第一話 美熟女と真っ赤なトマトのミネストローネ
あまり知られていないことだが、現代の魔法使いは人間の社会に溶け込んで暮らしている。彼らは人間と同じようにきちんと学校や会社に通い、その合間に魔法活動を行うのだ。
もっとも、過去に起こったいさかいの歴史を踏まえ、魔法使いたちはその活動を自主的に制限していた。
『人間に魔法使いであることを知られてはならない。
よって人間の前では魔法を使わないこと。
また、人間よりはるかに長寿であることを悟られぬため、定期的に転地をすること。』
これが彼らの大原則だ。
しかし、この原則には例外がある。
『ただし、魔法使いの協力者とみなされる人間はこの限りではない。この人間には魔法使いであることを明かし、協力を要請することができる。』
多分僕にはこの例外が適用された。僕を拾ってくれた速水家の長老が、魔法協会に申請を出してくれたからだ。長老のお情けがなかったら、行き場をなくしていた僕は、今頃どうなっていたかわからない。僕は長老に足を向けては寝られない。
そんなことがあって、僕は現在、人間でありながら魔法使いの速水家でハウスキーパーをしている。この仕事を始めるに当たって僕は誓った。
『速水家の皆さんに、すこやかな魔法生活を過ごしてもらおう。』
僕はその思いを胸に、毎日忙しい日々を過ごしている。ちなみにここの生活は、僕にとても合っているようだ。
◇◇
今日も僕は、まだ暗いうちにベッドを出た。簡単に身支度を済ませた後、最初に行くのは庭の井戸だ。
いや、魔法使いの名誉のために言っておくと、彼らの家にもちゃんと水道は通っている。ただ、料理に使うのは井戸水がいい。水道水にはカルキという消毒用の薬剤が入っているが、これが魔力に悪影響を及ぼすのだ。
「広樹、おはよう」
水を汲んだ桶を運んでいると、勝手口の所で花さんとすれ違った。花さんは御年380歳の魔法使いだが、とてもそんな風には見えない。(まあ、どんな外見なら380歳に見えるのか、と言われると、うまくイメージできないのだが)
彼女を人間風に分類するなら、『45歳。美熟女』といった感じになるのだろうか。
若い女性とは種類の違う強烈な色気があって、体調の悪い時に近づくと、ちょっとめまいがしたりする。
「おはようございます、花さん。今日もお早いですね。ジョギングにお出かけですか」
「そうなの。朝走るのはとっても気持ちいいわよ。どう?広樹も一緒に走らない?」
「一緒に……ですか?」
別に今日は体調も悪くないので一緒に走ってもいいのだが、朝はなにせ仕事が多い。
「でも僕は、朝餉の支度がありますから」
「そんなの魔法でなんとかなるわよ」
「それはだめです。三食で取る栄養が魔法の元になるんですよ。それを魔法で出していたら、魔力が減るばっかりじゃありませんか」
「広樹の意地悪っ!もう朝ごはんなんていらないんだからね」
花さんはちょっと頬を膨らませ、ぷりぷりしながら行ってしまった。19歳の僕に、380歳の彼女がツンデレアピールをしてどうしようと言うのだ。まったく、花さんはいつまでも子供みたいで可愛い……かもしれない。
今日の朝餉はミネストローネだ。さいの目切りにした香味野菜をオリーブオイルで軽く炒め、それにカットして水煮にしたトマトとブイヨンを加える。ミネストローネ以外にパンや卵も添えるが、あくまでも主役は野菜たっぷりのミネストローネだ。高齢の人が糖質を取り過ぎると、活性酸素が増えてよくない。花さんは魔法使いだが、なんせ380歳。気をつけるに越したことはないのだ。
「ただいまっ。ああ、お腹すいたあ」
ミネストローネが出来上がった頃合いを見計らったように、花さんが帰ってきた。出て行く時に『朝ごはんなんていらないんだからね』と捨て台詞を残して行ったはずだが、きれいさっぱり忘れたようだ。
「シャワーを浴びてきてください。すぐ食べられるように朝餉を準備しておきますから」
「ありがとう、広樹。だーいすき」
「それはどうも」
花さんの『だーいすき』は誰にでも発せられる口癖のようなものなのでそのまま聞き流す。花さんもまっすぐ浴室に行きかけたが、ふいにその足を止めた。
「そう言えばね、広樹。さっき、気になる男の子を見つけちゃったんだ」
「またですか」
花さんは訳あって独り身だが、ずいぶんと惚れっぽい。すれ違った男の子に恋をすることなど、日常茶飯事だ。でも花さんは、「違うわよぉ」と言って両手を振った。
「確かに、広樹と同じくらいの年の若い子ではあったけど、なんだかもっさりしてたのよ。髪がぐしゃぐしゃで、顔も若干油ギッシュでね。服装もよれよれの部屋着だった。わたしはね、もっとこう、爽やか男子が好きなのよ」
「なるほど。で、そのもっさり君がどうかしましたか」
「裸足だったの」
「は?」
