14.怪しい影
神官長のビショップ達が神殿の階下へ降りてから、しばらく経った頃だった。礼拝室には、階段を駆け上がる音が響いた。
「皆様…」
若い女性のか細い声が、部屋に響いた。ルーシーだ。
「ああ、君か。神官長はどうした」
ナッシュビルが尋ねながら、妻の肩を抱き寄せた。スペンサーも不審な顔つきで、ルーシーの様子を見つめている。
「神官長は…」
ルーシーはそう言って、手に抱えていた衣類をこわごわと突き出した。
「それは?」
室内にいた生存者達は一斉にざわついた。その引きちぎられた服には、ナッシュビルも見覚えがある。赤銅色のロングドレスは、見た目に変わりはない。だが、それと同じ色の血液が床に滴り落ちていた。
「なんということだ…」
ナッシュビルは頭を抱え、バーバラが耳もつんざくような悲鳴を上げた。
「し、階下にも蜂が出たのか」
「わ、私。ご、ご、ごめんなさい」
スペンサーが歩み寄り、うつむくルーシーへ静かに語りかけた。
「ルーシー。落ち着いて話せ。何があった」
「はい。わ、私達は書庫に行ったんです。そしたら毛布がなくて。神官長に、隣の倉庫を見てきてと言われました。私は倉庫にいき、毛布を見つけて。そこで、備蓄用の食料もあるかもしれないと思って、探していたんです。そしたら…。隣の書庫から窓が割れる音がして。悲鳴が聞こえてきて。怖くて…。な、何もできませんでした。少し経ったら、音がやんで。書庫のドアを開けたら…。神官長の体が…」
そこまで言ったルーシーは両手で顔を覆い、その場にへたり込んだ。バーバラは気が動転し、身体中を掻きむしった。スペンサーは険しい顔をして、両手をグッと握りしめた。
「書庫は、天井近くに窓があるんです。それが、割られてて」
ルーシーが顔を覆ったまま、しゃくりあげた。
「確認しに行く」
スペンサーがつかつか歩き出すと、ルーシーが腕をむんずと掴んだ。
「いけません。蜂がいます。ドアは施錠しました」
「しかし」
「この村は神官長だけでなく、神官のあなたまで失うべきではありません」
ルーシーは声を張り上げ、スペンサーを黙らせた。スペンサーはルーシーをしばらく見つめた後、踵を返した。それから皆の前を横切り、階段を降りていった。
「もう無理。無理よ。こんなところ。もう、たくさん。家に帰るわ」
ナッシュビルの妻、バーバラが長椅子から立ち上がり、ヒステリックに叫び散らした。猛然と室内をつっきり、玄関扉を開けようとしたので、ガルシアに取り押さえられた。
「離して。馬車を呼びなさい」
「馬はもうダメだ」
ガルシアは暴れるバーバラの手首を握りしめた。
「あなたたち、どうかしてるわ。よく平気でいられるわね。異常事態よ」
「異常事態だからこそだ」
「死にたくない。絶対に死にたくないわ」
バーバラは目をむいて戦慄き、絶叫した。
その頃、スカイの自宅では、スカイとルーク、アイリーンが大急ぎで荷造りしていた。
「早く逃げよう」
スカイが切羽詰まった声で言うと、ルークが手を動かしながら幾度も頷いた。
「逃げるって言っても、どこへ」
ありったけのパンを布袋に詰めながら、アイリーンの指先が震えた。スカイはそれを見て、手を握りしめた。
「神殿だよ。頑丈な建物だし」
「どうやって?」
「これさ」
スカイは、自分が持ってきた巣籠を見せた。
「さっきのやつか」
ルークは納得して頷き、布袋に本と羽ペン、インク壺を突っ込んだ。他にも色々なものをぎゅう詰めにしている。スカイは顔をしかめた。
「そんな邪魔なの、置いてけよ」
「いや。必要だ」
ルークは大判の、ベルトのついた本を最後に押し込んだ。それから三人は母屋を出て、納屋に入った。
「何をするの」
アイリーンが見ていると、スカイが巣籠を二つ、持ってきた。
「おばあちゃん、ちょっとしゃがんでみて」
アイリーンが言われた通りにしゃがんだので、スカイが上から巣籠を被せた。女性にしてはやや大柄なアイリーンだが、その体も隠すことができた。
「これを被って、神殿までいく」
「こんなもので? 正気かい?」
「大丈夫。ゆっくり動けば、蜂も襲ってこない」
スカイはオオルリミツバチの小さな巣籠とジャッキーを、自分と一緒の籠に閉じ込めようとした。が、ジャッキーは事態を理解できず、嫌がって暴れた。
「おい、こら。お前もここに隠れるんだよ」
スカイがジャッキーの足を掴み、籠に引き入れようとしたときだった。突然、納屋の窓が音を立てて割れた。縦長の窓からどす黒い毒針が飛び出し、右に左に振れている。ジャッキーは興奮してスカイの手を振り切り、その毒針を嘴で挟み込んだ。
