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第1話 最高の判定

この作品を見つけてくださりありがとうございます。

10話完結の短編なので、気軽に読んでいっていただけると嬉しいです。


挿絵(By みてみん)

 十二月六日。

 世界は、まるで巨大な冷凍庫の中に放り込まれたみたいに冷え切っていた。


 古びた木造校舎の教室。

 窓の外には、表情のない鉛色の空が低く垂れ込め、遠くの山々は寒々しい白に覆われている。


 そこから降りてくる冷気が、建付けの悪いアルミサッシの隙間を抜けて、俺の足元をじわじわと侵食していた。


(……まじか。本当に、俺が)


 俺は、かじかんで感覚の薄い指先で、一枚のプリントを握りしめていた。


 昨日、模試の判定サイトで確認した結果を、わざわざ家の旧式のプリンターで吐き出させたやつだ。

 インクの匂いが微かに残る紙面。

 そこには、第一志望校である国立大学の横に、太字の【A】が刻まれている。


 それは俺にとって、単なる「成績優秀」の証じゃなかった。

 この、山と海に挟まれて時間が止まったみたいな、救いようのないクソ田舎から抜け出すための――地図帳の向こう側に広がる『外の世界』へ行くための、たった一枚の通行許可証だ。


 正直、この町が嫌いなわけじゃない。

 ……いや、嘘だ。本当は、たまらなく怖かった。


 駅前の錆びついたシャッター通り。

 数十年変わらない看板。


 大人たちが酒の席で話すのは、明日の天気か、誰かの家の冠婚葬祭の話ばかり。

 ここにいれば安全で、平穏で、そして――一生、何も変わらない。

 ここで生まれ、ここで育ち、ここで誰かと結婚して、ここで死んでいく。


 そんな決められたレールを想像するだけで、足元からじわじわとコンクリートで固められていくような、得体の知れない閉塞感に襲われる。


 だから俺は、部活も引退してからは、ひたすら図書館の主みたいに勉強に没頭した。


 まだ見ぬ国の名前、異国の言葉。

 それらへの憧れだけが、俺を動かす唯一のガソリンだった。

 偏差値が上がるたびに、自分を縛る鎖が一つずつ外れていくような気がしていた。


「みなとーっ!おめでとう!見たよ、A判定!」


 突然、凍りついた空気を切り裂くような、弾ける声が届いた。


 振り返るより先に、厚手のマフラーに顔を半分うずめた幼馴染の陽葵(ひまり)が、俺の目の前に飛び込んできた。

 彼女の吐く息が、真っ白な塊になって宙に消えていく。


「陽葵。……ああ、サンキュ」


「すごすぎるよ!私、自分のことみたいに嬉しい。(みなと)、ずっと頑張ってたもんね。神様も、ちゃんと見ててくれたんだよ」


 陽葵は、俺の手をぎゅっと両手で包み込んできた。

 彼女の手は、外気で冷えきっているはずなのに、驚くほど温かかった。


 陽葵はいつだってそうだ。

 俺がどれだけ斜に構えて、この町を見下すような真似をしても、そんな俺を肯定して、底抜けの明るさで境界線を越えてくる。


「陽葵が毎日、図書館に付き合ってくれたおかげだよ。単語カード、何千回めくらせたか分かんねえし」


「もう、私の力なんて関係ないよ。湊が頑張ったからだよ。でも嬉しいな。湊の努力が、ちゃんと形になったんだもん」


 陽葵は、凍える空気さえ溶かしてしまいそうな、ひまわりみたいな満面の笑みを浮かべた。


 この笑顔に、俺は何度も救われてきた。

 でも、同時に思う。陽葵はこの町を愛している。

 彼女はこのグレーの空の下でも、鮮やかな色彩を見つけて生きていける人間だ。

 俺とは、見ている世界が根本的に違う。


「……湊?」


「ん?」


「なんか、遠くを見てるような顔してる」


 陽葵が、俺の顔をのぞき込んできた。

 その瞳は、一点の曇りもなく俺の成功を祝福している。


 そのとき。ふと、変な感覚に襲われた。

 一瞬だけ、視界の端がぐにゃりと歪んだような気がした。


 教室の中の喧騒――誰かの笑い声や、椅子を引く音――が、水中に沈んだみたいに遠のく。世界から色彩が剥がれ落ち、古い映画のフィルムに走るノイズのような筋が見えた。


「――っ」


 心臓が、不気味なリズムでドクンと跳ねた。冷や汗が背中を伝う。


「湊?どうしたの、やっぱり顔色悪いよ。……知恵熱?」


「……いや、なんでもない。ちょっと立ちくらみしただけだ」


 俺が強く瞬きをすると、ノイズは嘘みたいに消えていた。


 目の前には、心配そうに眉を寄せた陽葵がいる。

 いつもの、温かい陽葵だ。


「無理しすぎなんだよ。判定が出たからって、気が緩んじゃったのかもね」


「かもな。……まあ、まだ模試だし。本番でこけたら意味ねえから」


 俺は照れ隠しに、A判定の紙を適当に四つ折りにした。


 心臓の嫌な鼓動は、まだ完全には収まっていなかった。

 この「最高の判定」を手に入れた瞬間に感じた、得体の知れない「最低の予感」。

 それが何なのか、その時の俺には知る由もなかった。


「よし!じゃあ、今日はお祝いに温かいドリンクを私が奢ってあげちゃう!」


「奢りって……お前、小遣い大丈夫かよ」


「いいのいいの、こういう時のための貯金だもん!」


 陽葵は俺の腕を強引に引っ張って、教室の出口へと向かった。


 彼女に引かれるまま、俺は一歩を踏み出す。

 その一歩が、どこに続いているのかも分からないまま。

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