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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

愛の果て

 我が家には神童が居る。

 身体能力は同年代の人間を軽く突き放し、下手をすれば大の大人をも打ち負かす。その中でも素晴らしいと絶賛されていたのはその容姿だ。

 まるで墨の如く黒く、輝くほど美しく絹の様な滑らかさの髪、黒真珠の様に美しい瞳、精巧に作り上げられた人形のような可愛らしくもどこか色気のあるような顔立ちに加え、背も高くスタイルも抜群、声は小鳥の様に可愛らしく、果ては勉強も学年一位とまで来ている。

 そんなあまりの完璧さ故に周囲の人間は

『神童』『完璧超人』『学園の女神』

 とか言うふざけたあだ名まで付けた。そんな物語にしか出てこない様な美少女が俺の家族である妹、榊夕菜。そしてそんな俺はくどくなる程完璧な妹とは似ても似つかず、黒髪黒目の容姿、身体能力、頭脳等全てにおいて妹に劣る情けない兄、それがこの俺、榊勇治だった。


「兄さん、起きて下さい。もう朝ですよ?」


 朝、毎日聴き慣れた声が何度も聞こえ、更に二つの柔らかな掌の感触を感じる、そしてやさしく身体を揺らされた事で俺は目を覚ました。いつも甲斐甲斐しく起こしてくれる夕菜に俺は感謝した。

毎朝俺を起こす事と朝食の準備は、いつも夕菜が担当していた。当然の如く家事も完璧に出来る妹を見て、俺はいつも有難いと思うと同時に、こんな駄目な兄にこれ程尽くしてくれる事への罪悪感、そして家事を全て任せてしまっている事への後ろめたさを俺は感じていた。

少し前、その罪悪感に負け少しでも妹に貢献すべく、俺が家事を請け負おうと夕菜に提案した事があったが、いつも夕菜はそんな俺の発言に対し、


「兄さんが家事なんてする必要はありません! 兄さんに苦労を掛けるなんて恐ろしい事を、この私にやらせるつもりなのですか!?」


 と、今までの夕菜では考えられない様な形相へと豹変し、絶叫を上げたかの様な金切り声で怒鳴り散らしたのだ。この豹変と絶叫にすっかり怖気ついてしまった俺は、それ以来家事等は全部夕菜に投げっぱなしになってしまった。

 生活で大変な事や面倒事を全て押し付けてしまった様で正直良心が辛かったし、兄として最低だなと思ってしまった。普通ならやると決めたら夕菜の言葉と豹変になんて撥ね退け、なにがなんでも家事をやればいいのだし、兄としての威厳を保つならそれ位無視しなければならなかったのかもしれない。だけど俺には出来なかった。

怖かったのだ。

 あの時、たかが十三歳の少女なのに。自分の一歳下の妹だというのに。あの剣幕と豹変に。激怒した時に感じた怖気のするオーラに。眼を剥いたあの形相に。そしてなによりあのコールタールの様にどす黒く濁り切った瞳が、あの憤怒を浮かべた表情が、あの時の妹の全てがどうしようもなく俺の心にはっきりと刻み込まれ、本当に情けないのだが俺は恐怖に怯え、妹に逆らえなくなってしまった。


「ご馳走様でした」

「はい、ご馳走様でした」


 夕菜が用意してくれた朝食を二人で食べ終わり、学校へ行く用意のため俺達は隣同士の自室へと戻っていった。

俺達の両親は俺が十歳の時、夕菜が八歳の時に事故で死んでしまった。

なんでも二人で山に出かけた時、落石事故に遭い、命を落とした。急な両親の事故死で俺達は両親を失ったが、事故の後親戚の伯父夫婦が親代わりになってくれたお陰で俺達はなんとか学校にもいけるようになった。今はあの夫婦と離れているものの、親戚の送ってくれている仕送りで多くを賄っている為、二人が暮らすには十分だったりする。


「兄さーん、まだですかー? 私はもう準備出来ましたよー?」

「分かったー! すぐ行く!」


 こうして俺の準備が終わるまで、たとえ自分の準備が終わったとしても俺を待ってくれる、例え先に行けと念押ししても夕菜は頑固として先に行く事は無かった。結果、俺は夕菜の説得を諦めてしまった。その結果が玄関先で何時までも俺を待つ夕菜だ。こうして夕菜と俺は何時も一緒に家を出る様になり、今頃の兄妹では珍しく、二人仲良く学校に行っている。それがいつもの我が家の見慣れた光景だった。