「やめろ、ジャッキー」
スカイは驚き、ジャッキーの首を押さえつけた。
「スカイ。行くぞ」
ルークが籠を被った状態で咎めた。
「ダメだ。ほら、ジャッキー、逃げるぞ」
ジャッキーにはスカイの怒声が耳に入らない。それどころかスカイの手を振り切り、羽根を撒きちらし、毒針を破壊することに躍起になっている。
「おい、いいから逃げるぞ、スカイ」
ルークも声を張り上げた。
「ジャッキー」
「ジャッキーは大丈夫だよ」
ルークは籠を脱いで地面に膝をついたまま、スカイの肩を強く揺さぶった。スカイは我を忘れ、ジャッキーのいる方に手を伸ばし、ルークの手を振り解こうとする。ルークは振り解かれまいと、スカイの肩に爪を食い込ませた。
「大丈夫なもんか。俺が育てたんだ。おい、ジャッキー、それを放せ」
スカイの目からは涙がどっと溢れた。ジャッキーは家族だ。もう絶対、放したくない。
「スカイ」
「放せよ」
「ダメだ」
ルークが弱々しい力を振りしぼり、スカイを羽交締めした。ジャッキーはまだバタバタしながら毒針に喰らいつき、暴れている。ふいに、ボキリと硬い音が響いた。ジャッキーは毒針をへし折ってみせた。毒針を折られた蜂は驚き、腹を引き抜き逃亡した。なのに、ジャッキーは威嚇し、窓から飛び出した。
「ジャッキー、行くな」
スカイはルークを突き飛ばし、絶叫した。だが、ジャッキーは翼を羽ばたかせ、窓枠に映る空の中へ吸い込まれていった。
スカイは呆然として、割れた窓のふちに手をかけた。風が納屋の中に入り込み、遠くの蜂の羽音を連れてきた。スカイはそれを無視し、床にひざまづいた。信じられなかった。どうしてこんなことになったのか。涙が、とめどなく流れ落ちた。
「スカイ。ジャッキーは強い子だ。蜂なんかに負けない」
穏やかな声が言った。いつの間にかアイリーンも籠を脱ぎ、こちらを見ている。スカイの両手のひらをキュッと握り、親指で優しく手の甲を撫でた。突き飛ばされたルークも咳き込みながら、黙って頷き続けた。
スカイは肩を震わせた。後から後から涙が流れた。涙が唇の境に流れ込み、溢れた分が地面を濡らした。スカイは強烈に下唇をかんだ。口の中で、血と涙の味がした。アイリーンとルークから体を離し、立ち上がると、のろのろと籠に入った。
「行こう」
ルークが小声で呼びかけた。三人揃って籠に収まり、納屋を静かに這い出た。
戸外で日が徐々に傾きかける頃、薄暗い石づくりの地下室では、甲高い笑い声が響いていた。
「こんなにたくさん、人間を食べたのは何年ぶりかしらねえ。出産が楽しみよ、侍従長」
天蓋ベッドに寝転がり、顔を手であおいでいる赤毛の女が言った。衣服は一切身につけず、シルクの薄い掛け布団を掛け、くすくすと笑っている。その腹は天井まで届きそうなほど巨大に膨れ上がり、それをポンポンと叩いた。侍従長と呼ばれた者はそばでひざまづき、頭を垂れた。
「はっ。それまで陛下が健やかでいらっしゃいますよう、従者一同、お世話をつとめてまいります」
「あなたには今後、やってもらう仕事があるからねえ。私の世話は他の者でいいわ。でも、予定日にはちゃんとここに戻ってきてよね。手伝いがいた方が楽だし」
そう言って、赤毛の女は侍従長の手に何かを握らせた。
「もちろんでございます、お任せください。おお、なんでしょう、これは」
侍従長は手の中にあるそれを見た。金色の大きな懐中時計で、針は一本しかない。十二個の数字の代わりに、ぎっしりと細かな目盛りが放射状に刻まれている。
「ちょっと街に出て、つくらせたの。その針が一周したら、戻ってきてね」
「かしこまりました。ありがとうございます」
侍従長は赤くただれた顔に笑みを浮かべ、頭を垂れた。
「ねえ、大公」
「はい」
赤毛女に大公、と呼ばれた者が、侍従長の隣で答えた。
「残りの肉も運んできてくれないかしら」
「かしこまりました」
「それとね、大公。侍従長は忙しいから、エミリーのことも使ってほしいの。昨日から村に潜入させてね。美味しい胎子を取ってこさせたのよ。使えるわ」
赤毛女が上唇をじゅるりと舐め回すと、エミリーも侍従長も頷いた。
「お心遣い、ありがとうございます」
大公が頭を下げると、赤毛女は薄ら笑いを浮かべた。
「じゃあ、頼むわね」
同じ頃、地下の図書館では「立ち入り禁止」のドアを開けたスペンサーが、燭台の灯りでなかを照らし、考えこんでいた。ドアの内側は廊下になっていて、書庫の扉、倉庫の扉、さらに地下二階へと続く階段がある。
スペンサーは書庫のドアノブを回してみた。ガチャガチャと音がするだけで、開くことはなかった。