「しかも片足だけ。もう片方には、ちゃんとサンダルを履いてたのに」
片足だけ裸足で恰好がつくのはシンデレラくらいのものだ。しかもそれが油ギッシュなもっさり男ではしゃれにならない。
「聞いてみなかったんですか?どうして片方の足だけ裸足なんですかって」
「聞こうと思ったわよ。だって気になるしね。でもわたしが近づいて行ったら、彼すごい勢いで逃げちゃったのよ。失礼しちゃうわね」
「花さん、その時も今と同じ恰好で……?」
「そうよ。走ってるうちに暑くなっちゃったんだもの。仕方ないじゃない」
花さんは、出がけに来ていたジャージの上を脱いで腰に巻いている。つまり、上半身は水着並みの露出度だ。まだ薄暗い道で、そんな恰好の美熟女が笑顔で走ってきたら、僕だって怖い。美しさと重ねた年齢が相乗効果を発揮して、怖さを倍増させるのだ。
「まあ、彼が逃げた理由はわかりますけどね」
「なによ、それ。じゃあ、わたしが……」
「美し過ぎたんですよ」
花さんの機嫌を直し、僕は話を続ける。
「彼が片方の足だけ裸足だった理由、ちょっと考えてみました。聞いてみます?」
「うーん……自分で考えたい気もするけど……」
花さんが悩み始めたので、僕は鍋のミネストローネをかきまぜる作業にかかった。せっかくのミネストローネを、焦がしてしまっては大変だ。
「やっぱり広樹の話聞くよ。なんだか考えるのめんどくさい」
花さんのことだから、そうなるだろうという気はしていた。僕は鍋の火をぐっと弱くして口を開いた。
「花さんはどちらかと言えば寒がりの方なので、そう簡単にジャージを脱ぎませんね。脱ぐのはいつも、蝙蝠坂を上り切った辺りじゃないですか。蝙蝠坂のバス停に木のベンチがあります。あれに座ってジャージを脱ぎ、ペットボトルの水を一口飲む」
「やだ、広樹。わたしのことずっと見てたんじゃないの?もしかしてストーカーとか……」
「違います。あくまでも推測ですから。坂を降りて行くと道沿いに自動販売機があります。彼が立っていたのはその辺りかと」
「……そうよ。自販機の前だった……。やっぱりストーカー……」
「違います。彼は近くにある蝙蝠大学の学生で、朝まで誰かの家で酒を飲んで帰るところだったんじゃないかと思います。酒を飲むと喉が渇きますから、自販機で飲み物を買おうとしたんでしょう。でも酔いが残っていたのか、小銭を落としてしまった。しかも自販機の下にね。取り出そうとして履いていたサンダルを脱ぎ、それを自販機の下に差し込んだ。でもやはり酔いが残っていたのか、サンダルも取れなくなってしまったわけです。茫然としていたところに花さんが通りかかったんでしょう」
「そうなの?ほんとに?」
「まあ、あくまでも僕の推測ですからね」
僕は肩をすくめて、またミネストローネの鍋の中をかき回す。真っ赤なトマトの香りは、なんと食欲をそそるのだろう。
「でも、早朝に若い男と会う確立というのは、案外低いんじゃないですか。だから自然と推測の幅が狭まるわけです」
「そういえばそうね。ジョギングの途中で若い男性に会うのは久しぶりだったし」
「若い男というのは、たいてい早起きが苦手なものですよ。僕だってそうです」
「そうなの?信じられないっ。いつも一番に起きてるじゃない」
「まあ、これが仕事ですから」
少し前まで、僕は夜じゅう起きて活動し、朝眠る生活を続けていた。でもそれをここで花さんに告白する必要はない。
「まあ若い男でも、朝から運動をするスポーツマンタイプの人もいますよ。でも彼はそんな感じではないようです。サンダルは運動に適しませんから。ああ、人の少ない時間を見計らって悪いことをしようって人もいるんですよ。ただそんな人は交通量の多い国道沿いに立ちすくんだりはしませんね。彼らは、猫みたいに狭い路地が好きです。それから部屋着を着ていたそうなので、通学や通勤の可能性も低い。いろいろなことを考慮した上でこの結論に達したんです」
「ふうん」
花さんは、しばらくその場で髪の毛をもてあそんでいたが、やがて顔を上げて広樹を見た。
「朝ごはん食べたら、もう一度自販機の前に行ってみるわ。で、ちょっと魔法を使ってサンダルを探してみる」
「それでどうするんですか」
「決まってるじゃない。そのサンダルの持ち主を探すのよ。わたし、気づいたんだ。彼、顔の油を取ってスタイリッシュな恰好させたら、結構イケメンだって」
「はあ、そうですか。ご自由にどうぞ」
花さんは鼻歌を歌いながら浴室に消えて行く。
―つまりこのミネストローネは、もっさり君を探す糧になるわけか……。
そう思うと複雑だが、それが花さんの元気の元になるのなら、結構なことだ。
ミネストローネをかき混ぜているうちに、二階や奥の部屋でごとごとと物音がしはじめた。もうすぐみんなが起きてくる。今日もまた、忙しい一日になりそうだ。