第四章 久しぶりの再会だけど
史上最大の作戦 〜麻里一〜
八月に入り、三十度を超す真夏日が続くようになった。私はクーラーの利いた部屋で、健吾からの数少ない手紙を読んでいた。
「分かってはいたけど、ホント筆無精ね」
私の方からは、すでに十通以上も送っているのに、健吾から送られてきたのは未だ三通だけだ。
一昨日届いた手紙には、大きな花火大会があるから、一緒に行こうと書いてあった。アルバイトを始めたのは、遊びに行くための資金作りだったから当然、行く気は満々だけど。このまま素直に、行くと返事をするのは面白くないなあ。三通しか送ってこないことに、お仕置きしなくちゃ。
ここは一つ、健吾のお母さんに協力してもらおうかな。
時計を見ると十時を過ぎていた。今日は火曜日だから、健吾は部活に行っている時間だ。
健吾以外の、出来ることならお母さんが出ることを祈って子機の番号を押した。
「はい。速水です」
良かった。お母さんだ。
「もしもし。遊佐です。お久しぶりです」
「麻里ちゃん?お久しぶりね。元気にしていた?」
「はい。おばさんも、お元気そうで」
おじさんが亡くなった心の傷みは、いくらか癒えたのかな。元気そうな声だ。
「ごめんなさいね」
「え?」
「二人の距離を遠ざけることになってしまって。あの頃は、私も余裕がなくて麻里ちゃんに、きちんと謝ることが出来なくて」
電話の向こうで頭を下げているのが伝わってくるくらい、申し訳なさそうに言う。
「そんな。気にしないで下さい。別れた訳じゃないんですから」
「そうだけれど。遠距離は大変でしょう。お手紙をたくさん送ってくれているのに、健吾の方からは、あまり返事をしていないでしょう?」
「分かりますか?」
「あの子の父親も筆無精だったから。寂しいでしょう。麻里ちゃんは携帯電話を持っていないの?健吾に買ってやろうかしら」
「私は持ってないんです。良いんです。メールなんてやったら、お小遣いにバイト代までなくなっちゃうくらいやりそうだから。手紙の方が、心が伝わると思うし」
「そう?じゃあ健吾には、返事をするように言っておくから」
「お願いします」
言っても、たぶん無理だと思うけど。それは、おばさんも分かっているよね。
「そう言えば、こっちには来られるの?健吾は花火大会に一緒に行くみたいなことを言っていたけれど」
そうだった。本題を忘れるところだったわ。
「ええ。そのことなんですが。おばさんに、お願いがあるんです」
「お願い?いいわ。何でも言ってちょうだい」
「じゃあ」
私は健吾を驚かすための作戦を、おばさんに話した。
「いいわねぇ。楽しそう」
「じゃあ、お願いします」
「分かったわ。健吾の驚いた顔が、目に浮かぶわね。ふふふふ」
「そうですね。ふふふふ」
受話器越しに、二人で怪しく笑った。
麻里からの手紙
―――Dear 健吾 八月四日
休みに入ったから、お返事がすぐに来て嬉しいな。
この季節になると、小さい頃に行った神社のお祭りなんて思い出すけど、そっちには、そんなに有名な花火大会があるんだ。行ってみたいなぁ〜。でも、誘ってくれるのは嬉しいんだけど、いろいろと忙しくて行けそうにありません。どうしても外せない用事が出来ちゃって。本当にごめんなさい。もし行くのなら、一人寂しく行ってきて。後で詳しく教えてね。
手紙を送ってから二日後、私は新幹線に乗り、健吾が住む土地に降り立った。離ればなれになって四ヶ月以上も経ったけど、健吾は変わったかな。
「麻里ちゃん」
改札口から駅舎に入ると、おばさんが待っていた。
「すみません。迎えに来てもらって」
「いいのよ。家に行く前に、ちょっと寄りたいところがあるんだけど、付き合ってくれる?」
「いいですよ」
「麻里ちゃんに、プレゼントしたい物があるの」
「私に?何ですか?」
「それは内緒。ついてきて」
「は、はい」
健吾のお母さんとは以前から仲は良かったが、こうやって外を歩くことはなかったな。
「そうそう。お手紙、今日の午前中に届いていたわよ」
「健吾の反応は、どうでした?」
「練習に行く前に読んでいたけれど、ちょっと落ち込んでいたかな」
「そうですか」
ちょっと、やりすぎたかしら。自分から言いだしたことなのに、気にしている私を察したのか、
「麻里ちゃんは気にしなくても良いのよ。健吾が悪いのだから」
と、笑いながら言ってくれた。
「麻里ちゃんの顔を見れば、元に戻るわよ」
「そうですよね」
そうよ。健吾のことだから、怒ったりはしないよね。おばさんの買い物に付き合った後、いよいよ、お家へと向かった。
「さあ、着いたわ」
