第四話 元カノと甘くて酸っぱいブルーベリージャム
「もしかして広くんじゃない?」
それは、とても懐かしい声だった。自転車を止めて門の鍵を開けていた僕は、『まさか』と思いながら、ゆっくりと後ろを振り返った。
「わあっ、やっぱり広くんだ」
「……春香……?」
僕はまだ信じられない思いで、彼女の顔を見つめた。
僕は訳あって、魔法使いの家でハウスキーパーをしている。そしてこの世界に入る時に、人間世界のしがらみは全部捨ててきたはずだった。
だいたい、魔法使いが住む家々は、常に弱いバリアで守られている。人間界と接触を持ち過ぎるのは危険なため、人間が簡単には行きつけない仕様になっているのだ。
にも関わらず、彼女は今ここに立っている。春香……。僕が昔付き合っていた女の子だった。
「この辺りで広くんを見かけたって人がいてね。わたし、会いたくなってずっと探してたのよ」
人間の強い思いは、魔法使いのバリアを破ることがある。
一……どうしてそんなに……。
僕は改めて春香を見つめ、ある変化に気付いた。
春香はほっそりとした華奢な子だった。でも今は、そのおなかまわりが明らかに膨らんでいる。その状態はまるで……。
僕の視線に気づいたのだろう、春香は少し頬を赤らめ、自分のおなかにそっと手を当てた。
「広くん、わかっちゃった?そうなんだ。ここに赤ちゃんがいるの」
「……まさか……僕の……」
僕は、ほとんど無意識につぶやいていた。春香は一瞬目を見開いたが、すぐに笑い出した。
「やだ、広くん。何言ってるの?広くんに最後に会ったの、二年前だよ」
「あ……ああ……そうか……」
突然春香を目の前にして、僕の時間認識はワープしてしまったらしい。僕は息を整えて記憶を手繰り寄せた。
「……二年前……確か健人と付き合うって……そう言ってたよね……」
「そうだよ。この赤ちゃん、健人の子供なんだ」
僕はあの頃、ずいぶんとひどい生活をしていたし、付き合っていた女の子も春香だけじゃなかった。だから春香から『広くんと別れて健人と付き合う』と聞いた時、反対する権利なんて髪の毛一筋ほどもなかったのだ。
でも、去っていく春香の細い後姿を見ていると、胸が痛くてたまらなかった。ずっと二人で歩いていく未来だってあったはずなのに、僕はそこへの道を探そうともしなかったのだ。
「でもね、いま健人、少年院に入ってて……」
「はあ!?」
僕はいきなり現実に引き戻された。
「だからいろいろ相談に乗ってほしくて。それから、これ……」
春香はそう言って、手に持っていた紙袋を持ち上げた。覗き込むと、そこにはたくさんのブルーベリーが入っていた。
「お隣の人にもらったんだ。ブルーベリー狩りに行ったおすそわけだって。これ見てたら、広くんの作ったジャムが食べたくなっちゃった」
「いいよ。僕でよかったら相談に乗るし、ジャムだっていつでも作ってあげるよ。とにかく、それ重いでしょ。僕が持つよ」
春香から紙袋を受け取ると、ずしりと手ごたえがあった。
「妊婦さんがこんなの持っちゃだめだよ」
僕の言葉に、春香は少し寂しそうに笑った。
「広くんはいつも優しかったよね……そんなところ、好きだったな……」
僕は少しドキリとして目を伏せた。
「へえ……ハウスキーパーとかしてるんだ……」
僕は春香を家に入れ、キッチンで事情を説明した。無論、『魔法使い』というワードは伏せている。
「家の人がいないのに、勝手にキッチン使って大丈夫なの?」
「しばらくは誰も帰ってこないし、だいたいそういう細かいことを気にする人たちじゃないんだ」
「ふうん」
僕は話しながら、ブルーベリーを洗いホーローの鍋に入れた。これに砂糖を加え、弱火にかける。
「……ねえ、健人のこと、聞いてもいいかな」
僕は木べらで鍋の中身を混ぜながら、さりげなく話を振った。
「……どうして少年院に入ったのかってことでしょ」
「うん」
「知らない人から喧嘩を吹っ掛けられたのよ。健人ってちょっと顔怖いじゃない?おまけに笑わないし無口だし」
