第二話「灰色の大地」
第二話「灰色の大地」
「——退いて!」
女の声だった。若い。鋭い。命令ではなく、警告。
蓮は壊れた壁の陰に身を寄せた。反射的に。五年間のサラリーマン生活で培ったものがあるとすれば、上司の怒号で身体が勝手に動く条件反射くらいだ。
壁の隙間から、向こう側を覗いた。
最初に見えたのは、光だった。
青白い光が、槍の穂先から迸っていた。長さ二メートルほどの槍を構えた女が、瓦礫の広場に立っている。黒い髪を後ろで束ね、動きやすそうな革の装備を身につけている。年齢は蓮と同じか、少し下か。その表情は——鬼気迫る、という言葉がそのまま当てはまった。
そして、女の正面に——
化け物がいた。
人型だった。二メートル半はある体躯。灰色の肌。腕が四本。頭部には二本の角が生えていて、口が裂けたように横に広い。瞳は赤く、爬虫類のように縦に割れていた。腕の一本一本が人間の胴体ほどの太さで、その先に鉤爪がついている。
悪魔——という単語が、脳裏に浮かんだ。
馬鹿げている。そんなものは存在しない。だが目の前にいる。二メートル半の灰色の化け物が、四本の腕を振り回し、槍を持った女と戦っている。
女は速かった。化け物の腕をかわし、槍で突く。青白い光が穂先に集中し、灰色の肌を抉る。化け物が咆哮した。さっき聞いた、獣じみた悲鳴。あれは悲鳴ではなく——怒りだった。
四本の腕が同時に振り下ろされた。女は後方に跳んでかわしたが、着地した瓦礫が崩れ、体勢を崩した。一瞬の隙。化け物は見逃さなかった。右の上腕が、横薙ぎに女を捉えようとする。
女は槍の柄で受けた。金属音。衝撃で体が横に吹き飛び、壁に叩きつけられた。壁が砕けた。砂埃が舞い上がる。
「見物か? サラリーマン」
頭の中で、声が嗤った。
蓮は壁の陰で、刀を握りしめていた。心臓が痛いほど速く打っている。手のひらが汗で滑る。膝が震えている。
状況を整理しろ。
異世界にいる。化け物がいる。女が戦っている。女は押されている。自分は——壁の陰に隠れている。
「抜けよ。0.1秒でいい。あんな下位の悪魔、0.1秒で——」
「黙れ」
声に出していた。自分でも驚くほど低い声だった。
「……へぇ」
キラーが、少しだけ黙った。
砂埃の向こうで、女が立ち上がった。口の端から血が流れている。槍を構え直す。だが左腕が、不自然な角度で下がっていた。肩を痛めたか、あるいは——
化け物が突進した。地面を蹴る音が、蓮の足元まで振動として伝わってきた。四本の腕を広げ、逃げ場を塞ぐように迫る。
女は迎え撃とうとした。槍の穂先に青白い光が集まる。だが左腕がついてこない。片手での突きは——威力が足りない。
蓮は壁の陰から飛び出していた。
考えたわけではない。判断したわけでもない。
さっき、あの女が叫んだ。「退いて!」——蓮を庇う声だった。見ず知らずの、場違いな男を。
自分が聞いてしまった。その声を。
自分が壁の陰で黙っていたら、その声は無視されたことになる。そして——蓮も、無視した者になる。
その矛盾が、胃を締め付けた。決断というより、逃げられない綱に引っ張られる感覚。
体が動いていた。
化け物の背後から走った。革靴の踵が瓦礫を蹴る。スーツの上着がばたつく。右手に刀。鞘に収まったままの、黒い刀。
距離、十メートル。
化け物の右下腕が、女に振り下ろされようとしている。
五メートル。
蓮は刀を振り上げた。鞘ごと。抜かない。抜く気もない。ただ——鈍器として。
二メートル。
化け物の背中に、黒い鞘を叩きつけた。
全力で。
感触は、コンクリートの壁を木の棒で殴ったようなものだった。
手首に激痛が走った。衝撃が腕を伝い、肩まで痺れた。化け物の背中は——傷一つついていない。灰色の肌は岩のように硬く、鞘の一撃など蚊に刺された程度だろう。
だが、化け物は振り返った。
四つの赤い目が、蓮を見た。
「……あ」
蓮は、自分が何をしたかを理解した。
二メートル半の化け物の背中を、スーツ姿のサラリーマンが、鞘に収まった刀で殴った。ダメージはゼロ。得たものは化け物の注意だけ。
