好のままで居眠りをしていた。
裕介さんに毛布を掛け、僕はキッチンにやってきた。
眠れる痛々しい王子に、何か温かい昼食を出そうと思ったからだ。
まず玉ねぎをみじん切りにし、ウインナーを刻む。それから余っていたひき肉をフライパンで炒め、さっき刻んだ具材も加えていく。
買い出し前なのでろくな材料はないが、ありあわせでオムレツを作ろうと考えた。あの黄色いふわふわは、人の心を明るくしてくれる。
フライパンから具材を一度取り出してバターを溶かし、ときほぐした卵を注ぐ。あとは具材を戻し入れて溶けるチーズをふりかけ、卵が固まらないうちに寄せていく。いつのまにかなんとも言えないいい匂いが、キッチンの中に漂っていた。
皿を持って客間のドアを開けると、裕介さんははっとしたように顔を上げた。
「……まさか俺……眠ってたんですか……」
僕はそれには答えず、オムレツの乗った皿を裕介さんの前に置く。
「さあ、熱いうちに召し上がってください。これは僕の自信作なんですよ」
裕介さんの視線は、僕と皿の間を何度か往復したが、やがて皿の前に止まった。
「……じゃあ……いただきます」
食べ始めると、裕介さんのスプーンは勢いよく動いた。次から次へとほおばる姿は、まるで子供のようだ。
「僕は思うんです。裕介さんが花さんのことをお好きなら、それでいいんじゃないかなって」
裕介さんの動きが止まる。でも僕は話を続けた。
「好きな気持ちをさらに分解するなんて、無粋なことだと思いませんか。『好き』だから『好き』それでいいんですよ。もちろん、恋愛の行方は川を流れる笹船のように予測がつきません。結果的に二人の関係が親子のようなものになることもあるでしょう。でも、『好き』はやっぱり『好き』でしょう?好きなのに別れるなんて、あまりにももったいないことだ、と僕は思うんです」
裕介さんは、少しの間考え込むようにうつむいた。そしてそれからゆっくりと顔を上げた。
「俺は花さんのことが好きです。その気持ちは誰にも負けません」
「これはこれは。ごちそうさまです。では、僕にのろけたお詫びに、そのオムレツ、一粒も残さず食べてくださいね」
「こんなおいしいオムレツを残すなんて、そんなことできませんよ」
裕介さんはにっこりと笑い、それからまたスプーンを動かし始めた。そんな裕介さんを見ながら、僕はなんだか満ち足りた気持ちになってきた。
一これはまるで、親が息子を見る感覚かも。もしかすると花さんの方こそそういう目で裕介さんを見ているのかもしれないな……。
恋愛という笹船に何度も乗り、そのたびに難破した僕は、二人の笹船の行方を静かに見守ることしかできない。でも、先が見えないからこそ恋愛は楽しい。それもまた事実なのである。