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7/7

カンバスに流れる雨

 校舎一階の最東にある第二美術室には強い西日が差し込んでいた。

 赤みを帯びた黄金色の光の中、おさげの少女は一心不乱にカンバスへ色を乗せていく。その顔は酷く無表情で、何の感慨も浮かんでいない。

 彼女は梅雨が明けたばかりの蒸し暑い教室内で、クーラーもつけずに窓を全開し、じっとりと肌を汗ばませていた。半袖のブラウスから白く棒切れのような二の腕が突き出ている。

 校庭の喧騒も、放課後に女子達が集まって行なうお喋りも、彼女とは無縁のもので。

 ポーン、ポン、ポン。

 背中の方――窓際の方からボールの跳ねる音がした。野球部かサッカー部のボールが入り込んできたのだろう。

 谷窪優花たにくぼゆうかはゆっくりと体を窓へ向けた。今にも足が取れそうな丸イスが嫌な音を立てて軋む。

「……すまん」

 外へ続くドアのところに身長の高い少年が立っていた。彼は転がったサッカーボールを拾う。

 逆光のせいで少年の顔が見えない。まるで影絵か何かのようだ。

 綿雲が太陽にかかる。西日が弱くなった。

 少年はサッカー部のユニフォームを着ていた。彼の黒髪は、柔らかな緑や空の淡い色彩の中で異質に見える。右目の下にある涙ボクロがとても印象的だった。

 優花は突然現れた少年の双眸を見つめる。しかし、少年の瞳には優花など写っていない。彼の目は優花を飛び越えた先を見ている。

「綺麗な青だ」

 唐突に、落ち着いた声で少年は言った。

「ああ…………これ?」

 優花は絵の具で汚れたエプロンの端を引っ張りながら、描きかけの絵を興味なさげに見やる。

「純粋な青じゃないけどね。あなたの目には青に見える?」

「ああ」

「ふーん」と優花は頷き返し、カンバスに爪を立てた。まだ乾ききっていない絵の具が爪に入り込んだ。

 少年は何も言わず、優花の行動を観察している。

「コバルト、マゼンダ、シアン……。思いつくまま、何もなかった空間を埋めた。ただ、それだけの作業」

「……つまらなそうだな」

 淡々と少年は意見を述べた。それは何も飾らない、心の奥底から出た言葉だと優花にはすぐわかる。

「うん、つまらない」

「そうか」

 短い会話だった。

 少年は身を翻し、日の当たる校庭へ戻って行った。

 優花は台なしにしてしまった作品を、未練なく床へ落とした。海とも空とも見える青が、震える。

 はあ、と頭を掻いた。

(またやってしまった……)

 こうして作品を捨てるのは、七月になって一体何度目だろう。コンクールが近いというのに、由々しき自体である。

 ――優花は、自分の琴線に触れた微かなもの。それを手繰り寄せ、カンバスへ塗りたくる。

 顧問の先生もどこかのお偉い先生も、優花のそれを天才的だと褒め称えた。

 コンクールに作品を出してみろと言われて出品すれば、大賞や金賞をもらう。同じ美術部員達はそれを羨ましがった。どんなモチーフで描いているのか。どんな視点で物事を見ているのか。しきりに尋ねてきた。

 優花はそれを厭い、いつからかこの第二美術室にて一人で作業を行なうようになった。本来、第一美術室が美術部の活動拠点である。この教室は物置同然の扱い。美術の授業教材や廃棄処分を待つ作品が教室のすみにはうず高く積み上げられている。

 それでも良かった。

 何の雑念を入れず描くのに、ここはうってつけの場所である。

 ……ようやく安寧の場を見つけたというのに。

 優花の中には一抹の焦燥があった。

(描けない)

