第五章 いま解き放つ
私、最近おかしい 〜絵里六〜
「健ちゃん、か」
速水君との再会は、最悪の形から始まった。
私の中で最低男からスタートした彼は、長い間、ただのお隣の男の子という位置だった。
亜里沙との一件も、妹との約束を破った男として腹が立ったのだと思っていたけど、最近それが違っていたことに気が付いた。
それは、ある日見た夢がきっかけだった。保育園児の私が、速水君と遊んでいる夢だ。
夢の中では速水君のことを健ちゃんと呼んでいた。保育園、幼稚園で一緒だった彼とは、よくお互いの家で遊んだし、彼のことが好きだった。幼心に結婚の約束もした。
すっかり忘れていた、過去の出来事。
だが、それはきっかけに過ぎない。
結婚の約束をした幼い日の彼と、最低男にリセットされた後に見てきた彼とは違う。彼のことを考える時間が多くなり、それは確実に好意へと傾いていた。
亜里沙から花火大会に誘われたと聞いたときに感じた、もやもやとした感覚。あれは亜里沙が、速水君を選んだことに対する悔しさではなくて、一種のヤキモチに似た感覚だったのだと、今なら思える。
花火会場で、速水君の彼女に会ったときもそうだ。
亜里沙との約束を破ったのだと推測したときから、彼女がいるのではないかという予想を無意識のうちにして、それが当たってしまい落胆していたのだ。
ずっと感じていた憂鬱な気分も、原因が分かってしまえば簡単だ。この思いを伝えるには、どうしたら良いのか。
「そうだ。文化祭に来てもらおう」
姫百合学園の文化祭に来るにはチケットがいるんだけど、父兄以外の人達が手に入れるためには、姫百合の生徒から貰わなくてはならないの。
こんど会ったときに渡そう。もうすぐだし、明日にでも会えないかな。
次の日の放課後、夜の七時まで続いた部活を終えて校門を出ると、佐武高校の校門 から速水君が出てきた。思ったことがすぐに現実になるなんて、二人は赤い糸で結ばれているのかも。
「綾瀬。いま帰りか」
「え、ええ」
辺りはすでに暗くなっている。私を見つけた速水君は、期待通りの言葉を掛けてくれた。
「夜道に女一人だと危ないぜ。送っていくよ」
「そうね。お願いするわ」
「え?」
私の意外な返答に戸惑ったのか、速水君の足が止まった。今までの私の言動とは、それほど違って聞こえたのだろう。
「どうしたの?置いていくわよ。送ってくれるんじゃないの?」
「お、おう」
先に歩き始めた私との距離を縮めて、隣に並んで歩く。チケットのことは頭にあったが、言い出しにくかった。
「もうすぐ予選ね」
「そうだな」
「彩美も、去年より上の成績を残せるように頑張っているわ。そっちはどう?全国に行けそう?」
「そうだな。五分五分かな」
「そうなんだ」
会話が途切れてしまい、間が空いてしまう。
「あ、亜里沙は、どうしている?」
まだ気にしていたんだ。
「亜里沙?あぁ。もう何ともないみたい。ずっと、あなたに憧れていたみたいだから、ショックだったでしょうけど」
実際、いまはアッケラカンとしている。実に立ち直りの早い妹だ。
「ごめん。あんなことをして」
「別に謝ることじゃないわ。彼女がいることは悪いことじゃないし、ワザと隠していたわけじゃないでしょ」
「ああ。俺には彼女がいるんだ。なんて、ひけらかすことでもないからな」
「それはそうね。それじゃあ、嫌われ者になってしまうわ」
「だよな」
私はそう言って笑ったが、心の中では妬いていた。速水君は、そんな私の顔をジッと見つめた。
「なあに?私の顔に、何か付いている?」
「絵里は。いや綾瀬は、怒ってないのか」
「私?私は最初から、怒ってなんかないわよ」
「そ、そうなのか」
「そうよ」
また沈黙する。速水君には、怒っているように見えていたのよね。
「もうすぐ卒業だけど、速水君は進学するの?」
「ああ。俺は頭悪いから、バスケのスポーツ推薦を受けるつもりだよ」
「そうなんだ。どこ?」
「二校受けるんだけど、本命は白山学院かな」
「白山?へ〜、そうなんだ。どうして?」
白山なんだぁ。ちょっと意外だな。
「そこに凄い人がいるんだ。二つ上だけど、一昨年のウィンターカップで優勝した高校の、ガードの人でさ。その人と一緒にバスケがしたいんだ」
「そうなの」
バスケットの話をしているときの顔は、とてもイキイキとしていて可愛いと思った。