最悪の判断だった。
会議でクライアントの質問に的外れな回答をした時の、あの「しまった」という感覚が、十倍の強度で全身を貫いた。
化け物の右上腕が、蓮に向かって振り下ろされた。
速い。
回避するという選択肢が脳に届く前に、体が動いた。左に跳ぶ。革靴の底が瓦礫の上で滑り、尻から地面に落ちた。腕が頭上を通過した。風圧で髪が乱れた。爪の先が、スーツの肩口を掠めた。布が裂ける音。
「っ——!」
地面を転がった。瓦礫が背中に食い込む。スーツが泥と砂埃でさらに汚れた。クリーニング代が——いや、そんなことを考えている場合ではない。
化け物が蓮に向き直った。四本の腕が、蓮を囲むように広がる。赤い目が、獲物を見定めている。
「抜け」
頭の中で、キラーが言った。今度は嗤っていなかった。
「死ぬぞ。本当に死ぬぞ、サラリーマン」
蓮は刀を握りしめたまま、立ち上がった。膝が笑っている。手が震えている。目の前の化け物は、人間が抗える存在ではない。わかっている。
だが——
「抜いたらどうなる」
「0.1秒で終わる」
「俺はどうなる」
「——0.1秒、俺が借りる。おまえの身体を」
それは答えになっていた。抜けば、自分ではなくなる。0.1秒。たった0.1秒。だがその0.1秒で、自分の体を得体の知れない声に明け渡すことになる。
化け物が踏み込んだ。地面が砕けた。
蓮は——走った。
化け物に向かってではない。横に。壁の残骸に向かって。四本の腕が空を切った。蓮は倒壊した柱の陰に滑り込み、瓦礫の山の向こう側に転がった。
逃げたのではない。距離を取ったのだ。——自分にそう言い聞かせた。
化け物が瓦礫の山を蹴散らしながら追ってくる。石の破片が飛んだ。一つが蓮の額を掠め、血が流れた。
その時——
青白い光が、化け物の脇腹を貫いた。
槍。
女が、片腕で投げた槍が、化け物の脇腹に突き刺さっていた。穂先から青白い光が噴出し、灰色の肌を焼く。化け物が絶叫した。四本の腕が痙攣し、体がよろめく。
女が走ってきた。蓮の横を通り過ぎ、化け物に突っ込んでいく。槍を引き抜き、そのまま回転して喉元を突いた。二度。三度。青白い光が閃くたびに、化け物の体から黒い煙のようなものが噴き出す。
「——オーラの効率がいい」
頭の中で、キラーが呟いた。珍しく、嘲りのない声だった。
化け物が崩れた。膝をつき、前のめりに倒れ、動かなくなった。灰色の肌が急速に色を失い、砂のように崩れていく。数秒で、そこにあったのは瓦礫と黒い染みだけになった。
静寂。
蓮は地面に座り込んだまま、息を荒げていた。スーツは泥だらけ。額から血が流れている。右手には、まだ刀を握っている。
手を見た。
震えていた。指が細かく痙攣している。止められない。
体を確認した。痛みが全身にある。背中、肩、膝。瓦礫に打ちつけた箇所が、じわじわと熱を持ち始めている。
次に、血を確認した。額からの血が顎を伝っている。他に——スーツの右肩が裂けている。その下の肌は無事。化け物の爪は掠めただけだ。
それから——
あの化け物を、殴った。鞘で。効かなかったが、殴った。もし効いていたら。もしあの一撃が通っていたら——殺していたのか。自分は、殺そうとしたのか。
胃が縮んだ。握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込む。震えは止まらない。
女が振り返った。
額にうっすらと汗を浮かべ、左腕を庇うように体を傾けている。青白い光は消え、槍は普通の金属の色に戻っていた。
女の目が、蓮を上から下まで見た。
泥だらけのスーツ。緩んだネクタイ。片方の肩が裂けた上着。革靴。そして——右手に握られた、鞘に収まったままの刀。
「……なに、あんた」
女の声は、さっきの戦闘中の鋭さとは違う。純粋な困惑だった。
蓮は額の血を袖で拭い、立ち上がった。膝がまだ震えていたが、立った。
「通りすがりの——」
何だ。何と言えばいい。通りすがりのサラリーマン?
