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第一話「残業」

終電を逃した。


23時47分。最終電車は23時38分に死んでいた。

鷹野蓮はディスプレイの隅の時刻を見て、小さく舌打ちした。

缶コーヒーの空き缶が三本。納期は明後日。クライアントの仕様変更で設計書の三分の一が書き直し。よくある話だ。


蓮はコミットを打ち、ノートPCを閉じる。スーツの上着を羽織り、ネクタイを緩めたまま、誰もいないオフィスを出た。


11月の夜気が頬を刺した。タクシーは捕まらない。仕方なく歩く。缶コーヒー三本分のカフェインが体に残っていて、眠気はなかった。


ビルの谷間を縫うように歩く。革靴の音だけが、規則正しく夜に刻まれていく。


角を曲がったとき、足が止まった。


理由はわからない。


右側に、ビルとビルの間の細い路地がある。幅は一メートルもない。室外機と排水管が壁面に張り付いていて、奥は暗くて見えない。都市にはこういう隙間がいくらでもある。普段なら目にも留めない。


なのに、足が止まった。


視線が、路地の奥に引き寄せられた。暗闇の中に、何かがある。見えているわけではない。ただ——そこに在ると、わかった。体の内側の、言葉にならない部分が、そう告げていた。


蓮は路地の入り口に立ち、スマートフォンのライトを点けた。白い光が路地の奥を照らす。


排水管。室外機。コンクリートの壁。その奥に——


刀があった。


黒い鞘に収まった、一振りの日本刀。壁に立てかけるでもなく、地面に転がるでもなく、まるで誰かがそこに置いたかのように、壁と壁の隙間に挟まるように立っていた。


鞘は漆黒。装飾は一切ない。柄は古びた白い布で巻かれていて、鍔は飾り気のない丸い鉄。全長は一メートル弱。どこかの骨董品店から流れてきたのだろうか。それにしては、ゴミ一つない鞘の表面が不自然だった。ここにどれだけの時間置かれていたのか知らないが、汚れていない。


「……なんだこれ」


声に出すと、少しだけ冷静になれた。


銃刀法違反。最初に浮かんだのはそれだった。路地裏に刀が落ちている。通報すべきだ。110番。それが正しい判断だ。


だが、手は既にスマートフォンの電話アプリではなく、路地の奥へ伸びていた。


なぜ。


自分でもわからなかった。ただ、指先が——手のひらが——この刀に触れなければならないと叫んでいた。理性は「やめろ」と言っていたが、体は動いていた。


室外機と排水管の間をすり抜け、蓮は刀の前に立った。


近くで見ると、刀は思ったより重厚だった。鞘の黒は、光を吸い込むような深い黒。街灯の光もスマートフォンの光も、その表面で死んでいるように見える。


手を伸ばす。


指先が柄に触れた。


その瞬間——


---


声が聞こえた。


体の外からではない。頭蓋骨の内側、脳の奥、意識の最も深い場所。そこに、直接、声が響いた。


低い声。男の声。嘲笑うような、値踏みするような、冷たい声。


「——へぇ」


蓮の手が、反射的に柄を離そうとした。だが、指が動かない。柄に触れた五本の指が、まるで溶接されたように張り付いていた。


「なっ——」


「……面白い手をしてるじゃねぇか、サラリーマン」


声が笑った。明確な嘲りを含んだ、不快な笑い。


心臓が跳ねた。全身の毛穴が開くのがわかった。恐怖。それは純粋な恐怖だった。この声の持ち主が何であれ、自分の頭の中に存在していること自体が、根本的に間違っている。


「離せ——手を離せ!」


「離す? 俺じゃねぇよ。おまえが握ってるんだ」


その通りだった。蓮の手は、柄を握りしめていた。指が白くなるほど強く。離そうとしているのに、体が言うことを聞かない。


「抜け。0.1秒でいい。それだけで——」


声が途切れた。


同時に、世界が歪んだ。


路地裏の壁がひび割れた——物理的にではない。壁の表面に、無数の亀裂が走った。亀裂の向こう側に、光が見えた。白い光ではない。赤と金と黒が混ざり合った、名前のない色の光。


足元が消えた。


コンクリートの地面が、ガラスのように砕けて落ちていく。蓮の体が、重力を失った。いや、重力が変わった。下ではなく、亀裂の向こう側に——光の奥に——引きずり込まれていく。


声は何も言わなかった。


蓮は叫んだかもしれない。叫ばなかったかもしれない。自分の口が開いているのか閉じているのかすら、わからなくなった。視界が光で塗りつぶされ、音が消え、匂いが消え、重力の感覚が消え——


街が、消えた。


---


最初に戻ったのは、匂いだった。


土と、鉄と、焦げた何かの匂い。コンビニの排気口の匂いでも、オフィスのエアコンの匂いでもない。もっと原始的な、剥き出しの大地と火の匂い。


次に、音。


遠くで何かが崩れる音。風の音。そして——金属と金属がぶつかる、甲高い音。


それから、感触。


背中の下に、砂利と瓦礫。スーツの生地越しに、尖った石が肩甲骨に食い込んでいる。右手には——まだ刀を握っていた。


蓮は目を開けた。


空が赤かった。


夕焼けではない。空そのものが、薄い赤銅色に染まっていた。雲は灰色で、低く垂れ込めている。太陽は——見当たらない。光源がないのに明るい。赤い空が、そのまま光を放っているようだった。


胃の底が、ひやりとした。鼓動が耳の裏で鳴っている。喉の奥が酸っぱい。


「……は?」


声が掠れた。


体を起こそうとして、全身に鈍い痛みが走った。打撲。落下の衝撃だろう。だが骨は折れていない。スーツは砂埃で汚れ、左肘の部分が破れていた。ネクタイは首に巻き付いたまま。革靴も両足に残っている。ビジネスバッグは——ない。路地裏に置いてきたのか、途中で消えたのか。


右手の刀は、しっかりと鞘に収まっていた。


蓮は周囲を見回した。


瓦礫だった。


建物の残骸。壁だったもの、柱だったもの、屋根だったもの。見たことのない素材——石造りだが、日本の建築ではない。西洋の、しかも中世のような石組み。それが、半壊し、崩れ、積み重なって、見渡す限りの廃墟を作っていた。


あの街ではない。


日本ですらない。


地球ですら——


「ようこそ」


頭の中で、声が笑った。


「おまえの世界じゃねぇよ、サラリーマン。ここは——」


声が何かを言いかけた、その瞬間。


金属音が、すぐ近くで鳴った。五十メートルと離れていない。壊れた壁の向こう側。金属が金属を弾く音。そして——


悲鳴。


人間の悲鳴ではなかった。もっと低く、もっと太く、もっと獣じみた咆哮。壁の向こうで、何かが暴れている。地面が微かに振動した。


蓮は刀を握りしめたまま、立ち上がった。膝が震えていた。頭の中は真っ白で、状況を理解するための情報が何一つ足りていない。ここがどこで、なぜ自分がいて、何が起きているのか。


わかっていることは一つだけ。


目の前で、誰かが戦っている。


壁の向こうから、鋭い女の声が聞こえた。


「——退()いて!」


---


第二話「灰色の大地」に続く

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