第3話 零時の砂嵐
家に着いてからも、俺の心臓はどこか落ち着かないリズムを刻んでいた。
夕飯に何を食べたかもよく覚えていない。
親父が「A判定だったんだってな」と、珍しく上機嫌で話しかけてきたのを適当にかわして、逃げるように自分の部屋へ戻った。
部屋の中は、ストーブをつけていないせいで氷のように冷え切っている。
俺は机に向かい、いつものようにスタンドのスイッチを入れた。
壁に貼られた世界地図。
何度も指でなぞったせいで、欧州や北米のあたりは紙が少し波打っている。
引き出しを開け、今日持ち帰った【A】判定のプリントを、留学のパンフレットやパスポートの申請書類と一緒に『一番大切な場所』に重ねた。
(……あと少しだ。あと少しで、俺はここから出られる)
深夜の静寂は、昼間の喧騒よりもずっと深く、重い。
時折、建付けの悪いサッシがガタガタと北風に震える音が、静まり返った部屋に響く。
俺は厚手のパーカーのフードを深く被り、シャーペンを握り直した。
二次試験に向けた英語の長文。
頭の中に異国の言葉が流れ込んでくる。
単語の一つひとつが、この閉ざされた町から俺を遠くへ運んでくれる翼のように感じられた。
一分一秒を惜しんで、俺は未来へと手を伸ばし続けた。
ふと、視線を上げたとき。
机の上のデジタル時計が、午後十一時五十九分を示していた。
その瞬間、世界から一切の音が消えた。
ストーブのパチパチという音も、風が窓を叩く音も、自分の呼吸音さえも。
まるで見えない真空の壁に、部屋ごと閉じ込められたような不自然な静寂。
「……なんだ?」
自分の声を出そうとしたが、喉が何かに締め付けられているみたいに動かない。
耳の奥で、ザーッという不快な音が鳴り始めた。
テレビのチャンネルが合わない時に流れる、あの砂嵐の音。
それが脳みそを直接かき回すような勢いで増幅していく。
視界が歪んだ。
壁の世界地図が、床に置いてある参考書が、溶けた絵の具みたいにぐにゃりと形を失っていく。
必死に机の角を掴もうとしたが、指先の感覚がない。
自分の身体が、足元からさらさらとした砂になって崩れていくような、耐え難い喪失感。
(やめろ。俺は、俺はまだ――)
掴み取ったはずの「未来」が、猛スピードで遠ざかっていく。
A判定を喜んでくれた陽葵の笑顔。
坂道で指を絡めた時のココアの温かさ。
それらすべてが、誰かの手によって乱暴に消しゴムで消されていくみたいに、真っ白なノイズに飲み込まれていった。
意識の底へ、沈んでいく。
誰かに背中を、氷のように冷たい手で撫でられた気がした瞬間、俺の意識は完全に途絶えた。
……次に目を開けたとき、俺を襲ったのは、暴力的なまでの「既視感」だった。
ガタガタと、建付けの悪いサッシが冷たい北風に震えている。
窓の外には、昨日と寸分違わぬ、どんよりとした鉛色の空が広がっている。
俺は、机に突っ伏していた体をゆっくりと起こした。
身体が、ひどく重い。
夢でも見ていたのかと思い、枕元に置いたスマホを手に取る。
「……は?」
画面に表示された日付は、十二月六日。
一瞬、思考が停止した。
寝ぼけているだけだ。
日付の設定が狂っているのか、それとも俺の頭がおかしくなったのか。
俺は震える手で、カバンの中から昨日持ち帰ったはずの「A判定のプリント」を探した。
――ない。
カバンの中にあるのは、昨日解いたはずの、真っ白なままの練習問題。
机の上を見渡しても、あの『一番大切な場所』にしまったはずの留学パンフレットさえ、どこにもない。
心臓が、喉元まで飛び出しそうなくらい激しく打ち鳴らされる。
俺は逃げるように部屋を飛び出し、学校へ向かった。
冷たい風を切って走る。肺が痛い。
でも、この痛みさえも「作り物」のように感じられて仕方がなかった。
校舎に着き、自分の教室のドアを開ける。
そこには、昨日と全く同じ光景があった。
やる気なさそうに回る古びた扇風機。生温い空気。
そして。
「みなとーっ!おめでとう!見たよ、A判定!」
昨日と同じタイミング。
昨日と同じトーン。
昨日と同じ、眩しすぎる笑顔。
マフラーに顔を埋めた陽葵が、俺の手をぎゅっと握りしめてくる。
彼女の温かい手のひら。
でも、その温もりが今の俺には、何よりも冷たく、恐ろしいものに感じられた。
「……陽葵。お前、今……なんて言った?」
「え?何言ってるの。湊、A判定だったんでしょ!神様はちゃんと見てたんだね!」
陽葵は、一点の曇りもない笑顔で俺を見つめている。
彼女の中では、今は間違いなく「最初の」十二月六日なのだ。
俺は、自分の手がガタガタと震え始めるのを抑えることができなかった。
最高の判定。
輝かしい未来。
それらはすべて、この冬の空の下、繰り返される無限の牢獄への招待状に過ぎなかったのだ。