 正確に言えば描くことは出来る。しかし、違和感があるのだ。違和感などどこにあると言われてしまうと答えに窮してしまうが、それは優花を着々と追い詰めてくる。

 原因には思い当たる節があった。

 二ヶ月前に描いた、あの作品だ。

 ギリ、と親指の爪を噛む。優花は唇を三日月に歪めた。

「馬鹿じゃないの」

 吐き捨てるように呟いた言葉は、誰でもない――自分に対しての言葉だった。

 彼女は苦悩していた。


 ◆ ◆ ◆


 サッカー部に所属する少年の名は、白糸環しらいとたまきと言うらしい。

 優花がどうやってそれを知ったかと言うと、先ほど偶然にも彼のことを耳にしたからだった。

この高校で黒髪の生徒は少ない。黒髪で……しかもサッカー部に所属しており、右目下には涙ボクロがあると来たら、あの時の少年に間違いなかった。

「白糸君ってホント無口」

「でも、そこが魅力じゃん」

「サッカー部の司令塔だし。うちの高校が全国大会行けるのって、ぜったい環くんの力が大きいよねー」

 優花は数学の宿題を解きながら、何とはなしにその話を聞いていた。

 美術室で出会った時はそんな有名な人だと思わなかった。

 しかし、自分とはあまり関わりなき事柄である。優花は宿題を解き終えると、机に突っ伏した。



「何故、廊下側を向いて描いているんだ?」

 放課後、当たり前のように環は第二美術室へやって来た。

 優花が校庭へ視線を転じると、サッカー部員達は各々走り込みや筋トレをしているのが目に入る。自主練中だろうか。

 優花は環に目を向けず、目の前に悠然と横たわる大きな白いカンバスを見つめる。

「外なんて見ても、何も浮かばないもの」

 それに暑いし、と付け足せば、環は小さく笑った。

 野球部やソフトボール部のノック音がこだまする。

 ちらりと環を横目見た。彼は美術室に入って来ず、窓枠にひじをかけて空を仰いでいた。

「ねえ」

 その背中に、思わず呼びかけてしまう。そうしなければ、彼が景色に熔けてしまう気がした。

 すっと環は室内に顔を向けた。切れ長の双眸が寡黙なイメージを引き立てる。

「白糸君ってサッカー部の司令塔なんでしょ?」

 彼は目で頷いた。

「どんな風にサッカー、やってる?」

 環は質問を吟味するように押し黙り、やがて口を開いた。

「直感」

「……そう」

 優花は少なからず落胆した。

 環の答えは優花のものと同じだった。それでは意味がないのだ。

 優花が知りたいのは、それ以外の感覚である。

 彼女が焦れていることに気づいているのかいないのか、環は冷静な声色で言葉を紡ぐ。

「後は、メンバーのポジションと敵の飛び出し方をある程度予測しながら動いてる。セオリーどおりで……つまらないが」

 彼は自嘲的に最後の言葉を発した。

「へえ……白糸君もつまらないなんて思うことあるの」

「もちろん。……俺はもっと、相手の意表をつく攻撃に出たい。それが最善だと思ったんだ。だが、メンバーはそれに納得してくれない。実力があるのはわかるが、あえて奇をてらうのはどうかしてるとさえ言われた」

 少しだけ環の口調が強くなる。

「ちょっと、わかるよ」

 優花はシアンをカンバスにほとばしらせた。

「私もそうだから」

「え……」

「二ヶ月前に、ある作品をコンクールに出品したの。それは特別賞を受賞した」

 優花は眉根を寄せる。拳を握りしめた。

「その作品を見た人達は言った。こんなの、谷窪優花の作品じゃないって」

 環の方へ振り向き、優花は笑った。

「初めて……魂込めて描いた作品だったのにね」

 モチーフを持って描いてみなさいと画家である父親に言われ、半年かけて完成させた作品。

 結局、それはコンクールにて特別賞という微妙な評価をもらったのだが、いまだにその評価は優花にとって全く理解不能である。

 自分の作品で唯一自信を持って誇れるとしたら、その作品だけ。

 それが大賞を取れないのならば、他人の評価などたかが知れていると優花は思い始めていた。

 綺麗、繊細、透き通る、脆さ、ある種の純粋さ。

 彼女の他作品が大賞を受賞した時の評価である。下らない言葉を並べ、テーマもクソもあったものじゃない作品を褒め千切るその傲慢さに、無性に腹が立つ。

「まるで別人が憑依して描いたような意味なき絵が良作で、全身全霊をとして描いた作品が駄作。……馬鹿みたい」

 コンクールの結果が出た後、優花は抜け殻状態になった。

 それからだ。

 何を描いても気に入らない。ほつれているような、違和感。イライラ。

 他人の手で描いた倒錯感だけしか残らない自分の作品達に、愛着など持てない。何度も打ち捨て、何度も塗り潰す。

 痛ましげに俯く環に、優花はハッとした。

「……ごめん。変なこと言った」

 謝罪の言葉を口にすると、環は小さく首を横に振った。彼は何か言いたげに瞳を持ち上げ、すぐに逸らす。

「環ーっ! コーチが来たぞーっ!」

 遠くから坊主頭のサッカー部員が叫んだ。

「じゃあ」

 言って、彼はスパイクで砂を蹴り上げ去って行った。

 光の届かない廊下側。そこは心持ち涼しい。

 なのに、何故か暑く感じた。優花は自らの胸に手を押し当てる。

 初めてだ。

 自分の思っていることを他人へぶつけたことなど、今まで一度たりともなかった。

 それを、環に投げた。彼は押し返しもせず、黙って聞いていてくれた。

(本音を吐き出すと、こんなに胸が熱くなるんだ)

