寝苦しや
「んん……」
スカートのホックが、かけられない。一年前は余裕があったはずなのに。
「大丈夫、大丈夫。落ち着いて、私。……それ!」
騙し騙し、不意に思い切りお腹をへこませると、彼女の体は何とか収まった。
その勢いで、これまた窮屈さを感じながらも、薄手のブラウスに袖を通す。手短に出勤の身支度を済ませると、足早に自宅マンションを出ていく一人の女性。
彼女の名は、“夏美”。都内の広告会社に勤める27歳のOLである。大学を卒業後、就職してからは親元を離れ、単身で暮らしている。約三年間付き合った彼氏とは、生活のすれ違いが原因で今年の一月に別れた。結婚を意識していた相手だけにショックは大きかった。そのことや仕事のストレスなどが重なり、ここ半年で8kgも太ってしまったのである。
外は、雲一つない青空。
朝から強烈な日差しが照り付け、気温がぐんぐん上昇している。
ジリジリジリジリ……
アブラゼミの大合唱が、一際けたたましい。
最寄り駅までは徒歩5分。夏美は歩きながら額に浮かぶ汗をハンカチで拭う。短い距離でも既に身に応える暑さだ。
地下だから涼しいかというと、必ずしもそうとは限らない。駅構内は節電のため薄暗く、空調もフル稼働していなかった。空気は淀み、もわっとしている。温度がさほど高くなくても湿度が高い分、不快感が強まる。
プラットホームで電車を待つ夏美の汗は、全く引いていかない。ハンカチが手離せない。天井の送風口から冷気が出ていることは知っている。その下のゾーンを陣取れば少しは楽になるのだが、丁度そこにいる人を押しのけられるほど彼女は厚かましくない。じっと、我慢するしかなかった。
ほどなくして電車がやってきた。通勤ラッシュの超満員で車内は蒸し風呂のようである。普通に効かせている冷房も実質あまり効果がない。乗車時間は約20分だが、実際はより長く感じる。鮨詰めの電車で身動きが取れなくなった夏美。密着した他人の体温に四方を囲まれる。イライラがつのり、ますます暑くなるという悪い連鎖。会社に到着する頃には一仕事終えたくらい、じっとりと汗ばんでいた。
社内は社内で、節電ムード一色。照明は半分以下の点灯に抑えられている。冷房は28℃設定で、午後1時から3時間しか使ってはいけないルール。しかも部長の裁量次第で全く使用されないこともある。それ以外は、社員各自の努力……クールビズ、団扇、扇子、冷却シート、そして、シェイプアップなどで凌がなければならない。去年も同様の体制が敷かれていたわけだが、今年は体感上とてもしんどくなった。やはりそれは体重増加のせいかもしれないと、汗水を流しつつ夏美は秘かに自戒する。
唯一、社内食堂だけは冷房が心地よい快適な空間である。夏美は、同期入社で同い年の親友“陽菜”と決って二人一緒に社食でランチをとる。
「妙に行儀良く座ってない? また新しいダイエットでも始めたの?」
陽菜は、お淑やかに椅子に腰かける夏美をガラスのテーブル越しにまじまじと見つめて尋ねる。
「えっ!?」
夏美は思わず視線を下に落とした。その目の動きを陽菜は見逃さなかった。
「ははぁ、スカートがきついんでしょ」
「……うん。背筋伸ばさないと、はちきれそう」
照れ笑いする夏美に「ふぅ~ん」と、どこかさめた態度で応じる陽菜。夏美の事情は、陽菜も承知済み。逆に、太ってしまったのは元彼への想いを吹っ切れていないからだと、本人以上に心配しているところがある。
「気持ち切り換えて本気で痩せないと、いつか“ポンちゃん”みたくなっちゃうわよ」
ポンちゃんとは、最近話題沸騰中の女性お笑い芸人である。ぽっこりとつき出たお腹をぽんぽんと叩き、主に恋愛関係の自虐ネタを披露する芸風がうけている。夏美とて過去の恋愛をずるずると引き摺れば縁遠くなることを陽菜は遠回しに忠告したのだ。
「でも、ポンちゃんかわいいよ。痩せすぎの人より好感持てるし」