「今日も一日頑張りましょうね兄さん」


 そういって夕菜は俺に語りかけた。妹の言葉に返事をしようと思っていた

が、妹はまるで俺をからかう様に幸せそうに微笑みながら俺の手に絡み付いて身体を枝垂れ掛けてきた。

 背丈が違う為、夕菜の身体が俺の腕に密着する。俺の腕に、夕菜の胸と身体の柔らかく弾力のある感触と暖かさが嫌でも伝わってきたのを感じ、俺の顔が恥ずかしさと興奮ではっきりと赤くなるのを実感した。

 そんな俺の様子を見て、夕菜は嬉しそうに微笑んでいた。こんな事はいけない、兄妹として間違っている、早く離れなければならない、そんな思いが湧いてくるのを感じ、俺は夕菜に止める様に言った。


「あ、あんまり引っ付かないでくれ・・・・・・」

「? どうしました兄さん?」

「ど、どうしましたって、身体がくっ付いて・・・・・・、その・・・・・・」

「その・・・・・・?」

「な、何でもいいから引っ付かないでくれ! そういった事は彼氏にしろ!」


 そう言うと夕菜は心から残念そうな顔をして、俺の腕に絡み付くのを止めた。こういう光景は俺にとって日常茶飯事だった。世間一般的には多分間違っているに違いない。

 こういった過度のスキンシップは毎日の様に夕菜の方が積極的にやってくるので、そのつど夕菜に注意するのと夕菜のスキンシップを味わってしまい、悲しくも興奮してしまった心を鎮めるのは大変だった。

夕菜はブラコンである。それは完璧超人である夕菜の唯一といっていい欠点だった。

 腕に身体を密着させる事以外にも、一緒に寝ようと迫ってきたりした事もあったし、時には俺が風呂に入っている時に身体を隠さず風呂に乱入してきた時もあった。

 小さい頃は何も注意するだけで特に何も感じる事は無かったので問題は無かったが、今は昔と違い、夕菜も随分と色っぽくなったため、情けないが興奮することも多くなってきていたりする。

正直に言うと、実は少し悲しいのだ。

こんなお前と釣り合わない情けない兄に、こんな事をするよりも自分の好きな人にやってほしいというのが俺の本音なのだ。俺なんかに付きっ切りにならず、俺よりもっと立派で才能があるお前という人間に相応しい男や友人が居る筈だ。

 俺なんか駄目な男に、駄目な兄に構わず、もっと素晴らしい人と出会ってくれと日々願わずにはいられなかった。

 そう考えている内に、俺の気が滅入っていた事に気が付いたのだろう。夕菜は俺の顔を除きこんでいた。


「どうしたんですか? 今日は朝から暗い顔していますよ?」

「あ、ああ・・・・・・。悪い、心配、掛けちまったな・・・・・・・」

「何があったかは知りませんが、兄さんには暗い顔より、明るい顔の方が似合いますよ?」

「……ありがとう」

「ふふっ、どういたしまして」


 そう言って夕菜は可愛らしい満面の笑みを俺に向けていた。

 ……今日こそ言おう、妹のために、愛する唯一の家族の為に。

 多分妹は悲しむかもしれない、周囲の人間は家族として最低の男だと言うに違いない。だが妹の為を思えばこれが最良の考えに違いないんだ。


「ゆ、夕菜、実は、俺……」

「……兄さん、少し急ぎましょう。間に合わなくなるかもしれませんから」

「……そうだな」


 そう夕菜に声を掛けられて、俺は会話を中断し、夕菜と共にややスピードを上げて学校へ向かった。

 ……今日もまた言いそびれた、一体これで言いそびれるのは何度目だろうか、まだ俺は覚悟が決まってないのだろうか。そろそろ覚悟を決めなければダラダラと先延ばしになり、この先ずっと言えなくなるに違いない。今日こそ夕菜にはっきりと伝えよう。


