第2話 帰り道の約束
放課後の昇降口を出ると、刺すような北風が容赦なく俺たちの頬を叩いた。
空はさらに低く垂れ込め、夕刻というにはまだ早い時間なのに、街灯がポツポツと頼りなく灯り始めている。
「さぶっ!ねぇ、湊、早くあそこの自販機行こう。指が凍っちゃう」
陽葵は首をすくめながら、学校の門のすぐそばにある、古びた自動販売機へと駆けていった。
俺もその後を追う。
制服のダッフルコート越しでも、冬の冷気は容赦なく体温を奪っていく。
この町の冬は、ただ寒いだけじゃない。
湿り気を帯びた重い空気が、肺の奥まで凍らせにくるような、逃げ場のない冷たさだ。
ガラン、と重い音を立てて落ちてきたのは、真っ赤な缶ココア。
陽葵はそれを両手で包み込むと、「はぁー、生き返る……」と幸せそうに吐息をついた。
その吐息が真っ白に染まって、彼女のポニーテールの先をかすめて消えていく。
「ほら、湊の分も。はい、おめでとうの乾杯」
「……おう。サンキュ」
受け取った缶は驚くほど熱くて、かじかんでいた指先がじんじんと痺れるような感覚に襲われた。
俺たちはどちらからともなく、いつもの帰り道である長い坂道へと歩き出した。
坂の上からは、この町の全景が見渡せる。
灰色の海。等間隔に並んだ、どこか寂しげなオレンジ色の街灯。
民家の煙突から細く立ち昇る煙。
子供の頃から何千回、何万回と見てきた景色だ。
以前の俺なら、この景色を見るたびに「早くここじゃないどこかへ行きたい」という焦燥感に駆られていた。
でも、A判定を手に入れた今の俺にとっては、この景色さえも「もうすぐおさらばする過去の断片」のように見えていた。
「ねえ、湊」
陽葵がココアを一口啜り、ふと足を止めた。
「……ん?」
「湊、本当に行っちゃうんだね。東京の大学」
その声は、風にかき消されそうなくらい小さかった。
陽葵の視線は、眼下に広がる街並みに向けられている。
彼女はこの町が好きだ。
週末には商店街の手伝いをして、近所のお年寄りに名前を覚えられていて、この狭くて退屈な箱庭の中で、誰よりも鮮やかに呼吸している。
「……受かればな。まだ二次試験もあるし、油断はできねえよ」
「受かるよ。湊なら絶対。だって、あんなに勉強してたんだもん」
陽葵はそう言って笑った。
でも、心なしかいつもより陽葵が小さく見えた気がした。
「……寂しい?」
気づけば、そんな言葉が口から突いて出ていた。
陽葵は少しだけ驚いたように目を見開いてから、はにかむように眉を下げた。
「寂しいよ。当たり前じゃん。……湊がいなくなったら、誰が私のわがまま聞いてくれるの?誰と一緒に、この坂道を下ればいいの?」
陽葵の言葉が、冬の夜気よりも鋭く俺の胸に突き刺さる。
罪悪感、という言葉じゃ足りない。
自分だけがこの停滞した世界から抜け出し、彼女をこの冬の町に置き去りにしていく。
その事実に、胃のあたりが重く沈むような感覚を覚えた。
「でもね、湊」
陽葵は再び歩き出し、俺の少し前を歩きながら振り返った。
背景にある街灯の光が、彼女の輪郭を淡く縁取っている。
「湊の夢が叶うのが、私の何よりの幸せなの。湊は、こんなちっぽけな町に収まるような人じゃないもん。広い世界を見て、もっとすごい人になって……それで、たまに私のことを思い出してくれれば、それでいいの」
陽葵の声は震えていなかった。
むしろ、自分自身を強く律するような、決意に満ちた響き。
「お正月には、絶対に帰ってきてよね?お土産話、山ほど抱えてさ。……約束だよ?」
彼女が差し出してきた小指。
そのあまりに真っ直ぐな献身に、俺は息が詰まりそうになった。
俺なんかのために、どうしてそこまで笑えるんだよ。
どうして、自分の寂しさを押し殺してまで、俺の背中を押せるんだ。
「……ああ、約束だ。絶対に夢を叶えて、お前を安心させてやるよ」
俺は自分の小指を、彼女の冷たい小指に絡めた。
それが、今の俺にできる唯一の「誠実さ」だと思っていた。
この絆がある限り、俺たちは離れていても大丈夫だ。
俺が成功することが、陽葵への一番の恩返しになるんだ。そう自分に言い聞かせた。
陽葵は「うん!」と大きく頷くと、さっきまでのしんみりした空気を振り払うように、また鼻歌を歌いながら坂を下っていった。
その背中を見送りながら、俺はココアの最後の一口を飲み干した。
缶はすでにぬるくなっていて、甘ったるい味だけが舌に残った。
ふと、視線を上げた。
空の境界線が、不自然に揺らいで見えた。
まるで、世界の端っこがボロボロと崩れ始めているような、そんな錯覚。
(……疲れてるのかな)
俺は頭を振って、その違和感を追い出した。
明日はもっと冷え込むらしい。
早く帰って、次の問題集を解かなきゃならない。
一分一秒を惜しんで、俺はこの町から遠ざかるための努力を続けなければならないのだから。