「あのね、そうじゃなくて」
どうもニュアンスが伝わっていない様子に、陽菜は露骨に頭を掻き毟る。
「ぽっちゃり体型がかわいくてモテるなんてウソ、大ウソ!」
男はやっぱりスマートな女の方が好みなのだと、恋愛経験豊富な陽菜は身振り手振りを交えて力説する。夏美は陽菜の迫力に圧倒されて、テキトーな相槌を打つだけに。しまいには「あ~あ、寝て起きたら一気に痩せてないかなぁ」と、ぼやいてしまった。
「……ま、夏美のルックスとスタイルならまだセーフだけど。とにかく、それ以上太っちゃダメよ」
「はぁ~い」
夏美は変に間延びした返事をして、ヘルシーな豆腐ハンバーグを頬張る。メニュー選びに悪びれた様子はない。
「あ、そうそう。今夜合コンあるけど、私と夏美は絶対参加だから」
「えっ!? 聞いてない……」
「お相手は“そうしょく”系のイケメンよ。つべこべ言わず、ついてきなさい」
夕方、都心はゲリラ豪雨に見舞われた。
夏美の勤務地であるオフィス街は、熱と湿気がこもり、異様に蒸し暑くなる。
仕事を終えた夏美と陽菜は、揃って会社の化粧室でメイクを整え直していた。
「もう、早めに言ってくれたら良かったのに。陽菜のイジワル」
ルージュを塗りつつ、小憎らしい顔を鏡に向ける夏美。
「恋の天使なんて、きまぐれ。いつどこで舞い降りてくるかわかんないから……」
常に臨戦態勢でいなさいと、髪をとかす陽菜は言う。もっともらしい意見に返す言葉が見つからない。夏美は頬を膨らませ、もう一人の自分に不貞腐れた。
「さ、行くわよ」
早くも合コンモードの澄ました顔でメイク道具を片付けた陽菜は、さっさと化粧室を後にする。仕上げのデオドラントスプレーを振りかけていた夏美は「ちょっと待って」と、急いで陽菜の後を追った。
合コン会場は、和風居酒屋の個室だった。陽菜の学生時代の友人一人を合わせて、男女3対3の形となった。
席についた夏美は男性陣を見て陽菜にそっと耳打ちする。
「そうしょく系って、お坊さんのことだったのね」
三人とも坊主頭。中には法衣をまとった人も。“僧職”である。
「夏美、マジメな人が好みでしょ?」
その通り。想像していた草食男子と違っただけ。何だかんだいって、陽菜は私のことを考えてくれている。それがわかるだけに、気分は複雑だ。
もっとも会話は弾み、場は盛り上がった。仏の世界の話や、僧侶あるあるなどが聴けてそれなりに楽しめたりした。連絡先も交換した。……あくまでも、友達として。恋愛関係に発展しそうな相手はいなかった。二次会へ突入しそうなノリもあったが、陽菜が止めた。午後9時30分に、会は早々お開きとなった。
帰りの道中、陽菜が突然「まだまだ修行が足りないわね」と切り出した。
「何の話?」
「あれよ、生臭坊主達のこと」
どうやら、暑がる夏美のたわわな胸元を何度もチラ見していたらしい。
「皆さん、良い人そうだったけど……」
夏美の呑込みの悪さに、陽菜は本日二度目の頭の掻き毟りをする。
「全く、どこ見てたんだか。ほんと、世話が焼ける子だわ」
陽菜は腕を組んで溜息をつく。新しい恋人を真剣に見つけようとしない夏美が歯痒いのである。
駅構内での別れ際。
陽菜は夏美を突然の合コンへ強制参加させたことを謝った。夏美はあっけらかんとして、「気にしてないのに」と笑みを浮かべる。
「こうなったら、あとは本人の問題か……」
聞こえるか聞こえないかの声でそう呟き「じゃあね」と手を振る陽菜を、夏美は笑顔のまま見送った。
その日、床に就いたのは午前0時前。明日は土曜日で仕事は休み。一週間の疲れが出て暑さを感じた夏美は、エアコンをつけて寝ることに。
翌朝、午前6時過ぎ。
寒さで目が覚めた。
エアコンが作動したままになっている。タイマーにするのを忘れていたようだ。
身体を起こすと、悪寒がする。頭が痛い。