バスを降りて少し歩くと、住宅街の中にある一軒家に着いた。ここが私に出会う前、たしか小学校二年生まで住んでいたお家か。おばさんに促されて中に入ろうとしたとき、隣の家から声が聞こえてきた。
「行って来ま〜す」
女の私から見ても、綺麗だなと思う女の子が出掛けて行った。歳は同じくらいかな。
「さあ上がって」
「お邪魔しま〜す」
「健吾は三時間も帰ってこないから、ゆっくりしていて。帰ってくる頃に隠れると良いわ」
「はい」
おじいさんとおばあさんに挨拶をして、健吾が帰ってくるまでの間、紅茶とケーキを頂いたきながらお話をして、くつろいだ。
「そうだ麻里ちゃん。健吾の部屋を見てみる?二階に上がって手前の部屋だから、自由に見て良いわよ」
「良いんですか?じゃあ、ちょっと行って来ます」
階段を上がり、すぐのドアを少し開けて隙間から中を覗いた。誰もいないのは分かっているけど、このスリル感が楽しいのよね。泥棒さんになった気分?更にドアを、人が一人通れる位に開けて、素早く中に入りドアを閉めた。
「ここが健吾の部屋か」
思ったほど散らかってないな。机に近寄り、そっと手を置いてみた。
「健吾は寂しくなかったのかな」
ベッドに腰掛けて、部屋の中を見渡す。変わっていないなあ。相変わらず本棚は、バスケット関連の雑誌でいっぱいね。ふふ。エッチな本はないのかな。お決まりでベッドの下に隠してあったりして。
探してみようかと立ち上がったとき、窓から玄関前が見えた。
「健吾だわ」
時計を見ると、六時になろうとしていた。早く下に降りないと。
見つからないように身を屈めて部屋から出ようとすると、開いていた窓から声が聞こえてきた。
「健兄。いま練習から帰ってきたの?」
「ああ。亜里沙は夏期講習か」
「うん。いま帰ってきたとこ」
女の子の声だわ。さっき見た娘かしら。窓に近づいて、そっと外を見ると、違う女の子と健吾が話しているのが見えた。
「うちの中等部はエレベーター式だけど、一定の成績は保ってないとダメなんだ」
「そうか。絵里は成績良いようだから、亜里沙も上位なんじゃないの?」
「ううん。そんなことないの」
お隣には女の子が二人いるのかな。
最後まで聞いていたかったけど、中に入ってくる前に隠れなくちゃいけない。階段を降りると、おばさんが上に登ってこようとしていた。
「帰ってきました」
「そうみたいね。この部屋に入っていて。健吾は滅多に入らないから。後でご飯を持ってくるわね」
「はい。分かりました」
通された部屋は仏壇がある和室で、私のバックが置いてあった。
大丈夫かな?見つかないかな?心臓がドキドキしてきた。身動き一つしないで息を潜めていると、健吾の声が聞こえてきた。
「ただいま。飯は出来てる?」
「もうすぐ出来るから、シャワーでも浴びてきなさい」
「分かった」
ドンドンと七回、階段を上がる音がした。きっと一段飛びしているのね。
おばさんの話だと、ご飯を食べた後は、すぐに寝てしまうことが多いから、それまで隠れていれば良いということだった。
二時間くらい経つと、襖を叩く音がした。
「はい」
「お疲れさま。退屈だったでしょう。これ食べて」
おばさんが持ってきたお盆には、冷やし中華が乗っていた。
「すみません。頂きます」
「健吾は寝たみたいだから、食べたらお風呂に入ると良いわ」
「ありがとうございます」
「明日が楽しみね」
「はい」
また二人とも怪しい笑いをして、それがまた面白くて笑った。
次の日の朝。
健吾よりも早く起きた私は、顔を洗って髪を梳かした。久しぶりに会うんだから、綺麗にしないと恥ずかしいもの。
「いよいよね。頑張って」
「はい」
音がしないように一歩一歩ゆっくりと、階段を上がっていく。
何段かごとに軋む音がするので、その度に健吾に聞こえているんじゃないかと思い足が止まった。慎重に上まで行き、ドアに手を掛けながら聞き耳を立てると、微かに寝息が聞こえてきた。よしっ。大丈夫みたいね。
―――そ〜っと。
静かにドアを開けて中に入り、起きないように忍び足でベッドの脇まで行く。
ここまでは順調だ。
暑いのか、タオルケットをはだけた健吾が、気持ちよさそうに寝ている。こんな風に寝顔を見るのは初めてだな。
―――ふふ。可愛い。
ずっと眺めていたかったが、そうもいかない。耳元に口を近づけて、ふっと息を吹きかけてみる。
「んんっ」
と言って反応したが、目は覚まさない。じゃあ、これでどうだ。
「おはよう」
今度は、耳元で囁いてみた。
「ん」
それでも起きないので、もう少し声のトーンを上げてみた。
「お・は・よ・う」
「う〜ん」
しぶといわねぇ。それなら、これでどう?