「——一般人です」
女の眉が、ぴくりと動いた。
「一般人」
「はい」
「一般人が、下位悪魔に鞘で殴りかかった?」
「……はい」
沈黙が落ちた。赤い空の下、廃墟の中で、槍を持った女と刀を持ったサラリーマンが向かい合っている。状況の異常さに、蓮の脳がようやく追いついてきた。
「……くだらねぇ」
頭の中で、キラーが呟いた。心底つまらなそうに。
女が口を開いた。
「あんた、外から来たの」
質問ではなかった。確認だった。
「外……?」
「この世界の人間じゃないでしょ。見ればわかる。オーラが——」
女の目が、蓮の体の周囲を見ていた。蓮には何も見えない。だが女の表情が、一瞬だけ変わった。困惑とは違う何か。驚き——いや、警戒か。
「——変な色してる。まだ世界に適応してない……いや、違う」
「は?」
「あんたのオーラ。何か……おかしい」
意味がわからなかった。オーラも、色も、定まらないという言葉も。だが女の目は真剣だった。
女は槍を背中に戻し、左腕を押さえながら蓮に近づいた。蓮より頭半分低い。だが目の強さは、蓮が今まで会ったどの上司より、どのクライアントより、はるかに上だった。
「名前は」
「鷹野……蓮」
「リン」
それだけ言って、リンは蓮に背を向けた。
「ついてきて。ここは長くいる場所じゃない」
「……どこに」
「市場。ここから東に二時間。独立派の拠点」
蓮の頭に、疑問が山のように積み上がった。この世界は何なのか。あの化け物は何だったのか。オーラとは。独立派とは。なぜ自分はここにいるのか。
だがリンは振り返らなかった。もう歩き始めていた。左腕を庇いながら、瓦礫の間を迷いなく進んでいく。
「ついていけよ、サラリーマン。おまえ一人じゃ、次は死ぬ」
キラーの声に従ったわけではない。
ただ、他に選択肢がなかった。
蓮は刀を左手に持ち替え、リンの後を追った。革靴の底が、見知らぬ世界の瓦礫を踏む。額の血が顎を伝い、ネクタイに赤い染みを作った。
赤い空は変わらない。
太陽のない空の下、スーツ姿の男が、廃墟の中を歩いている。その光景がどれだけ異様かを、蓮自身はまだ理解していなかった。
リンと並んで——正確にはリンの三歩後ろを——歩きながら、蓮は周囲を観察した。
廃墟は延々と続いていた。崩れた石造りの建物。割れた窓。焼け焦げた木材。道路だったらしき平らな地面には、ところどころにクレーターのような穴が空いている。
戦争の跡だ、と直感した。
ニュースで見るシリアやウクライナの映像に似ている。ただし建物の様式が中世ヨーロッパに近い。電線も信号機もない。代わりに、壁面に奇妙な紋様が刻まれた石柱が、等間隔で倒れていた。
「ここは……何があったんですか」
リンは前を向いたまま答えた。
「戦争。ずっとやってる。百年くらい」
「百年」
「天使と悪魔の代理戦争。人間を使って」
天使。悪魔。代理戦争。
単語の一つ一つは知っている。だが並べられると、意味が溶ける。
「さっきの化け物は——」
「下位悪魔。雑兵みたいなもの。あんなの、斥候にもならない」
蓮は、さきほど自分が鞘で殴りかかった化け物の姿を思い出した。二メートル半。四本の腕。岩のような肌。あれが——雑兵。
胃が冷たくなった。
「あんた、その刀——」
リンが、初めて振り返った。その視線が、蓮の左手の刀に向けられている。
リンの表情が変わった。眉が寄り、目が細くなる。何かを見定めるような——いや、何かを恐れるような目。
「その刀……何」
「わかりません。気づいたら持っていた」
「オーラが——」
リンが言葉を切った。刀を見る目に、警戒がある。
「黒い。……見てると、吸い込まれそう」
蓮は自分の手元を見た。黒い鞘。特に変わったところはない。だがリンには、何かが見えているらしい。
「抜かなかったね」
「……抜けません」
嘘ではなかった。抜けなかったのだ。あの声に、体を明け渡す。その恐怖が、化け物への恐怖を上回っていた。
リンの目が細くなった。何かを値踏みするような、あるいは測るような目。
「抜けない、じゃなくて——抜かない?」
蓮は答えなかった。自分でもどちらなのか、わからなかった。
リンはそれ以上聞かなかった。前を向き直し、歩調を速めた。
「……あの女、おまえより余程使えそうだ」
キラーが呟いた。嘲るような声。さっきの「オーラの効率がいい」という呟きと、繋がった。
蓮は黙って歩いた。革靴の底が、異世界の砂利を踏む音だけが、二人の間に響いていた。
第三話「スーツの男」に続く
第三話「スーツの男」に続く