エアコンを切り、再び寝ようとしたが無理だった。内側から頭が爆発しそうな痛みで、寝られないのである。却ってベッドで横になる方がつらかった。へなへなと床にしゃがみこみ、何もできずにただ朦朧としていた。
午前10時。数時間前から弱い雨が降っている。
フラフラしながらも夏美は歩いて病院に行った。普段なら7分ほどで着くのに、15分もかかってしまった。
診断は風邪。ひどい頭痛は高熱によるもの。薬を処方してもらい、家で安静にしているよう言われた。
午前11時20分。夏美の携帯電話が鳴る。
陽菜からだ。
一緒にショッピングへ行こうとの誘いだった。しかし、元気のない様子が伝わるとすぐに夏美の体調を気遣う電話へと変わった。「私にできることなら何でも手伝うわよ」とまで言ってくれたが、迷惑をかけたくない夏美は陽菜のヘルプを丁重に断った。
午後になると雨は止み、雲が晴れた。それにつれて気温も上昇していく。
薬を飲んで眠っていた夏美は、喉の渇きを覚えて起きた。閉め切っていた室内は空気が悪くなっていたので窓を開ける。外気を取り入れて、今まで吸っていた空気が黴臭かったことに気付く。
原因は、エアコンらしい。一年前にフィルターの掃除をして以来、手入れを怠ってきた。しかも、それをやってくれたのは元彼だ。彼を思い出すと、快方に向かっていた頭がまたズキズキと痛みだす。やるせない自分が情けなく思えた。
「……ばか」
独り言をエアコンに吐き捨てる。
キッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んだ。味覚がおかしくなっているのだろうか、まるで美味しくない。鉄を舐めたような後味だった。
健康のため、節電のため、そして何よりも精神衛生上、冷房の封印を一人決意する夏美。どうしても我慢できない時は、扇風機を使うことにした。
午後7時10分。テレビをつけると、ニュース番組で熱中症を特集していた。
今日も熱中症で救急搬送された人が全国で数百名。そのうち3名は死亡したとのこと。
高温時の過度な運動の自粛や、こまめな水分補給の徹底について気象予報士が厳めしい顔つきで語る。夏美はそれを当然のことと知りつつも、今の自らの状態に引け目を感じて聞き入っていた。
ニュースに続き、気象情報が始まる。寝苦しそうにしている人物のイラストがモニターに表示され「熱帯夜にも警戒を!」とテロップが流れた。熱中症とは、昼間だけに起きるものではない。就寝時における夜間熱中症にも十分注意してくださいと、アナウンサーも口を揃えて言う。特に体力の衰えている人や不規則な生活習慣になっている人は要注意。また、体の冷やし過ぎで風邪を引かないように……と矢継ぎ早の忠言が飛び出す。テレビの前で体育座りの夏美は自分のことを言われているみたいだった。膝と膝の間に顎を埋め、下唇を上げて苦い表情をした。
午後11時。消灯。
無風の夜である。
夏美は寝室の窓を少し開けていたが、カーテンは少しもそよがない。
暑い。
寝返りを打つ。
暑い。蒸し暑い。
また寝返りを打つ。
「う~ん」
寝相を変えるたびに唸る。背中や顔に汗が滲み出てくる。ベタついて不快である。
眠れない。
確かに眠いけれど、日中寝ていたこともあって、そんなに眠くない。いや、具合が悪いのだから寝なくちゃ。でも、病気の時って思うように寝られない。だからこそ早く眠って治さないと……。
あれこれ考えてしまい、脳が休まらない。暑さに拍車がかかる。
外の灯りが微弱に差し込む闇の中、仰向けで目を開いた。次第に目が慣れてくる。天井があり、エアコンも見える。あれをつければすぐ寝付けそう。でも、ダメ。あれのせいで風邪を引いたから。それに……。
体勢を横向きにして視線を逸らした。扇風機が見える。羽を休め、自らの出番を今か今かと待っているよう。暑いし、まだ熱もあるし。今夜はしょうがないよね。