手を伸ばしてベッド横のカーテンを開け、朝陽を浴びさせた。
「んんんっ」
「お・は・よ・う」
「いま、良いところだから」
「いいところ?どんな?」
「麻里と……キスを……」
私とキス?どんな夢を見ているのかな。ふふ。エッチな夢だったりして。
「ふう〜ん。どんな風に?」
健吾は、寝ぼけ眼を半分開いて、目をキョロキョロと動かした後、私の方を見た。
しばらくボーっとしていて、未だまどろみの中という感じだ。その顔が面白くて観察していると、
「こういう風に」
突然、首に腕を回されて、引き寄せられた。顔がグッと近づく。
―――きゃっ。
息が触れるほどの顔のアップ。意外な展開だけど、このまましちゃえ。あと数センチだった距離を、目をつぶり縮めた。
「ん」
唇に、健吾の感触が伝わってくる。久しぶりのキス。
名残惜しかったが、そっと離れて目を開けると、健吾の目が全開に開いていた。
「ま、麻里?」
驚いた健吾は、磁石が反発するように私の肩を押した。
「きゃあ」
尻餅をついた私は、恨めしそうに非難の目を向けた。
「ひっどーーい。久しぶりに会った彼女に、なんて仕打ちをするのぉ?」
「な、なんで、ここにいるんだ?」
「なんでって、遊びに来たんだよ」
立ち上がってお尻をさすりながら、いたずらっ子のように、にんまりした。
「騙したな」
「うん。やったね。おばさん」
ドアの方を見ると、おばさんが入ってきた。
「やったわね」
両手を挙げて合わせ、きゃあきゃあと喜んだ。
「母さん。まさか共謀か?」
健吾は、半ば呆れた感じで言った。
「そう。昨日の手紙より前に麻里ちゃんから電話が来て、あなたを驚かせようって。すぐに打ち合わせをして、ね」
「そうなの。遊びに来るためにバイトを始めたんだから、来ない訳ないじゃない」
「あっそ」
してやられたという表情の健吾。作戦は大成功ね。
「まったく、朝も早くから」
健吾は頭を掻きながら、やれやれという風に溜息を吐いた。
「さあ二人とも、朝御飯が出来ているから食べなさいね」
おばさんはそう言って、下に降りていった。
「麻里。その様子だと、元気みたいだな」
「うん。今日から。あっ、昨日からか。一週間お世話になります」
「じゃあ、花火大会に一緒に行けるんだな」
「もちろん」
「そうか良かった。あの花火大会は有名だから、麻里と一緒に行きたかったんだ」
「うん」
満面の笑みで答える。
「あっ」
健吾の表情が曇った。
「なあに?どうかしたの?」
「い、いや。なんでもない」
ピンと女の勘が働いた。昨日の、亜里沙って娘と関係がありそうね。でも、ここで追求してケンカになっても仕方ないし、一緒に行くって言ってくれているんだから、それで良いわ。
「ねえ、健吾」
「ん?」
「今日も練習があるんでしょ」
「そうだな」
「おばさんと健吾の帰りを待っているのも、新婚さんみたいで良いんだけど、練習を見についていってもいい?」
嫌がるかなと思ったけど、試しに言ってみた。
「え?ダメだ」
即答したわね。ちょっと考えてくれたら引き下がろうと思ったのに、悔しいなぁ。
じゃあ、必殺技を出すわよ。
「行くのーーー」
「うっ」
瞳をうるうるとさせて見つめると、案の定、戸惑った表情を見せた。
「そんな、可愛い顔をしてもダメだ」
「えーーーっ」
更に見つめる。
「ううっ。な、何でも言うことを聞くから、それだけは勘弁してくれ」
ふふふ。勝ったわね。
「何でも〜?」
「何でもだ」
「わかった。じゃあ、いい。行かなくて」
確かに何でもって言ったわよね。後でいろいろ付き合ってもらおっと。
「着替えて下に行くから、先に行っていてくれ」
「は〜い」
それから花火大会までの間、練習が終わると一緒に買い物や映画に出掛けた。疲れているのはもちろん分かっていたけど、ここにいられるのは一週間だけなんだから、このくらいの我が儘は許してね、健吾。
花火大会へ出発 〜麻里二〜
花火大会当日は雲一つない快晴で、風も少しあり、絶好の花火日和となった。健吾のおじいちゃんの話によると、風があると煙がよく流れて良いんだって。
