コーヒーは泥水
「おはよう、村上」
「……おはよう」眠そうに村上が挨拶を返す。
私はなるべく友好的な笑顔で村上を迎えた。公園にある背の高い時計を見ると、朝の十一時時過ぎだった。
私は駅から少し離れた場所にある公園のベンチに座っていた。その横には、愛用しているオレンジの自転車がもたれている。
村上がいつもこの公園を横切ってバイトに向かっている事を相川から聞かされていたので、互いに分かりやすい場所だと考え、待ち合わせの場所にしたのだ。
「本当に来るとは、思わなかった」約束をすっぽかされるんじゃないかと思っていたので、ひとりで映画を観にいく予定を立てていたのは、内緒だ。
「誘った本人が何を言っているの」
「確かにね」私は立ち上がり、自転車を立て直す。「それじゃ、行こうか」
私達は公園を出て、川沿いに歩く。犬の散歩をしている主婦や、ジョギング中の女性を見かけた。すれ違いざまに、挨拶を交わす。村上は小さく、頭を下げる。
「どこに行くつもり?」村上が訊いた。
「喫茶店。朝ごはん、まだでしょう?」
「奈津美さんが、抜けって言ったから」
「でもその前に自転車止めておきたいから、この先の広場に行こう。そこなら、駐輪場ぐらいありそうでしょ」
川から逸れて大きな道に入る。平日の昼間はやはり人が少なく、目に映ったのは営業中のサラリーマンや暇をもて余した大学生ぐらいで、犬の散歩やジョギングをしている人は見当たらなかった。
「あ」
私が声を発したのは、広場の象徴でもある噴水の一部が見えてきたのと同時に、広場の方から歌が聞こえたからだ。それとギターの音も。男の、しゃがれた声が、唄っている。
「誰が、唄っているんでしょうね」
「さあ。広場から聞こえるのは確かなんだけど」
私達は広場に向かいながら、きょろきょろと辺りを見回す。そうしているうちに、広場に着いた。
広場は、噴水以外には目立ったものがなく、ベンチぐらいしかなかった。しかも、昼間の噴水はそういう仕様なのか、水は湧き出ていない。植樹すらもされていないので、殺風景だった。
「あの人じゃないですか? あの黒づくめの」村上が指差す。
探すのに時間がかかるのかと予想していたが、意外とあっさり見つけられた。
広場は、床のタイルや噴水は白でしか塗装はされていなかったので、全身を黒で統一している男は風景から浮かび上がっているので、すぐに見つけられた。帽子とサングラスをかけているので、顔はよく見えなかったが、皺が深く刻まれているのは分かった。
噴水の塀にもたれてギターを弾きながら男は昔にヒットした洋楽を唄っている。いや、唄うというよりは喚き散らしている、といった方が正しい。周りに喧嘩を売るような演奏は、見物人を遠ざけるようだった。お世辞にも、上手いとは言えなかった。
「あの人、見た事ある」村上が言った。
「え、どこで」
「一ヶ月ぐらい前に。バイト先の近くで演奏していたのを一度だけ。その後、苦情があって警察に注意されて、それ以来見なくなったんだけど」
「じゃあ、一ヶ月前から唄い続けているんだ。それはすごいんじゃない」私は本当に感心した。
「いや、多分その間休んでいたんじゃないですか」
「いや、毎日唄ってたんだよ。きっと。だから、声を枯らしているんだ」
「そうですかね」村上が男から興味を失ったように目をそむけ、辺りを見回す。「あれじゃないですか、駐輪場」
村上が広場の出口に指差す。そのそばに、寂れた確駐輪場が確かにあった。
「ええ、その通り」私は駐輪場に向かって、自転車を押した。
私は古びたドアを景気よく開ける。それに応えるように呼び鈴が鳴った。店内は相変わらずがらがらで、相川が暇そうにカウンターに肘をついていた。
「いらっしゃい」けだるそうに言った。「おっ、村上か。生きていれば珍しいことも起きるもんだな」
相川の言葉に前の気まずさはなかった。村上は「どうも」とぎこちなく返事をする。
「相川さんは今日も暇そうで」
「人生は楽も苦も味わうさ。だから、今は退屈を味わっている最中だ」
相川が私にメニューを渡す。メニューにあるのは、どれもありきたりなものばかりだった。
「私はエッグサンドウィッチと紅茶で。村上は?」
私は村上に注文を唆す。彼女は少し考え、「じゃあ、同じものを。飲み物はコーヒーで」と言った。
