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花の香りと口笛

『慟哭した日』と関連したお話です。


 芽吹きの季節はあっという間に通り過ぎました。初夏の爽やかな風がわたくしの頬を撫でます。

 わたくしは逸る胸の鼓動を押し殺して、マクファーレン家当主様の次子、イネス様の部屋をノックしました。

 午後のティータイム。

 この大役を任されるなんて、わたくしは果報者です。

 いつもならば当主様やご子息様方のティータイムの準備は、ベテランのメイドがおこなうのですが、当主様が主催するお茶会の準備に皆出払ってしまったため、メイド長じきじきに頼まれたのです。

 この三ヶ月、真面目にコツコツと信頼されるよう努めてきた甲斐がありました。

「はい」

 凛とした声が部屋の中から聞こえます。

 わたくしはドアを開けて、質素な作りをしたメイド服のスカートを摘んでお辞儀をしました。

「失礼致します」

「どうぞ」

 ワゴンを運び入れてティータイムの準備を始めるわたくしに目もくれず、ご子息様――イネス・マクファーレン様は窓の縁に腰掛けています。緩やかな風がレースのカーテンをなびかせて、鮮やかな絵画を見ている気分になります。

 気分は夢心地です。

 ふと、パラパラとか細い音がしたものですからそちらを見遣りますと、卓上にたくさんの書類が柔らかい風を受けて小さくさざめき合っておりました。

 こっそり内容に目を通しましたら、領地に関する書類でした。既に署名は終わっているようです。流れるような筆跡で、イネス様の名前が書かれていました。

 それにしてもイネス様。羽ペンをインク瓶に突っ込んだままにしておくなんて……少々はしたないですよ。

 そんなことをわたくしが思っているなど露ほども知らないイネス様は、まだ外を見ています。あんな哀しい目をして、一体何を見ていらっしゃるのでしょうか。

 口笛が聴こえてきました。風に乗せるように、誰かに囁きかけるように、イネス様は口笛を吹いています。覚えのあるメロディーにわたくしは瞠目しました。

 好奇心が疼きます。

 わたくしは紅茶の準備をする手は休めずに、イネス様へ話しかけました。

「『サリの花を花嫁に』ですか」

 曲名を当てると、イネス様はわたくしを振り返りました。これでもかというくらいに、彼は目を丸くしています。

 わたくしは、メイドの身でありながら雇い主へ気安く口を聞いたことに、今更恥ずかしく思いました。自然と、眉が八の字に下がります。

「すみません。故郷の歌だったもので」

「ああ……構わない」

 怜悧な顔貌のイネス様のことを、メイド仲間達は怖い人と評していたけれど、わたくしはそう思えません。何せ、イネス様はわたくしの理想に合致するお顔の持ち主なのですから。

「何をご覧になっていらっしゃるのですか?」

 失礼を承知で聞いてみました。お前には関係ないだろ、と突っぱねられる覚悟でしたから、

「……見る?」

と、口角を攣り上げて聞き返されたのには驚きました。

「は、はい!」

 上擦った声で答えて、イネス様のお傍へと寄ります。彼は腰掛けていた窓の縁から下りて、わたくしが外を見やすいように計らってくれました。

 窓の外にはマクファーレン邸の裏庭が広がっています。その一角に、一年を通して咲く長寿な花が溢れんばかりに咲いていました。

「まあ、サリの花がたくさんっ」

「お前、よく知ってるね」

 窓の縁から身を乗り出すわたくしに、イネス様は驚いたようでした。

「はい。何せ、わたくしの故郷の花ですもの」

 わたくしがにっこりと笑いますと、イネス様は「へえ……」とつれなく呟きました。そして、憂いを帯びた目をサリの花へと向けます。

 わたくしは彼の横顔に魅入っていたのですが、暫くして本来の業務を思い出しました。慌てて焼きたてのベリータルトを卓上に運びます。何重ものタオルでポットを包んでいたために、お湯は熱いままでした。

 安堵の溜め息が零れます。

 テキパキと紅茶を陶磁器で出来たカップに注ぎます。

 イネス様はそれをソーサーごと窓辺に持って行き、立ったままお飲みになりました。この様子を見たら、お行儀が悪いとメイド長は烈火の如く怒るでしょう。しかし、わたくしはそんな小さなことを申し上げたりしません。主人に忠実なメイドとして、ティータイムが終わるまで静かにしておこうと思います。