部屋の照明をつけて、扇風機のスイッチを入れた。風があるだけで随分違う。しばらくの間、年甲斐もなく扇風機の前で「あ~」と声を上げて涼んでしまう。
午前0時15分。再び消灯。
昨夜の二の舞を演じぬよう、2時間のタイマー設定にしたことは勿論、首振りにもしておいた。それでも、寝入るまでには時間がかかった。風の涼感も最初のうちだけ。暑さと寝苦しさが眠りを妨げた。結局、熟睡に至ったのは午前2時過ぎだった。
午前5時40分。起床。
寝起きは最悪。
昨日ほどの頭痛はないが、ひどい倦怠感で何をする気にもなれない。
カーテンがふわりと靡いた。
どこからともなく、線香の臭いが漂ってくる。
夏美の嫌いなニオイであるが、窓を閉める気力すら湧かない。
はたと倒れるように二度寝してしまった。
今日は、たまの日曜日。
ジリジリジリジリ……
ニオイが消えると、アブラゼミが鳴き出した。
目覚まし時計のように、熱い直射日光のように。
虫に曜日など関係ない。
たまらず起きた。窓を閉めたら部屋が暑くなった。扇風機のスイッチを入れてベッドに戻っても、もはや寝られなかった。
その日は、食べ物の買い出し以外は一日中家でゴロゴロと寝て過ごした。
だるさがほとんど取れなかった。
午後11時46分。
「お休みなさい」
良く眠れるように自分への“おまじない”のつもりで夏美はそう言ったのだった。
今夜も、無風である。
予め窓を開けていたところで、室温は下がらない。
暑い。
寝返りを打つ。
暑い。蒸し暑い。
また寝返りを打つ。
「う~ん」
寝相を変えるたびに唸る。背中や顔に汗が滲み出てくる。ベタついて不快である。
眠れない。
明日は仕事で朝が早いからきちんと寝なきゃ。でも、いざ寝ようとすると寝られないのはなぜ?
暑いから?
それとも太ったのがいけないの?
私は寝ちゃいけないの?
……寝かせてよ。
誰でもいいから寝かせてよ。
お願いだから、私をゆっくり寝かせて!
寝苦しさはヒートアップし、やがてやり場のない怒りに変わる。
夏美はベッドの上であられもなく大の字になった。その姿で子供のようにジタバタした。
ギャッハッハッハ……
ウェ~イ……
マンションの外。近所で若者が大声で騒いでいる。
うるさい。
ブワンブワンブワン……
腹の底に響く、エアコン室外機の排気音。
うるさくはない。けど、無性にむしゃくしゃする。
ドスン、ピーピーピー……
自販機で冷た~い飲み物を買った人がいるのだろう。
その清涼感をお裾分けしてほしい。いや、こっちによこしな。
ほんの一瞬でも人格を変えてしまうほど、夏美は寝苦しさに喘いでいた。
既に、我慢も扇風機もへったくれもない。
熱り立って窓を閉めた。
片意地など張る方がおかしいのである。健康や節電のためなら温度を28℃以上に設定してタイマーをかければいいだけ。
エアコンの封印は呆気なく解かれた。
冷房の効果は覿面である。夏美は10分少々で眠りに落ちた。
その後、タイマーが切れて数分経った頃。
午前3時19分。
目を瞑ったまま、はっきりと起きてはいないが、寝入ってもいない状態の時。
ぺた、ぺた……ぺた、ぺた……
玄関の辺りから音がする。人が、裸足で歩き回るような。
ぺた、ぺた……ぺた、ぺた、
湿った音が徐々にこちらへ近付いてくる。
ぺた……ぺた、ぺた、
開けっ放しの寝室のドアの前で音が止まった。
夏美は薄目を開けてそちらを見た。特に変わった様子はない。
気のせいだと思い、目を閉じる。
ぺた、
耳元で聞こえ、びくっとしたその瞬間……
横向きで寝ていた夏美に、重い物体がドサリとのしかかった。
「妙に元気がないわね? まだ本調子じゃないの?」
陽菜は、項垂れて椅子に腰かける夏美をガラスのテーブル越しにまじまじと見つめて尋ねる。
「……うん。それもあるし、昨晩よく寝られなくて」
夏美は口元を手で隠して「ふあぁ~」と生あくびをする。
「ふぅ~ん。ていうか、この土日でちょっと痩せたじゃない」