 炭酸水を一気に飲みほした後のような清涼感が広がる。それは心地悪いものではない。むしろ――。

 凝り固まっていた感情が流れ出す。久しぶりに、穏やかな気持ちになれた。




 翌日は、生憎の雨だった。今日は何だか美術室へ向かう気になれない。

 優花は放課後になると一目散に下校した。お気に入りの蓮の花がプリントされた傘を回す。

 雨音が耳をくすぐった。

 横断歩道の中間地点まで来た時、信号が点滅し出す。水溜まりを避けながら、急ぎ足で渡りきった。そして、すぐ側の脇道へ入り込む。後は平坦な道が続くばかりだ。

 優花は傘越しに雨雲を見つめた。

 美術室へ行かない日を作ることも大切かもしれない。

 ――あそこに行けば、嫌でもカンバスと向き合わねばならないから。

 傘の先から雨が垂れ、弾けた。

 甲高いブレーキ音が唸る。ざわめきがした。

 しかし、それは雨音に重なって優花のところには微かな音としてしか届かなかった。


 ◆ ◆ ◆


 雨は断続的に降り続いた。大規模な低気圧が停滞しているらしい。

 優花は顧問から鍵をもらい、第二美術室の扉を開けた。

「白糸君」

 彼はぼんやりと教室の真ん中に佇んでいる。優花が声をかけると、緩く首を捻ってこちらを向いた。

 環の制服は少し濡れていた。

 窓が開いており、重たい暗幕が微かに揺れる。あれ、と優花は首を傾げた。彼女は必ず窓を閉めて下校する。一昨日も確実に戸締まりをチェックしたはずだ。

 ……もしかしたら、優花の作品の進捗状況を見るため、顧問が立ち寄った際に開けっ放しにしていたのかもしれない。

「窓から入ったの?」

「ああ」

 優花は雨が吹き込んでくる窓を閉めた。そして、まじまじと環を見つめる。彼が美術室へ足を踏み入れたのはこれが初めてだった。

「俺……谷窪に、どうしても伝えたいことがあって」

 環の表情は切迫感に満ち満ちている。

「な、何?」

 押され気味に聞けば、彼は唇を引き結んだ。

「あんたが言ってた……特別賞の作品、俺……見たことがある。一時期体育館に展示されてただろ。……『雨に流す』だっけ」

 脳裏にこびりついて消えてくれない題名をいきなり口に出され、ぴくりと反応してしまう。優花は身構えた。彼は一体、何を言わんとしているのか。他の者達同様、あれは微妙だとでも言いたいのか。

 歪な感情が心に渦巻く。

「俺は絵心なんてご大層なもん持ち合わせていないが、あの作品だけは心打たれた」

「何、言ってんの?」

 慰めなんか要らない。あの作品は、他人の目には失敗作に映るのだろうから。

 優花は盛大に顔をしかめて環を睨んだ。しかし、彼はさして気にした風もなく言葉を続けた。

「ああ、この作者は俺と同じ種類の孤独を感じてるんだろうなと思った」

 瞠目した。

 誰も、気づいてくれなかった、絵に込めたオモイ。孤独。

 息が詰まりそうになる。

 環は左腕を右手で掴み、視線を落とした。

「絵には惑いや諦め、そして恐怖が滲んで見えた。その絵の講評には『雨に濡れても満面の笑顔を浮かべる人物が力強く描かれており、生命の貴さを感じさせる』なんて書いてあったけど、むしろ俺には――――」

