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第三話「スーツの男」

市場まで二時間。


リンはそう言った。だが蓮の体感では、四時間は歩いた。


廃墟の地帯を抜け、荒野に出た。赤茶けた大地が、地平線まで続いている。草は疎ら。岩が点在し、風が砂を巻き上げる。気温は元いた街の十一月と大差ないが、湿度が低い。唇がすぐに乾いた。


革靴で荒野を歩くものではない、と蓮は学んだ。底が薄く、石を踏むたびに足裏に衝撃が来る。左足の踵に靴擦れができていた。右足の小指も怪しい。


刀は背中に背負っていた。リンが渡してくれた革紐で、斜めに吊っている。鞘の重さが肩に食い込む。ビジネスバッグより重い。歩くたびに腰に当たって邪魔だった。


リンは一度も振り返らなかった。左腕を庇いながら、一定の速度で進み続ける。蓮が遅れると待つでもなく、ただ同じペースで歩いている。


「歩くのも遅いのか、サラリーマン」


キラーが呟いた。蓮は無視した。


この声——二時間歩く間に、何度か話しかけてきた。全て嘲りか挑発。そして必ず最後に「抜け」と言う。抜いて、殺せ。それしか言わない。


蓮は心の中で「キラー」と呼ぶことにした。殺すことしか頭にない声。名前をつけておけば、少しは客観視できる。職場の厄介な相手に心の中であだ名をつけるのと同じだ。


ただ一つだけ、気になることを言った。


「おまえが握ってる限り、その刀は離れない。捨てても戻る。そういう刀だ」


試す気にはならなかった。この荒野で武器——武器と呼べるかは疑問だが——を手放す気にはなれない。


荒野の東端に、崖が見えてきた。灰色の岩壁が、壁のように南北に伸びている。高さは五十メートルほど。崖の中腹に、明かりが見えた。


「あれが市場」


リンが初めて足を止め、崖を指した。


近づくと、崖の表面に人工的な段差が刻まれているのがわかった。階段。窓。手すり。崖そのものを削り出して作った街。建物と岩壁が一体化し、蔦と布の日除けが垂れ下がっている。煙が何箇所かから上がっていた。炊事の煙だろう。


人がいた。


崖の入り口——大きな岩をくり抜いたアーチ——の前に、二人の見張りが立っていた。革鎧に槍。リンを見て、片方が軽く手を挙げた。


「リン。遅かったな」


「グレイランドで下位が一匹。処理した」


見張りの視線が、蓮に移った。泥だらけのスーツ。額の乾いた血。手に持った黒い鞘の刀。


「……誰だ、そいつ」


「外から来た。たぶん」


「たぶん?」


「オーラが変。見たことない色してる」


見張りの男が、蓮を改めて見た。何かを確かめるように目を細める。蓮には何も見えない。だが男の表情にも、リンと同じ——困惑に近いものが浮かんだ。


「……ヴェルナーに報告しろ。こういうのは評議員の判断だ」


リンは頷き、蓮に顎でアーチを示した。


「入って」



市場の中は、蓮が想像したよりも遥かに——生きていた。


崖の内部に刻まれた通路は、幅三メートルほど。両側に店が並んでいる。布、食料、武器、薬品。看板は読めない文字で書かれているが、商品を見れば何の店かはわかる。


人が行き交っていた。服装は様々。革鎧、布の服、金属の肩当て。リンのような戦闘向きの装備の者もいれば、商人風の者もいる。子供が走り回っている。老人が店先で何かを削っている。


生活が、ここにはあった。


蓮は場違いだった。泥だらけのビジネススーツに、ネクタイ。額に乾いた血。手に刀。すれ違う人間の全員が、蓮を二度見した。


「……なんだ、あいつ」


「外の人間か?」


「あの格好……見たことねぇな」


ひそひそ声が、通路に反響して蓮の耳に届いた。


居心地が悪い。入社初日、スーツの色を間違えて一人だけ紺色だった時の感覚に似ている。あの時は三日で慣れた。ここでは——どうだろう。


リンが通路の奥に進んでいく。蓮はついて行った。通路は上に伸び、階段を登ると、広い空間に出た。崖の内部をくり抜いた広場。天井は高く、岩の隙間から光が差し込んでいる。