 俺がこの家を離れることを。



◆ ◆ ◆



「はぁ……」


 今日も憂鬱な学校生活が終わり、俺は一人とぼとぼ家への帰り道を俯きながら歩いていた。俺が学校行く事に苦痛になってしまったのは何時からだろうか。

 俺が学校が苦痛になってしまった原因は、簡単に言えば俺と夕菜の能力の圧倒的な差だった。

 容姿も能力も絶対的な差のある俺達兄妹は、学校に着いてから終わるまで、只管夕菜と比較され続けていた。勉強も運動も姿形もなにもかも、夕菜と比べられ比較され続ける。

 例えば俺が陸上で自己記録ベストを出せば、夕菜はその俺の記録を圧倒的に上回った。全国模試で俺が必死に勉強して平均点以上を取ったとしたら、夕菜は必死に勉強しなくとも満点の百点を取ってしまう。夕菜はあらゆる全てにおいて俺を遥かに上回ってしまうそんな非凡な才覚の持ち主だった。

 周囲からは


「夕菜の兄なのに何で似ていないの?」

「妹の夕菜は出来るのに何故兄のお前が出来ないんだ」

「ホントは兄妹じゃないんじゃないの?」

「夕菜ちゃんと兄妹なんて嘘付くんじゃねーよ」

「なんでお前みたいな奴と夕菜ちゃんが一緒にいるんだ」


 とひそひそ囁かれる事が多い。夕菜が学校でも他の奴と関わらず、俺にべったりとしている事も、周囲の奴が俺への陰口を叩く原因だったのかもしれない。

 だがもう昔から何度も周りから言われ慣れてしまった言葉だった。勉強を頑張っても、運動で活躍しようとも、何をしても結局は夕菜と比較されてしまう。もちろん全員が全員そんな事を言うわけでは無いが、やっぱり少なからず何処かで聞こえないように囁かれていた。

 その事が余計に辛かった。思わず夕菜に八つ当たりしてしまいそうになった事もある。しかし夕菜は唯一の肉親なんだ。八つ当たりなんて最低な事をしてしまったら人として、家族として、完全に終わってしまう。そう思い込む事で、俺はどうにか夕菜に八つ当たりする事を耐えていた。

 何故夕菜が俺みたいな奴を甲斐甲斐しく世話し、あんな過度なスキンシップをしてくるのかは全く分からない。早く俺なんて見捨てて他の奴と付き合えば良いのに、早く俺から離れてしまえばもっと良い人生を歩めるかもしれないのに。俺はそう思わずにいられなかった。

 もしかしたら周囲の人間が夕菜と俺を比較するのを止めてほしかったのかもしれない。只自身の事を守るための体の良い言い訳だったのかもしれない。だが夕菜が俺と離れれば幸せになるんだろう。その気持ちは唯一はっきりと自覚していた。


「兄さん、お帰りなさい。もう夕飯作ってますよ」


 鬱な思いをしながら帰宅した俺を玄関で待っていたのは可愛らしいフリルのついた白いエプロンを身に纏い、可愛らしい満面の笑みを浮かべた夕菜だった。

 エプロンの下が学生服ということはおそらく学校が終わって直行で帰宅したのだろう。そう思うともっと他の友達と遊びに行ったり部活動をすればいいのに、俺なんかの為にお前の貴重な青春を無駄に費やさなくても良いのにと考え暗い気分になる。今度こそ、今朝決断した事を、早く伝えなくては……。


「兄さん、今日の夕飯は肉じゃがですから」

「ああ、それと夕菜・・・・・・夕飯が終わったら、大事な話があるんだ」

「? 分かりました」


 小首を傾げながら答えた夕菜は、料理に再び取り掛かった。

 今日こそ、今日こそ伝えなくては・・・・・・そう決断するも俺の心には、言いようの無い不安が残っていた。


『ご馳走様でした』


 そう言って二人一緒に夕飯を食べ終わった。


「で、兄さん。話って何でしょうか?」


 そう不思議そうに夕菜は尋ねた。


「あ、ああ。話っていうのは・・・・・・」


 夕菜に話を切り出そうとして。俺は急に言葉に詰まってしまった。何故か喉が異様な程乾きだした。もしかしたら話を切り出す事が恐ろしかったのかもしれない。あの時の異様な夕菜の形相が脳裏をよぎる。だが伝えなければならない。

 これは妹の為だ。俺なんかに構い続けて、夕菜の貴重な人生を無駄に使わせちゃいけないんだ。そう考えた俺は乾く喉から声を絞り出した。


「俺、実はこの家を出て、一人暮らしをしようと思う」

「……え?」

「だから出て行くんだ。この家をさ」

「そ、そんな急にいわれても……」

「前から、決めていた。俺みたいな何も出来ない男とお前の様な天才が、一緒に居る事は無いだろ?

