第5話 停滞の心地よさ
何度目かの「十二月六日」。
俺は、登校する足を止めて、あえて逆方向の海へと向かった。
どうせ、放っておけば時間は戻る。
学校へ行って、陽葵の祝福を受け、未来への希望を語れば、午前零時にすべてがリセットされる。
だったら、その「成功ルート」から外れたらどうなるのか。
冬の海は、荒々しい波がテトラポットを叩き、白い飛沫を上げている。
俺は防波堤に座り込み、学校をサボって、ただぼんやりと水平線を見つめていた。
(……このまま、夜になればどうなる?)
もし、俺が「A判定」を喜びもせず、陽葵とも会わず、未来への一歩を放棄したら。
この世界は、俺を先へ進めてくれるんだろうか。
スマホが震える。陽葵からの着信だ。
画面には「どうしたの?大丈夫?」というメッセージが並ぶ。
胸がチリチリと痛むのを無視して、俺は電源を切った。
夕方になり、辺りが暗くなる。
家へ帰り、適当に食事を済ませ、勉強机には向かわずにベッドに横たわった。
未来なんて考えない。ここから抜け出す努力もしない。
ただ、この冷たい空気に身を任せて、時間が過ぎるのを待つ。
――そして、午前零時。
砂嵐は、起きなかった。
目を開けると、そこには冬の朝日が差し込んでいた。
枕元の時計を見る。十二月七日。
「……進んだ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
進んだんだ。あんなに熱望していた「明日」が、ようやくやってきた。
でも、その代償は「俺の夢を捨てること」だった。
学校へ行くと、陽葵が血相を変えて駆け寄ってきた。
「湊!昨日どうしたの!?連絡もつかないし、心配したんだよ……!」
「……わりぃ。ちょっと、体調崩して寝てた」
「もう、びっくりさせないでよ。……ねえ、模試の結果、どうだった?昨日、発表だったでしょ?」
陽葵の問いに、俺の心臓が跳ねる。
俺は、ポケットの中でくしゃくしゃになった【A】判定のプリントを握りしめた。
「……ああ、ダメだったよ。全然届かなかった」
嘘をついた。
自分の誇りも、努力も、すべてドブに捨てるような嘘。
「え……そんな、湊が……?」
陽葵は絶句した。
その瞳がみるみるうちに潤み、まるで自分の心臓を握りつぶされたかのような、激しい痛みに顔を歪めた。
彼女は本当に、俺がこの町を出るためにどれだけ削って勉強してきたかを知っているからこそ、俺の「失敗」を本気で、心の底から悲しんでくれた。
「嘘……なんで。あんなに頑張ってたのに。神様、ひどいよ……」
陽葵はポロポロと涙をこぼし、俺の袖を掴んで、震える声で何度も「ごめんね、何もできなくてごめんね」と繰り返した。
そこには一点の曇りもない、俺への同情と慈愛しかなかった。
――けれど。
その完璧な善意に触れるほど、俺の心は冷えていった。
「……そっか。残念だったね。でも、湊。……いいじゃない。この町の近くの大学なら、まだ間に合うし。無理して遠くに行かなくても、湊はずっとここにいられるよ」
彼女は涙を拭い、俺を元気づけようと必死に笑顔を作った。
その言葉を聞いた瞬間、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
陽葵はただ、傷ついた俺に寄り添いたいだけなのだ。
俺がこの町にいることを「いいじゃない」と言ったのも、彼女なりの精一杯の慰めだ。
それなのに、俺の耳にはそれが、逃げ場のない檻の格子を閉める音のように聞こえてしまった。
同時に、酷く卑怯な安堵が俺の胸をかすめた。
俺は今までずっと、この町を出ることに引け目を感じていた。
自分の夢を叶えるということは、俺をこれほどまでに想ってくれる陽葵を、この何もない冬の町に一人きりで置き去りにするということだ。
彼女が「応援してる」と言って笑えば笑うほど、俺は自分だけが自由になろうとしている裏切り者のような気がして、吐き気がするほどの罪悪感に苛まれていた。
でも、もし俺に実力がなくて、どこにも行けないのだとしたら。
「行かない」んじゃなく、「行けない」のだとしたら、俺はもう自分を責めなくていい。
彼女を裏切る必要もなくなるし、彼女が寂しそうに坂道で立ち止まる姿を見ることもない。
もう、苦しい勉強もしなくていい。陽葵を悲しませる罪悪感からも解放される。
自分のために生きようとするから、こんなに苦しいんだ。
ループなんて異常なことが起きるのも、きっと俺が自分の身の丈に合わない野心を持ったせいだ。
なら、いっそ自分の未来なんてガラクタ、全部捨ててしまえばいい。
この灰色の世界で、唯一本物の体温を持って俺を必要としてくれる陽葵。
彼女が笑ってくれるなら、俺の人生の目的は、もうそれだけで十分なんじゃないか。
ただ、この停滞した町で、彼女の笑顔だけを守って生きていけばいい。
それは、自分自身の足で歩くことを放棄した俺が、最後に縋り付いた「尊い義務」という名の逃げ道だった。
「……そうだな。……そうかもな」
俺は力なく笑った。
その瞬間、周囲の景色が少しだけ「鮮明」になった気がした。
モノクロだった冬の景色に、わずかに色が戻り、風の音が心地よく響く。世界が俺を許している。
「ここではないどこか」を目指すことを諦めた俺を、この世界は優しく迎え入れようとしている。
それは、恐ろしいほどの心地よさだった。
だが、俺の心の奥底では、何かが悲鳴を上げていた。
これでいいのか。俺が、俺であるための理由を、全部捨てていいのか。
その夜、俺は夢を見た。
真っ暗な部屋の中で、俺が自分の手で、自分の翼をもぎ取っている夢だ。
隣で陽葵が、悲しそうに泣きながら、俺の背中を優しく撫でてくれていた。