そして、この花火大会は全国にいくつかある競技大会の中でも一番歴史が古い大会で、花火師にとってこの大会で入賞することは、とても名誉なことだとも教えてくれた。
「まだかよ」
着替えるために、おばさんと和室に入ってから三十分は経った。襖の向こうから、イライラしている健吾の声が聞こえてくる。
「もうちょっと待ちなさい」
おばさんが、帯を結びながら言う。
「きつくないかしら?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、これでよしっ。健吾、入って良いわよ」
おばさんが襖を開けると、健吾と目が合った。その視線が、何回も上下する。
ちょっと恥ずかしいな。初日におばさんからプレゼントして貰ったのは、紺地にアヤメの柄が付いた浴衣だった。浴衣を着るなんて、小学校以来だ。
「こら健吾。見惚れてないで、なにか言ってあげなさい」
「あっ。綺麗だよ。似合っている」
「ホント?ありがとう。嬉しいな」
健吾に誉められるのが、一番嬉しいな。
「麻里ちゃんは、ほんと何でも似合うから良いわ」
「い、いえ。そんなことないですよぉ」
「健吾、ちょっと」
おばさんが私には聞こえない小声で、健吾に耳打ちした。
「なっ、なにがだよ」
「照れない、照れない。気をつけて行ってくるのよ」
おばさんは口を閉じたまま、妙な含み笑いをした。
「行くぞ。麻里」
健吾は、そんなおばさんを残して私の手を取り、玄関へと引っ張った。
「ね、ねえ。おばさん、何て言ったの?」
「いいから、行くぞ」
「う、うん」
変なの。気になるなぁ。そっぽを向いたまま靴を履いた健吾は、さっさと外へ出てしまったので、私も急いで下駄を履いて後に続いた。
「あっちーー」
「そうだねぇ」
夕方近くになったとはいえ、まだまだ暑い。カランコロン、カロンコロンと鳴る下駄の音が、風鈴の変わりになって耳に心地いい。
「昼花火ってあるんだね。五時半からだって」
駅で買ったパンフレットに載っている写真を見ると、色のついた煙が写っていた。
「これだと、実際に見ないと分からないな」
「うん。楽しみだね」
会場に向かっていく人の流れに乗って十五分ほど歩くと堤防があり、そこを登ると河川敷が広がっていた。
打ち上げ場所に向かって正面にある有料の桟敷席は想像以上に広くて、その周りの無料で観覧できる所には、たくさんの人たちが場所取りをしていた。
「凄い人の数だね」
「蟻も通れないとは、この事だな」
「そうだね」
昨日見たニュースによると今日だけで、この市の人口の約十倍もの観光客が来るというから、いかに大きな花火大会なのかがうかがえる。通路沿いには、露店がずらりと並んでいるのが見えた。
「あれは、なあに?」
右手にある橋を隔てた先の河川敷に、キャンピングカーとテントが密集していた。
「ああ。じいちゃんが言っていたけど、あそこはキャンプ場になっていて、前の晩からキャンプをしているんだって」
「前の晩から?そうなんだぁ。あっ、ふふふ」
時間まで暇をもてあましている子供相手に、悪戦苦闘しているお父さんが見えた。
「なんで笑っているんだ?」
不思議そうに私を見たので、遠くにいる親子を指差した。
「あのお父さんを見ていたら健吾も、あんな風に子供と接するようになるのかなって想像したら、可笑しくって」
「ははは。どうだろうなぁ」
健吾も笑ったその時、美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。
「どうした麻里」
健吾の声がしたけど、それどころじゃないの。私は彼氏を放って、視線の先にある、たこ焼き屋へと走った。子供の頃から、たこ焼きには目がないんだ。
何がなんだか分からないけれど、許さないから 〜絵里五〜
時間は遡って七日前。
晩ご飯の支度をしていると、玄関の方で亜里沙の嬉しそうな声がした。すぐに台所に来て冷蔵庫から麦茶を取り出すと、よっぽど喉が渇いていたのか、いっぱいに注いだのを一気に飲み干した。
「ぷはぁ」
「こら。はしたないわよ」
「えへへ。いいじゃない」