広場の奥に、石のテーブルがあった。その向こうに、一人の老人が座っていた。


白髪。深い皺。だが背筋は真っ直ぐで、目に力がある。片目に古い傷跡。手には杖ではなく——剣が、テーブルに立てかけてあった。


「ヴェルナー」


リンが声をかけた。


老人——ヴェルナーが顔を上げた。リンを見て、リンの後ろの蓮を見た。


「……リン。珍しい客を連れてきたな」


声は穏やかだった。だが蓮を見る目は、穏やかではなかった。値踏みしている。蓮の全てを——スーツの状態、傷の具合、手に持った刀、そして蓮自身を。


「グレイランドで拾った。外から来たらしい。オーラが——」


「見えている」


ヴェルナーが遮った。蓮を真っ直ぐに見ている。


「不安定だな。色が……落ち着かない」


また、オーラの話。蓮には自分の体の周囲に何かが見えている気配すらない。


「座れ」


ヴェルナーが、テーブルの向かいの石の椅子を示した。蓮は——従った。他に選択肢はない。


石の椅子は冷たかった。スーツの薄い生地越しに、岩の冷たさが尻に伝わる。会議室の椅子が恋しかった。


「名前は」


「鷹野蓮」


「たかの・れん。東の名前だな」


「向こうの世界の……街から来ました」


ヴェルナーの目が、一瞬だけ動いた。リンも、僅かに表情を変えた。


「……向こうの世界か」


「知ってるんですか」


「名前だけ。外の世界の都市だろう」


外の世界。ヴェルナーは自然にその言葉を使った。つまり——ここは「外」ではない。


「ここは——何なんですか。ここは」


蓮の声が、自分でも思ったより切迫していた。


ヴェルナーは杖代わりの剣に手を置き、蓮を静かに見た。


「この世界は『エルダ』と呼ばれている」


「エルダ」


蓮は繰り返した。名前がある——名前があるということは、つけた誰かがいる。


「北に天使の領域、南に悪魔の領域。中央に人間が暮らす帯がある」


「天使と悪魔が——戦っている?」


「直接は戦えない。世界の基盤が壊れる。だから人間を使う」


「代理戦争」


蓮の口から、自然にその言葉が出た。ヴェルナーの目が微かに動いた。


「……そうだ。百年以上、続いている」


百年。蓮は数字を処理した。百年の代理戦争。さっきの廃墟は、その結果だ。


「天使側の頂点には大天使ミカエル。悪魔側にはルシファー。どちらも人の想像を超えた存在だ」


リンが補足した。


「あたしたちが戦ってるのは、その配下の天使や悪魔。本人たちが出てきたら——世界が終わる」


ミカエル。ルシファー。蓮は名前を頭に刻んだ。その名前を、いつか直接聞くことになるとは——このとき、思いもしなかった。


「我々は独立派。天使にも悪魔にもつかない。ここは中立地帯で、三千人ほどが暮らしている」


「帰れますか」


一番聞きたいことを、最初に。


ヴェルナーの表情が、僅かに曇った。


「——わからない。外から来た者は、過去にもいた。だが、帰った者は知らない」


胃の底に、冷たい石が沈むような感覚があった。


帰れない。少なくとも、今すぐには。明日の仕事。クライアントの納期。ショーンに送ったプルリクエスト。全部——


「帰る? どこに?」


キラーが嗤った。


「おまえの世界はもう遠いぞ、サラリーマン。ここで死ぬか、ここで生きるか。二択だ」


蓮はキラーを無視した。無視するのが上手くなっていた。


「蓮」


ヴェルナーが呼んだ。


「お前の手にあるその刀——」


老人の目が、蓮の膝の上の刀を見ていた。何かを探るような、あるいは——確かめるような目。


「黒いオーラだ。封じ込められている。——だが漏れ出ている」


ヴェルナーの声が低くなった。


「底が見えない。あの刀の中に——何かがいる」