「そうかも」
「“禍転じて福となす”とか? オジサンみたいなこと言っちゃったりして」
「やだぁ、もぉ、陽菜ったら」
冗談を明るく受け流す余裕が、この時にはまだあった。
次の日。
夏美は社食に姿を見せなかった。陽菜は夏美に何度か電話をかけたが全く繋がらない。メールを送っても返信は来ない。風邪気味だったし、たぶん大事を取って休んだのだろう。当初はそのように思っていた。
しかし――その翌日も、そのまた翌日も、同じ調子だった。こんなことは今までない。何となく嫌な予感がした陽菜は、夏美が属する部署の担当に問い合わせてみた。
金曜日になった。
ランチタイムの社食。
おなじみの席に、夏美はちょこんと座っていた。
ただ、顔面蒼白、髪はボサボサ、ブラウスはだらしなく開けている。
それは、親友でも声をかけづらいほどの身なり。
陽菜は深呼吸をして心を落ち着かせた。
腕をだらりと下げ、足を開いて椅子に腰かける夏美をガラスのテーブル越しにまじまじと見つめて尋ねる。
「……あ、あのさぁ、少し見ない間に、すっかり痩せたわね」
返事はない。
「何か嫌なことでもあったの? 私に相談しないなんて、水臭いじゃない」
「フッ」と小さく鼻で笑う夏美。
「すごく心配したんだからね……ねぇ、聞いてるの!?」
陽菜は手の平でテーブルをトントントンと叩いた。
すると夏美は、乱れた前髪の隙間から充血した目でこちらを睨みつけてくる。
流石の陽菜もカッとなった。
「夏美らしくないね。火曜日の早退はともかく、そのあと二日連続無断欠勤するなんて」
痛いところを衝かれたのか、夏美は両手の平でテーブルをバシンと叩き返した。
「別に私の勝手でしょ。ワタシにはね、“彼”がいるの。彼が!」
ようやく発せられたのは、耳障りな嗄れ声だった。
「彼? どういうこと……」
訳のわからぬことを言い出す夏美の傍へ思わず駆け寄った陽菜。夏美の肩に手を置くと、ブラウスがぐっしょりと濡れている。夏美は陽菜を冷眼で一瞥し、その手を振り払った。ゆっくりと席を立ち、外に出ようとする夏美の手首を、陽菜は後ろから掴む。
「ちょっと、どこ行くの!」
夏美は急度、陽菜の手を振りほどく。その目つきは鋭く、尋常じゃなかった。
陽菜の制止を振り切ると、夏美は一人、陰で不敵な笑みを浮かべた。
午前1時14分。
今年、最も蒸し暑くなった真夜中。
ぺた……ぺた、ぺた、
仄暗い寝室に忍び寄る、あの音。
ぺた、
ベッドの横に、禿げ頭で目が深く落ち窪んだ老齢の男が立っていた。中肉中背の体つきに作務衣を着ており、素足である。寝苦しさでもがく夏美の姿をひたすらジーっと眺めている。
しばらくして、仰向けに寝返りを打った途端……
男は突如、目にも留まらぬ速さで無防備な夏美の上に覆い被さった。
抵抗する間も与えず抑えつけ、しなやかな身体へ腕を回すと、締め付けるようにきつく抱いた。
ギュウギュウと、柔肌を潰さんほどに。
バキバキと、骨を砕かんほどに。
男は無言で夏美を抱き締め続ける。
「ううっ……」
夏美は後頭部をぐいと掴まれ、男の腕や肩に口が埋もれて声が出せない。呼吸すらままならない。相手を退けようにも、凄まじい力と重さ。か弱い夏美には全く歯が立たない。それでも必死に足掻いていると、男と接触している部分に急激な冷えを感じた。
男が氷の塊のように冷たくなっているのだ。
まるで、火照った身体に氷嚢を押し当てられているよう。
なぜだか、
気持ち良くもある。
しかし、快感など刹那的。
「あうっ……うぐっ」
幾許もなく、夏美は息ができずに失神してしまった。
けれども
その顔は、恍惚としていた。
がくんと横たわる若い女を尻目に、老夫はむんずと起き上がる。
ぺた、ぺた……ぺた、ぺた……
表情一つ変えずその場を立ち去ると、
悠々と玄関の闇へ消えていくのだった。
寝苦し夜
ああ、寝苦しや
寝苦し爺