女々しくて2
僕、桜井輝は五歳の時からピアノを習っている。いや、「習っている」というのは正しくない。正確には「習っていた」が正しい。クラシック好きな父親の影響からクラシックを小さいころから聞いて育った僕は家にあった大きなピアノが小さいころからおもちゃ代わりだった。楽しい時も悲しい時も、常にピアノと一緒。ピアノ教室の行きかえりの車の中ですら、クラシックが流れていた。家にある子供用の文字の大きくてやたら挿絵ばっかりな伝記は音楽家ばかり。テレビ、ラジオ、映画、その他全ての娯楽よりも僕はピアノを優先した。毎日朝晩の自主練。放課後のレッスン。
まさにピアノ漬けの日々だった。しかし、苦痛ではなかった。好きなことをやって両親に褒められるのに、嫌いになるはずがない。
小学校の卒業式や合唱大会では常に代表としてピアノを弾いた。みんなの前でピアノを弾く。快感だった。運動は苦手だったが、勉強や歌やピアノは得意だった。特にピアノは練習すればするほど上手くなる。自信と努力を裏切らない。両親もそんな僕をいつもご近所の知り合いに自慢していた。僕も悪くない気分だった。
ピアノ漬けになりながらも、授業は割と真面目に受けていたので成績は良かった。その代り運動をしなかったので、背はいつまでも低いままだった。
しかし真面目ながらも、友達と接するときは努めて明るくしていたので自然と周りには親しい友人がたくさんいた。
小5のころ僕は県のコンクールで上位入賞を果たした。
それからは最後のコンクールまで上位を取り続けた。
中学生のころ、僕は一人の女の子に恋をした。その子のふんわりした髪の毛、真っ白な肌、大きな目、微笑うときゅっとアヒルのようになる可愛らしい口。まさに学園のマドンナだった。マドンナという称号がふさわしい天使のような女の子だった。その人気は留まるところを知らず、隣の学校にすらファンクラブができるほどだった。
そのマドンナに僕は恋をした。一年の冬だった。
切っ掛けはわからない。ただただ、好きだった。寝ても覚めても彼女のことばかり考えていた。こんなのはピアノに出会って以来初めてのことだった。僕は初めてピアノよりも大事なものを持った。
しかし、それはまだ愛ではなく、独りよがりな恋だった。
しかも僕は愚かなことに、コンクールを見に来てくれるよう、彼女を誘うことにした。
中二のとき、コンクールの前日、僕は彼女が一人になった隙に、身の程知らずにもコンクールをぜひ見に来てくれないか、と彼女を誘った。彼女は驚いた顔をした後
「うれしい。絶対見に行くね」
と笑顔で言った。
当日彼女は来なかった。
僕は、彼女が何か大事な用事が入ったからこれなかったんだ、と思った。そして、無理に誘ったのを謝ろうと思った。
その次の日の月曜日。昼休みの時であった。僕は偶然彼女とその取り巻きの会話を聞いてしまったんだ。
三階の手洗い場で偶然鉢合わせしそうになった時、気まずく思った僕はとっさに曲がり角に隠れた。 そして彼女たちの会話を聞いてしまったんだ。
彼女は言った。
「テルくんにさ、コンサート見に来ないかって誘われたんだけど、メンドーだからすっぽかしちゃった。」
それを聞いて友達が答えた。
「まあいんじゃね?テルくんだし」
「てか、自分のピアノ聞きに来いって、どんだけカッコつけてんだよ」
「たしかに~」
「だいたいその日カレとデートだったっつうの」
「うわあぁ、えげつないねぇ」
「てか、誘われた時に本人に言ってればよかったなあって思ってるんだけど、なんかピアノって女々しいよね」
「まあねえ」
「ちょっとないかも」
「女々しくて~女々しくて~」
「あははははは」
「ところでカレとどこまでいったの?」
「どこって(ごにょごにょ)まで行ったよ」
「ええー」
「きゃー何それくわしくくわしく」
彼女たちは行ってしまった。
女々しい……
僕は、ピアノをやっているから、女々しいらしい。
そしてそれが理由で約束をすっぽかされて、あの子にはカレがいるらしい。
とり残された僕は言い表せないようなもやもやで胸がいっぱいで、何もかもぶっ壊したいけどこのまま何もしたくなくて、彼女たちをとっちめてやりたいけど会うのは気まずいなあと思ったりして、ぐるぐるぐるぐる色々と考えた。
そしてぐるぐるはまとまらず、結局何もできずに、その場に座り込んでとりあえず五分ほど泣いた。
その日は具合が悪いと早退した。
そしてその日からピアノも女の子も苦手になった。
一週間ほどして、僕はゲーセンやカラオケに入り浸るようになった。そんな僕を両親は心配した。相談に乗ると言ってくれたけど、僕は何も話したくなかった。だってあんなに大切だったピアノとあの子が僕から離れて行ってしまったけど、無くなってもそんな僕にかまわず世界はぐるぐる回り続けているし、友だちも今まで通りだったからだ。まわりは何一つ変化なかった。これは恐ろしいことだ。恐ろしいが現実だ。こんなことを言っても両親は僕が頭おかしくなったと思うだけだろう。僕の心は欠けてしまった。
いままでの人生はなんだったのか。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
僕とはいったい誰で、何ができるのか。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
女の子はみんなあんなに無邪気で残酷な生物なんだろうか。
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる
もう何も考えたくない。ぐるぐるも見たくない。
僕はその日から人並みに勉強して、へらへら友達としゃべって、テレビ見て飯食って風呂入ってねる。そんなぼんやり平凡な奴になろうとした。ぼんやりしていればトラウマも、ぐるぐるも見なくて済む。
なるべく何もせず、無気力に、最低限必要なことだけして生きよう。そう決めた。
僕はマシーンになった。感情はあるように見えるが、実はどこか無理をしている。それに気づいてくれた人はいなかった。
そして今年の春。僕はぐるぐるをすべて引きずったまま県立高司商業に入学した
僕は昔のことを思い出しながら自転車置き場に来ていた。
サア早く鉄拳しに行こう。そう思い自転車のカギを出そうとした。
しかし、鍵が見つからない。ポケットにもカバンにもない。チ、と小さく舌打ちした僕はくるりと回れ右をし、教室へ足を進めた。
200メートルも進んだころだろうか。いきなり背の高い男子生徒に肩をガシッと掴まれた。