その時、後ろの方から車の音が聞こえてきた。速水君が反対側に移動して、私を庇うように歩く。無意識にやっているのよね。彼女にもしているんだろうな。きっと。
「悔しいな」
「なに?何か言った?」
車のエンジン音で聞こえなかったようで、聞き返してきた。
「何でもないわ。それより来週の日曜日は、うちの学校の文化祭だけど、知っている?」
「それそれ。中等部との合同で、けっこう大きな学祭なんだってな。陽一が一度も行ったことがないから、今年こそ行きたいって言っていたし、俺も興味はあるけど、チケットがいるらしいな」
「そうよ。誰でも彼でも来られないの」
「らしいな。で、いくらするんだ、それって」
他の高校で売り買いがされているっていう噂は、本当なのね。
「お金なんて取らないわよ。学校関係者には郵送されるんだけど、あとは私達生徒に、来て欲しい人に配りなさいって割り当てがあるの」
「へ〜。そうなっているのか」
「そういうこと。それで、チケットは持ってないんでしょ?」
「知っているのは、綾瀬と星埜さんと、亜里沙だけだからな」
「じゃ、じゃあ、私のをあげるわ」
「え?いいのか?」
速水君は目を丸くした。そんなに意外そうな表情をしなくてもいいじゃない。
「ええ。どうせ渡す人もいないし」
チケットを鞄から取り出して見せた。
「ホントに、いいのか?」
私の顔とチケットを、何回も交互に見ている。恥ずかしいから、早く受け取って。
「ありがとう」
「い〜え。その代わり、必ず来てよ」
「分かった。陽一も喜ぶよ」
そうこうしているうちに、家の前まで来た。
「私のクラスは喫茶店をやるから、遊びに来て。三年E組だから」
「了解」
ふふ。敬礼なんかしちゃって。
「よろしい。じゃあね」
私は顔が赤くなってはいないかと思い、足早に家に入った。閉めるドアの隙間から、まだ戸惑っている健吾君が見えた。
また、やっちまった 〜健吾五〜
日曜日の午後に陽一と学園祭に出掛けると、姫百合学園の敷地内は、生徒の父兄と関係者、そして幸運にもチケットを手に入れることが出来た男子学生たちが、たくさん詰めかけていた。
隣では陽一が、とても嬉しそうにしていた。そんなに来たかったんだな。
「今日は、予選前の息抜きだな」
「そうだな」
昨日、ウィンターカップ予選のトーナメント表がコーチから発表された。順調に勝ち上がることが出来れば、決勝で北都高校とあたることになりそうだった。
最近の練習は、試合並みの緊張感で満ちていた。優勝して本戦に出るためには、必ず立ちはだかるであろう北都高校のセンター、高東対策に余念がない。
「それにしても凄いな。ここまでやるなんて、気合い入っているぜ」
陽一がそう言うのも分かるほど、大賑わいだった。大規模とは聞いていたが、聞きしに勝るとはこのことで、かなり盛大に催されている。
校門を入ってすぐの広場には、結構大きなモニュメントが飾られていた。学年とクラスの札が付いているところを見ると、各クラスで作られたものなのだろう。中等部、高等部を合わせた数だから、三十個以上になる。
「なんか、圧倒されるな」
その創作物の立ち並んでいる様と、校舎前にたくさん並んでいる露店から発せられる客寄せの元気な声に、女子校のパワーを感じた。
「あっ、健兄」
その露店の一つからエプロン姿の亜里沙が顔を出して、外に出てきた。
あの事件からしばらくは話す機会がなかったのだが、最近は元に戻っている。立ち直りが早いというか、なんというか。女の子は強いよな。
「よ、よう」
どちらかといえば、俺の方がまだ気にしている感じだ。
「いらっしゃい。それにしても、私がチケットあげようと思っていたのに、絵里姉があげるなんて意外だった」
「それは、俺もだよ」
「あは。そうだよね。ところで、その人は同じバスケ部の人だよね」
チラリと木本の方を見る。
「そうそう。木本陽一っていうんだ。この娘が、いつか話した絵里の妹で、亜里沙だ」
「よろしく。綾瀬亜里沙といいます」
「よ、よろしく」
緊張しているように見えるのは、亜里沙が絵里の妹だからだろうか。
最近知ったのだが、陽一は絵里のことが気になっていたというのだ。しかも、一年の頃からだと聞いて驚いた。その時、絵里のことなら何でもいいから教えてくれと言われて、亜里沙のことを話していた。
「なあに?いつか話したって」
「何でもないよ」
陽一と、口外しないことを約束していたので、俺は素っ気なく言った。