「まあ、そうだね」
「でも、相手が思ったより弱くて、ひどいケガさせちゃったの」
「そうか……」
こういうのは運の占める割合も大きい。何度喧嘩しても捕まらない人間もいるし、ちょっとした小競り合いですぐ少年院に入れられる場合もある。健人はきっと後者なのだろう。
「でも、それはいいの。わたしは今でも健人のことが好きだし、健人が出てくるまでちゃんと待てるから。でもね……」
「……でも、どうしたの?」
僕は会話を続けながら、鍋の中のあくをすくう。これをまめにやらないと、えぐみが出てしまうのだ。
「健人の気持ちはどうなんだろうって思うとね……。男の人って、彼女から『子供ができた』って言われると、みんなビビるでしょう?」
「……ああ、そうかも……」
ほんの数分前、その可能性を考えて一人ビビっていたのはこの僕だ。男は、赤ちゃんを腹に宿さない分、覚悟が足らない。
「健人も、子供の父親だってことは認めてくれたのよ。でも、そのあとすぐ少年院に入っちゃったから、気持ちが揺れてるかもしれないでしょ?その証拠に、手紙出したって返事もくれない。……そりゃ、彼が文章とか書くの苦手だってことは知ってるけど、それにしたって……。三日前、やっと返事が来たって喜んでたら、封筒にこれと、ノートをちぎった切れ端が入っててね。そこに一言『木工の時間に作ったからお前にやる』だって。わたしはずっと一人で待ってるんだから、もうちょっとなんか言ってくれたって……」
ブルーベリージャムの方は、すでに残りの砂糖を加え弱火にしている。僕は春香の隣に座って、その小さな木工品を見た。
それはおそらく動物だが、その種類は判別しかねた。熊……いや猫かもしれない。その時、僕は動物の腹になにやら模様がつけられていることに気付いた。
「これ、手に取ってみてもいい?」
僕は春香に了解を取ってから、それを持ち上げ、動物の腹をしげしげと眺めた。
一……これは……。
「春香。いま、妊娠何か月?」
「え?もうすぐ五か月だけど……」
「やっぱり。これ、健人なりに考えた安産のお守りだよ」
「どういうこと?」
春香が、大きい目をさらに見開いて僕を見た。
「昔から、お産の軽い犬は、安産の守り神と言われていたんだ。妊娠五か月になって最初の『戌の日』に腹帯を巻いて安産を願う風習もあるしね」
「ちょっと待って。だいたい、これのどこが『犬』なわけ?」
「だって、書いてあるし」
僕は、動物の腹側を春香に見せた。そこには黒いマジックで、はっきり『犬』と書かれていたのだ。
「……なによ、もう……。健人、ほんとに不器用なんだから……」
春香は笑いながら、目じりからあふれてきた涙を何度もぬぐった。
「さあ、そろそろジャムも冷えたかな」
僕は立ち上がり、空き瓶にジャムを詰めた。小さな瓶しかなかったので、ひとつには入りきれず、二つになった。
「これ、ちょっと重いかな。僕が家まで持っていっても……」
「こっちのジャムは広くんが使って」
春香は僕の言葉を遮ると、瓶のうちの一つを僕の前に置いた。
「今日のお礼だよ。突然押し掛けたのに、嫌な顔もしないでジャムを作ってくれたし、なによりわたしの悩みまで解決してくれたんだから」
春香の笑顔にはくもりがなかった。僕はそのジャムを、ありがたく受け取った。
「じゃあね、広くん。落ち着いたらまた来るよ」
「うん。子供産まれたら見せにきて」
「行く、行く。楽しみにしてて」
「じゃあ、気を付けて。あんまり無理するなよ」
「広くんも元気でね」
春香を見送ってから、僕は一人キッチンに戻ってきた。出来立てのジャムが入った瓶が一つ、テーブルの上にひっそりと乗っている。
「ああ、そうか……」
僕は思わず独り言をつぶやいた。
春香はきっと、もうここには来ない。健人と二人で幸せな家庭を築いていけば、僕に会いたいと強く願うことなんてないのだ。
僕はジャムの瓶を持って、それを出窓の光にかざしてみた。それはショーケースの中にある宝石のように、きらきらと光って見えた。