 一旦言葉を切り、環は優花を真正面から見据えた。

「大声で泣いてるように見えた」


 目を瞑って耳を塞ぐ少女とも少年とも判別出来る人間。その人物は大口を開けていた。

 彼女……もしくは彼には、暗い雨が断続的に降り注いでいる。


 目の奥が熱くなった。それはすぐに目頭から溢れる涙となる。

 優花はその場にしゃがみ込んだ。嗚咽が止まらない。

「谷窪……」

 気遣うように環が声をかけてくる。優花は鼻を啜った。

「そう……白糸君の言うとおり。あれは泣き顔……。笑顔と泣き顔はよく似てるから……間違えられちゃった……」

 ありがとう、と震える声で優花は言った。

「……共感してくれたの……うれし……」

 あれは優花の心そのもので。全てを込めて描いた自分自身の姿だった。共鳴してくれる者がいるとわかっただけで、こんなにも救われた気持ちになる。

 遠くで雷が落ちた。

 あの絵を模写したような雨の中、優花は中々泣き止めなかった。

 今の彼女を支配しているのは、悲しいとか、辛い、苦しいなど簡単に表現出来る感情ではなく。もっと複雑で、思春期のある一定時期しか持ち得ない、酷く不安定な感情。

 それが環の言葉に揺さぶられた。

 環は何も言わず、黙りこくっている。下手な慰めを言わない彼は好ましいと思う。

 ようやく優花が泣き止んだ時には、雨も小降りになっていた。雲間から放射状の光が零れ出す。

「ちゃんと、わかってる」

 ぽん、と優花の頭を叩き、環は外へ続くドアを開けた。

 涙でぼやけた視界で優花はそれを見送った。雨粒と光の中に環の姿が熔けたように見えた。


 ◆ ◆ ◆


「……あの……」

 消え入りそうになる声を奮い立たせ、優花は坊主頭の少年を呼び止めた。少年はクリクリした目を瞬かせる。

「あのっ、白糸君……最近サッカー部に出てないのっ?」

 環が『雨に流す』を見たことがあると優花に告げてから早数週間が経つ。あれから、彼が美術室に訪ねて来ることはなくなった。

 気になった優花は、ちょこちょこサッカー部の練習をのぞき見していた。環は、サッカー部にも顔を出していなかった。

「お前……誰?」

 坊主頭の少年は不審げに尋ねてきた。優花は慌てて頭を下げる。

「あ……急にごめん。二組の谷窪って言うんだけど……」

 いきなり呼び止めてきて、同じサッカー部員の仲間のことを聞いてくるなど――自分が坊主頭の立場だったら、きわめて怪しい人物だと思うだろう。

 しかし、少年はコロッと態度を変えた。

「あー、ユウちゃんね!」

「さ、ユウちゃん……?」

 初対面同然の坊主頭からそう呼ばれた優花は、面食らった。

「いやぁ、環の奴が君のことよく話してたから、初会話な気がしないねぇ。俺、青木っての。よろしく」

「はあ……」

「あいつ無口な奴なんだけど、君の絵のこと話す時だけは饒舌でさー。そんな気になるなら、さっさと話しかけて来いって言って、俺が美術室にサッカーボール投げ込んでやったんだぜ」

 青木は得意げに鼻を擦る。

 ああ、あの時いきなりサッカーボールが転がってきたのはそういう事情があったのか、と優花は納得した。

「あいつ、良い奴だろ」

「うん」

 即答すると、青木はニカッと笑う。

「……最近、美術室に白糸君来ないから、風邪こじらせたのかもって、ちょっと心配で」

「あー……」

 青木の顔があからさまに曇る。

「何かあったの?」

 鋭く聞いた。青木は優花の問いに、目玉をキョロキョロさせていたが、やがて諦めたのか重々しく口火を切った。

「実は――今、環の奴……植物状態なんだ」

「えっ?」

 肺から空気が抜けたような、間抜けな声が出た。

「この前、大雨の日に……赤信号で飛び出して……車に跳ねられやがった」

 青木の声が萎む。

 血の気が引いた。


 そのあと、青木の話をつぶさに聞いた優花は、不可解な事実に気がついてしまった。

 環が事故に遭った翌日、優花は美術室で彼と話している。あれは夢だったのだろうか。

 そして、もう一つ……気になることがあった。

 環が事故に遭った時刻、現場近くに優花はいた。……事故現場は、優花が毎日のように通る横断歩道だった。

 微かに急ブレーキ音やざわめきが聞こえたというのに、さっさと帰宅した自分を呪いたい。

 青木は言っていた。環の家は事故現場とは反対方面だ、と。

 事故前日、優花は環に本音を吐き出している。優花を励ますため、環が優花を追いかけた可能性が濃厚だった。自分は『雨に流す』が好きだと伝えようと、優花を見失うまいと赤信号を飛び出したのかもしれない。