「そう?ふう〜ん。私に隠し事するんだぁ。あんなことしておいてさぁ〜。言わないと、泣いちゃうよぉ」
亜里沙は今にも泣きそうな顔をしたけど、嘘なのはすぐに分かる。それでも弱いんだよな。半分脅しだぞ、それじゃあ。女ってズルイよな。
「何でもないよ。ただ、こいつが絵里のことが気になっているから、亜里沙のことを教えてやっただけで」
「あっ、この野郎。妹さんに言うんじゃねえよ」
尻にキックされた。
「イタ。蹴ることないだろう」
「ある。内緒にするって約束だっただろう。男の友情だったのに。亜里沙ちゃん。お姉さんには内緒にして」
手を合わせて懇願する。
「あはは。男の友情はもろいのね」
「亜里沙が言わせたんだろう」
「まあ良いじゃない。絵里姉には言わないから、安心してください」
「頼むよ」
木本は手を擦り合わせた。
「ただねぇ」
ちょっと難しい顔をしながら、顎に指を当てて首を傾げた。
「絵里姉ね。最近、好きな人が出来たみたいなの」
「あの絵里に?」
俺は、ちょっと大袈裟に驚いた。
「でしょう?もし当たっていたら、初めてよ絵里姉に男なんて」
「今までいなかったのか。へ〜。誰だろうな」
亜里沙と二人で、神妙な顔をしている陽一をよそに盛り上がる。
「それが、全然検討つかなくって。姉妹でも、そういう話は一切しないから」
「あの絵里に好きな人ね。ちょっと興味があるな」
「でしょでしょ」
「亜里沙〜。早く手伝って〜」
「ごめ〜ん」
クラスメートらしき娘が、ちょっと怒り気味で呼び掛けた。いつの間にか、結構な人数の列が出来ていた。
「ごめんなさい。早く戻らないと。私、そこでクレープ屋をやっているから、良かったら寄ってね」
「わかった。頑張ってな」
「うん。じゃあね〜」
駆け足で戻ると、再び元気な声を出しながら作業に入った。
「すまん、陽一」
「何が」
「亜里沙に言っちゃって」
「いいよ、それは。それよりも」
亜里沙の話が気になっているのだろう。俺も、少しだけ興味があったが、それが陽一である可能性が低いことを考えれば、何と声を掛ければいいのか迷った。
「まあ、そう焦るな。焦ると良いことないからさ」
「あ、ああ。そうだよな」
「で、どうする。絵里の所に行くか?」
陽一にチケットを見せたときから、お礼をしないといけないなと話していた。
「そうだな。さっきの話と、チケットを貰ったことは別だから。やっぱり行こうぜ」
「だな」
俺たちはとりあえず、絵里のクラスがやっているという喫茶店に向かった。
「健吾。お前、女子校に入ったことあるか?」
「あるわけないだろう」
「そうだよな。ちょっとワクワクしないか」
「挙動不審にしていると、怪しい人に見られるぞ」
「それは言える。気を付けないとな」
昇降口でスリッパに履き替え、校舎の中に入る。
体育祭では校舎内に入ることがなかったから、この先は未知の領域だ。
「おお〜。さすが女子校」
陽一が、物珍しそうにキョロキョロする。だから、それがやばいんだって。気持ちは分かるけど。
校舎内も凄いことになっていて、廊下の壁という壁が、隙間なく飾り付けられていた。学校の中とは思えない光景だ。少し歩くと教室のドアの上に、「三年A組」のプレートが見えた。多分この先に、E組もあるのだろう。
「なあ、健吾」
「なんだ」
「なんか。視線を感じないか?」
「お前もか?実は俺も」
誰かつけているのかと後ろを振り返ると、素速く隠れる影が二つ三つあった。勘違いかも知れないので、再び何事もなかったように歩き始めるふりをして、再度振り返る。
「あっ」
今度は確かに、姿を見た。
「誰だ?俺に何か用か!」
大きな声に驚いた影が動いた。
「あ、あのう」
窓側の、鉄骨のために出来た柱の窪みから、ポニーテールで大きな瞳が可愛らしい女の子が出てきた。少し語気を荒くしたから、目が潤んでいる。
「ごめん。怒ってないから」
「ホント?良かった」
胸に手を当てて撫で下ろすと、泣いていたカラスがもう笑って近寄ってきた。
「速水健吾さんですよね」
「そうだけど」
「きゃあ、やっぱり。私、あなたのファンなんです」
胸の前で手を組んで、好奇の眼差しで見つめられる。
「ファン?俺の?」
「はい。握手してください」
満更じゃないなと嬉しくなり舞い上がった俺は、握手をしながら余計なことを口走ってしまった。
「一緒に、お茶でも飲むかい」