 俺自身、自分勝手で身勝手な、最低な考えだと思ってる。兄としても家族としても最低な男だと思ってもらって構わないさ。でも、お前はもっと他の人間と関わるべきだ! 俺なんかの為にお前の貴重な青春を無駄に使うべきじゃないだろ!」

「……」

「もっと青春って奴を楽しんでくれよ! クラブに入って友達と街で遊んで、カッコいい男と付き合えよ! このままお前は貴重な青春を、俺なんかの為に無駄にする気かよ!?」

「……兄さん、言いたい事は、それだけですか?」


 そう夕菜が冷たい言葉を発し、沈黙が流れた。俺の頬から冷や汗が流れた。あの時みたいに恐ろしい剣幕で怒らないか。不安だった。一瞬とも永遠かもしれない沈黙の後、ゆっくりと夕菜が口を開いた。


「……なんで、私に言ってくれないんですか? そんな大事な事」


俺にとって思ってもみなかった言葉が夕菜の口から飛び出した。


「……そんな大事な事、独りで勝手に決めないで下さいよ! 私達は家族でしょう!? 何か大変な事があったと思ってビックリするじゃないですか! こんな重大な事、私にもちゃんと話してくださいよ、不安になるでしょう? 心配するでしょう? 話してくれなかったら、何の為に家族が居るのか、分からないじゃないですか……!」


 そういって夕菜は感情的になり、涙目になりながら怒り出した。 

 思ってもみない展開に、おもわず拍子抜けしてしまった。

 てっきり烈火の如く怒り狂うと思っていたが、そんな様子は一切無かったのだ。声もあのオーラも全く無い。目をそっと見てもいつもと全く変わりなかったのだ。そんな様子を見て、俺は思わず夕菜に自分でも気が付かない内に質問してしまった。


「怒らない……のか?」


 そんな俺の質問に、夕菜は涙声で不思議そうに聞き返した。


「怒るって、どういうことですか?」

「ほ、ほら、昔俺が家事を変わるって聞いた時に、お前……」

「……ああ、あの事ですか。あの頃は小さかったので、でちょっと意地になっちゃったんですよ。自分の居場所が無くなっちゃうと思って。あの後冷静になった時反省したんですが誤りづらくて・・・・・・」


 そう夕菜は顔を赤らめながら、恥ずかしそうに答えた。


「そ、そうだったのか・・・・・・」


 ……なんだ、俺の勘違いだったのか。今まで不安になってたのが馬鹿らしく思えてきた。

 俺は気が付くと緊張も喉の乾きも失せ、大きく安堵していた。

 なんだ……、思い違いだったんだ。ならあの時さっさと誤っていれば良かった。そう思ってると夕菜から質問が飛んできた。


「で、何時から引っ越そうと考えてたんですか?」

「えーっと……、一年近く前から」

「……お金は? 家は決まったんですか?」

「家はもう決まってる。お金はバイトで貯めた金と親戚の伯母さんと伯父さんに必死に頼み込んで何とか」

「……はぁ、分かりましたよ。もう其処まで決まってるんだったら認めない訳にはいかないじゃないですか」

「あ、有難う!」

「じゃあ、明日はお祝いですね。腕振るいますよ」


 夕菜にあの時の様な豹変した姿は欠片も見えない。

 どうやら夕菜は、俺が思っていた以上に立派になっていたらしい。


「でも、兄さんと離れるのは少し悲しいですけどね」


 そういって少し寂しそうに俯く夕菜を見て、俺はすぐ思い出した。

 ……忘れていた、夕菜はブラコンであり、同時に唯一の肉親でもあったのだ。俺と離れる事がどれ程悲しい事か、家族である俺ならすぐ分かるはずなのに。


「ご、ごめん。お前も悲しいよな。俺が離れて・・・・・・」

「別に、気にはしていません。兄さんが私と離れたがっているって、薄々感づいていましたから」

「そ、そうだったのか」

「ああ、でも気にしないで下さい。私は大丈夫ですから」

「……そうか」


 こうして俺達の話は終わった。全て俺の思い違いだった、これで夕菜も幸せになれる、そして俺も夕菜の呪縛から解放されるのだと。俺はこの時愚かにも、そう勝手に自己完結していたのだった。