怒られたのに、とても嬉しそうにしている。
「何か良いことでもあったの?」
「うん。今そこで健兄に会ったんだけどね。土曜日の花火大会に、一緒に行くことになったの」
「え?私と彩美の三人で行くことになっていたじゃない」
「あっ、そっちはキャンセル」
女だけで行くよりだったら、慕っている速水君と行く方が楽しいのだろうが、こうもあっさり言われると悔しい。何だか胸が、もやもやとしていた。
「星埜さんには、私から謝るよ」
「いいわよ。私から言っておくから」
「そう?じゃあ、よろしく言っておいてね」
「はいはい」
その時の亜里沙は、今にも浮き上がりそうなほど舞い上がっていた。
そんな会話をした、二日後。
亜里沙の感情の状態は、正反対になっていた。
「亜里沙、晩ご飯だって言っているじゃない」
私とお父さんが食べ終わった後も下に降りてこないので、部屋の前でノックした。
「いらない」
「いらないって。ダイエットでもしているの?」
「してない」
「だったらなんで」
「いらないったら、いらないの」
「どうして?」
「絵里姉には関係ないでしょ」
そう言われてしまっては、二の句が継げない。
姉妹といえども、越えてはならない一線というものがある。心配だったが、これ以上しつこく聞くことはしなかった。ただお腹が空くだろうと思い、下に降りておにぎりを握り部屋の前に置いた。
あれから四日後、今日も亜里沙は落ち込んでいた。一緒にご飯は食べるようになったが、未だに理由は教えてくれない。
今までの亜里沙なら、お父さんが優しく聞けば何でも話してくれていたのに、昨夜はそれもダメだった。
お昼ご飯を食べた後、部屋から一歩も出てこないけれど、速水君と花火に行くんじゃなかったのかしら。もうすぐ彩美が来る時間になる。
二人とも浴衣を着ていくのだが、彩美は着付けが出来ないので、家に来て私がやってあげることになっている。
チャイムが鳴ったので玄関を開けると、彩美が元気よく入ってきた。
「おはよう」
「おはよう絵里、毎日暑いね。お邪魔しまっす。亜里沙は?上?」
「ええ」
家には何回も遊びに来ているので、慣れたものだ。颯爽と二階に上がっていき、亜里沙の部屋をノックした。
「亜里沙。彩美だけど」
「何ですか」
「何があったのか知らないけど、私達と花火に行かない?」
彩美が優しく語りかける。
「行きたくないの。ごめんなさい」
「そっか。わかった。土産話を待ってなさい」
「分かった」
彩美が、お手上げというジェスチャーをして、私を見る。仕方ないわね。でも原因は分かった。間違いなく、速水君だわ。
「彩美、着替えて行きましょう」
「うん。着付けの方、よろしく」
「ええ」
私と彩美は浴衣に着替え、駅へと向かった。
電車を降りて商店街を抜けると歩行者天国になっていて、道いっぱいに人が歩いていた。
会場までの続く堤防まで来ると、すでにビニールシートを敷いて横になっている人や、バーベキューをしている人までいた。河川敷まで行かなくても、ここから十分に見えるのかな。
「ここ辺りは、人でいっぱいだね。どこで見ましょうか」
「もう少し端の方に行けば、空いているんじゃない?」
「そうね」
河川敷に着いて観覧場所を探しながら、亜里沙のことが心配になった。
「亜里沙。大丈夫かしら」
「まあ、亜里沙なら大丈夫よ。それに女は苦しいことを乗り越えて、良い女になるんだから」
「うん」
こういうとき、彩美の考え方には救われる。
何事もいい方向に考える、超が付くほどのポジティブシンキングな性格だ。
「ただ気になるのは、こうなった原因は」
彩美は、複雑そうな表情をした。速水君のことを考えているのよね。やっぱり、そう思うんだ。だけど、せっかく花火大会に来ているのだから、楽しまないと。私は話を変えた。
「彩美。その巾着、可愛いよね」
「そうでしょ?気に入っているんだ」
私に見せびらかすように掲げると、後ろからぶつかってくる男がいた。
「おっと」
「あっ」
彩美がつんのめりバランスを崩した拍子に、巾着が手から離れた。
「あっ!」