 ――まさかと思う。


 どうやって坊主頭と別れたかは覚えていない。優花の足は自然と第二美術室へ向かっていた。

 がらんどうの室内は、絵の具やカンバスのにおいに満ちている。剥き出しの水道管から水の音がした。

 優花はカンバスの前に立つ。そして、放り投げていたエプロンをつけた。

 その目は固い決意を内包していた。


 ◆ ◆ ◆


 ひぐらしの鳴き声がする病室のカーテンが、不規則にたなびいた。

 ベッドには呼吸器と点滴に繋がれた痛々しい姿の少年が横たわっている。その枕元に置かれた小さな椅子に、少女は腰かけていた。

 夏の暮れの夕刻。

 少女は大事に抱えてきた長方形のものを持ったまま立ち上がる。彼女はしばらくそれを見つめていたが、やがて深く頷いてそれを椅子の上に置いた。

「美術室で待ってるね」

 その一言だけ残し、少女は病室を退室した。

 ぴくりと少年の指先が動く。


 ◆ ◆ ◆


 薄目を開けると、赤い陽射しがあった。白い天井はシミ一つなく、薬品のにおいが鼻につく。

 環は目玉を動かし、静まり返った辺りを見渡した。

 誰一人いやしない。カーテンで仕切られているから、個室でないことはわかる。

 彼は、全て覚えていた。車に跳ねられて生死の境をさ迷い、その最中に優花に会ったこと。そして。

「三途の川、見てしまった……」

 一人ごちる。背筋が薄ら寒くなった。

 窓から生温い風が入ってきた。つんとする薬品のにおいに混じって、少しだけ懐かしい絵の具のにおいがする。

 片肘をついて上体を起こす。環の瞳孔が縮まった。

 彼はすぐさまナースコールを押す。早く来い、と舌打ちしながら何度も押した。

 ――早く彼女のところへ。

 その想いが環の胸の大半を占めていた。


 椅子の上に残されたカンバスの中には降りしきる雨があった。

『雨に流す』と同じパースにモチーフである。

 しかし、全てが同じではなかった。

 遠くには放射状の光が描かれており、少年……もしくは少女と思しき人物の目は爛々と輝いていた。

 ……雨は止む。梅雨の一過性の雨がどれだけ降ろうと、必ず止むように。




「ねえ、谷窪さん今回コンクール出品しなかったらしいよ」

「しかも、これからはコンクールに出したりしないで、自分が描きたいものだけを描きますって宣言したって聞いた」

「あああぁ~。ショック……。あの天才的な絵が額縁に飾られてるのを見ることが楽しみだったのに」

「自分で飾ればいいじゃん」

「そんな問題じゃなく! こう……コンクールみたいな栄誉ある場所で燦然と輝く絵っていうの? それが見たいのっ」

「ねえねえ、それじゃ……谷窪さんが描けなくなったって噂ホントだったわけ?」

「ううん。かなり完璧に近い作品完成させてたらしい」

「じゃあ何でー?」

 納得出来ない、と美術部員は眉間に皺を寄せた。

「それがね……『これは大切な人のために描いた作品だから、コンクールになんて出さない』って突っぱねたんだって!」

 女子部員のテンションが一気に上がる。

「相手って誰っ?」

「知りたい?」

「知りたいっ!」

 どこから情報を仕入れてきたのか、ロングヘアーの女子生徒が声をひそめる。皆、彼女に耳を寄せた。

「それが……サッカー部の――」

 一瞬の間を置き、エーッと素っ頓狂な雄叫びを上げた。その中には涙ぐむ者もいたらしい。


 ◆ ◆ ◆


 優花は秋色に染まる外の景色をガリガリと模写していた。

 開け放した窓とドアから涼しい風が入ってきて、頬を撫でる。優花は鉛筆を置き、瞑目した。

 運動部員が気合い十分に声出ししている。木々のさざめき、下校中の生徒達の笑い声。

 世界は色んな音に満ちている。

 ポーン、ポン、ポン。

 優花は、ゆっくりと目を見開いた。まるで出会った時と同じ光景が広がる。

 黒髪の少年は、何を言おうか考えているのか視線をさ迷わせている。

 彼の変わりに優花は転がったボールを拾い、彼に近づいた。

「おかえりなさい」

 そう言って弾けんばかりの笑顔を見せる優花に刺激されたのか、環も目を細めて優しく笑った。

「……ただいま」



  〆




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