「良いんですか?」
「おい。綾瀬さんの所に行くんだろ」
「あっ、しまった」
陽一の突っ込みに口を抑えるが、後悔先に立たずだ。なんと前から後ろから、ゾロゾロと十人くらいの娘が出てきた。なんか恐いぞ。
「速水君と、お茶ですって」
「それはいいわね」
「行きましょう」
「あっちに、美味しい喫茶店があるのよ」
「ご、ごめん。俺、用があったんだ」
迫力に押されて弱々しく言うが、通るはずもない。
「男に二言はなしですよ」
簡単に却下されてしまった。
「お、おい」
「さあ、行きましょう」
両側から腕を組まれて、ズルズルと引きずられる。
「え〜い、仕方ない。陽一、後から必ず行くから、先に行っていてくれ」
「わかった。頑張れよ」
助ける気など、さらさらなかったのだろう。引き留めることなく、先に行ってしまった。
口では観念した風に言ったが、助けて欲しかったのに。さっきのこと、やっぱり根に持ってやがるな。
「どこにでも行くから、とりあえず解放してくれないかな」
「いいですよ。じゃあ、行きましょう」
「は〜い」
いつの間にか仕切る娘まで出てきた。女の子を十人も従えて歩いている俺って、周りから、どんな風に見られているのかな。ちょっと不安になった。
というわけで連れてこられたところは、三年E組の喫茶店だった。陽一の後ろを歩き始めたときから、もしやと思っていたら、案の定だった。
「ここ、ここ。チーズケーキが美味しいのよ」
「いらっしゃいませ〜」
どこぞのファミリーレストランで見られるような、フリフリのユニフォームを着た娘が、お冷やを乗せたトレイを持って出迎えた。
「何名様ですか?」
「え〜と、一、二、三……十一人よ」
「十一人?多いわねぇ。机をくっつける?」
ウエイトレスの娘は、客席を見て言った。
「そうね。私達でやるから良いよ」
「そう?じゃあ、よろしく。追加のお冷や持ってくるから」
女の子達は、窓際に机を集め始めた。
結構、繁盛しているみたいで俺達が入ると、ほぼ満席になった。陽一はドアの近くに座って、こちらをにやけた顔で見ている。
「どうぞ」
移動が終わり、真ん中に座るよう促される。
「ありがとう」
「ねえねえ、速水君は何飲む?チーズケーキは食べる?」
「そうだな。レモンティーとチーズケーキでいいよ」
「わかった。みんなは?」
教室を衝立で仕切り厨房と客席に分け、そこをウエイトレスが行き来しているが、絵里の姿が見えない。たぶん同じ事を思ったのだろう。陽一が注文のついでに聞いたらしく、ウエイトレスの声が聞こえてきた。
「綾瀬さん?ああ、絵里ですね。絵里はいま買い出しに行っていて、いないの」
そうか、いないのか。
「速水君、聞いている?」
「はい?」
「速水君、姫百合で人気あるんだよ。知っていた?」
「いや。そうなんだ」
「うん。体育祭で個人四位に入ったでしょ。あれからだよ」
代わる代わる、間を置かずに話し掛けてくる。
「あとは、バスケットの試合を見に行った娘とかいるし」
「そうか。それで」
どおりで、女の子の声が多いと思った。
「それからね」
絵里のことが気になって、気の抜けた返事しか出来ない。それでも、女の子達はいろいろと俺のことで盛り上がっていた。もしかして俺は、いなくても良いんじゃないのか。ん?このチーズケーキ美味いな。しかし、よく喋るな。俺は話の肴なんだな。
退屈気味になりながら三十分も経った頃、
「ただいま〜」
「お帰り、絵里」
クラスメートの声に釣られてドアの方を見ると、ケースを抱えた絵里が入ってきた。
「木本くん、いらっしゃい。来てくれたんだ」
ドアの近くに座っていた陽一に、声を掛ける。
「もちろん。チケットのお礼をしたかったし」
「別に良いのに。ところで、速水君は?」
「健吾なら、あそこに」
俺の方を指差すと、絵里がこちらを見た。
「いらっしゃ、い。速水君」
最初と最後の声色が違うような気がしたけど、聞き違いかな。
「よ、よう」
別に悪いことをしているわけではないのだが、曖昧な返事をしてしまう。
すぐそこまで来た絵里は、不機嫌そうな表情をしていた。呆れているのかな。
「速水君、綾瀬さんのこと知っているの?」
「幼馴染みなの」
厨房に行こうとした絵里が、俺の代わりに答えた。
「え〜。幼馴染みなの?羨ましいなぁ。ねぇ」
「うん。ズルイよ〜」
そう口々に言うが、何がズルイんだ?