男はそれを空中でかっさらい、全速力で逃げていった。私達は突然の出来事に数秒間、立ち尽くしてしまった。
「ど、泥棒」
気が付いたときには、何メートルも向こうに離れていた。急いで追い掛けるが、如何せん下駄では追い付くことは難しい。
「お気に入りの巾着なのに〜。お財布も入っているし」
喚きながら一生懸命に走っていると、すぐ前方に知った顔が見えた。
―――速水君だわ。
「星埜さんと綾瀬?」
彩美が、速水君の肩に手を置いて訴える。
「私の巾着が取られたの。あのアロハシャツの人を捕まえてぇ」
小さくなった男の背中を指差して叫んだ。
犯人は人混みの中を逃げるのが得意らしく、通行人にぶつかることなくスルスルと網の目を縫うように逃走している。
「わかった。任せろ」
速水君が飛び出していった。さすが佐武高校一の足だわ。フットワークと脚力を活かして、どんどん差を詰めていく。
「追いかけましょう」
「うん」
ただ見ていても仕方ないので、私達も後を追った。
「待て、この野郎」
速水君の大声が聞こえる。
追ってくる男の声が気になったのか、犯人がチラリとこっちを見たため前方不注視となった。その時、前を歩いていた大きな男性にぶつかって動きが止まった。
いまよ。速水君のスピードが増して、一気に追い付いた。襟首を捕まえて、グイッと引っ張っているのが見える。
「おい。その巾着を返すんだ」
二人が止まったので、やっと追い付いた。盗人の男はシャツが喉に入ったらしく、息を詰まらせた。
「ゴホッゴホッ。くそっ。俺が追い付かれるなんて」
「早く返せってぇの」
速水君が巾着袋を取り上げて、彩美に渡した。
「はい。これでしょ」
「ありがとう。あっ」
速水君が目を離した隙に犯人は立ち上がり、手を振りほどいて逃走した。
「この」
速水君は追いかけようとしたが、彩美が手を出した。
「いいよ。無事に戻ってきたんだから」
「いいのか?分かった」
「ありがとね。お財布が入っていたから、どうしようかと思ったの。偶然、速水君と会ってよかった。ねっ、絵里」
「そうね」
私は素っ気なく答えた。亜里沙が落ち込んでいたのは、速水君が関係していると思っているからだ。
すると案の定、それを裏付けるような言葉が、速水君から出た。
「絵里。亜里沙とのことは、ごめんな」
「やっぱり、あなたが原因だったのね」
「え?」
私は速水君の前に一歩出て、顔の前で指差した。
「一週間前に、あなたと花火大会に行くから、私と行くのは止めるって嬉しそうに言っていたのに、二日後には行くのさえ止めるって言って、ずっと落ち込んでいたのよ。理由を聞いても言わないし。あなたが絡んでいるとは思ったけど、しつこくは聞けないし」
ジッと睨んで、まくし立てた。
「まあまあ。約束を破ったのは速水君が悪いけど、謝っているんだから。そんなに興奮しないで」
彩美が、私と速水君の間に割って入った。
「でも約束を無効にするくらいだから、よっぽどの理由がないと許される物じゃないよね」
今度は彩美が、速水君に詰め寄った。そうよ。どんな理由があるって言うの。
「え〜と。実は、亜里沙と約束したその日に、前に住んでいたところから彼女が突然、遊びに来たんだ」
彼女?速水君て、彼女がいたんだ。
「やっぱりそうなんだ」
彩美が肩を落としている。速水君の事が気になっていたみたいだけれど、本気だったのかしら。
「それじゃあ、仕方ないわ。でしょ、絵里」
「そうね」
しかし、理由が分かったとしても、納得はいかなかった。
だからといって、こんなところで喧嘩をしても仕方ない。早く行こうと彩美に言おうとしたら、速水君はどうでも良いフォローを入れてきた。
「そ、そういえば。二人とも浴衣なんだね。とても似合っているよ」
「そう?あはは。ありがとう」
彩美は笑顔でそう言ったが、無理をしているように感じた。
気が多いことで有名な彩美だけれど、すぐに立ち直るほど強くもないのを知っている私は、彩美の手を取って引っ張っていこうとした。
すると、この最悪な雰囲気を打ち破る声が聞こえてきた。
「健吾〜。探したよぉ」
速水君の隣に女の子が寄り添った。この娘が、彼女なの?