◆ ◆ ◆



 そして俺は数ヵ月後、今まで住んでいた我が家を離れ、引っ越すこととなった。この日を境に夕菜のスキンシップは急に大人しくなっていった。

別れの日、とうとう引っ越す時間になり、荷造りした荷物をトラックに運び込んだ後、突然夕菜は俺の胸で堰が切れたように泣きだしてしまったが、しばらくして泣き止み、自分に暇が出来たらすぐに俺の家に遊びに来ると何度も話していた。


「おじゃましますね、兄さん」

「おう、久しぶりだな、夕菜」

「うん、半年振りですね、兄さんの家に来るのは」

「そういえばその位か、まあゆっくりしていけよ」


 二年後、夕菜もすっかり大学生となり、約束通り俺の家によく遊びにくるようになった。

 前から綺麗だった夕菜は容姿もスタイルも才能も何もかも、あの時よりも更に高まり、より素晴らしい完璧な女性になっていた。ブラコン具合は相変わらずだったが、今では俺と離れても暗くはなっていなかった様で、今では大学で勉学に励み、周囲に相変わらずの神童ぶりを見せつけながら、大学の友人も多く作っているらしい。

 なんでも周囲から引っ切り無しに声が掛かり、少し前にはモデルのスカウトも来たと、笑い話の様に話していた。そんな立派になった夕菜と楽しく話していると、少し腹が減ってしまった。その事に気が付いたのか、夕菜は用意していたらしいお菓子を差し出した。


「兄さん、実はお菓子作ってきたんですが、食べませんか?」

「おっ、いいのか?」

「ええ。沢山作ってきたので、いっぱい食べてくださいね?」


 久々に夕菜の美味い料理が食えるという事で、俺は夢中になって俺は夕菜の作ったお菓子を食べ続けた。


「ふぅ、ご馳走様。美味しかったよ」

「はい、ご馳走様です」

 そう言って夕菜は微笑んだ。夕菜のお菓子は結構な量があったためか、結構な満腹感を得ることが出来た。


「ふふっ、そろそろでしょうか」

「ん、何か言ったか?」

「いえ、何も。」


 何かおかしな事を言うなと思っていたその時、突如強く急な眠気が襲ってきた。


「あ、あれ、ね、眠い……」

「お休みなさい、兄さん」


 今何が起きているのかも理解出来ず、俺は夕菜のどこか喜びに満ちた言葉を聴きながら、奈落に堕ちる様に意識を失ってしまった。



◆ ◆ ◆



「ん、お、俺は……」

 強い眠気と倦怠感に苛まれながら、俺は目を覚ました。

 あの時、急な眠気が襲った後に、何が起きたかは分からないが、とりあえず周りを確かめなければならないと考え、未だ脳と意識が覚醒しきっていない状態ではあるが今自分がどうなっているのかを確認しようとし、すぐに違和感に気が付いた。

 明かりが全く無いためすぐに回りを認識出来ていないが、何故か体が動かなかった。正確に言えば手足が自由に動かない。枷を嵌められているようだ。それに何かベットの様な物に寝かせられている事に気が付く。何が何やら訳が分からないし、自分が状況が理解出来ない。どうにかここから抜け出さなければならないと考え、まずどうやってこの暗闇から抜け出そうと考えた瞬間、暗く見えない向こう側から心地よく美しい、そしていつも聞きなれた声が聞こえた。


「あら兄さん、もう起きたんですか? 予定では起きるのはもうちょっと後だったんですが」


 そう声が聞こえたと同時に暗かった空間に明かりが付いた。仄かな優しい光だった。目に飛び込んだのは見たことも無いような部屋であった。何処かのマンションかアパートの一室であるのには間違いないが、窓にはカーテンがかかり外の様子は全く分からなかった。俺はどうしようもない困惑と共に自分の疑問を目の前の夕菜にぶつけた。


「は……? 予定? い、悪戯は止めろよ…… 冗談が過ぎるぞ、速くこの手錠を……」

「煩いですよ。これも全部兄さんが悪いんですから……、自業自得ですよ」


 そういって、夕菜は酷く冷たく冷徹な声で俺の言葉を遮った。夕菜がこれ程冷たい声を出せるなんて知らなかった。

 自業自得? ……確かに迷惑は今までいろいろかけてきたと思っているが、一体何がいけなかったというのか。そうやって自分の自業自得という原因を色々考えていたが、考えの定まらない俺に業が煮えたのであろうか、その答えは夕菜が答えた。


