第10話 ハッピーエンド
十二月六日。
世界は、まるで巨大な冷凍庫の中に放り込まれたみたいに冷え切っていた。
でも、俺のいるこの場所だけは、驚くほど温かい。
駅前の古い商店街の一角。親父から継いだ店の中に、石油ストーブの匂いが優しく漂っている。
「湊、お疲れ様。はい、温かいココア」
厨房から顔を出したのは、数年前と変わらない――いや、少しだけ大人びて、より穏やかになった陽葵だった。
彼女は結婚指輪の光る手で、湯気の立つマグカップを俺の前に置いた。
「サンキュ、陽葵。ちょうど喉が渇いてたんだ」
俺は彼女に笑いかけ、ココアを一口啜る。
甘ったるい、懐かしい味。
あの日――あの無限に続いた「十二月六日」の牢獄の中で、俺が自分の夢を握りつぶした日から、世界は一度も止まることなく回り続けている。
俺は第一志望だった東京の大学を蹴り、この町の小さな短大を出て、そのまま実家の店を継いだ。
留学?外の世界?
そんな言葉は、今では遠い昔に見た、出来の悪い映画の内容みたいに現実味を失っている。
「ねえ、湊。今朝、物置を掃除してたら、変なもの見つけちゃった」
陽葵がいたずらっぽく笑って、一枚の紙を差し出してきた。
それは、酷く色褪せて、何度も丸めたような跡がついた、あの「A判定」のプリントだった。
「これ、湊が高校生の時のだよね?すごいね、やっぱり湊は頭が良かったんだ」
俺は、そのプリントをじっと見つめた。
【A】という文字。
それを見た瞬間、心の奥底の、もう何年も開けていなかった真っ暗な引き出しが、ガタッと音を立てたような気がした。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、耳の奥でザーッという砂嵐のような音が聞こえた。
古いビデオテープのノイズみたいな、不快な感覚。
かつて俺が熱望していた「外の世界」の眩しさと、それを手に入れようとした時に感じた、あの引き裂かれるような恐怖が、一気に脳裏をよぎる。
――だめだ。思い出してはいけない。
俺は静かに息を吐き出し、プリントを机の上に置いた。
「ああ……そんなのもあったな。でも、もう関係ないよ。俺の居場所は、ここにあるからさ」
俺がそう言うと、陽葵は満足そうに微笑み、俺の肩に頭を預けてきた。
「うん。嬉しい。……ねえ、湊。私、今が一番幸せ。湊がここにいてくれて、毎日私を見てくれて。これ以上のことなんて、世界に何もないよね」
陽葵の声は、甘い蜜のように俺の鼓膜を伝わり、脳を麻痺させていく。
彼女が幸せなら、それでいい。
彼女が望む「湊」でいることが、俺の生存戦略であり、この世界が平和であるための唯一のルールなのだから。
ふと、窓の外に目をやる。
鉛色の空から、白い雪が舞い始めていた。
この町を包み込み、すべての境界線を曖昧にしていく雪。
(……これで、いいんだ)
俺は心の中で、自分に言い聞かせた。
留学パンフレットも、英語の辞書も、いつの間にか全部捨ててしまった。
今の俺は、地図の見方さえ忘れてしまったかもしれない。
でも、迷う必要なんてない。
陽葵の手を握っていれば、ここが世界のすべてであり、ここが俺の終わりの場所なのだから。
「湊?どうしたの、雪に見とれちゃった?」
「……いや。なんでもない。ただ、明日も冷え込みそうだなと思って」
俺は彼女の肩を抱き寄せた。
温かかった。
あまりにも温かくて、息が詰まりそうだった。
時計の針が、重々しく午前零時を指す。
砂嵐は、もう起きない。
世界は、俺が「自分」を殺したことを祝福するように、静かに、穏やかに、十二月七日の朝を連れてくる。
これが、俺たちが勝ち取ったハッピーエンドだ。
俺の目に、ほんの一瞬だけ、かつて憧れた異国の青い空が、幻のように浮かんで消えた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
初めての心理ホラー?だったのですが、いかがだったでしょうか?
お口直しがしたい方は、ファンタジーコメディー
「異世界★魔法少女― 転生初日に聖女扱いされましたが、変身が罰ゲームすぎます! ―」
を読んで気分一新、笑っていただけると嬉しいです。
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