誰なの?この人達? 〜麻里三〜
数分前。
匂いに導かれるままに露店に向かって駆けていると、派手なアロハを着た男の人と肩がぶつかった。
「あっ」
「ごめんよ」
男の人は一言謝って、走っていってしまった。なあに今の人。巾着なんか持って。ま、いいか。それより、たこ焼き、たこ焼き。
「お兄さん。三パックね」
「あいよ」
いかにもテキ屋という風貌のお兄さんが、威勢良く答える。このソースの匂いと、たこ焼きを焼く音が食欲をそそるよね。
露店のたこ焼きといえば、当たり外れがあるけど、それでも良いの。こういう雰囲気で食べるのが良いんだから。しかも、それが彼氏となら一層美味しいのよね。
「健吾も一パックはいけるよね」
側にいると思っていた健吾に話し掛けたが、返事がなかった。
「健吾?」
左右に振り返るが、どちらにもいない。
「あれぇ?いない」
「お待たせ。千五百円だよ」
「は、はい」
お金を渡して袋を受け取ると、辺りを見渡して健吾を探した。
「健吾〜」
何度も叫んだが、見当たらなかった。
「どこに行ったのかな」
こうなったら迷子センターに行って、健吾が迷子になったことにして放送してもらうんだからね。知っている人に聞かれたら、恥ずかしいぞ。そんな企みをしていたら、道端に座っていた人に話し掛けられた。
「ねえ、あなた」
「はい?私ですか?」
「あなたと一緒だった彼氏、あっちの方へ走って行ったわよ」
「ホントですか。ありがとうございます」
その言葉を信じて指差した方へと走ると、健吾の姿を見つけた。
「いた。もうっ、何をしているの?健……」
言いかけて止まった。浴衣の女性の後ろ姿を見たからだ。しかも二人も。
「まさか。ナンパしているんじゃないでしょうね」
私は気を引き締めて近付き、「健吾〜。探したよぉ」サッと健吾の横に立った。
二人の顔を見つつ、健吾に腕を絡ませる。
「麻里か」
二人とも可愛いわね。
「もうっ、彼女を置いていくなんて、どういうこと?」
「ごめん。偶然、知り合いと会ったんだけど、その娘の巾着が引ったくりにあったんで、犯人を追ったんだ」
「ふうん」
「で、犯人は捕まえたんでしょ?」
「ええ。このとおり」
左の娘が巾着袋をぶらぶらさせて、無事であったことを教えてくれる。それは、さっきぶつかってきた男が持っていた巾着だった。
「さすが健吾」
更に絡ませる。胸に健吾の腕が当たっているけど構わない。
「こちらが彼女?」
同じ娘が聞いてきた。
「はい。健吾の彼女の遊佐麻里といいます」
彼女のところを、強調して言った。
「初めまして、友達の星埜彩美です。で、こっちは」
「綾瀬絵里です」
星埜さんは愛想笑いをしているけど、綾瀬って娘はブスッとしている。
「じゃ、じゃあ、私たちはお邪魔なようだから。行くね」
星埜さんが、気を遣って言う。そうよ。健吾に手を出したら許さないわよ。
「そ、そんなことは」
何を言っているの健吾、お邪魔なの。
「いいのいいの。じゃあね。いこっ、絵里」
手を取られた綾瀬さんは振り返って、「じゃあね」と一言だけ呟いて、人混みに紛れていった。知り合いだって言っていたけど、いったいどんな関係なのだろう。少し気になったけど、あえて触れなかった。
「もうすぐだね、昼花火」
「ん?そうだな」
「楽しみだなぁ〜」
その後、あの二人のことには触れなかった。
この夏の日のことは忘れない 〜麻里四〜
すでに八時を回り、七時に始まった夜花火は順調に進んでいた。
「第二十五号―――――」
独特のイントネーションで男性が番号を言った後、女性の声で花火の題名がアナウンスされる。
「昇曲付三重芯変化菊」