「ただの幼馴染みだから」
絵里は少し興奮気味に言って、奥に引っ込んだ。
「いつも冷静な綾瀬さんが、珍しいね」
「うん。冷静沈着で通っている綾瀬さんが、あんなに興奮するなんて」
女の子達が、口々に言う。
「もしかして、有名人なのか。絵里って」
「もちろんよ。弓道部のエースで、去年のインターハイに出場したのよ。今年はダメだったけど、あのとおり美人だし、憧れている下級生も多いって」
下級生が上級生に憧れる。女子校にありがちな話だ。それよりも弓道で、そんなに成績が良かったんだ。再会したとき、あの矢を放たれていたら、いま俺はここにいないな。
エプロンを脱いだ絵里が、衝立の向こう側から出てきた。
「なあ」
話し掛けようとした俺を無視して素通りし、陽一の前で止まった。
「木本くん。案内するから、行きましょう」
「え?」
陽一が俺の方を見ている。
どうやら俺は、絵里の機嫌を損ねたらしい。行って来いと目配せすると、陽一は小さく頷いて絵里と共に出ていった。
その一部始終を見ていた娘が、小さく呟いた。
「綾瀬さん。怪しいね」
「うん」
何が怪しいのかと思ったが、特に突っ込むことはしなかった。
陽一と別れてから一時間程して、やっと女の子達から解放された。俺は一人で学校内を見学して回ったが、一人だと話し相手がいないから、味気なくて楽しくなかった。
「陽一と落ち合う場所を決めてなかったな」
このまま帰ろうかと思ったが、最後に亜里沙のクレープ屋に寄ることにした。
「あっ、来た来た」
「よう。繁盛しているか?」
「バッチリよ。売り子が良いから」
ヘラをドラムのスティックのように回して格好良く極めようとするが、危うく落としそうになる。
「おっとっと。危ない危ない。えへへ」
「ははは。一番のお勧めは何?」
「買ってくれるの。え〜と、やっぱりストロベリーかな」
「じゃあ、それを一つ」
「ありがとうございま〜す」
何時間か焼いていれば、もう慣れたもので、手際よく生地を焼き始めた。
「そういえば、さっき絵里姉と木本さんが一緒に来てくれたけど、はぐれたの?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど」
女の子に囲まれていたのを見られて、呆れられたなんて言えるはずもない。
「ふ〜ん。そうだ。健兄は、最後までいるの?」
「何かあるのか?」
「うん。キャンパスファイヤーっていって最後に、役目が終わったものを焼くんだけど、けっこう盛り上がるよ」
「へ〜、そうなのか」
「はい。出来上がり」
「ありがとう」
亜里沙と別れてクレープを食べながら考えた結果、絵里に会いに行くことにした。女にだらしない奴だと思われたままなのは、嫌だったから。
再び校舎へ戻ると、チラホラと片付けている生徒が見受けられた。
『燃やすものは、キャンパスファイヤーの準備をしているので、グラウンドに持ってきてください』
館内放送が流れて、終了が近いことを告げる。
「もう終わったかな」
三年E組の教室を覗くとお客さんは少なく、今にも店終いの雰囲気となっていた。
「あれ?速水君じゃない」
さっき応対してくれたウエイトレスの娘が、話し掛けてきた。
「どうも。綾瀬さんはいるかな」
「絵里?いるよ。ちょっと待っていてね。絵里〜」
衝立の向こうに行ってしばらくすると、『いいのよ』と絵里の大きな声がした。
「こっちはいいから、行って来なって」
「いいって、言っているじゃない」
「ダメ。ほら、行った行った」
クラスメート三人に背中を押されて、絵里が出てきた。さっきは着ていなかったが、ウエイトレスの制服を着ている。客商売だからか、長髪をポニーテールにしていて、かなり可愛かった。
「よう」
「なによ」
横を向いて、俺の顔を見ないで答える。
「絵里!」
クラスメートに、たしなめられて、やっと、こっちを向いた。
「んんっ。な、なんですか」
「話があるんだけど、ちょっといいか」
「私は、別にないわよ」
「いいです、いいです。ほら一緒に行く」
背中をドンと押されて、俺の胸に飛び込んできた。
「あっ」
「おっと、大丈夫か?」
押した娘は、シッシッと追い払うような仕草でニヤニヤと笑っている。