相川はカウンターの向こう側に消えていった。それを見計らって、村上が私に訊ねる。
「相川さんがこの店の店長なんだ?」
「うん。ひとりしかいないけどね。意外だった?」
「そりゃあ、ね。だって私、奈津美さんからはただの客と聞かされたし、何度も口説かれたし」
「それって、自慢?」私は苦笑する。
相川が経営していると分かったら、そのまま帰ってしまうのかと予想していた。何度もしつこく、口説いているうえに、勝手に叱りつけている。罵声を浴びせられてもおかしくはないと思っていたのだが、やはり警戒心は滲ませてはいるが、嫌なわけでもなさそうだった。
「なんというか、落ち着く。いい店ね。あの人にはもったいない」
「そう。本当にもったいない」私も激しく同意する。
二十分が経つと相川がトレイを持って出てきた。私たちのテーブルに置いていく。エッグサンドウィッチを二人分で、何故かコーヒーも二人分だった。
「相川さん。これ何」私は泥水に指差す。
「コーヒー」
「私、頼んでいないんですけど」
「今回は上手く出来た自信があるんだ。常連客へのサービスだよ」
「余計なサービスだ。ここに通うの、やめようかな」
村上がそのやりとりに苦笑する。彼女は、サンドウィッチを齧り、コーヒーを啜った。
「村上。味のほうはどう?」私は訊ねた。彼女なら、はっきりと感想を言ってくれるだろう。
「うん……まあ、なかなか」
あれ、おいしいのか? 私はカップを手に取り、おそるおそる口をつける。
そして、思い切り顔をしかめる。「やっぱり、不味い」
「人はそう簡単に変われんよ」相川が得意げに言った。口には出さないが、腹立たしい。
「村上なら、はっきり不味いと文句を言うと思ったな」
「そう? でも、いきなり不味いというのも、失礼でしょう」
「こいつは最初から泥水と言ったぞ」相川が口を挟む。
「村上って、少し変わったね。やっぱり昨日の事で」
「ええ、まあ」二口目のサンドウィッチは大きく齧った。「昨日、相川さんに叱られたこと、ずっと考えていたの。そしたら」
「そしたら?」
「私はとんでもなく見苦しいやつ、ってようやく気付いた」村上は不味いコーヒーを啜る。「このままだと駄目だって。もう大人なんだから」
「いや、別に村上は悪くない」相川がまぜてくれ、といわんばかりに会話に入ってきた。
「え?」
村上は目を瞬かせる。私は、いまさらそれはないだろうと言いたくなった。
「あいつらの方が悪いさ。マナーがなっていない奴らは見ていて腹が立つ。だから、村上。今度コンビニに金属バットを寄付してやる。どんなにひ弱な奴でも金属バットを持っていれば、相手は逃げ出すさ」
「はあ」村上が返答に困る。
「それに悪いのは村上の父親もだ。駄目親父」
「駄目親父って、相川さん」そんな言い方はないだろう。
「親父が恰好いいところを見せれば、娘が危険な目にも遭わなかった。自分が情けないところしか見てもらえなかったから、こんな事になったんだ」
「確かに」
相川の言葉には何の根拠もないが、説得力があった。実際、あの時相川がいなかったら村上は大変な目に遭っただろう。
「さっきも言ったが、人はそう簡単に変われない。だが、それは自力の場合だ」世界の理を説明するかのような響きがあった。
「相川さんの淹れるコーヒーがいつまでたっても不味いのは教わる人がいないから?」私は茶化す。
「ようやく、分かったか。まあ、それは置いといて」相川は箱をそばに置くような仕草をする。「村上。最近、父親と会ったか?」
「いいえ。でも前に電話がかかってきました。『会いに来てくれないか』って」
「返事は?」
「会うつもりは無かったので『かっこいいところ、見かけたらね』って言いました。無茶な注文ですよね。会いに来ない相手に、かっこいいところ見せるなんて」
「無茶ではない。村上が会いに行けば」
「それ自体が無茶な注文ですよ」
「人が簡単に変わるには誰かを模範にするしかないんだ。そして、その模範になるのは大抵、親だよ」相川は続けて言った。「私がコーヒーをおいしく淹れるのと、村上が父親に会いに行くの。どちらが現実的だ?」
「その二つしかないんですか」村上が苦笑し、残ったサンドウィッチをまとめて口に入れた。