「……この国を救った、サリの名を持つ女を知っているかい」

 イネス様がわたくしに尋ねたのだと気づくのに、たっぷり数秒かかりました。

「ははははい、もちろんっ。サリ様はわたくしと同郷の方。誇りに思っております」

 サリ様といえば、この国を恐怖に陥れた魔女を討伐した部隊のリーダーを務めた方です。

 魔女討伐は二年半前に行われました。サリ様の名前は歴史書や教科書に記されています。

 わたくしは彼女を直接見たことがなかったのですが、皆様から聞くサリ様のお話はどれも英雄然としており、胸を高鳴らせるお話ばかりです。

「――誇り、ね。あいつ……ただの傭兵だったんだけどな」

「え?」

「いや……何でもない」

 いけない。わたくしとしたことが、イネス様の言葉を聞き逃してしまいました。

 イネス様は形の良い目を細めます。

「あの花壇は、サリのために作らせたんだ」

「希少価値が高い花をあれだけたくさん……。さぞ心を砕かれたことでしょう」

 胸に手を当てて言うと、イネス様は首を横に振りました。

「あいつに喜んでもらいたかったから、たいへんだったとか思ったことはない。……ふっ。『イネスの屋敷は立派過ぎて気後れするから、ちょっと……』なんて言ってお茶会に誘っても全く来なかったのに、サリの花を取り寄せた途端、口笛を吹きながら上機嫌で居座るようになったさ」

 とても、寂しそうな横顔です。微笑を浮かべているのに、ちっとも楽しそうに見えません。

「そうだったんですか」

 イネス様は紅茶を啜って、ティーカップを両手で包み込みます。爪の色が白くなっています。力を入れているのでしょう。

「今も時々、あいつの口笛が聴こえてくる気がして。たまらなくなる」

 イネス様が喉の奥から搾り出すようにして発した言葉は、わたくしの心を揺さぶりました。

「イネス様……」

「悪い。お前は他のメイド達みたいにサリのことを話題にしないよう注意している風じゃなかったから……つい。話し過ぎた」

「いいえ、良いんです。イネス様は、サリ様をお好きなんですね」

 わたくしは明け透けに言いました。

「…………ああ」

 イネス様は首肯しました。

 ――メイドになりたての頃、彼に関する不躾な噂を耳にしたことがありました。

 毎日のように舞い込んでくる結婚話をイネス様がにべもなく断り続けているのは、二年半前に突如姿をくらましたサリ様を愛していらっしゃるからだと。噂を聞いた時は、討伐部隊内での功績が最も高いお二人故、根も葉もない噂を立てられているのだとばかり思っていましたが……どうやら、真実だったようです。

 イネス様は現在、二十歳。良い家柄のご子息であれば、ご結婚されていておかしくないお年でございます。二十歳で未婚など、よっぽどの事情がない限りは有り得ません。

「お前だったら、どうする?」

 イネス様は窓の縁に腕を乗せてわたくしに目を向けます。

「お前が俺の立場だったら、どうする?」

 わたくしは、唸りました。考え込んでしまいます。変な答えを提示するわけにはまいりません。

「そうですね……サリ様を捜しに行きます。捜して、一緒に行こう……もしくは帰ろうと申し出ます。お手紙を出されたりはしていらっしゃるのですか?」

「月に一度」

 イネス様の答えに、わたくしは思わず目尻を下げてしまいました。まるで、初恋に目覚めたばかりの少年のようです。

「なら、きっと大丈夫です。繋がりは断たれていないのだから」

「――……ありがとう」

 イネス様は満足そうに頷きました。

 その時、わたくしはようやく気づきました。彼は誰かに「サリ様を追えばいい。大丈夫だ」とそう言ってもらいたかったのだ、と。後押しして欲しかったのだ、と。

  幾分すっきりした表情で、イネス様は背筋を伸ばします。彼は午後の陽射しを受けて、光に溶け込んで見えました。



 その翌日のことです。

 マクファーレン家に激震が走りました。次男坊であるイネス様が、忽然と行方を絶ったのです。

 使用人達の食堂にてお昼を摂っていたわたくしの隣で、お喋りな先輩メイド達がさえずっています。

「ついに愛しいサリ様のもとへ旅立たれたのよっ」

「あらヤダ、それってただの噂でしょ。前みたいにフラリと出かけたんじゃないかしら」

「気まぐれな方だもの。お屋敷暮らしが退屈だったんでしょうよ」

「愛馬も連れて行ってるしねぇ。どこかの国に観光じゃない?」

 ここにいる誰も、彼がどんな胸のうちを抱えていたか知りません。だから、好き勝手言えるのです。

 わたくしは食堂の窓越しに、サリの花が植えてある一角を眺めます。

 少しだけ開け放した窓を擦り抜けて、サリの花の香りが漂ってきます。

 イネス様の口笛が、聴こえた気がしました。





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