「分かったわよ。行きましょう」
顔を上げた絵里は、追い出された形で先に歩き出した。
「絵里をよろしくね〜」
後を追いかけると後ろでは、クラスメートが全員出てきて手を振っていた。
「何なんだ、いったい」
「いいから」
どこに向かっているのか分からないが、ドンドン進んでいく。
わけが分からないまま付いて行くと、廊下の端に小さい子供がしゃがみ込んでいた。
「ん?ちょっと待って」
「え?」
「どうしたんだい」
幼稚園児くらいだろうか。目の前でしゃがむと、泣きそうな顔をしていた。
「おかあさん、いなくなっちゃった」
「迷子?」
絵里も隣に、しゃがんだ。
「そうみたいだな」
「おかあさ〜ん」
男の子が弱々しく呟いた。
今にも泣き喚きそうだったので、軽く頭を撫でた。
「ほら泣かない。男の子だろ。そんな弱虫でどうする」
「う、うん」
ズズッと鼻をすすって、涙を堪えた。
「よしっ、良い子だ。名前を教えてくれるかい。一緒に探してあげるから」
「筒井……健太郎」
「健太郎君か。よいしょ」
「わっ」
健太郎の身体を持ち上げて、肩に乗せる。
「すまん。そう言うわけで、ちょっと待っていてくれるか」
「私も一緒に探すわ」
「そうか」
まずは一階から、上に向かって探し歩くことにした。そんなにお客は残っていないから、すぐに見つかるだろう。と思ったのだが、意外に時間が掛かった。放送室に行った方が早かったか?
「筒井健太郎君のお母さんは、いませんか〜?」
俺の声が廊下にとおる。
「絵里、どうしたの?」
「忍。この子のお母さんを探しているの」
対面で歩いてきた、絵里の友人らしい女の子が駆け寄ってきた。
「それなら、あっちで子供を探している人がいたわよ」
「ホント?」
「急ごう」
絵里が、俺の顔を見て頷く。
健太郎を肩から落とさないように急ぐと、女性の声が聞こえてきた。
「健太郎。どこなの〜」
姿は見えなかったが、声に反応した健太郎が大声で呼び掛けた。
「おかあさ〜ん」
「健太郎?」
近くの教室から出てきた女性の顔は、とても厳しかったが一転、頬が綻んだ。
「おかあさん」
頭の上で両腕を差し出して、早く早くと急かしている。落ちるから、ちょっと待ってくれよ。
「お母さんですか?」
「はい。ありがとうございます」
下に降ろすと、駆け足でお母さんの足に抱き付いた。
「ご迷惑をお掛けして、すみませんでした」
ペコペコと、何度も頭を下げる。
「いえ。泣かないで頑張っていましたよ」
「あら、そういえば。この子は泣き虫なのに」
いまは泣くどころか満面の笑みで、安心しきった表情をしていた。
「では、ありがとうございました」
深く一礼して、親子は昇降口へ向かった。健太郎はお母さんの手を握りながら、見えなくなるまで何回もこちらを振り返っては、手を振っていた。
まさか、そんなことって 〜健吾六〜
屋上へと続く階段を登り、鉄製のドアを開けて外に出ると、見慣れない設備があった。
そこは屋上に設置された、弓道部用の射場だった。
「へぇ〜、こんな所にあるのか」
「ここなら今日は誰も来ないし、私もちょっと話したいことがあるから」
ポケットから出した鍵でドアを開けると、一礼して中に入っていった。
「靴は脱いだら、揃えてね」
「分かった」
中に入ると武道を行う場所特有の、ピンと張りつめた緊張感を感じた。建物の作りがそうさせるのだろう 。
「そこに座って」
―――正座の方が良いのかな。
畳敷きに正座し、絵里と向かい合った。
「話って、なあに?」
「まあ、大したことじゃないんだ。さっき女の子に囲まれていたけど、あれは何でもないからな」
「何でもないって、何よ」
「まあ、何というか。あれは俺が望んで、ああいう状況になったわけじゃなくてだな」
「そう」
しばらく沈黙した後、絵里はゆっくりと口を開いた。
「私は別に、何とも思ってないわよ」
「そ、そうか」
そうは見えないんだけどなぁ。
「速水君の話は、それだけ?」
「あ、ああ」
「そう。さっきは、何もないって言ったけれど、本当は私からもあるの」
「なんだい」
「木本君を案内して、いろいろ見て回ったけれど。最後に、告白されたの」