漢字ばっかり並んで小難しいけど、要は花火の上がり方と開いたときの形を表しているらしい。
玉が上昇する音が聞こえてきて、大きな花が開くと少し遅れて、開くときの爆発音が重低音となってお腹に響く。やっぱり花火は生で見なくちゃ。テレビでは、この臨場感は味わえない。
花火の細かい仕掛けなどについてはよく分からないが、今まで見たことのある大会より凄いというのは分かった。一発の花火に賭ける職人の想いが伝わってくるようで、感動さえ覚える。
私は特に、「〜千輪」「〜蝶」等と呼ばれる、小さな花がたくさん開くのがお気に入りだ。
「すごいね〜」
「ああ」
続いて、軽快な音楽に乗せて始まった花火は連続で上がるので、夜なのに昼間のように明るくなる。様々な色がフラッシュのように連続で光り、辺りを照らしていく。
感動で言葉も出ない。こんなに素晴らしい花火を、健吾と一緒に見ることが出来て、なんて幸せだろう。
そんな感動に浸っていると、肩に健吾の手が置かれて引き寄せられた。
「あっ」
「麻里」
こうやって大事にされていると思うと、胸が幸福感でいっぱいになる。
「次は皆さんお待ちかねの大会提供花火です。準備に少々お時間が掛かりますので、お待ち下さい」
そうアナウンスが流れると、周りが賑やかになってきた。そんなに凄いのかな。
「健吾」
「ん?」
「このまま触れないでおこうかと思ったけど、やっぱり気になるから、思い切って聞くね」
「ああ」
「あの二人とは、ど、どういう関係なの?」
緊張しているのか、声が上擦ってしまった。
「一人は隣に住んでいる幼馴染み。もう一人は、その親友なんだ。それだけだよ」
「それだけ?」
「うん」
「健吾がそう言うなら、私は信じるよ」
「ああ」
肩に置いていた手が頭に移動し、胸の中に優しく包まれる。
「好きよ、健吾。健吾は私のこと、好き?」
「いや」
「え?」
ドキンと心臓が高鳴った。
「大好きさ」
「もうっ、意地悪ぅ」
拳で太股をバシバシと叩いた。
「ははは」
「私も大好きだよ」
「大会提供――」
壮大な交響曲に乗せて、何十メートルもの横幅で花火が打ち上がる。
線状の花火が垂直に斜めに、段違いで何本も連続で上がり、その上に、これでもかと大玉が開く。
夜空という黒いキャンパスに描かれる作品は、人々を魅了し、感嘆の声がやまない。
「健吾と一緒に見た、この花火。ずっと忘れない」
「ああ。俺も忘れない。麻里、誰も見てないぞ」
「え?」
チラリと見た瞬間、健吾の唇が重なった。
「ん」
もう。不意打ちなんだから。そっと離れると、名残惜しそうに見つめ合った。
健吾の目には、私しか写っていない。
私の目には、健吾しか写っていない。
「来年は、一緒だよね」
「ああ、一緒だ」
卒業後は大学に進学し、いつも一緒にいることを誓った。
麻里からの手紙
―――Dear 健吾 八月三十一日
夏休みも今日で終わりだけど、宿題は終わった?私はもちろん、三日前には終わらせて、この手紙をゆっくり書いています。
一緒に行った花火大会は、ホントに感動したね。花火であんな気持ちになったのは初めてで、今でも目蓋を閉じると、あの光景が浮かんでくるよ。すぐ近くにあった健吾の顔もね。最後のキスは不意打ちで、ホントにビックリしたんだから。健吾の腕に包まれている間、とっても幸せでした。
―――Dear 健吾 九月二十日
お久しぶりです。ちょっと間が開いたのは、受験勉強で忙しくなってきたからなの。健吾はスポーツ推薦で進学が望めるかも知れないけど、私は自分の力で合格しないといけないから。推薦もあったんだけど、悲しいかな学内選考で漏れちゃって。だから、今までより回数は少なくなるけど許してね。