第四片
ベツレヘムに着くと、街はこぞって騒ぎ立ちました。
あのひとと同じ年頃の女は皆、家を出て、あのひとを囲みました。
女たちはとても懐かしがって、あのひとに触れ、頬を手で挟んで顔を確かめ、皺の寄った手を撫でさすりました。
このお方は、やはり、大勢からこんなにも愛され慕われる方だったのだと思って、わたしはとても誇らしくなりました。
けれど、あのひとは、ひどく沈んだ顔で言いました。
「主は私を、から手で帰されました」と。
「主は私を悩まし、災いをくだされた」と。
その時わたしは、あのひとの後ろで亡霊のようにたたずんで、あのひとを囲む人々の影が地面に滲んで揺らめくのを、目を大きく張って見つめていました。
そうしていないと、涙が零れてしまいそうだった。
このひとにとって、わたしなど、物の数にも入っていなかった。
わたしはこのひとのわずかな慰めにさえなっていない。
あれだけ心を尽くして愛を語り、見せても、このひとの中にわたしはいない。
胸の奥を冷たい絶望が撫でていくようでした。
ただ黙って、歯を食い締めて、あのひとの古い友だちがあのひとを慰めるのを聞いていました。
あの時、わたしは、居ないのと同じでした。
誰も、おそばについて旅をしてきた外国人のことなど、少しも顧みない。あのひとまでも。
それからのことはよく覚えていません。
旅荷を運んだり、歓迎の宴に加わったり、いろいろなことをしていたはずでした。
けれど、気づけば、もう外は暗く、家の寝台に横たわっていました。
あのひとの昔の家です。
久しぶりにちゃんとした夜具の柔らかさを味わっていると、あれをしなきゃ、これをしなきゃという考えが、よく晴れた日のちっぽけな水たまりのように消えていきました。
そうして頭の中が空っぽになった代わりに、胸の中に、針を逆立てたハリネズミが転がり込んできた心地がしました。
なにかが心の柔いところを突いて、わたしを責め苛むのです。
あの辛さは今でも鮮やかに思い出せます。胸を刺します。苦しい。いえ、よしましょう。今となっては過ぎた事です。思い出す甲斐など無い。
何が、ということはないけれど、とにかく胸がいっぱいになって、外では我慢できていた涙が込み上げてきて、顔を枕に押しつけて泣きました。
いっそ、こんな街など無ければよかった。
ずっとあの荒野であればよかった。
二人きりで旅していたかった。
こんな痛みを感じることになるなんて、知っていたなら。
あのひとに聞こえないように、声を押し殺していました。
それなのに、どうしてだか、あのひとはすぐにわたしのもとへやって来て、こう言いました。
「娘よ、なぜ泣いているのです。どうぞ、ほら、これで涙をお拭きなさい。誰かにいじめられたのですか。夫を思い出して寂しいのですか。それとも、これからの暮らしが不安ですか」
どれも首を振ると、あのひとはわたしの頭をそっと胸に抱いて、
「きっと旅の疲れが出たのでしょう。落ち着くまで、こうしていなさい」
と、わたしの背中をやさしくさすってくれました。
やっぱり、わたしのことを気にかけてくれていたのだ。
そう思うと、途端にうれしくなりました。
外ではあんなふうに言っておいて今更なにを、という思いが、少しもよぎらなかった訳ではありません。
それでも、捨てられた後に思い直して拾ってもらえたような、そんな心地がしました。
あんまり嬉しくって、あのひとに抱きつくと、
「少し痛いわ。もう少し力をゆるめなさい」
と、以前の市場の時とおんなじ、困ったような笑みを見せてくれました。
今もあのひとのお役に立ちたい一心でいるけれど、もしかすると、わたしは、あのひとを困らせるのが好きなのかもしれません。
胸中がくすぐったくて、愛おしい気持ちに浸されて、あのひとに温かく抱きしめてもらっていると、みるみるうちに、体中に力がみなぎっていきました。
わたしはあのひとの胸から顔を上げて、明日から麦畑へ行かせてほしいと願いました。
これといった生業を持たず、夫を失った女に許される仕事など、落ち穂拾いしかありません。
義父も夫もいない今、わたしが働き、その日の食事を得なければなりません。
ベツレヘムに着いたばかりだけれど、悠長には構えていられませんでした。
あのひとは、少し疲れたような、穏やかな微笑みを浮かべて、
「娘よ、行きなさい」
とおっしゃいました。