「もう! まだ分からないんですか!? 原因は兄さんが家を出るなんていったからですよ!」


 そう可愛らしい膨れっ面をしながら、いじけた声で俺に話しかけた。

 今まで夕菜と一緒に暮らしている俺ではあるが、今回ばかりは全く実の妹の考えている事が分からなかった。しかしこの窓の塞がれた何処かも分からない部屋に入ってきた夕菜は、禍々しさまで感じる異様なオーラを纏っていた。

 瞳もあの美しい黒真珠の様な美しい瞳ではなく、コールタールの様にドロドロと濁り切った無限に広がる闇の様な、そんな瞳であった。

 それはまるで、あの時の夕菜の姿を見ているかのようだった。いやもしかしたらあの時よりも更に恐ろしいかもしれない。

 自分の思考がどんどん深く、酷く絡まり続ける中で、夕菜はそんな俺の思考を無視するかのごとく、顔を赤らめ、上機嫌で狂った様に信じられない様な言葉を紡いだ。


「兄さん、愛しています。心の底から」


 深く考えていた俺の思考が一瞬で止まった。

 ワケガワカラナイ。

 コイツハナニヲイッテイル?


「・・・・・・な、何を言って」

「愛していますよ。貴方が私を心配する姿も、貴方が私の幸せを望んでいた事も、貴方が他の人間を見返すために努力する姿も、貴方が私の影から逃れようともがく姿も、貴方が自分の才能の無さに絶望する姿も、兄さんの愛おしさも理解出来ないあの周囲の屑共から吐き出された言葉に打ちのめされていた姿も何もかも、全部全部知っていました。全部全部愛していました。

 ……ですけど、アレだけは本当に怒りそうになりました。

 私の幸せの為に離れたい?

 あの兄さんの価値すら理解出来なかった塵と一緒になれ?

 何を寝ぼけた事言っているんですか。私は兄さんさえいればいいのに……、兄さんさえ傍にいれば何もかも幸せなのに……、何故兄さんは私の幸せを願いながらその幸せを壊そうとするんですか……?

 私の幸せは、兄さんと共に永遠に愛し合いながら過ごす事なのに……」

「だから……、それが理解出来ないんだ! そもそも俺達は兄妹なんだぞ……!? こんなの常識からしておかしいだろ! そもそも何時からこんな事に!?」


 俺は叫んだ。体を震わせ、今の現実を否定するかの如く、声が枯れるほど、悲鳴を挙げる様に絶叫していたのかもしれない。だが妹は、夕菜は、そんな俺の悲鳴を理解していないかの様にドロドロとした暗く光の無い瞳を覗かせてあっけらかんと言葉を発した。


「さあ? よく憶えてませんね」

「お、憶えてないって…… そんな馬鹿な事が……」


 そう言って夕菜は、喜びに満ちた歪んだ笑みを浮かべていた。


「だから憶えてないんですよ。

 ふと気が付いたらそう思っていましたから。私が物心ついた時から、私の心には兄さんと私の二人しか存在していませんでしたから。

 他の男も女も父も母も伯父も伯母も、みんなみんな興味の一つすら湧きませんでした。興味どころか関わる事すら苦痛でした。周囲の人間の声や教師の話しかける言葉も賞賛する声も、みんな不快な雑音だったんですよ? 兄さん、貴方を除いて」

「お、俺……?」

「そうです。貴方の笑顔が、褒める言葉が、貴方と共に居る事だけが、貴方という存在そのものが私にとっての全てでした。幸福でした。貴方が昔褒めてくれたから、可愛くなれと、強くなれといったから今の私がいるんです。

正直他の塵共と一緒にいる事自体他の塵共と接触するだけでも不愉快と苦痛の一言でしたが、兄さんが一緒に居て、話して、共に生活していたあの瞬間だけが、この不愉快で苦痛でしかなかった私の心を、あの日々を癒してくれたんです。

 貴方の存在だけが私を幸せにしてくれていたのに、それなのに私と離れる? 私の幸せの為に? それだったら一緒に居てくださいよ……。

この私の心の苦痛と不快な思いを消せるのは兄さんだけしか居ないのに……。

 私を幸せにしたいと思うなら全てを捨てて、他の塵共の事なんて何もかも忘れ去って、私と永遠に居てくださいよ……。

 ずっとずっと永遠に此処で何もかも忘れて……、永遠に愛し合いましょう?」


 理解出来ない、妹なのに、唯一の肉親なのに、全く気持ちを理解することが出来ない。

 狂人だった。

 言葉をすらすらと並べる妹が、今は理解の出来ない狂人としか思えなかった。


「……狂ってる。狂ってるよお前」

「ええ、私はもう遥か昔に狂っていますよ、兄さんへの愛で。」


 情けない事ではあるが、十年以上共に暮らしていた家族の事を全く理解出来なかった。理解する事すら脳が、心が、体が拒否していた。

 身体がどうしようもなく震えるのを俺はもう止められなかった。俺は愛する家族に、妹に、再び恐怖を抱いていた。そんな俺の姿を見て、夕菜は光の無い瞳を輝かせ、顔を快楽で恍惚しながらうっとりとさせていた。