「え?」
―――あいつ。焦るなと言ったのに。
「そ、そうだったのか。返事は、その場でしたのか?」
「ええ。お断りしたわ」
「そうか」
すまなそうな顔をしているが、仕方のないことだ。
「綾瀬が悪い訳じゃないから、気にすることないさ」
「そうは思うんだけど」
口を真一文字につぐんでいるところを見ると、頭では分かっているけど、罪悪感があるんだろうな。
「それと、もう一つあるんだけど。良いかな」
顔を上げて姿勢を正した。と思ったら、また下を向いた。
―――いま、顔が赤かったような。
「あ、あのね」
「うん」
「ちょっと待っていて」
突然、立ち上がって、更衣室らしき部屋へ入っていった。
「どうしたんだ」
少し痺れたので足を崩し、あぐらをかいて待っていると、五分くらいして袴姿の絵里が出てきた。長い髪はポニーテールのまま鉢巻きをした絵里は、いつにも増して凛とした雰囲気を出していて、男から見ても格好いい。
絵里は何も言わず弓を手に取り、矢を一本持って前に進んだ。
テープが二本貼ってある場所の真ん中に立ち、精神を集中させるためか静かに大きく深呼吸をした。そして的を見ながら両足を半歩踏み開き、弓を引く態勢に入った。
―――なんか凄いな。
弓を射る所なんて初めて見る俺は、その独特な空気に吸い込まれた。
絵里は更に、視線を的に一点集中したまま斜めになっていた弓を起こし、両腕を引き分けた。
弓がキリキリとしなる音がする。
溜があった後に放たれた矢は一直線に飛んでいき、ドンという音がして突き刺さったが、的から僅かに外れていた。
その後、二本三本と放ったが、それも的には命中しなかった。
「ダメだわ。中らない」
溜息を吐いて、俺の方を見た。
「見ての通りよ」
「なにが?」
今のを見て、そう言われても、何が何だか分からない。
「私、これでも結構、競技会で良いところまで行くの」
「聞いたよ。去年はインターハイに行ったんだろ。凄いじゃないか」
「でも今年の七月辺りからずっと、的に当たる確率が落ちたの」
「ふうん」
他人事のように相槌を打つと、きつく突っ込まれた。
「ふうんって、あなたのせいなのよ!」
「俺の?何で?」
「弓道っていうのは、正しい射法と精神の修練が必要なの。物事に動じない心、いわゆる不動心を養って、平常心で射ることが求められるの。いくら上達しても射法に完璧っていうのはないけど、いま中らないのは精神面から来ていると思うの」
どんどん真剣な表情になっていくのが分かる。このまま弓道の話が続くかと思ったら百八十度、話が変わった。
「今まで私には、好きな人がいなかったの。ううん。いないと思っていたというのが正しいのかな。四月にあなたと再会したとき痴漢行為にあって、あの日から私の中で、あなたは最低男として認識された」
「だから、あれは違うって」
口を挟むと、黙っていてと言わんばかりに睨まれた。
「それは、もう怒ってないわ。問題は、その後なの。あなたを見ている内に、最低男から少しずつ印象が変わってきたの。初めはそれを、無意識に否定し続けていた。でも私の気持ちは揺れ始めていた。バスケをしているのを見たとき。ちょっと背負い込むみたいだけど責任感があるところ。何気なく車から守ってくれるところ。子供に優しいところ。まだ知らない良いところが、もっとあると思うの。私は、それを知りたいと思っている」
頬が、少しずつ赤くなっているのが見て取れる。
―――まさか。
「さっき、木本君の告白を断ったときに言われたの。結果はダメだったけれど全然、後悔してないって。言わないままでいるよりは、言って良かったって。諦めるつもりもない、とも言われたけれど」
赤味が頬から伝わって、耳まで達している。
―――本気か。
「私も後悔だけはしたくないから、きちんと伝えるわ。あなたに、彼女がいるのは知っているけど、それでも構わない。私は、私は……。悔しいけど、あなたが好き」
「なんだよ、悔しいっていうのは。それより、俺には彼女がいるし」
「わかっているって言ったでしょう。でも、好きな気持ちはどうしようもないの」
「そりゃ、そうだろうけども」
絵里が俺のことを好きだって?