蓮は刀を見た。黒い鞘。自分には何も見えない。だがヴェルナーの目には、リンと同じものが見えているらしい。


「ただの刀じゃないな」


「……声がします」


隠す理由がなかった。状況を正確に伝えた方が、適切な判断を得られる。報連相の基本だ。


「声」


「頭の中に直接。抜け、と。抜いたら0.1秒だけ、体を支配すると」


ヴェルナーの表情が動いた。今度は明確に。驚き——ではなく、警戒だった。


リンが一歩前に出た。


「蓮。その刀、抜いたことは?」


「ない」


「絶対に?」


「はい」


リンの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。安堵——というには硬い。だが、最悪の事態は免れた、という顔。


ヴェルナーが立ち上がった。石のテーブルに両手をつき、蓮を真上から見下ろした。


「聞け、蓮。この世界で生きるなら、力がいる。天使派に入るか、悪魔派に入るか、我々と共にいるか。どれかを選べ」


「……選ぶ前に、教えてください」


蓮は真っ直ぐにヴェルナーを見返した。目つきが少し鋭い——と入社面接で言われた顔を、そのまま向けた。


「オーラって何ですか。あの女——リンさんの槍から出ていた光。あれは何ですか。この世界のルールを、全部教えてください」


ヴェルナーが、初めて笑った。口元だけの、小さな笑い。


「……全部、か」


「仕事で最初にやることは、仕様書を読むことなので」


リンが、蓮を見た。さっきまでとは違う目だった。


「面白い奴」


リンがそう言った。声に、感情が乗っていた。敵意ではない。嘲りでもない。純粋な——興味。


「……ほう」


キラーが、小さく呟いた。いつもの嘲りとは、少し違う響きがした。蓮は聞き流した。



その夜、蓮は市場の一角に与えられた小さな部屋で、天井を見上げていた。


岩を削り出した部屋。窓はない。石の寝台に、粗い布の毛布が一枚。蝋燭が一本。壁に刀を立てかけてある。


ヴェルナーから聞いた話を、頭の中で整理していた。一つずつ、順番に。


一、この世界は「エルダ」。天使と悪魔が支配する異世界。


二、人間は天使派(教会)と悪魔派ギルドに分かれ、代理戦争をしている。


三、独立派はどちらにもつかない第三勢力。生存が目的。


四、オーラ——生命力の可視化。全ての存在が持つ。訓練で強化できる。


五、自分のオーラは「定まらない」。異常。理由は不明。


六、帰還方法は不明。


蓮は目を閉じた。


明日の仕事のことを考えた。ショーンがプルリクエストをレビューする。蓮がいなければ、誰かが引き継ぐだろう。納期は——間に合うかもしれない。蓮が書いたコードは動く。テストも通る。あとはレビューを通すだけだ。


誰かがやってくれる。


自分がいなくても、仕事は回る。


その事実が、少しだけ寂しく、少しだけ楽だった。


「寝るのか」


キラーの声。蓮が目を開けると、蝋燭の炎が揺れていた。


「明日から何をする気だ」


蓮は天井を見た。岩の天井。ワンルームの白い天井ではない。


「……オーラってやつを、使えるようになる」


「は?」


「刀は抜かない。でも戦う力は必要だ。だったら、この世界のルールを身につける」


「おまえ、刀を抜けば——」


「抜かない」


「——0.1秒で」


「抜かない」


沈黙。


蓮は毛布を引き上げ、目を閉じた。


「……くだらねぇ」


キラーが吐き捨てた。いつもの嘲り。だがその声には——何か、違う響きがあったような気もした。


蝋燭の炎が揺れた。


蓮は既に眠っていた。



第四話「仕様書」に続く

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