「ああ、震えてる・・・・・・、兄さんが私に怯えてる・・・・・・、ふふっ、可愛いですよ兄さん・・・・・・。」

「ヒィッ!? く、来るなぁ! 来るんじゃなねぇっ!?」


 夕菜の細く綺麗な指が、俺の肌をいとおしく撫で、這いずり回った瞬間、俺は恐怖の余り手足を枷で拘束されてる事も忘れて、必死に夕菜から逃げようとしていた。

 ガチャガチャと乱暴に枷が揺れ、手足が痛み、手首から血が滲むのも忘れ、涙や鼻水を垂れ流しながら、ただ只管に夕菜から逃げようとした。だが枷で縛られている為か全く逃げる事が出来ない。しかもこの行為は逆に夕菜の狂気と加虐心を燃え上がらせる結果にしかならなかった。


「あはは! そんな事をしても逃げられませんよ。ああ、ガタガタ震えて青ざめて、おまけに涙まで流して……。

 やっぱり兄さんは可愛くて愛おしいです……。

 さあっ、今日から永遠に此処で暮らしましょうね……。

 食べ物も飲み水も心配ありません、兄さんは何も心配しなくても大丈夫ですからね。全部全部私がお世話しますから、全てこの私に任せて何もかも忘れ去って、私だけを見てくださいね。兄さんには何の苦労も心配もかけませんから」


 肉親だろうが何だろうが関係なく、只逃げたかった。この妹から、俺の理解の範疇を超えたこの狂人から、何もかも投げ出して逃げ出したかった。だが手足に枷を嵌められ動けない俺に、そんな抵抗は無意味に等しかった。

 俺に選択肢は存在しないのだろう、例え隙を見て拘束を解いて抜け出しても、何処かも分からない様な場所では全くの無意味、ましてや夕菜は身体能力も知恵も全てにおいて俺を上回っている様なバケモノだ。すぐに見つかって捕まり、より頑強な拘束を施されるに違いない、詰んでいる。

 ……もう俺は、この愛する家族でもあり狂人でもある夕菜と、死ぬまで一緒に居る事になるのだろう。


「……は、ははは、ははははははは! ははははははははははははははは!!」


 その結論に至った俺は、何故か笑いと涙が止まらなかった。それはこれからの人生への絶望なのか、愛する唯一の家族である夕菜と共に生活できる歓喜なのか、俺には判断できなかった。

 もしかしたら俺も妹と同じく、来るってしまったのかもしれない。夕菜は、俺が狂った様に笑う姿を見て、自らと永遠に暮らせる事に喜んでいるのだと解釈したらしい。


「そんなに喜んで……、嬉しいです兄さん……。やっぱり私と一緒に暮らせて嬉しかったんですね兄さん。

 さあ、これから一緒に暮らしましょう。安心してください。ここには兄さんを馬鹿にする様な屑共はいませんし、不安なんて物も存在しない楽園ですよ。一応あの余計な真似をしたあの馬鹿夫婦も私達二人を邪魔しない様にきっちり消してきましたから、もう私達の邪魔をする者も存在しません。

 どうか喜んでください、ここに居るのは貴方の素晴らしさを真に理解出来る存在である私だけです。さあ、まず何をしましょうか? 食事ですか? お風呂ですか? それとも……」


 その言葉と共に俺の記憶と意識はここで消えうせた。

 後の事は憶えていない。だが、俺が最後に憶えていたのは、衣服のような物が床に落ちる音。俺の身体に抱きついてきた夕菜の歓喜を浮かべた心の底から幸せそうな歓喜の笑みと、纏わりついて身体を包み込む柔らかい身体の暖かさ。俺の口に何か柔らかいものが触れた感触。そしてこの悪夢から早く目覚めてほしい、あの何時もの日常に戻って欲しいという、俺の切なる願いと涙だけだった。


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