衝撃の告白に呆然とし黙ってしまうと、絵里が再び矢を持って構えた。それは素人目だが、しなやかさが加わり、先程とは違って見えた。
ヒュンと風を切る音が聞こえ見事、真ん中に中った。
「ふう」
絵里は腕を降ろし、静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと瞼を開けたとき、明らかに変化が見えた。胸の奥に眠っていた想いを打ち明けたという、清々しさだろうか。
それは俺の目に、とても魅力的に映った。こんな風に感じたのは、再会してから初めてのことだ。
その時、俺の心の奥底から甦ってくる記憶があった。
ままごとをしているのだろうか。幼い頃のビジョンが脳裏に浮かぶ。
『はい。おしょくじですよ』
『ああ』
粘土で作った卵焼きのような物を掴んで、むしゃむしゃと食べる真似をする。
『おいしい?あなた』
『ああ。うまいよ』
口から出るセリフは、親のやり取りを見て覚えたのだろう。
『ねえ、けんちゃん。わたしのこと、すき?』
『うん』
『わたしたち、けっこんできるかな』
『するよ。しないの?』
当然のように俺が言っている。そして目の前にいる女の子には、見覚えがある。
『する。えり、けんちゃんとけっこんする。やくそくだよ』
えへへ、と笑う女の子は、まさしく絵里だった。
いま、はっきりと想い出した。
「よく二人で遊んだな。男の子の遊びもしたし、ままごとも」
「そうね。思い出した?約束も」
「ああ」
「でも、それは昔の話。たわいもない小さい頃の言葉だから、なんの効力もないわ。大切なのは、今の気持ち」
真っ直ぐ見つめてくる真剣な眼差しは、矢となり俺の心を射抜いた。こんな美人に告白されて嫌な気持ちになるはずもなく、嬉しいという気持ちはある。しかし。
「俺は麻里のことが好きだ。綾瀬は、大切な幼馴染みだよ」
「そう言うと思ったわ。ここで麻里さんを振って私の方を向いてくれてもそれは、すぐに浮気する男だということ。むしろ、そう言ってくれる方が嬉しいわ。これから私の方を振り向いてくれるように、頑張るんだから」
確かに断ったのに、それを嬉しいと言うなんて、実に困る答えだった。
「もうすぐキャンパスファイヤーが始まると思うけど。見ていかない?けっこう凄いのよ。その後、一緒に帰りましょう」
「いや。一人で帰るよ」
「そう」
頭の中が混乱していた。
麻里への想いは変わらないのに、絵里がその中に入ってきている。自分で自分の気持ちが、分からなくなってきていた。
麻里からの手紙
―――Dear 健吾 十月二十九日
元気にしていますか?だんだん寒くなってきたね。そっちは、そろそろ雪が降るのかな。風邪をひかないように注意してね。
もう予選が始まっていると思うけど、決勝はいつ?勝っても負けても、すぐに結果を教えてね。うちの高校は順調に勝ち上がっているけど、鷹木君が健吾の方はどうなっているか気にしていたよ。
この季節になると、ちょっと苦しいけど、春になったらいつでも会えるよね。寂しいからって、浮気しちゃダメだからね。